『ちくま哲学の森を軽~く読む会』 中野好夫「悪人礼賛」
「共謀罪」が取り沙汰される今日、この書を手にすることはキケンなのかもしれない。
それでも8名の参加者によって、濃密な議論が交わされた。
以下はその議論の記録ではなく、そこで触発されたワタシの思考の軌跡、雑感である。
今回の中野好夫の「悪人礼賛」を選書した理由は特にない。
けれど、「悪人」という言葉は小説のタイトルになってしまうように、どこか放っておけないどころか、危うい魅力さえ感じてしまう概念だ。
ところが、中野がいう「悪人」はその魅力とはどこか違う。
僕らの時代において、それはわりと目指されるべき人間の「偽悪的」な言い換えと感じるからだ。
中野は冒頭、「僕の最も嫌いなものは善意と純情との二つにつきる」と断じるところから始める。
なぜ善が嫌いなのか。カフェの冒頭Fさんが的確に解釈して見せてくれたように、善人のいやらしさは「無反省」な「純情」であることに尽きる。
そのくせ、動機が善意であるというだけの理由で、一切の責任は免除されるものと考えている、「イノセント」な白痴がそのいやらしさなのだ。
このことをNさんは、善人は自分の中にある善しか見ない、自分自身の行為を見つめることができない点を指摘する。
つまり、自己反省の二重性がない。無垢。善の中に潜む悪、悪の中に潜む善。この回路を失うことが善の無文法性に通じる。
だから、アンパンマンはまさに善意の暴力の権化だという。弱い人々には限りなく自己犠牲を尽くす反面、バイキンマンのような悪には絶対的暴力をふるって殲滅する。
それに対し、バイキンマンは狡猾と言われるようが、あの手この手で一足飛びに暴力で解決しない多様で現実的な工夫を凝らして対応しようとする。
ところで、「安倍晋三」もまたその種の「善人」の政治家ではないかという話になった。
彼は、自分の政治的言動に一点の曇りもない。
動機において疚しさや不純がない。
まったくもって自分で「正しい」と思い込んでいることに淀みなく突き進む。
だから、いかなる批判も取り込むことができない。
これはテロリストの心性と何ら変わらない。
こう書くと多分、共謀罪の取り締まり対象になりかねない。
でも、彼が共謀罪にあれだけ固執するのは、このことと無関係ではない。
動機と行為が一致している人間は、それは同時に他者の動機や行為に自分との同一化を求めるからだ。
純粋さとは同一化の別の謂いである。
これに対して、「悪人というのは概して聡明な人間に決まっている」というのは、その逆、つまり自分の言葉を意識化できる「反省する人」のことである。
こういうと、なんだか薄っぺらい。
単なるアイロニーか。
いやいや、このエッセイが書かれたのは、戦後間もない1949年。
中野は戦争を経験者だ。
「忠君愛国」が臣民の徳として称揚/強要された時代の後に、その価値の反転を無矛盾に受け入れた行動原理を批判するためには、「悪」と名指さなければ、そのインパクトは伝わらなかったのだろう。
戦争経験世代において「偽善」を論じる知識人は少なくない。
渡辺一夫の「偽善のすすめ」しかり、福田定良の『偽善の倫理』しかり。鶴見俊輔しかし。
いまだに蔑まれるこの言葉は、しかし意識的であり、自己反省の契機を含む。
戦争経験世代は、おそらく純粋に「忠君愛国」を唱道した人々の暴力性を身近に感じた人々だ。
そして、敗戦と同時に、軍国主義者が民主主義者に「無反省」に転換した欺瞞を目の当たりにした世代だ。
だから、当時としては十分にパンチ力のある批判性を帯びた言葉として「悪人」という言葉を用いて礼賛した。
そして、そのインパクトもあった。
しかし、そこから約70年後に再読したとき、私たちが彼の論に、むしろ当然性を感じるのだとしたら、それは中野の批判が長い時間をかけて、随分社会に浸透したということの証左ではないか。そんな話にもなった。
しかし、いやだからこそ、反知性主義の政治が吹きすさぶ今日、中野の「悪人礼賛」論では突破できない時代状況になっているんじゃないか。トランプの無軌道さ、安倍の無垢さ、ルペンの「国民戦線」…。
