「狂歌家の風」神祇の部にある貞国の鳥喰の歌の参考として、今回は大頭神社で旧暦九月二十八日に行われていたという特殊神事、四鳥の別れについてみておこう。
厳島神社の島廻りであったように、鳥喰(とぐい)とは厳島弥山にひとつがい住むという神烏に食事をお供えして神烏が「あぐ」すなわち御鳥喰飯を食されたら成就という神事である。大頭神社の烏喰祭では、道芝記の記述にあるように参道途中の神田の中に御鳥喰飯を供えて対岸の弥山からの神烏の来訪を待ったようだ。大頭神社では貞国の歌の詞書のような雨乞いなどでも烏喰祭が行われたようだが、ここでは九月二十八日の特殊神事「四鳥の別れ」について書かれたものを読んでみる。
この九月二十八日の鳥喰祭には、親子二つがい四羽の神烏が対岸の弥山から来訪して御鳥喰飯を上げた後、親烏は紀州熊野に帰り(古い文献には行方知れずとある)、子烏はさらに一年間弥山に留まって養父崎での御鳥喰式に参加する。この九月二十八日の神事をもって親子の別れとなることから、中国の故事にちなんで四鳥の別れと呼ぶようになった。
大頭神社公式サイトをみると、「御烏喰式」と厳島神社ではトリであったものがカラスの字で書いてある。これは天保十四年の大頭神社縁起書にはカラスの字で書かれているが、それより四、五十年前、貞国と同時代の宮司によって書かれた「松原丹宮代扣書」では厳島神社と同様にトリの字で書いてあって、どうやら天保の縁起書からカラスの字を採用したようだ。また、親烏が紀州熊野に帰るというのも以前の書物では親烏は行方知れずとなっていて、縁起書から採用されたアイデアだろうか。「四鳥の別れ」については、道芝記には無いものの、天明の「秋長夜話」に俗伝と言いながら記述が見えることから、結構早くからあった話のようだ。「松原丹宮代扣書」の同じ天明年間の記述は九月二十八日であるにもかかわらず、「鳥喰すみやかに上る」と簡潔に書いてあって、四鳥の別れという言葉は当時は俗に言われていただけで大頭神社はまだこの言葉を採用していなかった可能性もあり、神職からみると雨乞いなどの鳥喰祭と変わりない神事だったようにも思われる。この四鳥の別れの神事については、あまりごちゃごちゃ説明するよりは、引用した文献を読んでいただきたい。そのあとで御朱印の説明書きに四烏(しあわす)とあったことについて書いてみたが、これは本題とはあまり関係がない。なお、「大頭神社 御遷座百年記念誌」には、「大頭神社は、大正二年に妹背の滝のほとりに社殿を遷座してきたが、これに伴い「四鳥の別れ」の神事も伝説化してしまい、現在は、日々、神社の傍らの石に烏喰飯を供えるだけである。」とあり、残念ながら現在は大頭神社の「四鳥の別れ」の神事は行われていないようだ。
以下参考文献。まずは、元禄十五年(1702)厳島道芝記の年中行事、九月廿八日の条から、
「 廿八日
大頭太明神御祭 厳嶋社家中渡海なり。大野の社人舩場まで上卿を迎に出る。儀式古例として尊敬尋常ならず。社家へ雑餉す。七五三の饗應恒例也。神前に魚鳥の高もりを奉る。楽人出仕。楽ありにんちやうの舞あり。
御鳥喰飯 神前にて御供奉る時五烏にとぐひ奉る也。神前より半町余まへなる御田の中なり。儀式嶋廻の御供(ごくう)のごとし。それ五烏は往古より一雙年々相続せり。三月の末よりは。雌(め)烏巣(す)をつくり子烏一双を儲(まう)く故に四月五月は雌(め)がらす出たまふ事すくなく雄(お)がらすばかり出たまふ事多し。相続の子を養育して六月の末七月にいたつては子烏をいざなひ養父崎の御社まで出てとぐゐあげたまふ事をまなばせり。八月九月の頃は親子二つがい倶(とも)に出て御とぐゐあげ給ふなり。かく有て今日此祭に親がらす。雌雄此所に渡りて。供御をあげたまふ。此供御あげてより親烏は行方しれず。子烏一双相続して翌日よりは御嶋廻に子烏一つがひ出たまふ。神秘微妙筆に及ぶも恐(おそろ)し。厳嶋の御山よりは大野まで一里余の海を隔たるに。必ここに飛来り親烏御名残の供御をあげ給ふ事奇瑞をまのあたりに拝み奉る。五烏例年の相続かくのごとし。」
(国立公文書館デジタルアーカイブより)
次は、天明年間の著述という「秋長夜話」から、
「九月二十八日大野村大頭(オホカシラ)大明神の祭に鳥喰(トクヒ)といふ物を供す、神鴉(コカラス)これを食て後、親鴉(オヤカラス)雌雄いつくともなく去り、唯子鴉(コカラス)雌雄留まる、之を四鳥の別といふといふは俗傳の誤なり、四鳥の別といふは初学記に、孔子家語を引て曰、恒山之烏生四子、羽翼既成将分離、悲鳴以相送、これを四烏の別といふとなり」
前項と年代の前後はわからないが「松原丹宮代扣書」の天明三年(1783)の条から
「九月廿八日 天気吉人寄多し鳥喰すみやかに上る」
