昨夏、8月17日、エチカ福島では水俣より高倉草児・鼓子兄妹を招いてシンポジウムを開催しました。
テーマは「公害事件と世代間伝達-水俣事件を第二世代はどのように考えてきたのか」です。
このテーマには、「2011年の東電福島第一原発事故の被害を受けた我々が次世代に何をどのように継承すればよいのか」という問題意識が込められていました。
半年以上も前の記録になりましたが、その内容は全く色褪せないどころか、ますますリアリティを帯びています。
ぜひご一読ください。
前半の記事は高倉兄妹による講演内容になっています。
【ガイア水俣の歴史と高倉兄妹】
草児
まず僕らの話をさせていただきます。ガイアみなまたで働いていると言いましたが、も ともと僕の親父は千葉県茂原市出身で、若い頃に社会運動というか旅をして九州に来まし た。そのとき熊本で本田啓吉さんという水俣闘争の思想的リーダーにたまたま出会った 際、「今水俣が熱いからそこへ行ってみなさい」と言われた。そのまま水俣に居ついたの が親父でした。おふくろはまた別の理由で水俣に来たと思うのですが、詳しく聞いていま せん。とにかく流れ流れて水俣に残りました。親父は水俣に移り住んでから、水俣病患者 の川本輝夫さんと、水俣病の見えない患者さんたちをどんどん発見していって明るみにさ らしていこうという未認定患者掘り起し運動をしていました。
鼓子
未認定患者というのは、水俣病に認定されていない人々を指します。水俣病は県知事の 判断でもって認定か棄却かが決まるので、医師の診断ではありません。そもそも認定申請 制度を知らなかったり、申請すること自体に差別的な視線が注がれていた背景もあって、 側から見れば水俣病の症状があるように見えるのに、申請されていない方々が多数いまし た。父はその掘り起し運動に取り組んでいたんです。
草児
本来は国や県が未認定患者の掘り起こしをしなければいけないのですが、そのような 方々がたくさんいたというので父はその運動に取り組んでいました。さきほど主催者から 「相思社」というワードが出ましたが、正式名称は水俣病センター相思社といって 1970 年 半ばに構想されて建てられた施設です。目的の一つが、患者さんとその家族の拠りどころ にしようというものでした。
鼓子
時代的に 1970 年半ばは、水俣病第一次訴訟という大きな裁判で勝訴した患者たちがその 後どう生きていくかという問題がありました。勝訴はしたけれど、患者さんの人生はそこ で終わりではないので、地域で孤立している患者さんがどう生きていくのか。その生業や 運動の拠点としようとしたのが相思社でした。
草児
運動も続いていたので、相思社の中でも裁判を支援したり、患者さんとの共同作業とい う意味ももちろんありますがもう一つには相思社自体の運営のためにもキノコ工場をつく ったり、堆肥をつくって売ったり、長野県までリンゴを仕入れに行ってそれを配達して売 ったりだとか役割を分担していました。いろいろやっていく中で、今も残っているのが甘 夏づくりです。当時、不知火海沿岸を中心に漁師として生業を立てていた人たちが水俣病 を発症して生活できなくなっていたという経緯があるので、甘夏が熊本県下で栽培を奨励 されていたこともあり、甘夏づくりに向かう患者さんたちが出てきます。
第一次訴訟勝訴の後に、その人たちが生きがいとして何をしようかということになりま した。ランクが決められ、1600~1800 万円の補償がもらえることなったのですが、そのお 金は医療費の借金のカタなどに消えて何になるのかということになります。そのとき、運 よく甘夏があり、じゃあ陸に上がろうということになりました。出稼ぎなどで稼いだお金 で根気よく苗木を買って一本一本植えていきました。そのとき植えた苗木が今でも現役で す。その患者さんたちの甘夏づくりに対して、主に販売事務局としてかかわったのが相思 社だったのです。親父たちは相思社で仕事をし、甘夏については特に生活クラブという生 協とおつきあいが始まって販売量も増え、何とか生活ができるようになりました。甘夏をつくっている主体は患者さんたちだったので、その団体名を「水俣病患者家庭果樹同志 会」(以下「同志会」)としました。それが、いま「きばる」という名前に変わっていま す。
そのときにはまだガイアみなまたはありません。ガイアは 1990 年に出てくるのですが、 1989 年に起こった「甘夏事件」というのがきっかけになります。
当初、「同志会」をつく った際に、水俣病の被害にあった人間ができるだけ加害者にならないようなものづくりを しようというスローガンを掲げました。農薬や化成肥料が改善要素の最たるものでしたか ら、農薬はできるだけ使わないようにしよう、肥料も有機質のものを施肥しようと決め て、つくっていました。だから、農協さんとは違う流通網を立ち上げる必要があった。そ こに協力してもらったのが生活クラブ生協さんや、日本各地で甘夏を買ってくれる人々だ ったんですね。やるからには独自の基準をつくらなければいけない。たとえば酢とか焼酎 を代替資材として使って甘夏をつくるであるとか、農薬を減らしているので外観は市場の ものと異なるよ、という基準を外部に示していました。ところが1989 年にカイヨウ病がか なり流行ります。カイヨウ病とはコルク状の斑点がミカンの皮につく病気なんですけれ ど、これに加えて裏年というか生産量の少ない年だったんです。欠品がかなり見込まれた ので、相思社の甘夏部門が同志会の基準に合致しない、会員外の甘夏を手配して補填した んです。それを消費者にあらかじめ伝えておかなければいけなかったんですけれども、で きなかった。それは不義理じゃないか、水俣病の裁判支援や患者さんとものづくりをする 人間たちがいかがなものかと、ある新聞の一面に載ってしまった。その片を付けなければ いけないということで、父や母たちを含む相思社の一部メンバーが引責辞任しました。