端的に言えば、思うのは自由でも、歴史的に考えれば恥ずかしくて憚れる言説が臆面もなく流出される。開き直りとも違う。
まさにイノセントに。だが、これが大衆に受ける。
内面と行動の無矛盾性。
これが、腹黒い政治家とは異なり誠実さと感じさせるのかもしれない。
ホンネを語ってくれる。
それが事実と異なる虚構でもいい。
事実が間違っていても、嘘をつかれても内心の本音を語ってくれることがうれしいのだ。
それが自分たちの代弁に聞こえるのだ。
真実(これも怪しい言い方になるが)の不協和音を鳴らす他者の声などどうでもいいのだ。
大衆はリーダーシップのある政治家に大衆は魅力を覚えるのではない。
中野のいう「純情」を行動化する政治家に惹きつけられるのだ。
事実や真実なかよりも、自分たちの感情を満足させてもらいたいという大衆の欲望が権力者の公然たる「嘘」を可能にする。
それがポストトゥルースという時代だ。
かつては、裏表がある人間が信用されなかったのではない。
裏を見透かされたり、露出させてしまう人間が信用を失っていたのだ。
しかし、今日、立木隆介が『露出せよ、と現代文明は言う』において「心の闇」というものがもはや失われ、ダダ漏れしている現象を精神分析学的に論じているように、ネットの世界と心の世界の境界が融解したことにおいて、もはや「隠れる」ことそのものの困難性を帯びながら、無限の暴力が拡散している。そこにおいては、もはや「演じる」という在り方そのものが欺瞞性を帯びる。今日の大衆のイノセントとはこのことと無関係ではないのではないか。
中野は悪と偽善の礼賛をした。
しかし、これは等置すべき概念であろうか。
そもそも、人間は存在論的に演じるもの、すなわち俳優として存在する。
内面を隠して仮面をかぶることが他者との交流の仕方の根本的な在り方になる。
偽善を装うことが嘘をつくことなのではなく、そもそも内面の暗がりと外面の現象は峻別される仕方としてある。
誤解してはいけないのは、他者と交わる「政治」という領域において現れる仕方であるという点だ。
マキャベリズムを単なる怜悧なリアルポリティックスと単純に切り落としてはいけない。
むしろ、純情さが政治の前面で露出されることのおぞましさは、既にふれたように現実的になろうとしている。
これを近代的自我と単純に解釈するのもいけない。
中野の論において自己矛盾はどのような位置づけになるのか問題として提起した。
たしかに古色の感もある問いかけだった。
「自分探し」の時代を思い返してみれば、それは外面と内面が一致しなければいけないという、あやしい規範に捉われた人々の問題として取りざたされた。
「本当の私」と他者の前でふるまわなければならない「現れ」とのギャップに彼・彼女らは苦しむ。
それは幻想である、とポストモダニズムは切り捨てるが、当人たちにとってはそんな思想遊戯では解決しないのであろう。
ただし、私の問題提起は、こうした近代的自我の苦悩に興味があるわけではない。
デリダはアーレントを参照しながら「嘘の歴史」について論じた(西山雄二訳,『嘘の歴史序説』)。
デリダによれば、アーレントは現代の政治において嘘の肥大化と限界への到達を懸念しつつも、「嘘つき」とはすぐれて「行動の人」であり、政治において行動することで自らの自由を表明し事実を変容させることを指摘したという。
アーレントは政治に受ける嘘を礼賛したわけではない。
むしろ、現代の政治における嘘が臨界に達したことの危機を指摘する中でこの問題を論じている。
しかし、あえて誤解を恐れずに重要な点に着目すれば、アーレントは政治における嘘を自己に対する嘘、すなわち自己欺瞞と峻別する。
すなわち「嘘をつく」ということは、「意識的に、何を行為に隠しているのかを知りつつ、つまり自分自身には嘘をつくことなく、意図的に他者を欺くこと」(デリダ)である。
