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カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

【エチカ福島】一人称で語る会

2024-10-05 | 〈3.11〉系


【語り手】髙橋洋充
【日時】2024年11月4日(月・祝)14:00~16:00
【会場】如春荘
【定員】10名程度 
    ※要参加申込(メッセージからお申し込み下さい)
【参加費】無料 


この度「一人称で語る会」を開催させていただきます。
「一人称」とは主語が「私」で語ることであり、つまり自分から見た経験を語っていただくことです。
一口に自分の経験といっても、実はふり返って熟考すればするほど、その意味は変容したり、わからなくなったりするものです。
しかも、それは他者の問いかけや言葉によって気づかされることもあります。
昨今、当事者研究という分野が広がりを見せてますが、その手法に近いものかもしれません。
その草分け的存在である向谷地生良さんは、その活動の始まりについて次のように述べています。
「当事者研究は、統合失調症や依存症などの精神障害を持ちながら暮らす中で見出した生きづらさや体験(いわゆる“問題”や苦労、成功体験)を持ち寄り、それを研究テーマとして再構成し、背景にある事がらや経験、意味等を見極め、自分らしいユニークな発想で、仲間や関係者と一緒になってその人に合った“自分の助け方”や理解を見出していこうとする研究活動としてはじまりました。」(当事者研究ネットワークhttps://toukennet.jp/?page_id=56)
私たちの活動は精神障害をテーマにするものではありませんが、「問題」を自分と共に、他者と共に理解を見出していこうというものです。
では、何の「問題」を語ってもらうのか?
エチカ福島は、いわゆる〈3.11〉をめぐって「簡単には答えの見つからない現実の中で、私たちは生きることになった。では、どんな風に生きていきたいのか?一人一人が自分自身に問いかけることから始めなければ、何もできない、そんな場所に立たされている」という思いから始まりました。
そして、言葉を失ったあの出来事について語れる言葉を、他者と共に見つけるために活動を続けてきました。
これまでは、その方法として専門家などのゲストを招いて参加者との対話を試みてきましたが、いよいよ当事者本人が自己を見つめながら、それを他者の言葉を手がかりに開いていく実践を試みます。
向谷地さんらが始めた当事者研究は、いわゆる精神医療分野で展開していますが、私たちの目的はもちろんそれとは異にしています。
むしろ、あの出来事をめぐって様々な逡巡や葛藤、言葉にならないものを何とか言葉にしてひねり出そうとするプロセスを「記録」として残したいというものです。
その意味で〈語り手〉には公開性を前提に語っていただくことになります。
ただし、これは災害の教訓を伝達するような場としてではなく、むしろ自己の経験を物語り得るその前段階、あるいは物語る中で生じている葛藤や逡巡、矛盾を他者とともに解きほぐすプロセスを創りだし、編み直していく場にしたいと考えています。
その意味で言えば、一般論からはズレが生じる経験の意味を大切にしていく場にしていきたいと思います。

その第1回目の「語り手」は県立高校教員の髙橋洋充さんです。
洋充さんは浪江町出身で、原発事故により生家を失いました。
その思いから、いま故郷に対する思いや原発立地をめぐる家族の思い、教員としての思いなど、さまざまな経験を言語化しようとされている方です。
とりわけ「一人称の語り」という言葉は彼から頂いたものです。
洋充さんは原発事故以来、色々な勉強をされてきた中で、結局色々説明されるけれど、その言葉をもって説明しても結局は借り物の言葉でしかない。どれもこれも、色々一般的な正解を示そうとするけれど、どれも腑に落ちない。でも、自分が経験したことは誰のものでもないし、その経験こそ自分にしか喋れないものだという確信に至ったと言います。
以来、自分の経験したことから語ることの重要性を意識されながら、あの出来事の意味を考え続けている方です。
洋充さんの言葉を皮切りに、多くの皆さんの「一人称の語り」が連鎖していくことを期してキックオフとさせていただきます。

【エチカ福島】13年目の『たゆたいながら』・記録

2024-03-12 | 〈3.11〉系


3月9日、福島市写真美術館で映画『たゆたいながら』の監督・阿部周一さんをゲストに招いた対話イベントが開催されました。
「13年目の『たゆたいながら』」と題した今回のエチカ福島は、8年前に一度本作品の上映会を開催したことがあります。
そこでの場面が今回の上映作品に盛り込まれていますが、あのときにこの映画が引き出した対話の力を再び〈3.11〉から13年目に見たとき、何が引き出されるのかを期して企画しました。
以下、雑駁な対話のやりとりを記録させていただきます。

阿部周一監督

2016年のエチカ上映会では15年バージョン。その上映会の場面を挿入したのが今回の作品。
久しぶりに自分でも見たけれど、時間の流れを感じた。
映画に出演してもらった幼稚園園長さんも昨年亡くなられた。父母も若くて元気だったなぁという感想をもった。
観ながら、編集のパッションを思い出した。
こんなに長かったかなという思いももった。
〈3.11〉から13年目を迎えるにあたって、この作品が参加された皆さんがどのような感想をもたれたか、ぜひ聞いてみたい。

・自分自身が映っていて、こんな顔していたんだ。浪江町出身で、震災当時から福島市渡利に住んでいて、自分たちは子どもも含めて避難しなかった。今日はその後の答え合わせができた。その後、自分の考え方はどんどん変わっていった。映像を見てながら、子どもたちに「フレコンバックって、オレの故郷にもっていったんだぜ」、「東日本壊滅寸前だったんだぜ」と伝えたい。自分の中で折り合いをつけていく。これからも新しいことが出てくるので、考え続けるべきだし、阿部監督には撮り続けて行ってもらいたい。自分の中では「復興」という言葉の呪いが解けた。一人称で語るっていう事をテーマに考えている。福島の怒りや喪失はたくさんの人の話がある。一人一人違う。私は被災地の出身者として、外から来た人に話すときに相手に一人称で語ることを意識している。

・「大学では、学生たちと復興のために聞き取りをしてアーカイブに残すことをしている。高校教員時代は外になかなか出られなかった。浜通りにも行けなかった。浜通りの先生の話を聴いて代表する形で、組合の大会で県外の人たちに報告していた。自分自身被災者なのか。中通りに住んでいて津波被害もない。線量計を見て感じることもあったが、自分が被災者なのかという疑問があった。組合活動で国や県と交渉する過程で空虚な感じがした。環境省は予算を使って汚染土について学生の話し合いをさせる予定である。大学もイノベに反対するとカネが来ない。映画の感想は自分の中でのわだかまり、自分もこういう思いがあったなぁと思った。一番素の福島の人の証言を生で聞くことができる映画だと思った。質的に他の映画異なる。映画の続編でこの続きを見ていきたい。

