カフェロゴ Café de Logos

カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

ガルシア・マルケス著『百年の孤独』を読む会・雑感

2024-09-28 | 文学系


何ともつらい読書経験だった。
約30年前に一度読破したとはいえ、ストーリーなどまったく覚えていないまま臨んだ再挑戦は、しかしあのときに感じたことをたしかに思い出させてくれた。
そう、「ぜんっぜん読み進められない!!」という感想を。
ガルシア・マルケス著『百年の孤独』は、マコンドという想像上の共同体の開拓から消滅までの100年を描いたもの。
ただひたすらその村(町?)で起きたエピソードが書き連ねられていく。
一つひとつのエピソードは、なるほどハチャメチャなものもあれば、日常的なものもあるものの、それぞれを読んでいるだけで十分おもしろい。
ただ、物語の起伏はほぼない。
起承転結などない。
そのことが、ただただ文章を追うだけの作業に退屈さを催させる。
だからといって、読み飛ばしをすれば、途端に話が分からなくなるため、一行も読み飛ばせない。
ななめ読みなどももってのほか。
じっくり、鈍牛のように文章を丁寧にたどる。そして寝る。これのくり返しでなかなか進まない。
自分だけが読書の才能がないのだろうか。
しかし、読書会という場が素晴らしいのは、そんな卑屈な思いを共有し、払拭させてくれることだ。
まず競われたのは、何ページ読み進められたかの順位だった。
読破した参加者は3名。
私は100頁で第4位。
第5位は50頁。
第6位は15頁。
これで読書会が成立するのか。
しかし、今回わかったことは『百年の孤独』は読破できない困難にこそ、この作品の本質を理解する重要な要素があるということだ。
そもそも、なぜ『百年の孤独』なのか?
「孤独」は誰にとっての「孤独」なのか?
なぜ、こんなに読むのもつらい小説がノーベル文学賞作品なのか?
こんなことが今回の主題になった。

ある参加者が「これは婆ちゃんの話を作品化したもの」といった。
なんかわかる。
帰省するたびに齢75を過ぎた老母と叔母が最近、やたらと親戚のエピソードを語りたがる。
誰だれちゃんが何をやっただとか、その親の誰だれは何々で、〇〇のときに何々をしてたとか、とりとめもない親戚の、しかも聞いたことがあまりない名前を懐かしそうに語るのだが、もはやどういう人間関係かわからずに家系図を書いてもらう始末だ。
そう、マコンドに登場する無数のひとびとも、しかも似通った名前と長ったらしい名前に、読者がまず辟易するのは、何度も元のページに戻ってどういう人物だったか確かめる作業だろう。
いちいち登場人物を把握しなければ理解できない、というのは途中からばかげたことだと思い直す。
実は、この読書体験そのものが自分たちの家を語る際に生じる経験ではないか。
いちいち系統だって理解することなど、実家で飲みながら家族の話を聴いている時にはしないものだ。
ああ、そういう人もいたのか、という思いに浸る程度だろう。
この本を読み通しているとそんな思いばかりが去来する。
物語性など実は何もない。
ある意味淡々とした村の記録、家の記憶の羅列である。
作品の中にしばしば登場するキーワードは「忘却」である。
個々人のエピソードなど実は本人も覚えていない。
なんとかそれを繋ぎとめようと努力することもあるが、あまり意味がない。
さもない出来事が日々くり返され、人々は忙しく何かしらやっている。
歴史的な大事業ということではない。
マコンドという空間の中で、ただひたすら延々と人びとがドタバタ騒いでいるのを定点観測的に描かれる。
そんな作品に何意味あるのか?

それぞれのキャラはおもしろい。
だから、これって実存的な表現なのかといえば、むしろ逆。
近代史小説が個々の内面を描いてくることに四苦八苦してきたことを花であざ笑うかのように、そんなものに無関心であるのがこの作品。
むしろ、そんなドタバタを包み込んだ「世界」そのものを描くとこうなるのだ、というのが『百年の孤独』なのではないか。
一つの画面に多様な人間模様を描いたブリューゲルの作品を彷彿とさせる。
一つひとつの場面は確かに興味深いが、それをすべて包み込んでいる世界をブリューゲルは描いた。
描きたいのは「世界」なのだ。
しかも、グチャグチャのまま、100年という時間のなかで繰り広げられる、5世代にわたる人間模様。
殺しもあれば、亡霊も存在する。土を食べる少女もいれば、奇天烈な科学者みたいな変人がいる。
魑魅魍魎の世界といえばそうとも言える。
そんな世界が居心地がよいのかといえば、心はいつもかき乱され、平穏さとは無縁だ。
それでも、そんな感情とは別にここの住民たちは、意外とマコンドを根とし、安心感に包まれて存在しているのではないか。
それが世界のリアリティというものだ。
世界のリアリティ?
マコンドの世界を読んでいると、幼い頃に盆暮れ正月だけ過ごした祖母の住む奥会津の村の風景がよみがえる。
色々な村人がいた。
正月に泥酔してやってくる片目のおっちゃんは、人の家に来て暴れまくってとにかく恐ろしい存在だった。
戦争で打ち抜かれたという目に入る義眼は、子どもにとっては異様さそのもの。
せむしのように腰の曲がった婆ちゃんは村に何人もいた。
同い年の友だちのお父ちゃんは、ある日クマに襲われて顔の半分が削がれてしまった。
近所のっちゃんは雪下ろしの最中に雪に埋まって亡くなった。
食卓は薇、蕨、キノコの山で、動物性たんぱく質がほぼない。
海苔は湿気を通り越してかぴかぴになっているが、婆ちゃんはそれを何食わぬ顔でほおばる。
都会から来た少年にとって、その村は異様な世界そのものだった。
けれど、おそらく彼・彼女らにとっては「世界」とは「村」の生活とべったりくっついて引きはがせないほどのリアルさがあったんじゃないか。
そんな世界にとって、人間のグチャグチャした日々の所業など関係ない。
そして、開拓で始まったその世界は、突然に消滅する。
人間の思惑など関係ない。