嘘は他者をだまそうと欲する意図や意志、志向性がなければ単なる誤謬や過失である。
アーレントがアイヒマン問題を経て『精神の生活』を執筆するにあたり、問題としたことはこのことである。
「世の大多数の人たちが私に同意しないで反対するとしても、そのほうが、一人であるから、私が私自身と不調和であったり、自分に矛盾したことをいうよりもまだましなのだ」(佐藤和夫訳『精神の生活』)というソクラテスの言明を『ゴルギアス』から引きながら、精神の自己矛盾への耐え難さが思考を起動することを論じる。
それゆえ、政治行為において嘘をつく=仮面で演じることは可能であっても、自分自身と不調和でいることができない点において、思考は起動し始める。
ここがアーレントの政治と倫理の境界線である。
アイヒマンにはそれを起動させる「思考」がなかった。
ここに「悪の陳腐さ」が生じる。
その意味において、われわれがしばしば職業上経験する自己矛盾、しかもあの〈3.11〉という出来事で経験した〈股裂き状況〉を、どのように解釈できるだろうか、といった問いかけであった。
もちろん、そこには中野の「悪人礼賛」と通底する論理があるのではないか、という意図を込めてである。
しかし、Sさんはそうした近代的自我を前提とした枠組みでは、ポストトゥルース、トランプ的反知性主義の論理は突破できないと喝破した。
もはやアーレント的中野的「悪人」の真っ当さが、世の中で消滅寸前というか、威力を失っている中で別のレトリックの仕方が必要ではないか、と断じた(しかし、その先のスピノジアンとしてのSさんの論理は、相変わらずよくわからないので、再度応答していただきたいと思っている)。
つまり、戦後70年という時間は、ふたたび反転して中野のいう「善人」に精神的な回帰をし始めているのかもしれない(これはかなり断定的だが)。
デリダはアーレントの「自己への嘘」といった近代性の戦略を認めつつ、「自分への嘘は可能か」という問いから話を始めている。
アーレントにおいて嘘は演技を含めて他者を欺くものである以上、自己への嘘はありえない。
しかし、その「自己」とは何か。
デリダは、「敵としての自己自身」によって分割されたり分裂したりしている自己性において生じる「まったく別の経験」は、「別の名」が必要だとしている。
つまり、アーレントにおける思考の対話相手であるもう一人の自分(「一者の中の二者」)とは、デリダにおいてはまったき「他者」ではない。
自己の内に「自我よりも本源的な自己性、飛び地状態になった自己性」が生じる限り、そもそも自己へ嘘をつくとはいかなることなのか。
それは外部の他者とは別の仕方でありうる内なる「他者」のことであろう。
すると、アーレントが思考の条件とした自己内対話の「一者の二者」という構造をデリダが脱構築してしまった後に、なお自己反省性を担保する思考は可能になるのだろうか。
思考の「別の名」とは何か…
デリダはマルクス主義の「イデオロギー」概念の練り直しにおいて、意識的意図的「現前や自己同一性が充実した」認識の彼方へ向かうこと、すなわち「誤謬、無知、幻想の場でもなく、嘘や自己への嘘でもない非―真理の場の方へ向かう」ことを示唆する。
中野の自己反省といった枠組みもまた、この「現前」や「自己同一性」を前提としていることはいうまでもない。
だからと言って、それが無効になるわけではない。
デリダはそれとは別の彼方への「場」を求める。その「場」の探求とポストトゥルースへの対抗がいかなる形で可能になるかは、いまだ不明ではあるが。
と、デリダの話で閉じるわけにはいかない。中野好夫が今回の相手だった。
中野の論は古びたのだろうか。
いや、おそらく違う。
中野が戦前戦中の「善人」を乗り越えようとした痕跡を約70年後の読み直すことは、いうまでもなくその時の格闘の痕跡を参照しながら、われわれの新しい言葉を紡ぎだす可能性を開いてくれるものだ。
古典を読み直すことの意味を、あらためて今回の読書会で学んだ。では、その新しい言葉とは何か?それはまた次回の続き。