・私も映画の続編はどんなものができるのかを考えていた。毎年3.11が近づくと憂鬱になり、当時のことを思い出した。今の福島はこの映画の続編を生きている。同じテーマで続編をとることができるのか?変えなければならないのか?私は今でも十分たゆたっている気がします。たゆたい方が違っているのかなと分析できないんだけれど。

【阿部】ずっと続編を考えてはいるが、テーマが思い浮いては悩んでいる。当時、聴き取れなかったのは子どもたちのこと。「実はあの時、避難したくはなかった」ということを言語化したケースもある。あの時、子どもたちはどう思っていたのか?子どもたちの世代が、あらためてこの13年をどんな思いで過ごしていたのか?フレコンバックの意味もわからなかった子どもたちが、今どう思うのか。「子どもを守るために避難した/残った」親の選択を子どもがどう思っているのか。

・浪江で過ごした子ども時代に、「原発安全なの?」と父親に聞いたら「ば~か、原発爆発したら日本がなくなるから心配しなくていいんだ」と聞いてから考えなくなった。それが自分にとって一番の取り返しのつかない経験だった。「これからの福島の夢と希望、復興を語ります。福島を復興させるために〇〇になります」と語る高校生の言葉をしばしば耳にするが、それは大人が言わせたんじゃないか。大人が求めることを先回りして言える力が高校生にはある。子どもが子どもである所以は、自分が言った言葉に囚われる。自分で自分に呪いをかける。それはどうのかな?一生自分の言葉に縛られてしまう。あの震災を覚えている人たちが、そういう経験をした。あの経験を知らない今の子どもたちがどう思うか。阪神淡路大震災を経験した福大の先生が「被災から10年後が問われる」といった話を思い出す。

・小学校の教員をしています。震災の齢に生まれた子がこの三月で卒業します。立場上花むけの言葉を言うのだけれど、あなたたちが生まれるちょっと前に震災があった。新しい生命は希望だった。あなたちの親さんたちが苦労したことを覚えておいてほしいと伝えた。

・2014年に京都から東京、福島へUターン。県外避難者の支援・相談のお仕事をした。2016年に全国に窓口を作る。住宅支援の打ち切り話し合いの場づくりを思い出した。行政と避難者の間に入って支援団体の声を県に伝える役目で、ストレスが多すぎて限界がきて辞めたけれど、そのときにつながった団体とは今でもつながりある。母子避難者の子どもたちが大学に巣立ったタイミングで、お母さんたちがつながりやすい場づくりの相談をした。そのときにできたつながりが、今も関係する。その後の家族や住む土地の変容。それぞれの家族にとってはあの出来事は今でも続いているのではないか。

・以前に観たけれど、忘れているシーンがけっこうある。自分の立ち位置が変ってきていると感じている。どう変わったか。震災から二年後に始まったエチカ福島の立ち位置ががこの映画の上映会をしたときに変わった、と今思う。語りえないけれど発信しなければいけない、けれど何を言っていいかわからないから、まずはお勉強しようとエチカ福島は始まった。その時期は勉強しなきゃというカオスの状態。4回目以降、南会津など過疎地域や教育を考える時期がしばらくあったが、この映画を観た会が決定的な変化になった。生きている人の声。他人が語る解説ではなくて、内から出てくる言葉を紡ぎ出そうとする人の声を聴きたいという思いに変わった。それは簡単なことではない。でも100年経ったら「こんな茶番はありえない」と思うかもしれないけれど、でも、たぶんその茶番は続いていくだろう。エチカで漁師の現場の話を聴きに行ったとき、ご高説を賜る縦軸じゃなくて、仲間同士の横軸のつながりが大事だと思った。「あなたはどう考えているの?」と、同じ地べたで考えている人の言葉を聴くことにたどり着いたのかな。地べたで生きている自分の言葉を探したい。

・映画に出てきた「大きな物語」という発言が重要。故郷への帰還を物語化する「家路」という映画の危険性を思い出した。この「たゆたいながら」で一番大切なものは自主避難者たちや残った人たちの「小さな物語」。俵万智の「子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言えへ」という歌を思い出しながら、当初は一時避難だったはずが長期避難になってしまった故郷喪失を想う。なかなか戻れない問題。それぞれの声をもう少し見てみたい。言葉の方言の違いは避難と帰還に大きな影響をもつのでは。日系一世の定住/移住の判断は、実は言葉の問題が大きく影響していた。

・私自身、3.11が近づくからという理由だけではなく、あの日福島へ逃げまどっていた自分を思い出す。今現在も同じ思いでいるんだろうなと思っている。子どものためと思って逃がしたのに、避難先から子どもが壊れて帰ってきた。私の不勉強から子どもを壊してしまった。その子どもを「イイ子症候群だね」と尾木ママに言われる。イイ子でなければお母さんが泣いちゃう。だから、被災地の子たちはイイ子が多い。解放してあげて下さいと言われた。でもそう言われても、状況が変わっていない中でいったいどうすればいいっていうのか。小さな社会や家庭の中で、この思いを変えていかなければならないのだろうか。そこに復興という大きな物語が入ってくる。今、インバウンドで語り部の仕事を頼まれる。福島の夢と希望を語ることを要求される。子どもが小学校入学時に「お母さん、僕はどこの小学校に行くの?」と尋ねられたことでハッと気づき、それで南相馬に戻った。生活のために、子どものために働く、子育てする、そこに子どもは「イイ子症候群」だと言わる。自主避難/強制避難という言葉で括ってほしくない。どちらも「子どもをどうやって守るのか」の一点でやってきた13年だった。自分の中であまり区切りがなかったんだなぁと思う。Fレイの話が息子の通う高校で話題にされたとき、息子はぼそっとこう言った。「ここに人が戻ってくるのか?ここに来るのは移住者だ。3.4年経ったら皆いなくなるでしょう」と。