それにしても読みにくい。
ということは、こちら側がなぜ読めないのか、それを照らし出してくれる作品だともいえる。
思うに、理解できる小説とは何において理解できるようになっているのか。
登場人物への感情移入、起承転結の物語性、因果論などなど。
それらを全部ひっくり返して描いているのが『百年の孤独』の世界。
そういえば、最近の日本の小説作品が「生きづらさ」を主題にしているのが多すぎることに辟易しているが、これだって世界は痛いもので、撤退したいもの、リアリティなどないという意識の反映ではないか。
世界そのものに存在感を得にく時代に、世界そのものを描かれると途端に捉えようがない、為すすべないという戸惑いこそ、『百年の孤独』がつきつけるものではないか。

さて、なぜ「百年の『孤独』」なのだろうか、という問いに戻る。
英語版のタイトル”はOne Hundred Years of Solitude”
これでみんなが閃いた。
” Lonliness is not Solitude "
日本語で「孤独」と記述されると、どうしてもLonlinessのニュアンスで捉えてしまうけれど、むしろこれは独立、自立のニュアンスがあるSolitudeであるとすれば、これは100年間の独立=自立した存在としてのマコンドの孤独という意味ではないか。
孤立と訳すこともまた、孤立無援のニュアンスが付きまとうが、しかしその独立=自立体としてのマコンドでは有象無象の人間模様が繰り広げられている。
つまり、この複数性を内包することにおいて100年もの孤立=独立=自立体が『百年の孤独』の意味なのだ。
それは近代的な読みである個々人の寂しさとか、そういうものとして読むものではない。
マコンドという世界の孤独、しかもそれは100年という時間が過ぎて突如、因果論的に説明できないものによって消滅に至る。
そんな世界が、おそらくこの地球上にごまんと存在したのだろうと思う。
こんな読みは的外れなのかもしれないけれど、たった一人で読んでいたんじゃ絶対に至れない境地だった。
読書会の妙にまたもややられてしまう一日であった。 (渡部 純)
















































ガルシア・マルケス『百年の孤独』を読む会

2024-08-10 | 文学系

【日 時】2024年9月28日(土)14時~16時
【会 場】如春荘(福島市森合字台13-9)
【課題図書】ガルシア・マルケス著『百年の孤独』
【定 員】20名
【参加申込】メッセージからお申し込みください。
【カフェマスター】渡部 純

【その他】 書籍注文の際はハナミズキ書店さんをご利用ください

カフェロゴの話題には何度も上がりつつ、しかし果たしてこの本を読了して参加できる人がどれほどいるのかと疑問を抱いたまま開催に踏み切れずにいましたが、文庫化をきっかけにいよいよガルシア・マルケス著『百年の孤独』の読書会を開催することを決めました。
とにかく、一読してみましょう。
そして、語り合ってみましょう。
南米文学の眩暈のするジェットコースター文学にドはまりしてみましょう。
今回は早めに告知しますので、夏の課題図書としてじっくり腰を据えてお読みください。その手


ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引書』読書会

2024-05-01 | 文学系

【日 時】2024年5月25日(土)14時〜16時
【会 場】如春荘(福島県立美術館前)
【課題図書】ルシア・ベルリン『掃除負のための手引書』
【カフェマスター】島貫 真
【定 員】15名
【参加申込】メッセージからお申し込みください。
【会場費・資料代】無料


【カフェマスターより】
前回は、サリンジャーの『フラニーとゾーイ』という作品をカフェロゴで読みましたが、これがとても愉しい会になりました。
そこで味をしめた、というわけではありませんが、上記の通りまた読書会をしたいと思います。作品はルシア・ベルリンの『掃除婦のための手引き書』。サリンジャーの作品とは違って、おそらく初めて名前を聞く方も多いかと思います。
短編集で読みやすく、「ルシア・ベルリンの小説は読むことの快楽そのものだ」と訳者はあとがきで書いています。少々大げさな表現ですが、この小説を「発見した」訳者の気持ちは、分かるような気がします。
簡単に以下、簡単に作家と作品の紹介をします。
表紙より
「波瀾万丈の人生から紡いだ鮮やかな言葉で、本国アメリカで衝撃を与えた奇跡の作家。大反響を呼んだ初の邦訳短編集」
腰巻き惹句より
「1936年アラスカ生まれ。父の仕事の関係で、北米の鉱山町やチリで育つ。3度の結婚と離婚を経て、シングルマザーとして4人の息子を育てる。学校教師、掃除婦、電話交換sy、看護助手として働く一方、アルコール依存症に苦しむ。2004年逝去。生前は一部にその名を知られるのみであった」
次に訳者の対談から
岸本佐知子&山崎まどかが「とにかくすごい」と語彙を失うルシア・ベルリンとは何者か
https://mi-mollet.com/articles/-/18893?layout=b(mi-molle KODANSHA)
川上未映子×岸本佐知子『掃除婦のための手引き書』刊行記念対談(講談社Tree)
https://tree-novel.com/.../72b31906235dc3d6786242614cb8c4...
というわけで、よろしかったらぜひご参加ください。
(講談社には在庫があるそうです。書店にお問い合わせを。)
カフェマスターは、島貫が務めます

【参加される皆様へ】
福島市で個人で書店をはじめられたはなみずき書店さんがあります。
全国的に書店の衰退が著しい中で、書店ゼロの市町村数で福島県は、2017年に全国3位というデータがあります。
(出典:日本著者販促センター 書店が1軒もない自治体の数 日本書籍出版協会の資料より(2015年5月1日現在)
出典:朝日新聞「書店ゼロの自治体、2割強に」トーハンの資料より(2017年7月31日現在))
そのような状況で福島市で書店を開かれたはなみずき書店さんを応援する意味も込めて、よろしければ、ぜひ今回の課題図書は、はなみずき書店さんで注文して購入していただければ幸いです。
店主の荒木さんのご厚意で、福島市内にお住まいの方は注文本をお届けしていただけます。
郵送の場合には180円の送料が必要となりますが、いずれも読書会当日にお支払いいただければ大丈夫とのことです。
以下、はなみずき書店のX(旧Twitter)をご覧ください。
https://twitter.com/hanamizukibs
【はなみずき書店】@hanamizukibs
福島市内で活動を始めた書店です。人文系の新刊書中心です。本を通じて何かと何かがつながって生まれたり、育ったりしていくのを応援したり、見守ったりしていきたいです。まだ店舗はありませんが、そういう場を作りたいと準備中です。はなみずき書店とゆっくりと走りながら、まわりの景色を楽しみ、一緒に考えていきませんか。

