阿武山(あぶさん)と栗本軒貞国の狂歌とサンフレ昔話

コロナ禍は去りぬいやまだ言ひ合ふを
ホッホッ笑ふアオバズクかも

by小林じゃ

12月26日 広島県立図書館「千代田町史」など

2019-12-26 21:12:21 | 図書館
今年は餅つきをどうするか。我が家で餅つきは今までほとんど父がやってきた。そして、いかなるいわれがあるのかわからないが餅つきは早朝に終わるべきものと父は考えているようだ。確かに私が子供の頃はまだ祖父が仕切っていたけれど、朝起きたら餅つきは終わっていた。ここ何年かは父も弱って来て餅つき機の音が聞こえたら起きて手伝うようにはしていた。今年は半年以上の入院を経て、父もさらに弱って声も出ず助けも呼べない。だから餅つきはやめようと言っていたのだけれど、今日になってモチ米を買うと言い出して、もう言い出したら聞かない。私が起きている時にやってくれと言ってみたが、これも良い返事はもらえなかった。毎年遠方の親戚にも広島菜漬などと一緒に餅を送っているのだけれど、今年は大量につくのは無理だからモチ米は例年の半量を買うことで父も納得してくれた。あとは、あん餅にいれるあんこの買い出し、そのついでに今日は昼から図書館に行くことにした。

昼の片づけに手間取っていつもより30分遅れで家を出て下深川駅の階段を登ったところでふり返ったら、家の方向から白煙が上がっている。いや、家よりは南にずれている、そして少し遠方なのを確認して13時11分の芸備線広島行きに乗りこんだ。芸備線は非電化ディーゼルだから電車とは言えず、またこの13時11分は1両のみで列車とも言えない。もちろん汽車でもないから、何に乗ったと書けば良いのか悩む。話を戻して、乗ったらすぐにアナウンスがあって線路の近くで火災が発生して確認に行くから発車が遅れると。そして運転士がタブレットのようなものを持ってホームを中深川方向に歩いて行った。火事は広島方向とは逆であるから、ほっといて発車してくれたらと思うけれど、そうはいかないのだろう。去年7月矢賀戸坂間で線路に人が倒れていた時は車掌がいたけどやはり運転士が線路に降りて確認に行った。今日はワンマンカーであり、また下深川駅は業務委託でJRの社員はいないはずだから他に選択肢はなさそうだ。運転士は思ったより早く帰って来て15分遅れでの発車となった。しかし今日は雨のせいなのか広島駅前からのバスも遅れていて、図書館に入ったのは2時半を過ぎていた。持ち時間は90分弱ということになる。

借りていた新修広島市史の資料編を返却して、まずは大師講関連で「日本の食生活全集34 広島の食事」という本を開架で探して読んだ。芸北、備北地方とも冬季に団子汁を食べる記載はあったが、小豆が入った大師講の団子汁の記述はなかった。次にカウンター2に行って、10月に三篠川問題で相談にのってもらった司書さんに聞いてみたいことがあったのだけど、レファレンスの担当者がその時と違っていて一から説明するのも面倒であるから今日はやめておいた。書庫から出していただいたのは、日本庶民生活史料集成の第2巻 、これには御笹川の記述がある河井繼之助「塵壺」が入っている。該当箇所を読むと、「是を七つに堀り分て」の傍注に「安藝の七川と云由」とあって、三篠川が七つに分かれた、あるいは七つの川を含めた総称とも取れる書き方であった。来年は、この三篠川について書いてみたいのだけど、まだまだわからない事が多すぎる。

そのあと郷土関係の書架から千代田町史の狂歌関連の項を読んだ。貞佐の「千代のかけはし」についての記述があることは蔵書検索の目次からわかっていたが、その続きに貞国の時代の記述もあり、いくつか初見の狂歌集の記述もあった。しかし、その狂歌が収録されている資料編の下巻は準備中となっていて閲覧できなかった。貞国の歌で活字になったものは全部見たかと思っていたけれど、書籍検索にかからないところにまだまだあるようだ。これは一通り読まねばと次に戸河内町史の資料編を見たら戸河内狂歌集(不免氏蔵)に貞国の歌が三首のっていた。参考文献や年譜に書き加える事項が見つかったのは一歩前進だろう。この不免氏の元には狂歌家の風など貞国から伝わったと思われる狂歌集の記載があって、原爆の難を逃れた歌集が貞国の門人の子孫の元にまだまだ残っている可能性があるということだろう。今日はここで4時をまわってしまって、何も借りずに急いで帰途についた。来年どこから手を付けるか、ゆっくり考えたい。



狂歌家の風(33) 印地

2019-12-26 10:59:31 | 栗本軒貞国
栗本軒貞国詠「狂歌家の風」(1801年刊)、今日は夏の部から一首、 


        端午

  打祝ふ印地の石も年を経て粽の粉をひく臼となるまて


今回も思い切り季節外れであるけれど、前回の亥の子同様に今図書館で借りている新修広島市史の資料編に印地を禁止する觸書があったので、このタイミングで書いてみたい。

貞国の歌の印地打ちとはおもに端午の節句に子供が川原などで二手に分かれて石を投げ合う遊びである。時に大人も混じって負傷者も出て度々禁止されながら中世から幕末まで続いたようだ。

貞国の歌をみると、印地の石がちまきの粉をひく臼になるまでと、さざれ石が巌となって苔が生す歌をふまえつつ、印地打ちを祝う構成になっている。夏の部に入っているが、寄印地打祝という題で祝賀の部に入っていてもおかしくない歌だ。石を投げ合って負傷者が出るような遊びのどこがめでたいのか、とケチをつけたくなるのだけど、そこは現代人との感覚の違いだろう。才ヶ谷の回で死刑の者を捨てる場所でありながら、「命がけの勝負」「すごろくのさいが谷」と詠んだ感じと似ている。そのギャップが狂歌の面白さなのかもしれないけれど。