・前向きで被災のことを話さない被災地出身の同僚。その中で変化している人もいる。故郷を諦める人が増えている。全国に散らばった浪江の避難者たちが戻る場所はあるけれど、海に入っちゃいけないことになっている。賠償金の問題で「浪江」という言葉を口にできない。自分の故郷を誇れるものがない。口をつぐんでいる人たちが、口を開けるようになるには、一人称で語ること、自分で考えたことは語っていいのだというのが当たり前となればいい。広島の被爆者の中で本当に訴えたい人たちは喋られない死者であったり、胎児性水俣病患者の人々であったりすることを知り、そのことを思い出す。

【阿部】皆さんのお話を聴きながら、なおさら続編は取れないんじゃないかなと思った。ますますわからなくなってきた。今振り返ると、この映画では「自主避難者/残った人々」という対立構造を作っているので、結構危ないことをしていたなと思う。もっと両者の間にはグラデーションがあるはずなのに、カテゴライズを当てはめて編集しているなと思った。一人称の言葉を並べて編集することの怖さを感じる。当時の子どもの言葉を聞かなくてよかったんだなと思った。

・先日、小高と浪江の人たちの話を聴いて、ほんとうに震災の心の傷の酷さを実感できた。自分も南相馬市鹿島出身だけれど、そこは30km圏内。小高は20km圏内。そのあいだに温度差がある。息子が自死した親さんが「なぜ、息子を助けられなかったのか」と、ようやく人前で話せるようになったという話を聴いた。震災の被害は現在進行形。心の病はこれから出てくるのかな。福島にいると自分はそれほど原発に深刻さを覚えなかったが、これだけの被害の深刻な人の話を聴くにつけ、自分自身の無力さを感じる。

・今ドキドキしている。映画を観て当時のことを思い出した。3.11は気が重くなる。こんなに気持ちが辛い感じがしているのに、また政府は原発再稼働している。震災当時、実家の大津に息子を連れて避難した。そのときも周りの人たちは無関心。腫れ物に触りたくない気持ちもあったのかも。私たちが3.11が近づくと気が重くなっているのに、13年も経っているのに政府は何もやっていない、誰も学んでいないことに唖然とする。こういう映画を全国でいろんな人に見せた方がいいんじゃないか。今まで福島以外でどれくらい上映されてきたのか?

【阿部】関西の原告団や京都の原発反対のシンポジウムなどで上映させてもらった。けれど、残念なことに、そこでは原発になにがしか答えをもっている人しか来ない場所で、そういう答えをもっている人たちが集う場でしか上映していない。そこに来る人たちは、自分がもっている意見の答え合わせに来ている。自分の考えを補強するためにきている人が多い。若い人は来ない。そういう経験の中で徒労感のようなものを感じてきた。

・あらためて強度をもった映画だと感じた。自分の中での答え合わせをするわけだけれど、8年経ってみると、それだけじゃないな、それこそが地べただと感じている。

・今30歳。この映画ははじめて観た。はじめのスタートが分断の話で、分断の構図を示しながらも、その中に色々から見合ったものがあってそれが和解、赦しに至る。映画を観た後に、感想が思いつかない。分断すべきではなく和解の方向性に向かうべきなんだろうけれど、「うん、そうだよね」で終わってしまうところがあって、そこから自分が何かを語ろうとすると、こちらが止まってしまう。言葉を引き出せている一方で、自分自身が何を語ろうかとなると出てこない。自分には高校・大学など自分のルーツへのこだわりがないところがある。気になったのは分断を超えていく中で、赦しが結果として描かれていたと思うが、「おばあちゃんを家から追い出したのは僕だったかもしれない」という傷はこの映画を通じて報われたのか?

【阿部】急に東京に住むことになったストレスで、数日後に両親が一時避難してきたときに、一緒に帰られると思ったときに「残れ」と言われたのがすごくショックだった。祖母への八つ当たり。ちゃんと謝ることができなかった。祖母がわかる間に謝りたかった。心残り。

・こうやって3.11について話し合う場にいたくなる。違う温度差。私自身の一人称で語ることができない環境を作ってきてしまった気がする。2014年柏崎に入る。学生という立ち位置は色々な人と距離が旨く持てる、貴重な立ち位置なのではないか。

時間が足りず、もっともっと話し合いたいこと、語りたいことがあった様子が参加者の皆さんから感じられましたが、ここで対話は打ち切りとなりました。
しかし、〈3.11〉から13年目をむかえる時点で、ようやく一人一人の語りが少しずつ出されるような予感を覚える時間でもありました。これをきっかけに、あらたな語り合いの場づくりができる予感もあります。
阿部監督にはお忙しいところ福島にまでゲストに来ていただき、感謝申し上げます。
ここでの出会いが新たなつながりへ展開していくことを期待します。

【エチカ福島】13年目の『たゆたいながら』上映会&対話イベント

2024-02-26 | 〈3.11〉系

【日 時】2024年3月9日(土)13時~16時
【会 場】福島市写真美術館(福島市森合町11-36)
【ゲスト】阿部周一監督
【定 員】20名

【参加申込】メッセージからお申し込みください。


阿部周一監督のドキュメンタリー映画作品『たゆたいながら』の上映会&対話イベントを開催します。
この作品は、阿部監督が大阪芸術大学の卒業制作としてつくられた労作で、原発事故に被災した福島市の住民が自主避難するか、居住地に残るかの選択で引き裂かれた葛藤を描いたものです。
監督自身も、避難者としての自己を問う意味が込められていた作品であると述べていました。
エチカ福島では、2016年10月に同作品の2015年版の上映会と対話イベントを開催したことがありますが、あれから8年の時を経た今日、再び福島の人々の目にはどのような映像として捉えられるか。
そのような問いのもとに、原発事故から13年目をむかえる3月9日に上映会と対話イベントを開催します。
なお、阿部監督の交通費・謝礼として当日カンパをいただければ幸いです。


徐京植『フクシマを歩いて』・雑感

2024-02-25 | 〈3.11〉系


8名の方にご参加いただいた徐京植『フクシマを歩いて』から考える会。
いつになく、参加者の生きざまが開陳される対話となりました。
一人ひとりの人生のセンシティブな内容が話し合われたという点で、この空間が安心かつ信頼できる場として成立していたことに主催者として大変ありがたさを感じるものでした。
以下は、渡部がこの対話を通して考えた雑感です。
もちろん、参加者の個人的経験を具体的に記述するわけにはいきませんが、対話で投げかけられた言葉一つひとつに応答する思考の抽象化によって読み手の想像力に投げかけてみたいと思います。