(文:渡部 純)
「共謀罪」が取り沙汰される今日、この書を手にすることはキケンなのかもしれない。
それでも8名の参加者によって、濃密な議論が交わされた。
以下はその議論の記録ではなく、そこで触発されたワタシの思考の軌跡、雑感である。
今回の中野好夫の「悪人礼賛」を選書した理由は特にない。
けれど、「悪人」という言葉は小説のタイトルになってしまうように、どこか放っておけないどころか、危うい魅力さえ感じてしまう概念だ。
ところが、中野がいう「悪人」はその魅力とはどこか違う。
僕らの時代において、それはわりと目指されるべき人間の「偽悪的」な言い換えと感じるからだ。
中野は冒頭、「僕の最も嫌いなものは善意と純情との二つにつきる」と断じるところから始める。
なぜ善が嫌いなのか。カフェの冒頭Fさんが的確に解釈して見せてくれたように、善人のいやらしさは「無反省」な「純情」であることに尽きる。
そのくせ、動機が善意であるというだけの理由で、一切の責任は免除されるものと考えている、「イノセント」な白痴がそのいやらしさなのだ。
このことをNさんは、善人は自分の中にある善しか見ない、自分自身の行為を見つめることができない点を指摘する。
つまり、自己反省の二重性がない。無垢。善の中に潜む悪、悪の中に潜む善。この回路を失うことが善の無文法性に通じる。
だから、アンパンマンはまさに善意の暴力の権化だという。弱い人々には限りなく自己犠牲を尽くす反面、バイキンマンのような悪には絶対的暴力をふるって殲滅する。
それに対し、バイキンマンは狡猾と言われるようが、あの手この手で一足飛びに暴力で解決しない多様で現実的な工夫を凝らして対応しようとする。
ところで、「安倍晋三」もまたその種の「善人」の政治家ではないかという話になった。
彼は、自分の政治的言動に一点の曇りもない。
動機において疚しさや不純がない。
まったくもって自分で「正しい」と思い込んでいることに淀みなく突き進む。
だから、いかなる批判も取り込むことができない。
これはテロリストの心性と何ら変わらない。
こう書くと多分、共謀罪の取り締まり対象になりかねない。
でも、彼が共謀罪にあれだけ固執するのは、このことと無関係ではない。
動機と行為が一致している人間は、それは同時に他者の動機や行為に自分との同一化を求めるからだ。
純粋さとは同一化の別の謂いである。
これに対して、「悪人というのは概して聡明な人間に決まっている」というのは、その逆、つまり自分の言葉を意識化できる「反省する人」のことである。
こういうと、なんだか薄っぺらい。
単なるアイロニーか。
いやいや、このエッセイが書かれたのは、戦後間もない1949年。
中野は戦争を経験者だ。
「忠君愛国」が臣民の徳として称揚/強要された時代の後に、その価値の反転を無矛盾に受け入れた行動原理を批判するためには、「悪」と名指さなければ、そのインパクトは伝わらなかったのだろう。
戦争経験世代において「偽善」を論じる知識人は少なくない。
渡辺一夫の「偽善のすすめ」しかり、福田定良の『偽善の倫理』しかり。鶴見俊輔しかし。
いまだに蔑まれるこの言葉は、しかし意識的であり、自己反省の契機を含む。
戦争経験世代は、おそらく純粋に「忠君愛国」を唱道した人々の暴力性を身近に感じた人々だ。
そして、敗戦と同時に、軍国主義者が民主主義者に「無反省」に転換した欺瞞を目の当たりにした世代だ。
だから、当時としては十分にパンチ力のある批判性を帯びた言葉として「悪人」という言葉を用いて礼賛した。
そして、そのインパクトもあった。
しかし、そこから約70年後に再読したとき、私たちが彼の論に、むしろ当然性を感じるのだとしたら、それは中野の批判が長い時間をかけて、随分社会に浸透したということの証左ではないか。そんな話にもなった。
しかし、いやだからこそ、反知性主義の政治が吹きすさぶ今日、中野の「悪人礼賛」論では突破できない時代状況になっているんじゃないか。トランプの無軌道さ、安倍の無垢さ、ルペンの「国民戦線」…。
