カフェロゴ Café de Logos

カフェロゴは文系、理系を問わず、言葉で語れるものなら何でも気楽にお喋りできる言論カフェ活動です。

【オンライン開催】「原発事故と教育の危機」を考える会

2021-08-29 | 〈3.11〉系


【テーマ】「原発事故と教育の危機」
【日 時】2021年9月23日(木・祝)19:30~21:00
【司 会】佐藤靜(大阪樟蔭女子大学)
【報告者】渡部 純(福島東高校)
【会 場】zoomによるオンライン
【参加申込】 参加希望のメッセージをお送りいただいた方にzoomのIDとパスワードをお知らせします。
【開催趣旨】

 コロナ禍により、なかなか対面での言論カフェが開催できない葛藤の中、zoomオンラインにて「原発事故と教育の危機」問いうテーマで開催させていただきます。
 このテーマは、来る10月1日に開催される日本倫理学会ワークショップにて渡部が報告するものです。そこでは福島における「教育の政治化」の問題と原発事故の記憶の世代間伝達の意味について考えていることを報告する予定なのですが、学校現場に立つものとしてたいへん語りにくい問題でもあります。
 福島に住んでいる以上、原発事故をめぐる記憶や伝承の問題はそれぞれの立場において複雑極まりない状況が残存してており、そこにおいて「原発事故と教育の危機」を論じることなど、とても手に負えないことは重々承知しています。そうであるにもかかわらず、この問題は避けては通れないものであることも確かだと思うのです。
 そこで、たいへん恐縮なのですが、学会発表の前にとりわけ福島在住の方に内容をお聞きいただいて忌憚のないご意見をいただく機会を設けさせていただくことに致しました。



 倫理学会で発表する予稿は、こちらをクリックしていただければ読むことができます。
 ⇒ 日本倫理学会10 月1 日(金)  ワークショップ  18 時00 分~20 時00 分
   第2 会場 東日本大震災から見えて来たこと(九) ――女・子どもの倫理(7):「十年が過ぎた時点で」(高橋 久一郎、金井 淑子、川本 隆史、渡部純)

 ちなみに、日本倫理学会のワークショップは事前申し込みさえすれば、非学会員の方も無料で参加できますので、よろしければ当時のご参加もウェルカムです。
 ⇒ 第72回日本倫理学会参加フォーム
 もちろん、カフェロゴには福島県外の方でも参加できます。
 多くの皆様のご意見をお聞かせいただき、活発な議論になることを期待します。(文:渡部 純)

【満員御礼締め切りました】原発事故と学校教育を考える討議

2020-10-31 | 〈3.11〉系
【以下の内容は定員を満たしましたので募集を締め切らせていただきます】

カフェロゴとしての企画ではありませんが、11月7日(土)の渡部の福島大学公民科教育法にて、茗溪学園の前嶋匠先生をゲストに招き、原発事故と教育について学生との討議を企画しました。
前嶋さんは現職教員として原発事故と学校現場の教員の葛藤などを調査され、筑波大学大学院博士課程で研究されています。
朝日新聞茨城県版の記事にも「原発授業の風化に抗う授業」として前嶋さんが紹介されています。
せっかくの機会なので、10名の人数制限の上で一般の方にもご参加いただけるようにご案内します。
もちろん、学生との討議にはいっしょに参加できます。
ご関心のある方で聴講されたい方はメッセージをください。会場講義室を直接メッセージでお伝えします。

13:15〜14:35 渡部の原発事故をめぐる授業実践についての講義
14:50〜16:10前嶋氏による原発事故と学校教育についての講義
16:25〜17:45 前嶋✖️渡部の討議 学生との討議

※コロナ対策のため以下の注意事項は守ってください。
①マスクを必ず着用する。
②事前に体温を測り、37度以上ある場合には参加しないこと
③アルコール除菌などを徹底してください

「原子力災害伝承館で考える」・まとめ

2020-10-25 | 〈3.11〉系

(請戸の海岸から臨む東電福島第一原子力発電所)

昨日、去る9月に双葉町にオープンした東日本大震災・原発災害のアーカイヴ施設・伝承館を、参加者各自で見学した後に、その存在の意味についていこいの村なみえにて話し合いました。
交通の利便性も悪いなか、23名の参加者に恵まれ、次の3つの観点で話し合いが進められました。

1. 伝承館にどのようなメッセージを期待したか
2.伝承館にからどんなメッセージを受け取ったか
3.伝承館に示されていない情報は何か

話し合いは、はじめから厳しい意見が噴出しました。以下、渡部の編集(解釈)によるまとめを記録します(もし、発言された方の意図とは異なるものがあればお教えください)。