徐京植の『フクシマを歩いて』を購入したのは、割と出版されて早い時期だったと記憶する。
昔から徐氏のファンでもあったこともあり、その書に何かを期待して手に取ってみたというところだったと思うが、しかし読み始めてすぐに本を閉じてしまった。
数ページ読んだところで、どこか徐氏の記述に訳知り顔のようなものを感じてしまった気がしたのである。
それから十数年が経ち、同書を開いたもののすぐに閉じるということが何度か続いたきり、読み進めることはできなかった。
今回、笠井さんの提案で開催されたことを機に意を決して読み進めてみた。
一読して、2012年3月10日出版されていた同書がこれほどリアリティをもって生彩を放っていることに、今さらながら驚いた。
ただし、ここでいうリアリティとは、現在に共鳴するという事態とは少し違う。
原発事故直後には定かではなかったことが、そういうことだったのかと得心できるまでに自分の中で12年という月日が必要だったという時間性と、そこに宛がう言葉を既に徐氏が見抜いていたという鮮烈さが重なり合うことにおいて、それが感得されたのである。

とりわけ「根」という言葉は今回の対話の中心を占めるキーワードであった。
徐氏は原発事故によって人々が奪われた事態を「根こぎ」と名指した。
人が生きていく上でいつのまにか張られた人間関係という根。家族、地域社会、商売……。
無数の根が、しかし避難するしないの判断にも影響を及ぼした。
徐氏は、海外から住む知人たちから「すぐ逃げてこい」といわれたが、ここを動かないことを決めたという。
それがなぜだったのか。
プリーモ・レーヴィの『溺れるものとすくわれるもの』から、ナチスの台頭とホロコーストの危機が迫ることが肌で感じらながら、それでも生活地にとどまり続けるユダヤ人たちの姿にそれを重ねて理解する。
避難したくても避難できなかったのは、そこにある具体的な人間関係と生活があるからだ。
避難するということは、それらすべてを捨て去る、壊すことであり、原発事故が犯したのはこの「根こぎ」なのである。
楽観視しているわけでも無知なわけでもない。
その点で、南相馬市の自宅に愛妻と共に「籠城」したスペイン思想家の佐々木孝夫妻は「自らの人生を自らが決定する」生きざまを貫いた人として、徐は会いに行く。
自分の判断で自分の人生を選び取ること。
これが「自由」を意味するのは、国家に避難しろと言われることにも抵抗を示すことに止まらず、被ばくは危険だから避難しろという言説にも抵抗するという点である。認知症の妻を「根」からひき離すことが、それこそ死を意味するのだとすれば、それら外的なものから自らの生と「根」を守るものとしての自己決定こそが自由なのである。
しかし、他方で自己決定こそ自由であるということには戸惑いも覚える。
なぜ、自分は残ったのか。
「根」があったからなのだろうか。
それ以上に、あの法外な出来事を目の当たりにして、呆然と立ち尽くしたまま何もできなかったというのが実のところなのではないだろうか。
自己決定さえも奪われていたのが、あの暴力的な状況だったのではないか。
そこに理由が求められることそのものが暴力ではないだろうか。
それを「思考停止」というならば、そこでいう思考とは何か。
たぶん、思考することと行為することは別の原理である。
思考したから行為するわけではない。思考しながら行為することはできない。
事後的に行為の理由をあれこれ考えられるだけで、なぜその選択をしたのかは確信をもって事後的に説明できるだけなのだ。
それがその人の物語を可能にする。
妻と共に「籠城」すると名指した佐々木孝の「生きざま」として、他者に理解可能になるのであり、それが他者の心を打つのである。
その物語ることが可能な生きざまこそが自由なのではないだろうか。
してみると、あの出来事での経験を語れずに沈黙することに不自由な様をみるのは、このことなのでかもしれない。
自分の行為選択を名指したり物語化できないことにおいて、われわれの言葉は奪われたままなのだということである。

そもそも「根」とは何か。
生活の根圏といわれるものには、それこそ牛馬を繋ぐ「絆」というしがらみだって含まれるだろう。
世間の目というものもあるかもしれない。
そんな自分をしばりつけるものも含めての「根」だというならば、原発事故を機にそんなものから解き放たれたい生だってありうるはずではないか。
そもそもこの世界に、この国に、この土地に、この家族に、この時代に訳も分からず突如誰かによって投げ込まれた理不尽なものなのだから、それによって生かされているなんて単純には言えない。
自分がなぜあのような行為をしたのか、しなかったのかという理由は事後的に付与されるが、そもそも人間の行為の原因はそれほど明確なのだろうか。明確にしなければいけないものなのだろうか。
そんな苛立ちに似た思いもあって、2012年の段階では本書を読み進められなかったのかもしれない。
しかし、逆説的かもしれないが、自分の人生を決める自由を奪われてはじめて、そのありがたさが目に見えたのではないか。
徐氏の「原発事故によって見えるようになったものがある」という指摘の一つには、この自己決定と自由の問題があるのだろう。

もう少し「根」とは何かについて丁寧に考えよう。
自分の「属性」と「根」は重なり合うのだろうか。
「属性」に縛られることの苦しさが話題に上がった。それはどうしても自分の人生からは引きはがせない以上、それとは一生向き合うしかない。
国籍、民族、宗教、家柄、ジェンダーなどなど。
そして、それが個人に対して抑圧的にはたらくのは、その「属性」におけるマイノリティ性や自己の個別性が認識されることにおいてのことである。
しかし、同時にその「属性」が社会全体の中でのマイノリティである場合、逆にそのアイデンティティは拡散されない努力が求められる。
「お前はもう福島出身だと言えないな」と他者から言われれば、それまで意識などしなかった「福島人」というアイデンティティが沸々と湧き上がる。
けれど、「福島の人間として福島のために頑張ります!」と健気な言葉を投げかけられれば、なぜそんな属性に自分の生き方が縛られなければならないのだという反発も覚える。
徐氏は「日本という社会にからめとられる現実」がある一方で、「人間は社会や組織とは無縁に生きていけるだろうか?」という問いを上げかける。