類歌は古今夷曲集巻第二から続きの二首、


  印地にし深入りしつゝ深手をば負ふはふかくな深草の者 久清


    五月五日雨降りければ    左衛門督藤原義景

  風の手の礫のやうにうち散らす雨こそ今日のそら印地なれ 


一首目は印地に深入り、深手、不覚、深草と畳みかけている。二首目は風の手からつぶてのようにうち散らす雨が折しも端午の節句のそら印地のようだと表現力のある詠みっぷりだ。「そら印地」とは空に向かって石を投げることから、目標や相手もなく印地打ちをすること、とネットには出てくる。古今夷曲集にはもう一首そら印地の用例がある。巻第八に、

  暁月がしはすのはての空印地年うちこさん石ひとつたべ

年を印地打して年越ししたいから石をひとつ下さい、と読めるが、空印地のニュアンスはもうひとつわからない感じがする。もう一例、狂歌ではないが「秋の夜の長物語 」から、


「我等が面白きと思ふ事は、焼亡、辻風小いさかひ論の相撲、白川ほこのそらいんし、山門南都のみ輿振り、五山の僧の問答だて、これ等にこそは興ある見物もいできて、一風情ありと思ひつるに、昨日三井寺の合戦は、稀代の見事かな。 」


これは天狗の会話の中に、天狗たちが面白いと思うものが並べてあり、その中に「白川ほこのそらいんし」とある。他の列挙から派手なパフォーマンスではないかと想像はつくけれど注では未詳となっていて、これもはっきりしない。この三例で考えると、そら印地が上記の「目標や相手もなく印地打ちをすること」以外のニュアンスが何かあるような気もするが、ここは宿題としておいて先に進もう。なお、この引用の少しあとに、「座中の天狗共、皆笑壺(ゑつぼ)に入りて笑ひける」という面白い表現があった事をメモしておこう。

広島城下の印地打ちの前に、尾張名所図会の印地打の古図を見ておこう。これは正月十五日、熱田神宮で御的射神事のあとで行われていた。絵を見ると多数の人が入れ乱れて石を投げていて、負傷者が出るのは当然のように見える。文字を拾ってみると、


的射畢つて見物の諸人其的を奪取り守りにせんとてあらそひ果には礫(つぶて)を打合ひ名古屋及び在郷の者は北の方熱田の者は南につどひ下馬橋を中にしてたゝかふ程に怪我人手負人などありていにしへ石戦印地打などいへるは是なるよし


とあり、死者が出たことも記されている。こういう荒っぽい行事は昔は結構あったのかもしれない。

それでは、貞国が暮らした広島城下に戻って、印地を禁じた觸書を見ておこう。


      町諸事覚書

五月朔日
一印地打御法度、のほりかふと母衣其外結構成もの立候儀無用之由、町幷新開中へ觸之 「顕妙公済美録」巻十三上、貞享元年(1684)


これによって広島城下での印地打ちは禁止となったはずだが、同様の觸書が幕末にもう一度出ている。


     端午行事に付觸書

端午子供遊戯之儀前々ゟ有之事二候得共、所により多勢群衆石瓦之類投ケ合、年長之者も相交り互に争ひ手荒之及振舞候義有之、其邊住居野輩及迷惑諸人之往来も差支候趣相聞(後略) 「郡中諸書付控」慶応二年(1866)


とあって、最初の觸書は効果がなかったのか、あるいは二百年の間にまた印地打ちが目立つようになったのだろうか。今回も小鷹狩元凱「自慢白島年中行事 」に参考になる記述があった。端午の章の途中から引用してみよう。


「廣島場末の各所には、弱冠前後は申すに及ばす、三十男も交はりて、威勢よくも對陣し、礫を飛ばし棍棒を振り、殆んど鎬ぎをけづる大合戦、殊に城下の東在、矢賀府中の争闘は、夜間に入りて猖獗を加へ、大負傷者をも出だすといふ、此風俗の善悪は、姑く置くも封建時代の気質としては、又止むを得ざるの事ならん、我が白島も吾儂等が、八九歳の頃までは、神田橋を中央に、白島と牛田との合戦は、頗る烈しきものなりしが、此處は多数の往来人に、妨害なすこと甚しければ、嘉永安政の頃ほひに、官より厳に禁ぜらる、是より西大川筋の一本木と、惣門といふ家老別邸の所在地とを堺と為して廣漠たる、堤みの上に双方の勇者猛者の幾百人が、手には餘れる大礫を、投げ飛ばし入り亂れ、奮争激闘」目ざましき事といふべきなり」


これによると、幕末の頃も矢賀府中間、牛田白島間で激しい攻防があり、二度目の觸書の少し前、嘉永安政の頃に神田橋での合戦は禁じられたとある。しかし場所を移して続いていたようで、慶応の觸書のあと、明治に入っていつまで続いたのかはわからない。矢賀府中というと私も時々府中のイオンモールから矢賀駅まで歩くことがある。牛田と白島は間に川があるけれど、府中と矢賀の境に住む人はそれは迷惑な事だったと想像がつく。

貞国の歌をもう一度ながめてみると、このような大騒動をはた目にみながら、「粽の粉をひく臼となるまて」という祝の歌に仕上げたところに面白さがあるのかもしれない。私は運動会の騎馬戦や棒倒しでも安全第一でさっさと敗れ去っていた人間なので、この手の話は真相に迫れていないかもしれないけれど。