サリンジャー『フラニーとズーイ』読書会・雑感

2024-04-07 | 文学系

久しぶりの文学、そして読書会でした。
課題書はサリンジャーの『フラニーとゾーイ(ズーイ:村上春樹訳)』。
今回のマスターはあをだまさん。
あをだまさんはこの日のためにしっかりとしたレジュメと資料を用意して下さいました。
その準備期間はおよそ一か月。
あをだまさんの並々ならぬ意欲が伝わります。
しかし、あをだまさんはこの本のエッセンスを参加者にどう伝えるべきか悩んだそうです。
悩んだ挙句に頼ったのが、なんとチャットGPT !
なるほど、そういう相談相手としての活用法があったのか!
レジュメはチャットGPTとのやりとりから作られたものだそうですが、そのやりとりは神にすると20頁ほどになるとか。
これまた驚きです。
17歳で『キャッチャー・イン・ザ・ライ』から入ったあをだまさんのサリンジャー経験を述べながら、本書初読時に抱いた3つの疑問を提示しながら、その解釈を述べるところから会は始まりました。
その疑問とは、
①なんで最後に眠りに落ちて終わりなんだ?
②「太っちょのオバサマ」がどうしてキリストだってことになるわけ?
③ゾーイのキャラは皮肉っぽくて反抗的で、あまり良い子に見えないのに、どうして妹には優しくできるのか?
あをだまさんは、サリンジャーの他の著書の読解や解説書を下調べしながらその疑問を読み解いていきます。
その際、サリンジャーの宗教観にもふれます。
たいへん興味深いあをだまさんの解釈については、写真にあるレジュメをご参照ください。




さて、参加者どうしの話し合いでは、まず主な登場人であるフラニーとゾーイ、母親のなかの誰の視点に立って読んだかが話題となりました。
青臭すぎるフラニーはスノッブな彼氏や大学の教授、院生などのファッション的な定型の言動に嫌悪感を催し、純粋な宗教性に魅かれていきます。
若さの純粋性といえば美しいですが、それは心身に危機を生じさせます。
はっきり言って、日々の仕事にウンザリさせられる日々を送っている参加者はフラニーの視点で読んでいたでしょう。。
一方、彼女の兄であるゾーイはフラニーの青臭い純粋さが誤っていることを言葉巧みに解きほぐそうとします。けれど、そうしながらも彼は彼でその自分の未熟さに自家中毒になるちょっと大人になりかけた青年です。
まぁまぁ、そんな若気の至りというか、そんな理想に周囲がなっていないことに失望して感情が揺さぶられていた時代もあったよね、とちょっと人生に達観した方は、このゾーイの視点で本書を読んだようです。
また、息子娘たちとかみ合わない、理解し合えない会話のやりとりをする母親という視点から読んだ参加者は、まさにご自身の母親としての経験が深く影響していたようです。
もうちょっと母親の身になって話し相手になってよ。
ゾーイは、それでも母親の要望にある程度こたえられる演じ方を身につけられているよね。
けれど、青臭いフラニーにはそれができない。
純粋さなんてありもしないけれど、その純粋さに苦しんでいることにゾーイは気づかせようとしている。
そういえば、ゾーイは俳優だし、演技というのも本書のキーワードの一つでした。

いずれにせよ、本書は言葉のやり取りは膨大にあるけれど、その核心が何なのかよくわからない。
そんな読後感をもったようです。
たとえば、フラニーとゾーイは7人兄弟。
幼い頃に兄妹全員で羅時を番組に出演していた、いわば子役たちという背景があります。
年長の兄弟には戦死したものもいれば、自死した者もいます。
とりわけシーモアという自死した亡兄の存在がこの小説の中で大きな意味をもつのですが、しかしなぜ彼は死ななければならなかったのかなどは説明がありません。
母親は、会話しなくなった兄弟たちにラジオ出演していた頃に戻ってもらいたいと思っていますが、本書では一人ひとりが深い問題を抱えていることをほのめかしながら、その原因が何なのかも説明されません。
ただ、幼いことに公衆の目に曝され続けたことがフラニーをして、画一的な大衆性に嫌悪感を催す感性=問題をもたらしたのではないかなと推測できるのみです。
目に見える会話のやりとりでは明らかにされない何かがある。
ということは、本書の会話や言葉のやりとりの意味だけを探っていてはなにがなんだかわからない。
これはサリンジャーの戦争体験、PTSDが大きく影響しているのではないか。
サリンジャーはベトナム帰還兵たちに「これはわれわれの話だ”!」と受け取られたという話も挙げられました。
だからといって、精神分析や精神医療の問題に回収されたくはない拒絶感も本書では語られています。
はっきり言って本書は読みにくい。
でも、その読みにくさとは、このサリンジャーの戦争体験に深く関係している。
新しい文学とは、それまでの文学や文体、形式では語りえない時代に入ったことを別の仕方で表現せざるを得ないものだとすれば、サリンジャーのおもしろさとはそこにあるのではないでしょうか。
それは、一見するとなにがなんだかわからない。
けれど、その時代のとば口でもがいている人間にとってはすぐさまに直感的に「これだ!」とわかるものでしょう。
それは、残念ながら訳者である村上春樹にはない。
村上春樹はドーナツの穴、空洞であると評した参加者もいました。
いかにも、それは中心に何もない。
ロラン・バルトもまた『表徴の帝国』で東京という都市を「いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である」と評しましたが、それは村上春樹の作品群にもあてはまるでしょう。
サリンジャーはそれとは違います。
何かがあるけれどそれが無数の言葉のやり取りの中から想像されるしかない。
それはけっしてフロイト的な無意識の構造というものでもないでしょう(なぜなら、精神分析を忌み嫌ったやりとりも描かれているので)。
それが何なのか。
「解説」を付さないことを出版条件にしたサリンジャーでしたが、それでも何かを言いたくなるということで村上春樹は付録でそれに近いものを書いています。
そこで村上は、サリンジャーの「表面的な『宗教臭さ』にまどわされれることなく」読むことを注意しています。
そうなのか?
ということが話題に上がりました。
キリスト、イエスの思想を誤解して苦しんでいるとフラニーを諭すゾーイですが、しかしそれは必ずしもキリスト教っぽくないよねという話になります。
「太っちょのオバサマ」やスノッブな教授たちもキリストだっていう仕方は、むしろ仏性が生きとし生けるものという東洋仏教を読んでいるかのようだったし、あるいはそれはスピノザの神、すなわち汎神論的な説明であって、ユダヤ性すらかぎ取れるんじゃないの?
それに抜きにしたら、やっぱり片手落ちの読解になっちゃんじゃないか。
そんな話にもなりました。
「太っちょのオバサマ」といえば、この話のデジャブ体験を語ってくれた参加者もいました。
本書の中で、ラジオ番組に出演する際に製作スタッフ・観客・スポンサーみんなが「うすらバカ」とつむじを曲げたゾーイに対して、兄シーモアが「それでもお前は太っちょのオバサマのために靴を磨くんだ」と諭します。
この「太っちょのオバサマ」は実在ではなく、いわば統制的理念のような存在なのでしょう。
フラニーとゾーイはそれぞれラジオの前で、それを楽しみに、あるいは習慣的に聞いている「太っちょのオバサマ」なる人物を想定して、けっして目にすることはない自分の「靴」を磨くことは、その存在のために万端準備することが仕事に対する構えそのものを成立させるということなのでしょう。
見えない細部にこそ神は宿れ。
あをだまさんはこれを「禅っぽい」と評しました。
さて、先の参加者のデジャブ体験とは、彼もまた子どもの頃の学芸会で準主役を務めた際、当日になっていきたくないと駄々をこねたそうです。
すると、お父上が「この学芸会をいつも楽しみにしているおばあちゃんがいるから、その人のために出なければいけないよ」と諭してくれたそうです。
さて、そのおばあちゃんが実在したかどうかは定かではない。にもかかわらず、その統制的理念のようなものが出演の行為を促したそうで、それが後年『フラニーとゾーイ』に書かれた「太っちょのオバサマ」の話を詠んだ際に、「これはあのときのことではないか!」と驚いたそうです。
ちなみに、お父上はそのエピソードを全く覚えていなかったようです。