もともと、よそから水俣に入ってきた人間ですから地元に帰る術もあったのですが、せ っかく植えてつくった甘夏があって、その甘夏をつくり続けたいという患者さんたちも数 人おられた。だからもう一度、不義理してしまったことを反省して、再スタートしたのが ガイアみなまただったんです。とはいってもその経緯については本で読むだけの知識しか ないので、本当のところを僕らが理解できているわけではありません。 はじめ 9 人のメンバーがいて、引き続き甘夏の販売を担うことになりました。ただ、「水 俣病患者家庭同志会」という名前は使えないので、「きばる」という名前に変えたわけで す。それで、資料にあるのはガイアみなまたの通信です。ガイアみなまたを立ち上げた頃 から出しているのでもう 59 号になります。そこに親父たちの思いをコラムとして載せてい ます。我々兄妹は相思社の時代に生まれ、そういった親父たちの背中を見ながら育ちまし た。
鼓子
大きくなってから気づいたんですけれど、ガイアみなまたが他の会社と異なるのは、共 同生活の場でもあるという点です。当時 5 つの家族が集まって有限会社を立ち上げたんで すけれど、貧乏なのでお昼と夕飯はみんなで食べる。子どもたちもまだ小さく、総勢 20 人 くらいで食卓を囲んでご飯を食べる日々で、車もシェアし、保育園のお迎えも親たちが交 代でしていました。
【親の水俣闘争に無関心な子どもたち】
草児
堆肥もつくっていたからか、蠅なんかが飛び回ってすごい環境だったね(笑)。 今日話すことはある意味特殊なことかもしれません。親父たちは水俣病に深くコミット してきた、そして甘夏づくりの背景にあるのは水俣病患者さんたちとの共同作業です。そ こで育ってきた我々なんですけれども、それだけのバックボーンがありながら、全然水俣 病のことを知らなかったというか、知る気がなかったというのが高校生までの生活でし た。目の前には水俣の海が広がっていましたし、僕なんかは小学生の頃からずっとその海 で泳いだりして遊んでいました。けれど、全然水俣病に興味関心がなかった。
鼓子
私も、小中高を通して水俣病に興味がなかったし、父親にそういう話を聞くこともなか った。学校の授業で、水俣病について教科書の勉強だけでなく語り部さんの苦しみや思い を聞く時間はあったのですが、チッソについてみんなで話そうとか水俣病事件について深 く考える場というのは授業の中にはなかった。当時そういう教育は受けていないと思って います。
草児
高校卒業するときも、僕は大学に行くんですけれど、大学に入りたい理由というのが水 俣を出たいからというものでした。何もない水俣から出て、早く都会へ行きたい。結局神 戸の大学に通ったんですが、僕の話をすると学部の同級生たちから「お前、水俣出身なん だぁ。水俣出身なら水俣病のことを教えてくれよ」と聞かれます。でも、全然知らないか ら、「本でも読んでおけよ」と言いながら、僕は隠れて図書館でこそっと本を読むんです よ。色川大吉さんの『水俣の啓示』という本とか。無茶苦茶おもしろいなと思いました。 だから、僕は大学の図書館で初めて水俣病と出会ったわけです。風景としては、さきほど 言ったように、水俣の海は目の前にあったし、親父たちが甘夏を売っていたし、水俣病の 患者さん、特に胎児性の患者さんたちがガイアの事務所に遊びにきてくれていたので、一 緒にご飯を食べたりなんかしていたんですけれども、それはよくも悪くも日常風景の一部 だったので、彼らが水俣病患者だということをまったく意識しないんですよ。○○さんっ ていう個別の名前でしか認識していなくって、胎児性の患者さんとしては認識していな い。今考えると、そこは不思議なところなんですけれど。
鼓子
私の場合は、ちょうど私が大学に入学した 2006 年以降、明治大学や和光大学で水俣展が 開かれていたので、水俣を外に行ってようやく知りました。水俣ってこんなに注目されて いて、こんな立派な展示があって、土本さんのドキュメンタリー映画もそこで初めて見る という。外に出てようやく注目されていることを知って、勉強しなければいけないなって いう気持ちになりました。2006 年は水俣病公式確認から 50 年でもあったので大々的に水 俣が報じられているのを見て、水俣出身なのに知らないのはまずいなと思いレポートを書 いたりしましたが、そこで止まっています。それ以上発展させようという気持ちはなかっ たです。
草児
僕も図書館で本を読んだといいましたが、詳しい学術書をたくさん読んだわけではな く、ミーハーなんです。緒方正人さんの「チッソは私であった」なんて、カッケーなぁっ て思ったりして。今思えば恥ずかしい限りですが、そういう表面的なところでしか触れて いなかった。
鼓子
展示を見に行くと、知っている人がいっぱい写っているんです。ふだん自分の周りにい る人たちがメディアに写って、写真に切り取られているときのカッコよさ。こういう人と 知り合いなんだなぁと思いましたが、それ以上深くは考えませんでした。
草児