たぶん、「根」とはそういう「属性」とは別の人と人との関わり合いなのだ。
いっしょに生活し、語らい、利害関係も踏まえた上で人とつながっている場所が、たまたま「福島」という土地であるだけで、「属性」が初めからあるわけではない。
けれど、もう一つの「根」があるはずだという声が上がった。
それは「ルーツ」としての「根」である。
自分の親たち先行世代の来歴とつながる自己という歴史性と言い換えてもいいかえられる。
大いにして、それが国家や国民、国籍、民族というものに自己をつなげて考えてしまうことになりがちだけれど、そのような大きな「属性」とどれだけ「根」を相対化できるかが肝要ではないか。
自分の親や祖父母の歴史的経験は、国民国家の歴史物語と一致するどころか、むしろ犠牲を強いられる方が多いとさえいるかもしれない。
「復興」=「福島」を個人の「根」の問題とは関係ないところでスローガン化していることは、今や否定できない。
とはいえ、なぜ日韓戦になると日本の側を応援してしまうのか。
なぜワールドカップラグビーの日本戦をわざわざスポーツバーに行ってみてしまうのか。
なぜ他国の試合にそれほど関心をもてないのか。
そんなメンタリティがあることも否定できない。それはいったい何なのか。

いつにもまして、個々の深い思いを語らっていただく中で、これに組みつくせないものを感得する時間であった。

徐京植『フクシマを歩いて』から考える

2024-01-28 | 〈3.11〉系



【会 場】福島市写真美術館(福島市森合町11-36)
【日 時】2024年2月24日(土)13時〜16時
【カフェマスター】笠井哲也
【定 員】20名
【参加申込】メッセージからお申し込みください。
【会場費・資料代】300円


昨年末、徐京植さんが逝去されました。
在日コリアンの視線からディアスポラの思想を紡ぎ出してきた思想家である徐さんは、福島から離散した人々と残った人々へ思いをはせて書かれたのが『フクシマを歩いて』(毎日新聞社)です。
その他にも徐さんは、『フクシマ以後の思想をもとめて 日韓の原発・基地・歴史を歩く』において高橋哲哉さんと韓洪九さんとの対談で朝鮮半島との結びつきに視線を広げています。
今年の元日に起きた能登震災の被害は今もなお深刻な状況が続いていますが、そこに避難と生活の根の問題や志賀原発と計画中止された珠洲原発の問題が問われれています。
徐さんであれば、今の事態をどのように論じただろうか?
日本社会を他者の視線から厳しく論じてきた徐さんがいなくなった今、そして13年目の〈3.11〉を迎えるにあたって、私たちが彼の思考から何か手がかりをつかめる会にしたいと思います。
今回は、主に書籍である『フクシマを歩いて』をもとに語り合いますが、冒頭で60分程度徐さんに関する映像を視聴してから始めますので、必ずしも同書を読まずとも参加できます。
また、カフェマスターである笠井哲也さんに同書の解説と問題提起をしていただくことで進める予定です。
参加費は会場費と資料代で300円です。

著者がかたる『なぜ日本は原発を止められないのか?』

2024-01-18 | 〈3.11〉系


【テーマ】「著者がかたる『なぜ日本は原発を止められないのか?』」
【ゲスト】 青木美希さん
【カフェマスター】竹田洋二 

【日 時】2024年2月10日(土)13:30~16:00
【会 場】福島市写真美術館(福島市森合町11-36)
【会場費】300円 
 ※なお、これとは別にゲスト旅費などにカンパ1,000円程度ご協力いただければ助かります。
【定 員】20名
【参加申込】メッセージからお申し込みください。

 2023年は福島原発事故を過去のものとして忘れさせようとする空気が強まった年でした。すなわち、福島原発事故現場の汚染水の海洋放出、岸田内閣の突然の原発回帰宣言、COP28での原発発電容量3倍宣言など、原発稼働再開に向けての動きが目立ってきました。
 そのような流れに抗って青木さんが出版された「なぜ日本は原発を止められないのか?」は我々にもう一度腰を据えて原発問題と向き合うべきだ、という思いを新たにさせてくれる書籍だと感じます。
 2024年1月1日に発生した能登半島の地震で、志賀原発は相当大きなダメージを受けたにも関わらず、被害の全体像はいまだに明らかにされているわけではありません。と同時に、日本の原発がいかに脆弱な地盤の上に建てられているのかをまざまざと見せてくれました。能登半島地震は自然災害に対する日本社会の対応力のなさを明らかにすると同時に、原発を今すぐやめるべきだ、という自然が与えてくれた最後の警告なのかもしれません。
 原発事故からはや13年がたち、「復興」というスローガンに押し流され、日常から原発事故の記憶が薄れつつある中、青木さんから、お話を伺いながら、いまいちど、原発廃絶に向けて頑張ろうではありませんか。

【エチカ福島】水俣の漁師たちに出会う夜—水俣・福島対話篇、再び!

2023-10-25 | 〈3.11〉系


【テーマ】水俣の漁師たちに出会う夜——水俣ー福島対話篇、再び!
【開催日時】2023年11月27日(月) 18:30~21:00
【会 場】如春荘 住所:福島市森合字台13-9
     最寄り駅:飯坂線・美術館図書館前駅[出口]徒歩1分
【参加費】無料 
【定 員】40名 ※先着順 満員御礼!申し込みを締め切らせていただきます
 石原研究室 aishi@kumamoto-u.ac.jp
 エチカ福島(渡部 純)wajun1973@yahoo.co.jp
【共 催】熊本大学石原明子研究室+エチカ福島


「水俣ー福島対話篇」が再び如春荘で開催されます!
今回のゲストは、水俣の漁師にして水俣病事件の語り部を続けてきた杉本肇さんです。
杉本さんの経験談を聞きながら、原発事故後の福島に生きる自分たちの思いを語らいましょう。
対話の後は、肇さん率いるヤウチブラザーズの余興のお楽しみも!