本書ははっきり言えば、読みにくい本でした。
おもしろいかと聞かれれば、けっして面白いとは言い難いものです。
にもかかわらず、読書会という経験がなければ読むこともなかったでしょうし、何より複数で読むことのおもしろさがいかんなく発揮される時間となりました。
選者にしてカフェマスターを務めて下さったあをだまさんには心より御礼申し上げます。

サリンジャー『フラニーとゾーイ』読書会

2024-02-24 | 文学系

【会 場】如春荘(福島県立美術館前)
【日 時】2024年4月6日(土)13時30分〜16時
【カフェマスター】あをだま
【定 員】20名
【参加申込】メッセージからお申し込みください。
【会場費・資料代】300円


◯今回は、サリンジャー文学の一編である『フラニーとゾーイ』(野崎孝訳)に焦点を当てます。
◯「アメリカ東部の小さな大学町、エゴとスノッブのはびこる周囲の状況に耐えきれず、病的なまでに鋭敏になっているフラニー。傷心の彼女に理解を示しつつも、生きる喜びと人間的なつながりを回復させようと、さまざまな説得を試みる兄ゾーイー。しゃれた会話の中に心の微妙なふるえを的確に写しとって、青春の懊悩と焦燥をあざやかにえぐり出し、若者の感受性を代弁する連作二編。」(新潮文庫版紹介文より)
◯サリンジャーの文学は、一般的に若者のものとされがちですが、彼の作品には、おとなになっても感じる孤独や寂しさ、寄る辺のなさ……共感を呼ぶ要素がたくさん詰まっています。今回は、若者だけでなく、かつての若者(自称含む!)も一緒になって、この作品を読み解き味わいたいと思います。これまでに歩んできた人生が長い人もそれほど長くはない人も、それぞれの視点から感じたことや考えたことを共有し、本作品についてお互いに考えを深めていける時間にしたいと思います。

【延期となりました】ウネリウネラ『らくがき』を読む会

2021-03-17 | 文学系
延期となりました。延期日程が決まり次第、再度ご案内申し上げます。



【テーマ】ウネリウネラ『らくがき』を読む会
【日 時】延期となりました
【ゲスト】ウネリウネラ
【会 場】未定
【参加申込】日時が決まり次第再募集をかけますので少々お待ち下さい。
【参加費】
【カフェマスター】渡部 純
【新型コロナウィルス対策】

  ・席数に限りがあります。
  ・参加者はマスク着用と体温計測をした上での参加をお願いします。
  ・体温が37.5度以上あった場合には、参加しないようにお願いします。
【開催趣旨】

福島市在住の物書きユニット、ウネリウネラが初出版した『らくがき』を読む会を開催します。
ウネリウネラは元朝日新聞記者のお二人、というかご夫婦です。
フリージャーナリストとして福島の問題を中心にブログで記事を書き続けている社会派物書きユニットですが、本書はそれとはまた一味違った日常を描いた10篇のエッセイ&詩が集められています。
ウネリウネラは本書に次のようなメッセージを込めています。
「自分自身の「小さなストーリー」を忘れないでいたい。たとえそれが幸せな筋書きではなくても、たったひとつの「かけがえのないもの」として、大切にしたい」
このメッセージのとおり、一つひとつのエッセイが心にしみます。
たとえば、第一話のおじいさんとの思い出をつづった「かぞえる」を読めば、なぜウネリのおじいさんの話を読みながら自分の祖父とのやり取りを想い出さずにはいられなくなるのだろう、と不思議な共振を呼び起こします。
あるいは、小さなわが子のいのちのかよわさとはかなさを同時に見つめた「いのちの影」という詩には、その喜びと悲しみの両義性を同時にもついのちの不可思議さについて、我がことのように語らずにはいられなくなります。
「神は細部に宿る」とはこういうことなのでしょう。
この素敵なエッセイ集を一つひとつ味わいながら、春を愛でるひと時を過ごしましょう。