さらに、天保13 (1842)年「厳島図会」、大頭神社の例祭の条(ふりがな一部略)、
「
例祭九月廿八日 厳島の祠官(しくわん)ことことく渡海し神供(しんぐ)を奉るその式みな古風を存せり榊舞求子(さかきまひもとめこ)の楽を奏ず
○毎年の九月廿八日に四鳥(してう)の別(わかれ)といふことあり当社の祠官鳥居の傍(かたへ)に食を供し神楽を奏ずれば神鴉(こからす)一双(いつさう)とび来り神供をあくるなりそもそもこの神鴉といふは弥山の条に記すごとく往古より一双年々相続せり三月の末より雌烏(めがらす)巣を作り雛烏(こがらす)一双を育す故(かるがゆゑ)に厳嶋島巡に四月のころは雄烏(をからす)たゞひとりのみ出づ六月の末七月に至ては子鴉(こからす)を率ゐ養父崎の御社(みやしろ)に出て鳥喰上(あげ)のことを学ばしむ八九月のころは親子二双ともに出つ然るにこの廿八日に至て親烏一双来りて鳥喰をあげ終りて行方しらずその翌日(よくじつ)より子鴉一双のみ養父崎の鳥喰に出づいにしへより一年もたがふことなし且(かつ)厳島より大野まで一里余の海を隔たるにこの日の此刻(このとき)をかならすたかへずして飛来るも霊奇にあらずや」
2コマ前の挿絵の鳥居を少し入ったところに、御鳥喰飯を置いて祈禱している神職の姿が見える。鳥居の外に座って頭を垂れているのは鳥喰祭を見守っている人たち、雨乞いなどであれば願主を含む一行だろうか。
そして、天保十四(1843)年「大頭神社縁起書」には、
「かかる霊地なれば又名を別鴉の郷といふ此故は宮島山の神烏此の里に来り年々社辺の樹木に巣をくひ子かへして雌雄のからす厳島山に帰る事おほろけならぬ深き故あり此の神鴉厳島々廻りの神供を上り当社に於て年中祭りの度皷を打歌を聞て来り御祭事の神供を上り厳島山に帰る事神秘の大祭は九月廿六日より八日迄此日厳島社官不残来り神幣に舞楽を奏す此時当社の神主松原姓烏喰居祭執行一社の神秘なり此時雌雄子四鳥の神烏来りて神供を上り二羽の親烏は紀州熊野社に帰るといふ事昔時より伝来なり故に此神事を四鳥の別れ子別の神事といふ諺にも四鳥のわかれ烏跡といへり依て此里を別鴉郷といふ事此の神事より始れり」
最後に去年10月大頭神社の例大祭にお参りした時に撮った石板、御朱印とその説明書、そして石板に言及があった別鴉橋の写真。
本題とはあまり関係がないけれど、画像のうち御朱印の説明書きにあった「四烏(しがらす)しあわす」についてちょっと書いてみたい。その次の別鴉橋の写真にも「しあわせ会」という四烏由来と思われる会の名前が見える。「仕合はす」の連用形「仕合はせ」が今の「幸せ」の語源であるのは間違いないところだろう。用例を見ると仕合はせ良し、悪しと言わないと吉凶の判断がつかないケースが多いが、古くから今の意味に近い幸運をいう場合もあるようだ。四烏を「しあわす」といつ頃から言い出したのかわからないが、こじつけながら幸せになるという意味をこめているのだろう。
この「仕合はす」は古語ではサ行下二段動詞、せ、せ、す、する、すれ、と活用する。下二段動詞は近代以降下一段動詞に変化して、せ、せ、する、する、すれ、となるから、現代語の終止形は「仕合わせる」となる。現代あまり使うことはない言葉だろう。最近話題の山口の方言「幸せます」は、この「仕合わせる」に「ます」が付いた形であって、文法的にはそんなに驚くことではない。しかし、「仕合わせます」と書けば違和感はないけれど、山口の人の使うニュアンスは「幸せます」であって、聞くとやはりびっくりする。「幸せる」と終止形で使うことはあるのだろうか、こう書くと名詞に「る」をつけていう若者言葉のようだ。日本の多くの地域で「仕合わせる」を使わなくなったのに対して、山口では幸せのニュアンスを強く出しつつ言葉が受け継がれているということだろうか。「仕合はす」の時代の山口に同じニュアンスの表現があったのかどうか、探してみたいところだ。四烏の大頭神社は安芸国でも周防寄りの場所ではあるけれど、これに該当するかどうかは時代がわからないので何とも言えない。
参考になりました。
大頭神社の頁を編集していますので、時間あるときに避ければ見てください。
http://yutaka901.fc2web.com/page5bqx44.html
なるほど本殿にむかって左手の道ですね。「神社の傍らの石に烏喰飯を供える」とあって、どこだろうかと思っていました。神烏は弥山の一つがいだけで、他の凡鴉は近寄ることもできないとあって、今の大頭神社のある所の山のカラスが食べたのではまずいように思えて、山に入った所なのは意外でした。
https://blog.goo.ne.jp/cachillat/e/668fb50c5d10b12c2bbc80f8395d3e8d