栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は春の部から人日の歌を二首、
人日
神国のならはせなるか仏の座雑まな板でたゝくなゝ草
あめつちのつくり初穂のみつきもの若菜は時をたかやさすして
一月七日は人日といって、五節句の一つだった。いや今でも五節句の一つと書いてある。しかし今我々が節句と聞いて連想するのは桃の節句と端午の節句で、七草と七夕はお祝いはしたとしても節句という言葉はあまり使わず、重陽は前にも書いたように明治以降廃れてしまって何もしない人が多いのではないだろうか。
一首目、神国だから仏の座が雑まな板で叩かれる、今は七草というと七草粥を食べることにスポットライトが当たる事が多い。一方貞国の時代にはその前夜に七草を音をたてて叩くことが重要だったようだ。今ちょうどNHKの料理番組の再放送で七草を叩く時の「七草囃し」を歌っているのを見たところだけど、ざっと聞き取ったところでは、
「七草なずな 七日の晩に 唐土(とうど)の鳥が 日本の土地に 渡らぬ先に 七草なずなを手に摘みいれて ホーットホッホ」
と聞こえてきた。これは調べてみるとかなり地域差があるものの、唐土の鳥が日本の土地に渡らぬ先に、のところは共通のようで、小正月の鳥追いの行事に由来する歌と言われている。小鷹狩元凱「廣島雑多集」には、
「年初は物音を高くせざるとかやにて、七草までは人々謹慎して物の音をたてざりしを、如何なる故事にてや、正月六日の暁より武家にては我劣らじと円形斗桶(米を容れる器)の上に俎板を載せ、之に前日摘み取りし七草をおきて薪もて節面白く叩き、此日は夜までも絶えず叩き、翌七日の暁を以て叩き畢りぬ。是より家も人も皆物音をたつること平常に復す、俎板を叩く音調の譜を記憶のまゝ之を掲げん
トントン、トントン、唐土の鳥が、日本の土地へ、渡らぬうちに、七草叩いて、ストヽン、トントン
此七日朝には餅と七草とを入れたる粥を作り食す、但し七草は兎角摘取り難きを以て、他の菜葉を代用せり」
とある。七草までは物音を立てないで過ごして、七草を叩いたあとは平常に戻すというのが面白い。しかし、六日は一日中叩いたのだろうか。この七草ばやしを貞柳が狂歌に詠みこんでいる。
朝敲七草 貞柳
日本の鳥唐土の鳥の渡らさるさきにと口をたゝく七くさ
ここでは日本の鳥と唐土の鳥は並列だろうか。また、「狂歌吉原形四季細見」にも、
七種 和深亭末広
七種をはやすくるわの唐土より日本の鶏の告るきぬきぬ
とあり、こちらは後朝の鶏と結び付けている。この囃し歌は全国各地で歌われていたようだ。「唐土の鳥」は疫病の類とも言われている。
七草を叩く歌を「狂歌吉原形四季細見」からもう一首、
七種 長松園清女
なゝ種の薺のほかに客の背を又来ませとて扣くうかれ女
吉原ではナズナを叩く以外にも遊女が「また来てね」と客の背をたたくと詠んでいる。また「狂歌四季人物」には、
鳥追 松代 梅香
人の日の朝またきより打つれてまつ七種を唄ふ鳥追
とある。ここには鳥追という題で十余首、その中に七草の歌もあり、江戸でも小正月の鳥追と人日の行事が融合しつつあったのかもしれない。
貞国の二首目は簡単そうでスッキリしないところがある。初穂は米だけでなく初物を神様にお供えしたということで、ここでは若菜なのだろう。問題は「時をたがやさず」で、時を耕すとは難し気な言葉だ。しかしこれまでの貞国の言葉の使い方をみると、時を違えずと言いかけてとっさに縁語の耕さずに置き換えたように思えるのだけど、どうだろうか。ここは引き続き考えてみたい。
七草はおかゆを食べるよりも、音を立てて歌いながら叩くのが重要とわかった。ぜひこれは、やってみたいものだ。正月それまで物音を立てないのはちょっと難儀かもしれないけれど。
【追記1】七草囃しに関する図書館レファレンスによると、
山梨「唐土の鳥と日本の鳥と渡らぬ先に、あわせてこわせてバッタバッタ」
栃木「七草なずな唐土の鳥と日本の鳥と渡らぬうちにすととんとんとんとん」
宮城「七草ただげ七草ただげ七草なずなとうどの鳥といなかの鳥と通らぬ先に七草ただげ」
とあり、共通する部分もあるが、日本の土地が日本の鳥やいなかの鳥に変化していて、各地それぞれ違うようだ。貞柳の大阪でも山梨栃木の歌詞のように「唐土の鳥と日本の鳥と」だろうか。狂歌で見る限りでは「日本の土地」の方が新しく、古くは日本の鳥と並列だったのかもしれない。もっと探してみたい。
【追記2】「狂歌棟上集」にみえる唐土の鳥の用例、
春鳥
なゝ草の唐土の鳥のさきにはや谷わたりする春の鶯 秀馬
とあり、これは日本の鳥と並列ではなく唐土の鳥が渡らぬ先、のように思える。江戸時代から、歌詞は色々あったのかもしれない。