ウネリウネラについてはこちらのブログをご参照ください➡ウネリウネラ
『らくがき』の試し読みはこちらから➡『らくがき』試し読み



『82年生まれ、キム・ジヨン』を語る会

2020-03-21 | 文学系


【テーマ】チョ・ナムジュ著『82年生まれ、キム・ジヨン』を語る
【日 時】2020年4月11日(土) 
    17:00〜19:00 読書会
 ※事前に各自で本書を読んでくることを前提に話し合いをします。
【参加方法の変更について】
コロナウィルス問題の深刻化に伴い、オンラインzoomでの実施に変更します。どなたでも参加できます。参加ご希望の方はメッセージをください。参加方法をお伝えします。

【参加費】 なし
【開催趣旨】

 韓国で社会現象を巻き起こしたミリオンセラー小説『82年生まれ、キム・ジヨン』。
33歳の主婦の半生を通じ、韓国の女性なら誰もが経験するような男女の不平等や苦悩を描いたこの作品は、日本語版も発売1カ月で5万部を突破し、韓国文学としては異例の売れ行きをみせている。儒教文化の強い彼の国の男性優位を描いた本書が、日本社会でも大きな反響を巻き起こしている背景には何があるのか?
 2019年日本のジェンダーギャップ(男女平等)指数は、過去最低の国際ランキング121位を記録しましたが、女性がこの国で生きることの難しさは、この数値で示される以上の現実があります。
 今回は本書を読みながら、私たちの日常に見られる女性の生き難さを語り合える機会にしたいと思います。

【あらすじ】(好書好日参照)
 主人公のキム・ジヨンは33歳の主婦。3歳年上の夫と1歳になる娘とソウル郊外で暮らしている。1982年生まれの韓国の女性で最も多い名前はジヨンとされ、主人公もどこにでもいそうな女性だ。ジヨンは誕生から学生時代、就職、結婚、出産に至るまで様々な女性差別に苦しみながらも必死に生きてきた。しかし、ある日、通りすがりの男性から侮辱されたことで精神に異変をきたし、精神科病院に通い始める。物語は、彼女が病院で話した半生を聞き取って記したカルテという形式で進んでいく。

【新型コロナウィルス感染症の対応について】
オンラインでの実施方法に変更しました。


中村晋『むずかしい平凡』を読む会・まとめ

2020-02-02 | 文学系


今回はブック&カフェ・コトウさんのご協力を得て、中村晋さんの第一句集『むずかしい平凡』の読書会を開催しました。
参加者は13名。
前半は中村さんによる詩と俳句の特徴・関連性、そして俳諧から現代俳句への歴史的展開の解説をいただきました。
その俳句の歴史的源流がどのように中村さんの俳句に結びついているのか、とても腑に落ちる内容に感銘を受けました。
これはこれでものすごくおもしろい講義内容だったのですが、以下では、後半部分で参加者による『むずかしい平凡』をめぐる議論を再録しました。
とても充実した、内容の濃い時間だったことを合わせて報告しておきます。


【会場】自由律俳句が何を目指しているのかがよくわからないのですが。中学校の頃から国語の教科書を読んでいてよくわからなかったからよくとまどっていました。こういう視点で見るといいんじゃないかなどアドバイスありますか?

【中村】たぶん、前衛にしても自由律俳句にしても、捉えがたい人間の内面にこだわっているんだと思います。自分のこのモヤモヤしたものにこだわっているんじゃないかな。自由律俳句は他の人と共有しようというよりも、わからなくてもいいから自分を出したいというところがあるんじゃないか。自分に正直に書いているということですかね。でも、本当に一番奥底にあるものを出そうと思うと形を破ってしまうものだし、今までの形にはまらないものが出てきてしまう。そういう内的な欲求に忠実なのが自由律俳句なんだと思う。

【会場】俳句は外国人にとって楽しもうとすると難しいし、翻訳不可能なものだと思っていたら、ジョン・レノンやスクルノベリというノーベル賞をとった文学者は俳句を好んでいたと聞きます。先ほどのお話でもフランス人が小林一茶を好むというように、外国人にも俳句がわかるんだなと思ったのですが、外国の俳壇と日本の俳壇の交流はあるのでしょうか?

【中村】多少はあるみたいですけどね。例えばビート派の詩人は結構俳句に影響を受けています。アレン・ギンズバーグは句集をつくっているし、ゲイリー・スナイダーもアメリカで英語俳句を広げています。

【会場】日本の俳壇はその外国の動きをどうみているのか?

【中村】伝統的な俳句は外国人にはわからないかもしれないけれど、一茶の句は季語とか関係なく生き物そのものを描いているから外国人でも受ける。だから、金子兜太は外国でも受けるらしいんですね。被爆後の長崎を描いている「彎曲し火傷し爆心地のマラソン」という句は、ドイツ人がものすごく感動するらしいですね。文化の依存性に関わりない場合には外国でも受けるみたいですね。

【会場】外国での翻訳の段階で韻律はどうなりますか?

【中村】韻律は消えちゃうでしょうね。多少は向こうのことばの韻律を意識して翻訳するみたいだけれど、やっぱりどうしても韻律は消えちゃうよね。だから、俳句でノーベル文学賞は難しいといわれているのはそういうことですよね。金子兜太もちょっとは候補に名前が挙がっていたらしいんだけれど、いかんせん翻訳が少ないからね。

【会場】「アウシュヴィッツは人フクシマはりんご」という句はどういう思いで書かれたのですか?

【中村】直接的な背景は、クリーンセンターにごみを捨てに行ったときに、その周りがリンゴ畑だったんです。リンゴがその時はたくさんできすぎたみたいで、売りようもないし誰も食べないし、ということでものすごい山になっていた。一月の末ってアウシュヴィッツの解放記念日ですが、たまたまその時期だったのかな。自分もごみを捨てている。なんというか、福島ではリンゴを埋め、アウシュヴィッツでは人を埋めているし、理屈では説明できないけれど、ふとつながったのかな。いのちを殺戮しているという切ないなという思いがあったんじゃないかな。
【会場】タイトルにひかれて参加しました。「蠅」という言葉が何かの象徴なのかなと思いつつ、どういう意味があったのですか?

【中村】どんな印象を受けました?