端的に言えば、思うのは自由でも、歴史的に考えれば恥ずかしくて憚れる言説が臆面もなく流出される。開き直りとも違う。
まさにイノセントに。だが、これが大衆に受ける。
内面と行動の無矛盾性。
これが、腹黒い政治家とは異なり誠実さと感じさせるのかもしれない。
ホンネを語ってくれる。
それが事実と異なる虚構でもいい。
事実が間違っていても、嘘をつかれても内心の本音を語ってくれることがうれしいのだ。
それが自分たちの代弁に聞こえるのだ。
真実(これも怪しい言い方になるが)の不協和音を鳴らす他者の声などどうでもいいのだ。
大衆はリーダーシップのある政治家に大衆は魅力を覚えるのではない。
中野のいう「純情」を行動化する政治家に惹きつけられるのだ。
事実や真実なかよりも、自分たちの感情を満足させてもらいたいという大衆の欲望が権力者の公然たる「嘘」を可能にする。
それがポストトゥルースという時代だ。
かつては、裏表がある人間が信用されなかったのではない。
裏を見透かされたり、露出させてしまう人間が信用を失っていたのだ。
しかし、今日、立木隆介が『露出せよ、と現代文明は言う』において「心の闇」というものがもはや失われ、ダダ漏れしている現象を精神分析学的に論じているように、ネットの世界と心の世界の境界が融解したことにおいて、もはや「隠れる」ことそのものの困難性を帯びながら、無限の暴力が拡散している。そこにおいては、もはや「演じる」という在り方そのものが欺瞞性を帯びる。今日の大衆のイノセントとはこのことと無関係ではないのではないか。
中野は悪と偽善の礼賛をした。
しかし、これは等置すべき概念であろうか。
そもそも、人間は存在論的に演じるもの、すなわち俳優として存在する。
内面を隠して仮面をかぶることが他者との交流の仕方の根本的な在り方になる。
偽善を装うことが嘘をつくことなのではなく、そもそも内面の暗がりと外面の現象は峻別される仕方としてある。
誤解してはいけないのは、他者と交わる「政治」という領域において現れる仕方であるという点だ。
マキャベリズムを単なる怜悧なリアルポリティックスと単純に切り落としてはいけない。
むしろ、純情さが政治の前面で露出されることのおぞましさは、既にふれたように現実的になろうとしている。
これを近代的自我と単純に解釈するのもいけない。
中野の論において自己矛盾はどのような位置づけになるのか問題として提起した。
たしかに古色の感もある問いかけだった。
「自分探し」の時代を思い返してみれば、それは外面と内面が一致しなければいけないという、あやしい規範に捉われた人々の問題として取りざたされた。
「本当の私」と他者の前でふるまわなければならない「現れ」とのギャップに彼・彼女らは苦しむ。
それは幻想である、とポストモダニズムは切り捨てるが、当人たちにとってはそんな思想遊戯では解決しないのであろう。
ただし、私の問題提起は、こうした近代的自我の苦悩に興味があるわけではない。
デリダはアーレントを参照しながら「嘘の歴史」について論じた(西山雄二訳,『嘘の歴史序説』)。
デリダによれば、アーレントは現代の政治において嘘の肥大化と限界への到達を懸念しつつも、「嘘つき」とはすぐれて「行動の人」であり、政治において行動することで自らの自由を表明し事実を変容させることを指摘したという。
アーレントは政治に受ける嘘を礼賛したわけではない。
むしろ、現代の政治における嘘が臨界に達したことの危機を指摘する中でこの問題を論じている。
しかし、あえて誤解を恐れずに重要な点に着目すれば、アーレントは政治における嘘を自己に対する嘘、すなわち自己欺瞞と峻別する。
すなわち「嘘をつく」ということは、「意識的に、何を行為に隠しているのかを知りつつ、つまり自分自身には嘘をつくことなく、意図的に他者を欺くこと」(デリダ)である。
嘘は他者をだまそうと欲する意図や意志、志向性がなければ単なる誤謬や過失である。