大学卒業後、僕はとある生協に入りまして、一年間コールセンターに配属されたのです が、その窓口業務に耐えられるほどできた人間ではなかった。次の年には、仙台で冷凍食 品の営業を 10 か月したんですけれど、そこでぐうの音をあげてリタイアをし、そのまま水俣に帰って来たんです。まったく胸の張れる帰り方ではなかったんです。ほうほうの体で 逃げ帰って、たまたま親父たちがまだ甘夏をやっていたから、働かせてくださいというこ とでギリギリ働かせてもらえたんです。他にどこに再就職するとか考えなくて。そのとき 自分はどこにも適応できない弱い人間だと、すごい思いながら逃げ帰ったので、何も考え ず実家に戻ったというのが正直なところです。
鼓子
私の場合は大学卒業して東京で就職したんですけれど、じつは就職活動をする前にガイ アみなまたに入ろうとしました。農業に興味があったので、農地もあって甘夏も植えてあ るガイアは魅力的でした。水俣病のことを何かということは一切頭にはないんですけれ ど、親がやってきた甘夏の仕事を継ぎたいという単純な気持ちで、就職活動する前にガイ アで働きたいんだと父に相談したところ、「やめてくれ。お前が帰ってくる場所はない」 と言われました。父は私が外で働くことを望んでいたし、大学も必ず卒業して、それから 広い世界を見て来いと。もしガイアに戻って来たいと思っても、一回違うところに就職し てからにしろと言われていたので、一度農業法人に就職しました。が、兄と同じで、私も 東京での暮らしが合わなかったので水俣に帰りました。でも、私が水俣に帰って水俣病を 伝えるんだとか、そういうキラキラしたことはまったくなくて、居心地のいいホームに帰 りたいという気持ちが強かったんです。
草児
ここが重要だと思うのですが、親父は帰ってくるなと言うんですよ。一回飲んでいると きに、「ここはちょっときついぞ」と言われたことがありました。
鼓子
水俣病のことも、何で私たちに伝えてくれなかったのかなと、大人になってから思って いて。
草児
僕らは知ろうともしなかったんですけれど、親父は逆に自分がやっていることを伝える 気があまりなかった。
鼓子
なぜだったのかと聞いたら、自分が話すと偏るからと言われました。被害者の立場に立 って、裁判も一緒に闘っている人間の言葉を子どもに聞かせると間違いなく自分の方に寄 ってしまうから、そうではなくて自分で学んで判断してほしかったと。「君たちが聞かな い限りは、何かを伝えようとは思わなかったし、興味があるならば答えようと思っていた けど、聞かれることもなかったから」と言われました。
草児
でも、「闘う人」というのは滲み出てましたけどね。親父に電話がかかってきたときの ことです。最初親父も礼儀正しいのですが、いきなり「もう知らん!」と言ってガンと電 話を切って、「塩まいとけ!」と言うんです。激しいんです。だから、この人は闘ってい るんだというのは、言わなくてもわかる。小学校の頃ですけど、何かの会議から帰って来 るなり、「うわー!!!」と叫んで畳をドンドン叩き出すんです。すごく鬱憤がたまって いるんだ、というのは傍目に見てわかるんです。
鼓子
裁判や交渉などで父がメディアに取り上げられ、テレビに出てくるんですけど、何で父が出てるのかわからないのと、水俣病にかかわっていることをあまり友達に知られたくな いので、次の日に学校で友達から「お父さん出てたね」と言われても、「へぇ~」と流し ていました。あまり自分も深く知ろうと思わなかったですし、恥ずかしいと思っていまし た。父が水俣病にかかわっている人として出ることが嫌でした。
草児
結局、今ガイアみなまたで働いているんですけれども、帰って来た当初は特にそれぞれ 何も考えていなかったのが正直なところです。ところが、年を経ていっぱしの大人として 扱われるようになると、水俣の見え方というか、かかわり方が少しずつ変わってきます。 一つは地域にかかわる共同作業とか、町おこしの中で地域にかかわるようになると、ガイ アみなまたという評価がもろに出てくるんですよ。ガイアみなまたというと、くり返しま すが、元々は相思社で働いていた人間がやっている会社です。じゃあ、相思社で何をやっ ていたんだというと、患者さんの支援をしています。語り継ぐという作業をやっています と。
そこで、ちょっとうがった見方をすると、色がついてしまう。「あぁ、高倉さんの息 子さんね」というのはある種のレッテルなのかなと思って、最初は変に反発もしていまし た。そういう風に見られると嫌でも意識せざるを得なくなる。親父がやってきたことは何 なんだろう、ガイアみなまたが今やっていることって何なんだろう。ガイアみなまたで働 くことで私たちができることって何なんだろう、と次は自分のレベルで考えるようにな る。 水俣って今、「再生」、「環境創造」とか明るい方へ明るい方へ向かっている。それはと ても大切なことなんですけれど、それと「水俣病事件が解決した」ということとは、ちょ っと違う。何でもそうだと思いますが、過去の事実、失敗や衝突や努力の積み重ねが土壌 として重なり合って、その上に未来が花咲く。
