鳥喰の歌を書くために調べた厳島図会の本社客人社の挿絵に、前権中納言持豊(芝山持豊)の歌があった。
うな原やまたもたくひはなみのうへにみや居しめたるいつくしま哉
この芝山持豊が貞国に栗本軒の号を与えたと柳園井蛙によって書かれた狂歌家の風の序文にある。その部分を引用してみよう。
「爰に吾師貞国翁わかふより此道にさとく秀て先師桃翁の本に古今八雲人丸等の奥秘をつたへ終に正風幽玄のさかいに至り其名誉近きより遠きにおよひよみ歌久かたの雲の上まて聞へあけて恭くも芝山の卿よりおゝんいつくしみの尊詠猶御筆して栗の本てふ軒号をまてなしくだし給ひけること此道に遊ふ徒のめいほく栗の本の中興たるいさをしにそ侍りける」
そして序のあとに狂歌家の風の由来となった持豊の歌と五條持豊書と入った栗本軒の軒号額の写しを載せている。
自芝山卿賜吾師貞国翁
尊詠并軒号額之写
福井貞国の狂歌の一巻を感吟して 持豊
花も実もむへたくひなし家の風ふきつたへつゝよゝにさかへむ
軒本栗
五條持豊書
三尺三寸(注、横の長さ)
一尺三寸(注、縦の長さ)
額ハ大形
なるゆへ
其形を
爰ニ写ス
このように、狂歌家の風の序文では、先師桃縁斎貞佐とのかかわりよりも、芝山持豊から軒号を得たというところに重点が置かれている。貞国は貞佐の晩年の門弟であり、貞国の没年二説のうち門人の歌碑などにある八十歳とすると貞佐が没した時貞国は26歳、尚古などの87歳没としても33歳であって、先師貞佐に学んだ時間は短かったのかもしれない。あるいは貞佐との関りは狂歌書目集成にはあるが所在が確認できない狂歌集で語られていた可能性もある。貞国はのちに「柳門正統三世」と署名した貞の字の「ゆるしぶみ」を出すなど柳門ももちろん重要であったはずだが、この狂歌家の風においては、芝山卿から軒号を得たことが出版の動機であったようにも思える。
この芝山持豊とは、どのような人物だったのか。郷土史の書物で貞国について、京都狂歌の家元から栗本軒の号を得たとあるのは誤解で、持豊は狂歌ではなく堂上歌人と出てくる。本居宣長の学風にひかれ、尊皇派のはしりともいえる存在だったようだ。貞国との接点はわからないが、持豊は各地に歌道の弟子がいたことが知られていて地方ビジネスに熱心だったのか、それとも勤皇活動の一環だったのか。あるいは厳島に歌を奉納する時に、対岸の大野村で活動していた貞国またはその門人と関りがあったのかもしれない。
芝山持豊をネットで検索すると、その肩書のほとんどが最初の歌と同じ「前権中納言」となっている。しかし厳島図会には「中納言持豊」と書かれた歌が数首ある。持豊が権が付かない中納言であった記録はないが、この時代には正官はなく権官ばかりとネットに出てくるから同一人物で差し支えないようにも思える。しかしそれならなぜ前権中納言と書かなかったのか、これで問題ないのか、あるいは別人の可能性もあるのかどうか私にはよくわからない。この芝山卿については貞国を読み解く上で重要な要素であることは間違いなく、これからの課題ということにしたい。最後に厳島図会の「中納言持豊」の歌を書き出しておこう。神様と向き合った歌、巻三の島廻りの歌が多いが、実際に島廻りの舟に乗って生で御鳥喰式を見たということがあり得るのだろうか。それとも「はげしかるらん」と現在推量「らむ」が入っていることを考えても、やはり絵などを見て詠んだのだろうか。
やはらくるひかりもたかき宮しまの神にあゆみをはこぶもろ人 (巻一)
いく夜をかすぎの浦かぜふく音も神さびにけるこの宮居かな (巻三、杦浦神社)
汐みてばなみもいはほをこし細の浦ふく風やはげしかるらん (同、腰細浦)
かけひたす木々のみとりも青海苔の浦の名しるき波のおもかな (同、青海苔浦)
なゝ浦の島めくりする舟の中のものゝ音あかす神やきくらん (同、島廻)
あふけなほ天くたりまたそのかみの御床のいはほうこきなきかけ (同、御床浦)