●中身がない。伝承館は何を伝える館か?何も伝わらない。津波の思い出くらいか。
●原発の危険性や事故の原因、そしてそれらを踏まえた教訓をどう考えるべきかという視点が何もない。
●実際の災害現場で、どういうやり取りをしていたのかという視点がもう少し欲しかった。全体としてダイジェスト版の展示という印象である。
●原発が来る前の相双地域をどう描いているのかを期待したが、「事故前の暮らし」が「だるま」と「野馬追」で終わっていることに失望した。大熊・楢葉・富岡・双葉がどういう地勢・地政であり、そこに原発が来たのか、その背景の説明が薄い。伝承館で立ち話をしながら聞いた職員も、それについては同じ意見だと述べていた。
●展示のストーリー展開に違和感をもった。復興を強調するばかりで、「ピンチをチャンスに変える」という文言がやたらと目立つ。
●5分の映像を見て、なんでみんな字幕が英語なのか違和感をもった(これに対しては、当初、オリンピック開催に合わせたオープンを予定していたため、外国人観光客への対応を想定してのことではないかとの意見が出された)。

「違和感ばかり」という意見が大勢を占めましたが、そこには原発事故の教訓がはっきりと示されないこと、津波による事故という「自然災害」と「復興」の強調といった点に集約されます。
一方、「語り部があるのはいいなと思う。展示だけではリアリティがない」という意見も出されましたが、それに対して実際に語り部をされている参加者から次のようなお話を聞きました。

●語り部として入る前に伝承館に期待はしていなかった。現在、語り部29名。語り部どうしがお互いに話し合う機会はほとんどない。「余計な話はするな」という伝承館の指導については、メディアで伝えられている報道はほとんど真実です。余計な話をするなという指示は、はっきり説明会で指導されます。特定の企業団体については、はっきりものを申すなと上からストップがかかる。これについては語り部の中には反論する人もいる。当初の語り部スペースには、つきっきりで職員がつき、場合によっては質問内容を静止したりしてチェックしていた。でも、伝承館と語り部は切り離して考えてもらいたい。半分以上は初めて話す人ばかりで、しかも高齢者が多い。話すことに慣れていないし、震災と原発事故の経験を思い出して話すだけで苦しくなる。それでも、遠方は会津からわざわざ語り部に来る。

この語り部の話す内容に規制をかける「上とはだれか?」
この質問に対しては「県の生涯学習課ではない。さらに上の存在がある」とのことだけれど、それが誰かということは尋ねても示されないとのことです。
これに関しては、別の参加者からは次のような感想が出されました。

●良くも悪くも福島県庁の施設だと感じた。復興記念構想に比べて、伝承館資料選定の議事録は公開されていない。有識者検討委員会の議事録を読んでも、明らかに復興記念構想より手を抜いている。明らかに県が自分なりの考え方で描いたものが、いまの伝承館の姿なのだなと思う。そして、福島県はこういうのが苦手な役所だということがわかった。そこには国から細かい指示はなく、知事への忖度などが働いているのではないか。

「こういうのが苦手」というのは、福島県が独自のメッセージを出そうという能力のことでしょう。しかし、国の指示にはいくらでも従う福島県は、独自のメッセージを考えることが苦手である。それは、その過程を議事録として詳らかにできないことにも示されているというわけです。
では、福島県が伝承館に独自のメッセージを込めるにはどうすればよいのか?
これに関して今回の話し合いでは、「アンケートへの記入」というのがキーワードとして挙げられました。

●まだ未完成という印象がある。初めから期待していなかったので、案外いろいろあったなという感想だ。かいつまんであれもこれも並べている。かかわっている人は何とか伝えなきゃという思いは持っているのだろう。これから整理していくうちに、今の方がよかったともなりかねないかもしれない。もっともっとよくなるように、来館者の意見を取り入れるくらいの形になってほしい。

館内には「皆さんの声が伝承館を育てます」というメッセージがあったという声もありました。
多くの参加者の意見からは、当初から期待していなかったという意識が確認されましたが、それに対して次の発言は重要です。

●アンケートの声が欲しいと職員さんが言っていた。それが自分たちには言えないことの代弁になるのだと。


今回の参加者の中には、伝承館を見学した際に職員の方々に質問を投げかけて話を聞いたという方が、少なからずいらっしゃいましたが、そこから確認されたことは、実は伝承館の現場で働かれている方の多くが館の方針ややり方に違和感を持っているという事実です。
しかし、職員である以上、「上」からも規制されるため物言えぬ状況にある。
それゆえに、見学者のアンケートが力を持つのだという話を、多くの方が聞いたというのです。
けれど、参加者のほとんどが、そのアンケートがどこに置かれていたのかまったくわからなかったようです。
しかも、