アーレントがアイヒマン問題を経て『精神の生活』を執筆するにあたり、問題としたことはこのことである。
「世の大多数の人たちが私に同意しないで反対するとしても、そのほうが、一人であるから、私が私自身と不調和であったり、自分に矛盾したことをいうよりもまだましなのだ」(佐藤和夫訳『精神の生活』)というソクラテスの言明を『ゴルギアス』から引きながら、精神の自己矛盾への耐え難さが思考を起動することを論じる。
それゆえ、政治行為において嘘をつく=仮面で演じることは可能であっても、自分自身と不調和でいることができない点において、思考は起動し始める。
ここがアーレントの政治と倫理の境界線である。
アイヒマンにはそれを起動させる「思考」がなかった。
ここに「悪の陳腐さ」が生じる。
その意味において、われわれがしばしば職業上経験する自己矛盾、しかもあの〈3.11〉という出来事で経験した〈股裂き状況〉を、どのように解釈できるだろうか、といった問いかけであった。
もちろん、そこには中野の「悪人礼賛」と通底する論理があるのではないか、という意図を込めてである。
しかし、Sさんはそうした近代的自我を前提とした枠組みでは、ポストトゥルース、トランプ的反知性主義の論理は突破できないと喝破した。
もはやアーレント的中野的「悪人」の真っ当さが、世の中で消滅寸前というか、威力を失っている中で別のレトリックの仕方が必要ではないか、と断じた(しかし、その先のスピノジアンとしてのSさんの論理は、相変わらずよくわからないので、再度応答していただきたいと思っている)。
つまり、戦後70年という時間は、ふたたび反転して中野のいう「善人」に精神的な回帰をし始めているのかもしれない(これはかなり断定的だが)。
デリダはアーレントの「自己への嘘」といった近代性の戦略を認めつつ、「自分への嘘は可能か」という問いから話を始めている。
アーレントにおいて嘘は演技を含めて他者を欺くものである以上、自己への嘘はありえない。
しかし、その「自己」とは何か。
デリダは、「敵としての自己自身」によって分割されたり分裂したりしている自己性において生じる「まったく別の経験」は、「別の名」が必要だとしている。
つまり、アーレントにおける思考の対話相手であるもう一人の自分(「一者の中の二者」)とは、デリダにおいてはまったき「他者」ではない。
自己の内に「自我よりも本源的な自己性、飛び地状態になった自己性」が生じる限り、そもそも自己へ嘘をつくとはいかなることなのか。
それは外部の他者とは別の仕方でありうる内なる「他者」のことであろう。
すると、アーレントが思考の条件とした自己内対話の「一者の二者」という構造をデリダが脱構築してしまった後に、なお自己反省性を担保する思考は可能になるのだろうか。
思考の「別の名」とは何か…
デリダはマルクス主義の「イデオロギー」概念の練り直しにおいて、意識的意図的「現前や自己同一性が充実した」認識の彼方へ向かうこと、すなわち「誤謬、無知、幻想の場でもなく、嘘や自己への嘘でもない非―真理の場の方へ向かう」ことを示唆する。
中野の自己反省といった枠組みもまた、この「現前」や「自己同一性」を前提としていることはいうまでもない。
だからと言って、それが無効になるわけではない。
デリダはそれとは別の彼方への「場」を求める。その「場」の探求とポストトゥルースへの対抗がいかなる形で可能になるかは、いまだ不明ではあるが。
と、デリダの話で閉じるわけにはいかない。中野好夫が今回の相手だった。
中野の論は古びたのだろうか。
いや、おそらく違う。
中野が戦前戦中の「善人」を乗り越えようとした痕跡を約70年後の読み直すことは、いうまでもなくその時の格闘の痕跡を参照しながら、われわれの新しい言葉を紡ぎだす可能性を開いてくれるものだ。
古典を読み直すことの意味を、あらためて今回の読書会で学んだ。では、その新しい言葉とは何か?それはまた次回の続き。
(文:渡部 純)