だから過去と現在、そして未来は簡単に切 り離すことができないんですよね。そんなきれいに花は咲かないよ、と。そこに違和感が あって、だからせめて「いや、今もむっちゃ大変なんですけど何とか前に歩いていこうと みんなギリギリ頑張ってるんですよ」みたいな、地に足がついたところのもどかしさを伝 えたいという思いもあります。一度、環境省主催の講演会が東京であって、僕らパネリス トで招かれたんですけど、「あばぁこんね」という団体による町おこしのような事例を報 告した時に、最後のまとめで「若い人がこんな風に未来に向かっていろんなことをしよう としている。水俣ってすばらしいですね」みたいなまとめを、当時の環境省の事務次官が まとめようとしたので、僕が思わず「まだそんなんじゃないと思います」と言ってお茶を 濁してしまったことがありました。全然、すばらしいことができているとも思っていなか ったので。とにかく自発的ではないんです。周りから、外的要素から自分を考えるように なったんですよ。
鼓子
私は 2016 年にガイアで働きはじめ、「きばる」をやっているけれど、そもそも「きば る」の生産者 27 軒の人たちがどういう人たちかなのか知らなかったんですよ。ずっと父た ちの代からお世話になっていて、その甘夏の売り上げのおかげで私たちは生きてこられた のに、どういう人たちがつくっていて、どういう気持ちでやってきたのかまったくわから なかった。
だから、兄と一緒に話を聞かせてくださいと聞き取りにまわったんです。その ときに、女島という地区に住んでいる緒方幸子さんから「あんたたちのお父さんたちが運 動してくれたおかげで今があるとよ」って言われて、凄くびっくりしました。「高倉さん の名前聞いて、ここで感謝せんもんはおらんよ」って。お世辞もあるんだろうけど、それ でも本当にうれしかったです。やっぱりどこかで私は父たちがやっていることを恥ずかし いと思っていて、やってきたことはあまり地域で受け入れられていないし、相思社やガイ アみなまたという存在がよそ者の集まりで、水俣を混乱させているという見方をされてい るんじゃないかと、ずっと思ってきたので。
60 代以上の方々からは直接そのようなニュアンスで言われることもあって、相思社とい うだけで「ああ、あの相思社ね…」みたいな。そういう気持ちもあって、自分も父母がや っていることを評価できていなかったので、あらためて「来てくれてよかった」と言って もらえたことがうれしくて、そのときからようやく私は父たちがやってきたことを知らな いといけないなと思って、私の場合はそこからぐっと水俣病事件とは何だったんだろう と、勉強し始めました。
【沖縄・高江の座り込みから学ぶ】
鼓子
同じ時期に私は沖縄の高江に行ってきました。Facebook や Twitter でちょうどそのと き、沖縄の高江にヘリパッドがつくられていることを知りました。政府が工事を強行する 中で住民が反対しているんだけれど、140 人しかいない小さな集落に機動隊が 500 人以上 投入されていました。高江に行って自分もびっくりしたんですけれど、肌で感じることが 多かった。
父母たちがやってきたことは、私とか次の世代が苦しい思いをしないようにとか、もっ とみんなが住みよい水俣にしたいという気持ちからなるものなのかなということを、高江 に住む人の話を聞きながら思いました。運動とか闘争と呼ばれているけれども、人間が幸 せに生きるためにはどうすればいいのか、尊厳を守るってどういうことなのかといった根 源的な問いを、一生懸命考えた上での行動が座り込みなどの住民運動なんだと。父の場 合、裁判闘争が主だったのですが、裁判というシステム上で闘わざるを得なかった苦労に 思いを馳せることが、ようやくできるようになりました。だから、兄と違うなと思うの は、兄は一歩引いて水俣病事件を見ていて、私は一歩前に出てるんだよね。
【水俣の記憶と世代間伝達】
草児
兄妹でバランスを取っているのかもしれない。やっぱり伝えるということは大事だと思 っていて、この 10 年が何もしなければ水俣という言葉が少しずつ消えていくだろうなとい うことをひりひりと感じています。記憶としても事実としても消えていくというか。水俣 病事件というのはいろんな記憶の集合体なんですよね。甘夏ミカンを通して水俣を生きて きた人もいれば、かわらず漁をしてきた人もいるし、裁判をしてきた人もいるし、チッソ という側から見てきた人たちもいる。いろんな糸が寄せ合って一つのものを織りなしてい ると考えると、我々はその一つの記憶でしかないんですけれど、格好つけていえば、小さ な物語を伝えることの意義というものを今すごく考えています。
じゃあ、それを伝えたと ころで実際に何の効果があるかはわからないんですが、2,3 人ふり返ってもらえればいい かな、と。その伝えるということをどうすればいいか。 生まれ故郷で暮らしていると、いわゆる親父サイドではないその他大勢の方々とふれあ う機会がたくさんあります。その中で、「お前の親父が水俣に入ってきたことで大変だっ た」と、実際に面と向かって言われたこともあります。でも、今考えてみると、その人に もそういう発言をするだけの理由があるんですよ。悲しいつらい過去を経験していて。だ から、親父たちを責めることが第一義にあるのではなく、「この思いをどうしたらいいの か」みたいなのがあって、どこにも言うところがないから、とりあえず目の前の人に言う みたいなところがあるんじゃないかと思います。
だから、それは甘んじて受け入れたい。 もともとケンカすることができない性質なのですが、ガイアの兄妹間の役割で言えば、妹 がすごい突き進んでやってくれているところがあるので、僕は逆にあまり突っ込まない。 この間も市議会の傍聴とかに行ってたよね。今度どうなんだっけ?公害が消えるんだっ け?