【会場】蠅はいてほしくない存在ですが、でもしょうがない。だから赦してしまうような存在なのかな。

【中村】「蠅」というのが身近になったのは震災の一年目。「被曝者であること蠅を逃がすこと」。この句が僕を蠅に惹きつけた句なんですよ。あの年の夏って暑いんだけど、もう窓を開けるのもすごくこわいというか、躊躇するような感じでした。そんな部屋に蠅が来て、叩いて殺してしまえばいいんだけど、なんか切ないなぁと思ったんです。なんか被曝した自分たちと蠅が同じ存在に見えたんですよ。とりあえず逃がしてやるよって国から言われ、外に行けばつまはじきにされる。今もコロナウィルスで武漢から来た人に対する偏見があるけれど、あれと同じような存在の自分たちがいて、その自分たちが蠅を嫌っている。生き物の哀れさに対する思いや感じたことが蠅に対する思いを深めたというところです。

【会場】平仮名の「ふくしま」とカタカナの「フクシマ」がありますが、音にすると同じになります。俳句は目で見るものを意識するのでしょうか?音なのでしょうか?

【中村】視覚はけっこう大事かなと思いますね。漢字をどう使うかとか。自分でいいなと思っても文字に縦書きにして書くといまいち立ち姿が悪いなぁというのはありますよね。パッと書いた時のイメージがあるし、俳人それぞれそういう美意識ってあるんじゃないかな。これが外国語に訳されるといいなと思いますけど。ただ、それは外国語になると全然別のものになりますね。あまり日本の文化にとらわれた句ではなく、生き物そのものをちゃんと引き出したような句であれば伝わるなじゃないかなとは思いますけどね。

【会場】字面という点で言うと「滝仰ぐ日本語の死は縦に縦に」という句がありますが、これは風景ではなく完全に文字の世界のことを書いてますよね。そういう見方をするんだ、写真といっしょでビジュアルなんだとものすごく納得しました。

【中村】日本語は縦に縦に、滝も上から下に流れる。自分の内面の動きと実際に目に見える光景が重なり合っているという読み方ですね。

【会場】ビジュアル的にすごくわかりやすかったのは39頁の「船の上に船を重ねてひばりかな」、61頁の「除染土の山も山なり眠りおり」。僕は仕事で南相馬鹿島まで働いていたものですからこれはわかりやすかったのですが、「滝」の句はこれもビジュアルなのか!ととても新鮮でした。

【会場】84頁の「揃いも揃って上向く蛇口夏休み」を読むと夏休みの子どもたちの様子がいいなぁと、今だからこそとても印象的だなと思いました。

【中村】これはそうですよね。震災前の割と素朴な明るい光景を詠めていた時期ですよね。

【会場】「夜学」というのが実は秋の季語だということを初めて知りました。

【中村】そうですよね。でもあまり「夜学」を季語として意識はしていないんですよ。だって、夜学は四六時中あるしね。秋だと捉えなくても通じるじゃないですか。あくまで便宜的なものです。「トマトだから夏です」という思考停止的に季語を使うんじゃなくて、句をつくるときにはトマトのつやつやした感じとか生き生きした、これをどうやって書くかと煮詰めるところが大事になってきます。

【会場】この本の最初の第一句が地球とか割と広い印象を受けるんですけれど、第二句目が自分にとって大事なことを詠まれていて、この並びがものすごくおもしろいなと思いました。句の並べ方も考えられていると思うので、この句を最初にもってこられたのは何かあるんですか?

【中村】気持ちよくスタートしたいというのはありますよね。第二章の「春の牛」でかなり重いのが来るので、最初の第一章は気持ちよくスタートして、気持ちよく読んでもらって、第二章でガクーンと重いものを出して騙し討ちをする(笑)。最初から重いと絶対手に取ってくれないんじゃないかなと思って。

【会場】実は僕は詩が好きで、いわゆる現代詩をちょこちょこ書いているのですが、3.11の経験だとか被曝だとか原発のことだとかを書き始めると、自分でも読みたくなくなるような散文になってしまい、読みたくも読ませたくもなくなっちゃう。その視点から読むと、俳句ってふっと感じていることを出して、あとは他の人に預けるっていうのがイイなと思いました。現代詩としてなかなか表現しきれないものを、制約の中で言い切るのもいいなぁ。何か書きたいとか表現したいという瞬間を書き留める。さきほどのアウシュヴィッツの詩で「リンゴ」を「牛」とはしようとは思わなかったですか?牛だと暗くなっちゃうけど、リンゴだとそこまで重くならずしみじみと考える表現の工夫になっていると思いますが。

【中村】やっぱり物ですよね。まず牛だと季語にならないというのもあるし。やっぱり、リンゴというところに福島の象徴があると思うし、リンゴということで野原とかリンゴ畑とか空間も見えてくるし。偶然だとは思うけれど、実際に見たのがリンゴだったということもあります。

【会場】「春の牛」は震災に関わる句とは言っていましたが、それ以降のものなので知らず知らず震災ことがふっと出てしまいますよね。味わいがあの震災を経験したことで。蠅を慈しむような感情などが続いていますし。

【中村】ちょっとした動作とか動きのなかにそれなりに自分の心の動きもあるのですが、それを深めてあーだこーだ書くと散文になってしまう。でも、俳句はその動作そのものを「もの」として映像としてポンと差し出す。で、差し出された方はそれをそのまま読み取ることになる。だから、差出し方そのものに工夫は要るし、どういう視点で差し出せばいいかなということに関しては、言葉がなかなか出てこなかったこともあるんですが、きっかけになったのは「春の牛空気を食べて被曝した」という句です。それが出たときに、あ、これだったらいけるかなと思ったんですね。この句が出たときにノートに書き留めたんだけれど、その晩、夢に金子兜太が出てきて「こんなの俳句じゃねぇんだ」って怒られて僕があやまっているんですよ。で、目覚めてやっぱりだめかなと思ったんだけれど、朝日新聞に投稿してみたら採用されたんですね。これでいけるかなという自信になりました。理屈ではなく感性に届くように、軽く柔らかく言葉を使っていくことが大事になってくるなと思います。