【語り部講師:杉本 肇さん】
1961年水俣市袋茂道(漁村)で産まれ育つ。祖父母や両親はいわし網漁の網元で、水俣病患者。
現在、弟実と漁業(ちりめん漁)・みかんの栽培などを生業としている。2008年から水俣病資料館の語り部として現在にいたる。併せて「やうちブラザース」バンドのリーダーもつとめる。

【やうちブラザーズ】
 杉本さんをリーダーとし、水俣で2000年より活動を始めた、海
の男たちのコミックバンド。リーダーのはぁちゃん、はぁちゃ
んの弟みぃちゃん、親戚のひぃちゃんの3人トリオ。
 北は北海道から南は鹿児島まで幅広い活動を続ける。2014年に
はNHKの「ふるさとグングン」の番組にやうちブラザーズの
「みぃちゃんの歌」がエンディング曲として採用。オリジナル
ソングや身体を張ったお笑いネタでお客様を笑顔の渦に巻き込
む。「笑顔と心の復興」を願い、活動を精力的に続けている

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析とプログラムの提示」(研究代表者:石原明子、課題番号19H04356)の一環で行っています。無料
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【報告】第17回エチカ福島「海を生きるものの生と理——「ALPS処理水」海洋放出開始をめぐって」

2023-10-09 | 〈3.11〉系


昨日、新地町公民館にて、民俗学者であり新地町の漁業者である川島秀一さんをゲストに、第17回エチカ福島「海を生きるものの生と理——「ALPS処理水」海洋放出開始をめぐって」が開催されました。
エチカ福島としても、はじめての浜通り開催にどれだけの人数が集まるか少々不安がありましたが、21名の方々のご参加に恵まれた盛会となりました。以下、雑感を含めた簡単な渡部の報告です。

まず、川島さんよりいただいた70分間の基調報告から印象深かったことを書き記します。
川島さんから、これまでの漁村をめぐる民俗学的な調査から大変興味深い数多くの事例を挙げながら、「漁師さんは自然科学者のように自然だけを見ているのではなく、自然と自分たちとのかかわりを対象化できる人たちである」との考えが示されました。
たとえば、オニヒトデのようなサンゴ礁を荒らしてしまうものに対して、「ダイバーはきれいな珊瑚を見たいからオニヒトデを一掃することを志向するけれど、漁師たちは別の意見をもっている。実は、珊瑚が覆いつくした後にタコはいなくなってしまう。むしろ珊瑚が死に絶えたところにタコが住み着くのであって、オニヒトデが珊瑚を食べるからタコがいるんだ」という事例を示しながら、川島さんは「楽園というけれど、本当はそこにオニヒトデも含まれているはず」と語った波照間島の漁師さんの言葉を伝えます。
珊瑚だけが生きる風景は美しいかもしれないけれど、それは一定の人間の観点でしかありません。あらゆる生物が環境圏をなしているということをわれわれはどこまで考慮しているだろうか。
こうした話を漁師たちから知るにつけ、川島さんは「いつも私は漁師さんの言葉に「人間」という言葉が出てくることに驚く」と言います。



新地町で漁業に取り組む川島さんは、数々の興味深い自らの漁師経験からもいろいろな考えを示して下さりました。
たとえば、市場の売りものにならない「シタモノ」を網から外すことが川島さんの漁師としての仕事がメインだそうです。
しかし、この「シタモノ」を外すことがいかに大変かということをわれわれ「陸(オカ)のもの」たちは想像できないどころか、それがどのくらい存在し、どのように扱われているかも知りませんでした。
それゆえに民俗学者としての川島さんは「シタモノは一度も数量化されたことはない。漁業の統計資料だけでわからないそれ以外の世界があるんだろうなということは、実は民俗学の方法でしかわからない」といいます。
これは実際に漁業者であると同時に民俗学研究者としての目をもつ川島さんならでは見方です。
それはつまりこういう事です。
「シタモノの数量化はできなかったけれど、どんな生物がかかっているのか、利用法は何があるかを調べた」ところ、この市場価値のない魚介類が、一つには自分たちで食べる食材になる「食い魚」になること、二つ目はユイコ用集落内とのつながりをもつための「分け魚」、三つめは知人らに配る「配り魚」として利用されており、シタモノが実は集落のつながりを下支えしていることがわかるというのです。
「市場に出さないものだけれど、自分たちの食文化として成立させている。浜でメジャーに取れているものが食文化になるわけではない。売らないものでそこの家の食文化が生まれるわけです。」



われわれが日常に接する漁業の報道やデータからでは見えない世界があり、それが実は生活世界の共同性や文化を支えている。
さらに、「シタモノはがし」と呼ばれるユイコの慣習を通じて、市場に出さない魚を介した人との関わりにある老人のエピソードが語られたことも印象的でした。
その老人は毎朝、「シタモノはがし」の手伝いに来る。
彼は「自分はこういう事しかできないから毎日来ているんだ」と言っていたそうです。
けれど、それは必ずしもユイコの慣習だからという理由だけではなく、「ただ毎日海を見ていたい」という事なんだと思うと川島さんは見ます。
それだけ漁場に生きるものにとって「海」とは生活世界そのものだということなのでしょう。


しかし、そうした海をめぐる生活世界を原発事故は一変させます。
福島県の漁業が原発事故による補償を得るためには一定の漁獲量が必要であり、それを維持することが非常に難しい。
すると、その補償を得るために漁師は安定して獲れる刺し網漁に落ち着いてしまい、「流し網」のようなある種の投機的な漁法は敬遠する漁師が多くなったそうです。そのような事情を知らない政策が10年も同じことを継続し続けている。
経済的計算と科学的合理性。
これだけをもとにして、どれだけの漁師の知恵と漁業文化の衰退を考慮に入れてこなかったのか。
川島さんの漁業民俗学の研究と漁師生活から得た知見はそこにぶつけられます。
近代に入ってからの汚染された魚の歴史にふれ、たとえば第五福竜丸事件で大石又七さんが「マグロ寿司にして30万人分」を破棄するに際して、「ああ、息子を捨てるようなものだ」と悲嘆したことを、川島さんは「財布やカネを捨てるようなものだ」とは言わない漁師の矜持と悲哀を紹介しました。



川島さんは「漁師とは魚の命を人間の口に引き渡す職能者である」と規定されます。
しかし、近代はこの文化を何度も破壊してきました。
とりわけ水俣病事件が発生した際、水銀に汚染された魚介類を詰めたドラム缶は2500万本にもなりました。
これは、一度も人の口に入らない魚をそのまま廃棄したということです。
これが漁師たちには耐えがたい。
そもそも、全国各地の漁場には「ネセヨウ」魚の再生儀礼)や「ネガト」、「ネウオ」という文化があります。
これは、船上で人目のつかないところで魚を腐らせてしまうことを意味し、これがあると不漁になると言い伝えがあるそうです。
それゆえに、「ネセウオ」が発見された場合には、塩をかけたり包丁を入れたりして、人の口に入ったことを儀礼的にでも行うと言います。これは、高知でネセウオを「捨てる」ではなく「あます」という言い方にもあらわされているそうです。
つまり、漁師は海からのいただきものを、人の口を通さずにただ海に捨てることはしない神聖さを大切にする文化があるということです。
だからこそ、東電がすぐに賠償計算をし、「売れなくなったら買い上げて冷凍保存をする」などとしてすぐに賠償金の経済的計算をすることは、このこのとまったく考慮に入れていない尊厳を損なう対応がくり返されてきたということになります。