鼓子
水俣市議会の特別委員会に公害環境対策特別員会というのがあるんですけれど、そこに 「公害」という名前がついていると、未だに公害が発生していると思われたり、水俣に企 業を誘致する際にマイナスイメージになる可能性があるから外しましょうという議案が出 されて、可決されてしまったんです。環境問題として取り扱えばいいじゃないかとなった んですね。
草児
じゃあ僕も妹とこういう活動を一緒にやるかとなると、ヘタすればガイア自体が全部そ れになってしまう。そうなると、その他大勢の人の理解を得られないなと思って。これは 戦略的に卑怯だと思われるかもしれないけれど、僕はその他大勢の人たちと関係を保つ役 になろうと何年か前から意識しています。とにかく、ガイアみなまたというのは、めちゃ くちゃうまい甘夏を売る団体であります。そして、その甘夏からめちゃくちゃうまいマー マレードをつくる団体であります、というところを目指したい。このあいだ、愛媛県八幡 浜市でマーマレードアワードという審査会があり、日本中のマーマレードを集めて品評会 をしようじゃないかということになりました。もともとイギリスでやっているんですが、 その日本版です。そこに出品したら、ハイ!銀賞いただきました(拍手)。ある種の正当 な評価を得るということを僕はすごく意識しています。評価を得たからと言って、何か役 に立つわけでもなく、売り上げにつながるかどうかはまた別の話ですが、そのことによっ て一部の人たちが僕らの存在を知ってくれるというのは、僕らにとってかなりのメリット だと思っています。その銀賞を取ったガイアみなまたが、こんな変なことをしているとい う文脈の方がわかりやすいと思っているのです。
鼓子
兄はこう言っていますが、私は違います。私は変なことをしていると思っていないんで すよ。たしかに、父たちがやってきたことは左翼運動、言ってしまえば過激派と見られて いたので、私の中にもそれに対する偏見があったんですよ。運動やっている人というのを どこかで切り離したい気持ちがあったから、ちょっとかかわりたくないというか、あまり 評価ができていなかったんです。 でも、やっぱり高江に行ってみてわかったのですが、座り込みをやっている人たちって 本当に普通の人たちです。そこで暮らしている住民が別に運動をやりたくて住んでいたわ けではないのに、いきなり自分たちの住んでいる環境にヘリパッドができてどうしようと なった。でも、運動とかやったことないから、とりあえず座り込むことで抵抗の意思を示 そうという方法をとるわけですよ。
父たちも運動がやりたくて水俣に来たわけでもない し、たまたま水俣に来て、水俣が気に入って、患者さんと出会ってしまったから、この人 たちを置いてどこかに行く気持ちにはなれなかったという、人間のつきあいで住んでい る。運動がすべてではないということがわかったんです。 だから私は変なことをやっているわけではないんだということを、高江に行ってわかった んです。 高江や、沖縄の基地反対運動している方々に向けられるネット上の批判は、かつて父た ちが言われていたことに似ています。だからこそ、権力に立ち向かっている人たちに対す る偏見を自分が持つのはおかしいなと思いました。私が高江に行くと水俣の知り合いのお じさんに話したときも、「日当 2 万円、出っとやろ」と言われました。おじさんはネットや っているように見えないのに、なぜ日当の話をするんだろうと頭を抱えました。アカが集 まっているとかものすごい偏見を持っている。沖縄の宿に泊まったときも日当が出るって 話は言われて、そういう偏見、わかってもらえなさ、お金のためにやっていると思われる くやしさを感じた。
でも、高江で学んだのは、住民の人たちは伝え方をものすごく研究しているということ でした。偏見の目で見られること、SNS で発信すると炎上してしまうようなことをどう工 夫して伝えるか、共感を持って注目してもらうためにどうすればよいかを考えて実践して いる石原さんというご夫婦に会うことができて。二人は座り込みの現場で、夫婦で笑顔で 写真を撮って、それを SNS で「僕たちの笑顔は権力に奪わせません」と発信して、「いつで も愛とユーモアを」とずっと言っているんですよ。傍から見ると、緊迫した状況でそんな こと言っていて大丈夫?って思われるかもしれないけれど、でも否定されることではない じゃないですか。愛とユーモアなんてみんなに必要なことだから。だから、水俣に関して 伝えるときも、正しさとか信念を伝えるだけよりも、そこに愛とユーモアを添えることで 伝わりやすさが増すのではないかと。父母の運動に偏見を持っていた人たちにも理解して もらえる言葉がつくれるんじゃないかなと、今私は意識しています。