【会場】僕がこの句集のなかで、特に印象に残った句を眺めてみると「時間」というものに関わっています。たとえば、「末枯れや未来とは今のことでした」という句は、まさに原発事故はいつか起きるのかもしれないけれど、自分が生きているうちには起こらないだろうという迂闊な自分が、その出来事をまのあたりにしたときに経験した直感と重なりました。つまり、未来が現在に出来(しゅったい)してしまったという不思議な感覚です。それから、これは3.11前の句なのでしょうが、「母の無知を許し敗戦日を憎む」という句が、「第二の敗戦」といわれた原発事故と重なって、僕らの世代がここでいう「母」になるのだろうかと想像しました。つまり、ここでは過去に見た母の姿が現在の自分たちに重なるし、母を「許し」敗戦日を「憎む」主体が子どもたちの世代、未来の世代だとしたら、僕らの世代はそのように詠われるのかな、と。そして、「ひとりひとりフクシマを負い卒業す」という句には、「フクシマ」という重荷を教え子に背負わせて未来へ送り出してしまう、なすすべのなさと負い目を感じました。そして、これらはどれも僕自身が経験したからこそ、深く印象に残った言葉だったのです。つまり、現在という地点に過去や未来が交差しつつ、入り乱れる感じがして、中村さんの時間的な位置っていうのがどこにあるのかなという思いをしました。

【中村】自分の句をそういう捉えかたしたことなかったから、凄く新鮮ですね(笑)やっぱり、震災前のその頃から日本社会のあり方っていうのはおかしいなと思っていたんですよね。母親は政治のこと関心ないんですよ。それなりに戦後を体験してきたんだけれど、苦労してきたはずなのに、戦後の歩みに問題があったという意識はないんだよね。まじめにやっていればいいんだよ、と。僕自身が戦後の歩みはおかしいよな、それを体現していない社会はおかしいよなと思っていたんだけれど、ま、母親は無知だからしょうがねえよなって。でも、そうさせてしまったのはこの「敗戦日」。「終戦」ではなく「敗戦」という言葉にこだわっているんだけれど、この日があったっていうことが我々にとってはすごい負の遺産を背負っていかなければならないんだというのが震災前からずっとあった。それに関連すると、定時制の生徒を見ても、「夜学子離郷す日本語拙き母は喚き」(130頁)の句。お母さんがフィリピンの方で息子は日本語が堪能なんだけれど、自分の話す日本語の言葉では気持ちが母に伝わらないんですよ。お母さんは日本語わからないし、子どもはタガログ語を話せないし、微妙な感情の襞が伝わらない。そのうち家を出てしまう。話を聞くとバブル期に日本に来たお母さんは好景気の犠牲者だった。それが息子の犠牲にもつながっていく。そういうのを目の当たりにすると、日本の発展というのはいったい何なんだろうなと思うことが多かった。だから、「敗戦日」という言葉は、日本の民主主義国家としての歩みをどこか踏み間違えてきたその象徴なんじゃないかという思いがずっとあったんだと思う。

【会場】罪を憎んで人を憎まずというのかなぁ。「一人の仮設に百も柿を干す祖母を許す」という句にもそれが現れていて、原発事故を引き起こした社会にばかやろうと叫びつつ、でもそこに生きる人々の生を肯定している中村さんの愛を感じる。

【中村】矛盾を抱えているじゃないですか。矛盾そのものを短いけれどそこにボンと出しちゃう。そういう方法もある。

【会場】時間感覚で言うと、「東北は青い胸板更衣」という句ではぱっと縄文人が思い浮かんだんですね。縄文人がぐっと胸を張っているイメージ。ものすごい悠久の時間の流れを感じました。

【中村】それはすごいうれしい感想ですね。この句はいろんな人から代表句なんじゃないと言われます。

【会場】何か日本列島っぽいイメージもしたんですけれど。

【中村】そうそう。日本列島の三陸のイメージも併せている。東北の緑は深いですよね。その深さが胸板の厚さと重なっている。

【会場】東北の誇りというかアイデンティティがここにあって、そこに縄文人のイメージとつながったんです。

【中村】うれしいですね。縄文人のアニミズムとか僕は大好きなんですよ。そう受け取ってもらえると嬉しいですね。

【会場】これが代表句だとしたら、この句集のタイトルは「青い胸板」になるんじゃない?なぜ「むずかしい平凡」だったのかな?

【中村】「青い胸板」は震災前の句なんですよ。やっぱり震災の後との対比ということを、俳句を長くやってきたなかで出したかった。

【会場】「むずかしい平凡」っていうのは、あの直後子どもたちがよく言っていた「当たり前のことが当たり前じゃなかった」ことが思い出された。それでいて、日常生活に安らかなありがたみがあるんだけれど、それが案外難しいみたいな。

【中村】いつも厳しい妻も「タイトルはよかったんじゃない」といってくれました(笑)。

【会場】私がこの本を最初に手にとったきっかけは表紙のアリンコの絵だったんです。なぜアリだったのでしょうか?

【中村】この句集をつくるときに完全な自費出版で、全部自費出版にしたんですけれど、そのときにシンプルながら統一感のあるもので印象をつけるものがあった方がいいなと思ったときに、この「蟻と蟻ごっつんこする光かな」という句が思いついて、それで蟻がページを一枚めくると近づいてごっつんこする漫画みたいなものを自分でデザインした。そうすると見た目でだませるんじゃないかなと(笑)。これもお金かけないで百円ショップで消しゴムハンコを大きく掘ってそれをパソコンでスキャナで取り込んで、位置を微妙に変えながら印刷していく。カネがない故の工夫です(笑)。

【会場】大好きな句がいっぱいありました。皆さんは理性の方で読んでいるんだなと驚いた。私は90%感性で俳句や短歌を詠むので、あまり躓かずに読み進められるんです。「春の牛」のところでは一瞬で涙が出る体験をさせてくれるのが俳句なんですよね。一瞬で感情が出てくる。

【中村】それはやっぱり韻律の力だと思いますね。五七五というリズムがなにか身体に訴えかける。どこか日本人の、日本語を使う人たちのどこかにすごく響いているんじゃないかなぁ。

【会場】短歌を書いていた時期がありました。解説のどこかに俳句をつくるのは修行であると書かれていましたが、表現したいことはいっぱいあるんだけれど、自分の表現を韻律のなかで削らなければいけませんよね。本当は散文のように言いたいこともあえて形にはめて言う。苦行を経るとそういう力は出るのでしょうか?