民俗学者と漁師としての川島さんのこの怒りは、1973年勝本小学校校舎新築に際し、水洗便所の設備をした際に漁師たちが、「たとえ汚水処理したとしても、糞尿の混じった水を海に流されたのでは海水が汚れて船霊(ふなだま)さまのお清めができない」と反対した運動において最もよく理解できます。
それゆえ、トリチウム水の海洋放出という問題は「単純に科学的であるとか非科学的であるという低レベルな話ではない」と、川島さんは言います。
これは漁民の、そして彼・彼女らからいただいたものを口にするわれわれ生活者の尊厳が壊されていく問題なのです。
このことを川島さんは、コリン・ターブルの『豚と聖霊』(どうぶつ社、1993年)からの引用を、福島の問題に変換した次の文章をもって締め括られました。

「しかしながらこの異文化の衝突のプロセスは農耕民(国と東電)にとって経済的な価値に限られていたのに対して、ムブティ(福島の漁民)にとって精神性にも関わるものだった」
(※「ムブティ」は、アフリカのザイール北東部のイトゥリの森に住む狩猟採集民のことです。)
目から鱗が落ちる見事な表現に一同腑に落ちたものです。


川島さんの基調報告を終えたのち、約1時間半にわたって会場との対話が行われました。

まず、漁師さんはどのくらいのスパンで海を見ているのかという問いに対して川島さんは次のように堪えられました。
「長い期間で60年周期というのが多い。災害もそう。三陸の場合は一生二度あると言われる。昔は一生というと60年くらいだった。トビウオが寄らなくなった種子島では、60年周期にトビウオが来るという話もある。この震災によって、増えた魚種はシラウオと北寄貝だけれど、これは浜が流されたからではないかという話がある。ヘドロが流れたため、浜がきれいになったからではないか、と。ただ、漁師さんにとって何かの魚種がなくなったときは何か別の魚種が補ってくれるものであり、漁法を変えることで臨機応変に対応するものじゃないか」


また、「漁師の作法」という言葉をめぐっては、
「「海に戻す」といっても「投げる」とは言わない。海からもらったものだから「戻す」。食べた海のものを戻らない放出ではなく、漁師さんは戻ってくるものと考えている。だから、思わず獲れた魚のことを「まわりもの」という。「まわりがいい」ともいう。グルグル回っているという考え方があるのではないか。一方的な流しっぱなしやもらいっぱなしというのではない循環の考え方があるのではないか。」

この論理は非常に興味深いものでした。
たとえば、対話の中で川島さんが漁村の共同体に入り込んで驚かされたことの一つに、冠婚葬祭費のやりとりが挙げられました。これも巡り巡ればおのずと自分のところに返ってくるものという発想が、どこか漁との関係における循環の思想と関連するのかもしれません。
漁民の理解を得ることなくトリチウム処理水を海洋放出した背景には、受け取るだけや捨てるだけという原発事故補償や海洋放出の論理があり、この漁民たちがもつ循環の論理に対する理解不足と無視が根底にあるようにも思われました。

そして、今回の対話の場面で最も重要なキーワードとなったのが「尊厳」です。
科学的な理解が不足しているからその無知を改善すれば風評はなくなる、といった議論が的外れであるのは、原発事故がそもそも漁師をはじめとする被災地の生活者の尊厳を壊したということだという問題です。
この「尊厳」とは、既に川島さんのお話しに出てきたように、宗教性であったり共同体の規範であったり、はたまた自然と人間が取り結んできた倫理といったものではないでしょうか。
そして、昨今の「汚染水」海洋放出の問題の本質は、これら人間の根底を形づくる「尊厳」を「科学」の問題に矮小化しながら無視し続けたことにつきるように思われます。
この議論に、「ある新聞広告のなかで、浜通りの高校生が漁師の尊厳について訴えていたことに感動した」という発言がありました。
今日、福島県の高校現場には経済産業省が中心となって「安全安心」をアピールする出前講座授業が盛んにおこなわれています。
そこに理科教員が加わることで、あたかも科学的に理解できないものが「非合理」であるとする雰囲気が形づくられています。


こうした「科学的無知」を「非合理」であり、「感情」的だと切り捨てる論理に対して川島さんは、「感情の裏には今日話した事情がたくさんある。これは生活感情なんだ」と訴えます。
ある参加者からは「今日、NHKの『ディアにっぽん』での放送を見た際、漁師さんたちの連帯感と尊厳は侵害されたと思うけれど、その根底にある確固たる尊厳や魂までは奪われていないという取材だったと受け取った」との発言がありました。
この放送について川島さんは、「『ディアにっぽん』では、息子と対立する小野春雄さんの葛藤がよく描かれていた」と紹介しました。
そして、すぐにこれを観た他県の漁師さんから次のような感想が送られてきたと言います。
「まず涙が出た。小野さんの気持ちもよくわかるし、息子の気持ちもよくわかる。だけれど、福島の漁業は大丈夫ですね。ああいう風にぶつかり合いながらやっている福島の漁業は大丈夫だと思った。こういう災難が降りかかっても漁師という職にはあるから、これからも福島の漁業は大丈夫ですね」
このメッセージを伝えながら川島さんは、「漁師という仕事には原発事故というものでは潰されない強さがあると信じている」という言葉で締め括られました。

今回、エチカ福島発の浜通りでの開催ということもあり、どのくらいの人が集まるのか不安なところもありましたが、多くの方々に関心をもっていただき、遠路ご参加いただけたことは望外の喜びでした。
今回のエチカ福島では、多くの示唆を川島さんをはじめ参加者の皆様からいただきましたが、とりわけ科学とは別の生活の論理があることを川島さんが、最後までいい続けるという言葉の強さに一同、深く共鳴したものです。こうした現場という地に足をつけて思索を続ける姿を、我々一人ひとりが試み続けていかなければならないという思いを強くする会となりました。
なお、今回の会を企画開催するにあたっては、笠井哲也さんに大きなご尽力をいただきました。
この場を借りて深く感謝申し上げます。