本当に一番知ってもらいたいのは、水俣で一緒に生きている人たちです。水俣外の人た ちの方がフラットに見てくれるので、市議会が「公害」という名称を外す決定をするなん てあり得ないと言ってくれるんですけど、水俣のほとんどの人は「別にどうでもいいんじ ゃない」と言うでしょう。他にも水俣病の名称変更についての議論がまた復活したりして いて、水俣病という名前のせいで差別を受けている、その言葉を子どもたちの世代に残し ていいのかどうか議論したいと言っている方もいる。それはもっともなんだけれど、その 言い方では水俣病患者が悪いようにも聞こえてしまう。一方的ではない対話ができないか なと考えています。福島は対話の機会を多く設けられていると思うんですけど、水俣でも 同じようにできないかなということを考えています。兄は優しい人なので、センシティブ な議論はしたくないタイプなんですが、私は議論はしたいのです。
草児
親父たちが話す言葉と僕らが話す言葉の使い方は、全然違います。前提として、親父た ちが経験してきたことを僕たちは自分のことのように話してはならないと思っているんで す。たとえば、ガイアみなまたのテーマには「母なる大地にありがとう」というのがある んですよ。これはおそらく母の実感から出てきた言葉であると思うのですが、僕らは僕ら 自身の言葉を発しなければいけない。いろいろなところで何回かお話をさせていただく機 会がありましたが、完全に借り物の言葉なんですよ。僕の口から出てくる言葉は。そのと きに感じる無力感。この言葉は絶対 10 年もたない。僕自身がこんなことをしゃべっていた ら空虚なんですよ。僕のリアリティというのは、今は甘夏ミカンなんです。甘夏ミカンが 目の前にあってそれを箱に詰めて人に売るっていう。その甘夏ミカンが実は甘夏を通して 水俣を生きてきた人たちの軌跡につながっているので、それを自分の中でどう咀嚼して、 自分の生活実感を伴った言葉に変えていくかというのが課題なんです。だから、今日も話 しながら「あぁこれ、あの人の言葉だ」というのが出てくる。いろんな本をつまみ食いし ているから、いろんな人の言葉が出てくるんですけれど、そこから 8 割くらいの言葉を差 っ引いて残ったのが僕の言葉という感じなんですね。そこが忸怩たる思いなのですが。
鼓子
私は今回のテーマになっている、次の世代に伝えることは意識しています。それは自分 が小中高校を通して、まともな水俣病教育を受けた記憶がないからというか、水俣病につ いて全然話せなかったんですよね。知識として社会科の教科書で学び、目の前で患者さん が語りその話を聞くんだけれども、何がどうして水俣病事件がこうなってしまったのかを 考えるとか、みんながどう思っているのか話す場が一切なかった。(その授業を実践する ことは)すごく難しかったと、かつて小学校の先生をやっていた方に聞いたことがありま す。それは、私の生まれ育った地区が水俣病患者の多発地域だったことが関係していま す。患者家族が同じ教室の中にいたのと同時に、親御さんがチッソで働いている子どもも いるので、とてもデリケートな話題になります。そこで先生がチッソの加害性について話すと、子どもがどう思うか。親御さんがどう思うか。そのことを考えると話せることがも のすごく限られたと言っていました。水俣病教育に関しては一律にこういう話をしましょ うというものがなく、各教員に任されていたようです。その先生のアプローチは水俣病に 関する詩とか歌といった表現を通して子どもたちに伝える、それを構成詩という形で発表 させる。そういう形での伝え方はあったけれど、事件性を問うとか、みんなでディスカッ ションをしようということもなかったので、友達がどう考えているのかとか、まったく知 らない。そういう環境が水俣病に興味を持てない私をつくったと思うので、じゃあ今、自 分が次世代の子どもたちに残せるものは何なのかを考えています。何か指針じゃないけれ ど、「お守り」のようなものがあったらいいと思っていて、そのきっかけになるような一 冊の本をチッソの人たちも一緒に、みんなで話し合ってつくれないかなと考えています。 それはやっぱり自分が知らなかったということがあまりにも悔しかったというのが、大 人になって気づいたことなので、大人になった自分がやれること、責任を果たすことがで きるとすれば、子どもたちが水俣で生きていく上で知っておいてほしいことを一つ提示で きればいいのかなと思います。 水俣病のことを大人になってから勉強し始めたときに衝撃を受けたことがあります。
昔 の資料って名前とか住所がそのままに載っているんですよ。そこに友達のおじいちゃんと かおばあちゃんとか、おじさん、おばさんの名前が出てきて、患者のいる家も地図で黒丸 の印がついていて、それ見ると友達の家だとわかるんです。そういう資料を通して、で も、私たち、そういう話を一度もしたことがなかったから、知らなかったなぁというのが すごく悔しかったし、友達に対して無神経なことを言ったかもしれないと、そのとき思っ たんですね。私は親族が水俣にはいないので、一歩引いて見れるんだけれど、自分の家族 が水俣病だったりとか、おじいちゃんおばあちゃんが水俣病で苦しんでいる友達がどうい う気持ちでいたのかなぁと知らなかったのは申し訳なかったなぁと思って、それはどうし ようもないんですけれど、知ったからにはできることをやりたいなというのは…やっぱり 知っておいた方がよかったんじゃないかなぁって。