【中村】俳句って大したことのない思いや発見はこの短い形式が弾き飛ばすんですよ。形にならないんじゃなくて、俳句がかたちにしてくれない。俳句が拒んでいるんだなって思ってる。だから、新しい言葉なんかも俳句の作品になってはじめてものになるという感じかな。レジュメにあった「万緑のなかや吾子の歯もはえそむる」という句はは、あの句ができてはじめて「万緑」が季語になったんです。結局、自分が思ったことを俳句の形になったら俳句が認めてくれたと思っています。

【会場】最後に「フリージアのけっこうむずかしい平凡」を書いた背景を教えて下さい。

【中村】フリージアはすごく香りもいいし、楚々とした目立たない花ですが、ちゃんとその存在感がある。フリージアをじっと見ていると、こういう平凡さで花がたたずんでいるのっていいなぁって思う。でもこういう風なたたずまいで存在するって結構難しいなぁっていう、そんな感覚。フリージア感覚。でも、別にそんな大した句ではない(笑)。タイトルにするにはよかったよね(笑)。

実に面白い充実した内容の議論でした。
中村さんの句はまだまだこうした議論を継続できるような気がしました。
今回、このような会が実現できたのはコトウさんのご理解とご協力があってこそです。
中村さん、コトウさんにはあらためて御礼申し上げます。また引き続きよろしくお願いいたしますm(__)m(文:渡部純)


中村晋『むずかしい平凡』を読む会

2020-01-22 | 文学系
          
【テーマ】中村晋『むずかしい平凡』を読む会
【ゲスト】中村晋さん
【日 時】2020年2月1日(土)17:00~19:00    
【会 場】Book&cafeコトウ(福島市宮下町18-30)
【定員・申込】 定員10名・要申込(参加希望者はメッセージをください)満員御礼につき募集を締め切らせていただきます。
【参加費】700円(ドリンク代込)
【書籍販売】1,400円(Book&cafeコトウ、西沢書店うさぎ屋にて販売しています。各自ご購入の上でご参加ください)
【共催】Book&cafeコトウ
【開催趣旨】

 中村晋さんは高校教師をされながら1995年より俳句を作り始め、2005年福島県文学賞俳句部門正賞受賞後、俳誌『海程』(金子兜太主宰)に入会、2009年海程新人賞、2013年海程会賞、2017年海程賞を受賞された俳人です。
 『むずかしい平凡』は中村さんの第一句集であり 、身のまわりの日常を詠んだ句を中心に、教え子たちを詠んだ句や3.11に翻弄された日々を詠んだ句などが詠まれています。
 今回、カフェロゴはBook&cafeコトウさんとの共催により、中村さんをゲストにお招きして、現代俳句の読み方をお話いただきながら、参加者の皆さんと『むずかしい平凡』について読み、語り合いたいと思います。
 募集定員がわずかですので、参加申し込みはお早めにお願いします。

なお、以下は中村さんを紹介した河北新報の記事です。ご参照ください。

「原発事故で翻弄された日常表現 保原高の教員中村さんが句集出版」(河北新報2019年12月15日)
 福島市在住の俳人中村晋さん(52)が、初めての句集「むずかしい平凡」を自費出版した。東京電力福島第1原発事故で翻弄(ほんろう)され続ける福島の日常を、生活者の視点に立って17文字で表現した。「原発事故とは何だったのかを振り返るきっかけにしたい」と話す。

 中村さんは保原高(伊達市)定時制課程の教員。俳句を始めた1995年ごろは自分の身の回りを詠んだ句が多かったが、福島市内の高校の定時制教員になった2004年ごろから作風が変化。さまざまな事情を抱える夜学生の境遇といった社会に目を向けた作品が増えた。
 東日本大震災後は、原発事故によって甚大な被害を受けた福島県の被災状況を詠んでいる。「むずかしい平凡」に収めた259句の中には、原発事故後の思いをつづった58句が含まれる。

 春の牛空気を食べて被曝(ひばく)した

 福島第1原発20キロ圏内で飼われていた家畜の牛は圏外へ運び出されずに被ばくし、多くが餓死したか殺処分された。中村さんは「残された牛の切なさ、酪農家のやるせなさをストレートに表現した」と言う。
 作った11年5月は事故後の混乱で創作意欲を失っていた。ある朝、目が覚めて思いついたという句は、師匠の金子兜太(とうた)の作品<猪(しし)がきて空気を食べる春の峠>がモチーフになった。「この句がポンと浮かんで、これからも俳句ができると思った」

 蟻(あり)光るよ被曝の土を埋めし土も

 除染土を埋めた自宅の敷地で、アリが動いているのを見て詠んだ。中村さんの句には「蟻」「蠅(はえ)」といった小さな生き物が多く登場する。「多くの命が失われた震災を経て小さな命を慈しむ思いが強くなった。原発事故に翻弄される人間がハエのような小さな存在に思えるようにもなった」と語る。
 句集のタイトル「むずかしい平凡」は、震災で当たり前の暮らしを続けることがいかに難しいかを実感して付けた。同時に感じるのは、行政による復興が効率優先で進められているのではないかという疑問。経済的な豊かさを最優先に復興を加速させた戦後日本の復興とも重なるという。
 中村さんは「戦後の日本は復興を進めるあまり人間性が置き去りになった」と強調。「句集を通して一度立ち止まり、本当の震災復興とは何かを問い直してほしい」と話す。
 四六判161ページ、1540円。出版元は「BONEKO BOOKS」。連絡先はメールでbonekobooks@gmail.com




夏目漱石『夢十夜』を読むBBQ

2019-07-02 | 文学系


【テーマ】  夏目漱石『夢十夜』を読むBBQ
【開催日時】 7月5日(土)午後    
【開催場所】 いわき市内個人宅
【申し込み】 参加希望される方は必ずメッセージでお申し込みください。
【参加費】  飲食物各自で持参+会場費
【BBQマスター】宮川家
【開催趣旨】
 突然ですが、夏目漱石の『夢十夜』を読みながら幻想的なBBQを楽しみます。
青空文庫でも読めます
なぜ、『夢十夜』なのか?
提案者からその理由は聞いていませんが、古代から未来へ駆けあがる漱石の「夢」をあーでもない、こーでもないと語りながら、あなたの「こんな夢を見た」話に花が咲かせましょう。
というか、完全に読書は後付けでBBQ窯をつくった宮川家でお肉をはむ方がメインです。
暑気払いをかねて漱石とBBQを堪能しましょう。