第17回エチカ福島「海を生きるものの生と理——「ALPS処理水」海洋放出開始をめぐって」

2023-09-10 | 〈3.11〉系

第17回エチカ福島
テーマ:「海を生きるものの生と理——「ALPS処理水」海洋放出開始をめぐって」
ゲスト:川島秀一さん
開催日時:2023年10月8日(日) 14:00~17:00
会場:新地町公民館(新地町谷地小屋字樋掛田40-1, TEL 0244-62-2085)


 去る8月24日、「ALPS処理水」の海洋放出が実施されました。海を生活世界としてきた人々の尊厳と、話し合いでものごとを進める民主主義を根底から破壊したこの政治決定には、やり場のない怒りと無力感を覚えずにはいられません。
 しかし、こうした思いの表明に対しては、即座に「科学的な理解が不十分だ」、「風評被害を煽る」という非難を向ける風潮が社会に蔓延しています。その背景には「計画通りの放出であれば、人や環境に与える影響は無視できるほどごくわずか」としたIAEA報告の権威を盾に、それに疑問を投げかける言説を一顧だにしない行政や大手メディアの姿勢があることは言うまでもありません。こうした「科学」の名のもとに、「ALPS処理水」海洋放出に対する「反対」や「不安」の表明を抑圧する空気に息苦しさを覚える人も少なくはないでしょう。
 そもそも、私たちは生活を営む上で、どれだけ「科学」的な要素を判断材料に取り入れているでしょうか。むしろ、人間の生において「科学」的なるものは、ごく一部の領野を占めるにすぎません。われわれの生活知は「科学」的な知識に覆いつくされているわけではありません。むしろ、「科学」という制度を前提に生かされるとき、私たちは躍動的な生を萎縮させる全体主義的な圧制を感じ取ります。そうだとすれば、いま必要なことは、「ALPS処理水」の海洋放出問題を科学論争に収斂させることではなく、それとは別に私たちの生活知や生の尊厳を形づくっているものを一つひとつ吟味することではないでしょうか。
 水俣病患者であり裁判闘争の闘士であった漁師の緒方正人さんは、水俣病事件の問いの核心は「命の尊さ、命のつらなる世界に一緒に生きていこうという呼びかけ」にあると言います。では、その「命」とは何か。緒方さんは「命」を考える上で、3つの重要な事実を挙げます。一つ目は水俣事件が始まって四十数年来、漁師たちの家では毒が少しは残っているかもしれない魚を毎日食べるのをやめなかったこと、二つ目は母親たちが胎児性水俣病の子どもが生まれても、その子と向き合いながら、次々と子どもを産み続けてきたこと、三つ目は水俣病被害者たちからはだれ一人殺していないということ、です。なぜこういうことができたのか。その理由について緒方さんは次のように述べています。

 魚を毎日たくさん獲って、それで自分たちが生き長らえる。魚によって養われ、海によって養われている。一年に二、三遍は鶏も絞めて食って、あるいは何年かに一遍は山兎でも捕まえて食っている。そういう、生き物を殺して食べて生きている。生かされているという暮らしの中で、殺生の罪深さを知っていたんじゃないかと思います。このことがなによりも加害者たちと違うところです。(『チッソは私であった』,葦書房,2001年)

 水銀が入っているかもしれない魚を食べ続ける。胎児性水俣病の可能性がある子を生み続ける。一見すると、「科学」的には非合理的な選択に見えるかもしれません。しかし、そこには、「命」のやり取りを生業とせざるを得ない「殺生の罪深さ」を知る漁民たちの一貫した生活知の論理と倫理が備わっていることが確認されます。そこには、けっして「科学」の議論に収斂されない生の奥深さが備わっています。そして、この議論こそは福島の「ALPS処理水」の海洋放出の問題にも当てはまることではないでしょうか。
 第17回となるエチカ福島では、新地町の漁師にして民俗学研究者である川島秀一さんをお招きし、海に生きるものにとっての生についてお話を伺いながら、「ALPS処理水」の海洋放出が始まったこの現実をどのように考えるべきか、その手がかりを参加者の皆さんで話し合います。ふるってご参加ください。



【エチカ福島企画】いま、水俣から福島を想う

2023-02-03 | 〈3.11〉系

【会場】福島大学集会所 如春荘(福島市森合台13−9)
【主催】 熊本大学・石原明子研究室 × エチカ福島
【パネル展示期間】 2023年3月6日-2023年3月12日
          11時から19時(最終日3/12は15時まで)
【入場料】 無料
【対話イベント】
 2023年3月11日 14時~17時(如春荘和室にて)
 展示パネルを読んだうえで、各々が思う「3.11」について語りあう会をもちます
【参加申込】当日参加もOKですが、可能な限り参加希望のメッセージをいただければ助かります。
【飲食物】ソフトドリンクをご用意してます

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この展示は、JSPS科研費 15K11932、19H04356の助成を受けた研究の成果そして研究の一環です。
対話イベントは、原発事故に関する研究と対話活動記録の一環として、個人情報に配慮したうえで記録に残させていただきますが、ご了承ください。
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 東日本大震災それに続く原発事故から12年が経とうとしています。東日本大震災による被害は、見た目には「復興」が進んだように見えますが、人々の心の中や生活には癒されない傷がまだ残り続けています。とくに重大な環境災害である原発事故の被害は、半永久的に続き、それに対する「取り組み」が、社会の状況をさらにややこしくしているように見えることすらもあります。
 熊本大学石原明子研究室では、水俣病を経験した水俣地域の人々と原発事故被災者の交流をこの10年続けてきました。本メッセージは、この10年を経ての水俣の人たちから福島への思い、そして、水俣に来てくださった福島の人たちの思いです。水俣病公式確認から55年目の年に起こった東京電力福島第一原発事故。二地域が背負った生餌にも重なりあうような課題とメッセージ。私たちはこの二つの地域で起こったことにどのように向き合い、未来にこの地球を手渡していけるのでしょうか。(熊本大学 石原明子)

 エチカ福島は〈3.11〉以後の倫理を考えるために、これまでに様々なゲストを招き参加者との対話を試みてきました。その中には水俣からのゲストとの交流もありましたが、そこで私たちが求めたことは、ひとえに未曽有の公害事件を経験した水俣が得た教訓と希望でした。このたび熊本大学・石原明子研究室との協力で開催する本企画展でも、その思いは同じです。水俣の人々から福島へ向けられた言葉、そして福島から水俣とつながった人々の言葉一つひとつをご覧いただきながら、12年前の原発事故という人災について参加者の皆様と対話しながら考えを深める機会になれば幸いです。(エチカ福島)