タブーだったからできなかったんだと 思うけれども、大人がタブーにしてしまったことが、子どもたちが何も知らずに育つ土壌 をつくったし、それによって偏見とかも生まれてしまう。大人たちがですね、患者派チッ ソ派っていう風に分かれて交わることがなかった時代があったので、それによって私自身 チッソ派に対して偏見もあったし、チッソ側にとっては私たちの父たちは本当に余計なこ とをする敵だったと思うし、そこを大人が頑張って交われることをつくっていけば、家庭 の中でももっと水俣病の話ができたのかもしれないけれど。でもそれができなかったこと は仕方がなかったというのも、事件史を読み返すとわかるんですよね。 1995 年に政治解決という区切りがつきますけど、そこまでは常に裁判で争っているの で、損害賠償の問題ですから下手なことは言えないし、ひざをつき合わせて話すなんての は無理だったと思います。政治解決がよかったとは思いませんが、それでも、それ以降よ うやく話せるという土壌ができてきたということは、改めて次の世代に…ア、何言いたい んだろう。
草児
つまり、鼓子が言いたいことは 1995 年以降、補助線がたくさん引けるようになったとい うことだと思うんです。水俣病って裁判闘争の物語を中心に、たとえば第一次訴訟から関 西訴訟が終わるまでという一本の流れがあったりするんですが、その中で 95 年以降、堰を 切ったように私はこうだった、私もこうだった、私の親父はこうでね、こういうことがあ ってねという物語が出てきた。ポール・オースターという作家が、アメリカに暮らすいわ ゆる一般市民に何でもないような個々人の物語を募ったら、それが「ナショナルストーリ ープロジェクト」という一冊の本になったという話があるんです。それと同じで、どこぞ の誰々が話をするようになったんですね。今度はそれを誰が聞いてくれるのかという問題 なんです。補助線が次々できてきた、物語が一つではなくなった。これはものすごいことなんですよ。
理解が深まるとかそういうことではなしに、物事がそんなに単純じゃないん だよということが明らかになるんです。水俣病事件もいい人/悪い人、敵/味方と分けら れがちです。でも、それは補助線によって解消されることもあるんじゃないかと思うんで すが、それは水俣では、今はまだできない。 僕は長丁場で考えていて、それは鼓子と意見が違うんですけど、僕があと 30 年生きられ たら 65 歳です。そうしたらですね、地域内でも発言できる機会が少し増えてくる。それで 情勢が少し変わるんじゃないか。
そのときまで、これが一番大変ですけれど、65 歳になる まで今の志を持ち続けられれば、水俣に新しい補助線を引ける可能性も出てくるんじゃな いか。ただ、今はもう本当にたくさん出てきているので、この話を誰かが聞かなければ… どんどん消えていく泡のようなもので、誰かが掬い取らないと話は潰えていきます。僕ら が聞き取れるのは、甘夏生産者の話だけです。25 人の話で精一杯です。でも、あと何人か いれば 100 人、200 人の話が聞ける。それは別に本にしなくてもいいんです。それを自分 の血肉にして、自分の言葉で語りなおせばいいんですよ。 それをこの 5 年、10 年でやっていかないといけない。死というものは意外と身近にある というか、話を聞く前に亡くなられてしまってものすごく後悔したという経験もあるんで す。いつ聞くのって、今なんですよね。そのチャンスが今、水俣はめぐってきています。 これはかなり希望であると思います。
一方でまだ混とんとしているのは変わらないのです が、その中で僕らにとっては、ガイアみなまたというところにマーマレードという商品が あることがほんとうに幸いです。マーマレードを軸にして商売をしていくことができる。 商売は余剰を生み出していくものですが、その余剰というのは金に変えたり時間に変えた り、いろいろな方法があります。たとえば、妹のように活動する時間に充てたらどうか。 資本は、本来は蓄積したり設備投資に充てたりするものですが、あえて別の使い方にして しまう。そうすると変に滞らないというか、滞る前に使ってしまえというのを、妹がやっ てくれていると思っています。 そういう意味もあって、僕としては商売というものに乗せて、商売ベースの話し方にな っていないといけない。それでマーマレードがある。マーマレードというのは、水俣病患 者さんとのおつきあいであるとか、ずっと甘夏を買ってくれていた尾崎英里さんという人 がつくり方をわざわざ教えに来てくれたことから始まっています。では、このマーマレー ドを地域の人がどう見てくれているのか、気になります。だから、銀賞を取ったことはよ かったと思うし、あるとき水俣に住む友人が「いい商品つくってるじゃん」とふだん言わ ないことを言ってくれたことがあって、「あっ、見てくれているんだ」と思ったんです。 そういう話ができたことが最近一番うれしかったことです。あと、ガイアみなまたは農薬 散布を減らした作物なんかを売っている、だからここで扱ってほしいと、ある農家さんか らからこっちにコミットしてくれたということも最近あって、これもうれしいことです。 とにかくこういうことを軸にしていくと、現地でぶれずにやっていけるかなと思います。
鼓子
福島で話すことを考えたとき、私は何かの役に立ちたいけれど、何の役に立てるのだろ うかと考えました。福島の方も水俣にたくさん来られて、水俣に学ぶということをずっと 8 年間やっておられるんだろうなと思うんですけれど、私たちは第二世代と言われますけ ど、その自覚もなかったし、特に何ができるかわかっていないし、伝えるって何だろうっ て、伝えたいけど自分の言葉が何なのかもわかっていない。たとえば、自分が水俣病の話 をしたり顔でしたところで、あの時代を経験してきた先輩方がどう見ているかなと思う と、怖すぎる。だけど話したい、だけど伝えたいという思いがある。 その中で、水俣病事件というと悲惨なんだけれども、そこでも人は生きていて、水俣を 離れずに暮らしていて、魚をずっと食べているんですよね。魚が大好きで、今でもおいし く食べています。そういう自分の生まれ育った土地への愛とか、海への信頼とか、そうい ったことを自分の体験とともに話すことしかできないなと思います。
それは福島の方々も、似たところがあるのではないでしょうか。 水俣病事件といえば劇症型の患者さんがブルブル手を震わせて狂ったように死んでいく 姿とか、黒い御旗が上がって裁判でチッソの社長にみんなで詰め寄る姿とか、そういった 映像が思い浮かびますし、実際にあったことです。でも、それだけが水俣ではない。水俣 病公式確認当時から 63 年経った今も私たちがもがいて何とか生きていますということを、 どうやったら伝えられるかなということを考えながら生きています。 最後に、私たちが一緒に働いている生産者グループ「きばる」の会長さんで緒方茂実さ んという方の言葉を紹介させてください。茂実さんは妹さんが胎児性の患者さんで、弟さ んも患者さん、おじいさんも劇症型で亡くなられてますし、お父さんも原因不明で亡くな っています。お母さんも水俣病。親族のほとんどが水俣病の被害を受けてます。もともと 漁師だったのに、小学校 6 年生のときにお父さんを亡くされて、生業が成り立たなくなっ て甘夏生産へ転換した人なんです。 ちょうど 3 年前に、福島の原発事故を受けて水俣病事件を経験した人がどう考えるかと いうインタビューを「きばる」で受けたことがあるんですが、私も同席させてもらって、 茂実さんは何を語るのかなと思って聞いていたんです。そのとき、インタビュアーの方が 「水俣病事件によって茂実さんが奪われたものは何でしょうか?」と聞いたんですね。そ の瞬間、茂実さんが固まって、言葉を失われてから、「奪われたものはたくさんあるな ぁ」と言って、「数えきれない。けれど、生まれたものもあって、それがきばるです」と おっしゃってくれて…。 自分のおじいちゃんが狂って亡くなって、お父さんもある日突然、漁から帰って来たそ の日に亡くなって、そういう大切な人の死、しかも彼らには何の落ち度もない。そのとき は原因がわからずに…苦しかったと思うんです。そこから見出した希望と言っていいと思 うんですが、絶望の中にも希望はあるということを茂実さんは教えてくださった。しか も、それが彼にとっては「きばる」だとはっきり言ってくださったことが、私はとてもう れしくて、茂実さんの思いを継いでいきたい。
だから、「きばる」は 40 年は続けると思っ ています(いや 100 年でしょ〔草児のつっこみ〕) 。今、皆さんは福島で暮らしていて、エ チカ福島も 7 年続けてこられて、言葉にする、考える作業をずっと続けられていることは すごいことだと思っています。復興という旗印のもとに無理やり言葉を引き出されたりと か、ポジティブな言葉を求められたりとか、本当につらいことだと思うんですね。事故が 収束もしていないし総括もできるような年月ではないのに、それを求められるのは本当に 大変だなと思って、その中で考えるということをやっておられるエチカ福島というのが、 私は希望だろうなと思うし、逆に水俣にも輸入できないかなというか、水俣でも立場が異 なっても相手を非難するのではなく話を聞く、対話をする場というものがつくれたら最高 で、水俣では今はないので…以前はあったんですけれど。
草児
ですから、対話の場というのはクローズさせるというよりは、結果を出せないままでも 100 年続けた方がいいんじゃないか。それが水俣ではできていないのかもしれないです。 どこかで結果を求めて、終わらせている節がある。
鼓子
あるいはリーダーが変わってしまって終わらざるを得なかったということもあると思う んだけれど、そこを継続してやっていくということだし、必ずしも正解は一つじゃないん だなということをみんなが言い続けることはとても大事なことだと思いました。