●展示物の撮影禁止について職員に話を聞いたときに、その方自身もおかしいと思うといっていた。学生がレポートに写真を使いたいという要望があっても撮影させてくれない。その理由を職員自身がわかっていない実態がある。

これに対しては別の参加者から、「映像展示物については著作権の問題だったので撮影禁止されたわけで、映像以外の資料の撮影は当初OKだった」という内実があったという話を聞いたという発言がありました。
しかし、だからといって「初めから一括して禁止にするのは、そもそも来館者への信頼していない姿勢が見える」という意見はもっともです。
それゆえ、展示物の撮影に関しては、次の意見のとおりでしょう。

●国の施設でも著作権のあるものはダメだけれど、当館で作成した資料は大丈夫ですというケースが増えているなかで、今どきは「できること」と法的に「できないこと」を区別していくべきだ。

参加者の中には他県の災害伝承館との比較から、次のような興味深い意見をもたれた方もいました。

●陸前高田の復興伝承館に見て感動して、双葉の伝承館に行きたいないと思っていた。どういう視点の違いがあるのかという観点で見学した。陸前高田ではデータ重視で写真などもクールに表現しているけれど、それに対して双葉の伝承館は、入場してすぐに見せられるオープニング映像がまず初めに泣かせに来ている感じがした。写真撮影の禁止についても違和感があったけれど、それは著作権の話を聞いて納得した。けれど、今どきの美術館は来館者のSNSを利用して情報を広めていくのが当たり前なのに、福島県はそういうことを利用することに関しては後進県だなと感じた。

県外からわざわざ参加された方は次のような感想を述べました。

●熊本からきて、伝承館にはすごいものは期待しないできた。放射能の問題やそのリスクの問題、市民の混乱について書かれていなかった。また、事故の始まりが3.11から始まっており、それ以前になぜ原発が来たのかという考察もない。原発に関する教育を「しています」(2009年)という形で示しており、はっきり反省が示されていない。職員の方からじっくり話を聞いたけれど、「東電がどうだ」とかだという話はしないけど、やっぱり話を聞いていると矛盾、矛盾、矛盾のなかでそれでも生きてきたという、痛みであり、言葉にならない生きてきた息がかんっじとれた。ざっくりいうと伝承館は、今の福島県だなと感じた。放射能の被害はわからないとしているし、東電と原発事故の関係は批判してはいけないというもやもや感が伝わってくる。「はっきり言えないけれど伝えたい」というのが福島県のがんばっている姿だと思う、足りないことだらけだけど、伝承館ができてよかったと思っている。それをどうやって育てていけるかが、私たちの社会の原発事故をどう見ているのかに関係している。なかったことにしてしまいたい、けれど自分たちが向き合っていかなければいけない。

災害資料館の比較といえば、三春町にあるコミュタン福島との比較を述べた意見も出されました。

●コミュタン福島が子ども向けに楽しく学習できる施設、楽しく写真も撮影できた。伝承館の方がチャラい感じがした。
●コミュタンは放射線教育の施設。伝承館との見方がそもそも違う。
●コミュタン福島は放射線を楽しくゲーム感覚で学ぶ。危ないものではなく、楽しく学ぶというスタンスに腹立たしさを覚える。震災から10年なので、いまの高校1年生は当時就学前の年齢であり、自分の言葉で経験を語れない。伝承館はそのような世代が出来事を学んでいくための施設になると思うが、上っ面だけで学んだ気になることが懸念される。さらに震災がわからない全国の子どもたち、福島で生まれた子どもたちが「東電」という言葉を知らなければ、意味がない。


震災から10年が経とうとしているなかで、そもそも「震災・原発事故」を伝えていくのかという課題を伝承館が本当にこたえようとしているのか。

●伝承館に見学に来た福島市内の高校生からは、「震災は終わっていたと思っていた」という声があった。「ここに来て初めて、まだ苦しんでいる人がいることを知りました」と、原発事故の被害がなかったことになっている高校生がいる。その子たちにわかってもらう場にもなりうる。

そして、その伝承の場は館に限られるものではないという意見も挙げられます。

●そもそもなぜここに伝承館を作るのか。周囲の風景と合わせて批判的な思考を生み出せるのではないか。村全体で資料館になるという発想が水俣にはある。
●伝承館の周囲にも津波被災の家や人の住んでいない家など、伝承館だけだはわからない風景を伝承館に取り入れるのはあってしかるべき。そうすれば浪江、津島などを含めた地域の伝承の中心地になるのが伝承館となればいい。
●できれば、その範囲を防波堤のあたりまで広げてもいい。高校時代まで双葉に住んでいたけれど、津波が来るという話を聞いたことがなかった。そういうものを伝承館で伝えてほしい。原発が来ることに大人たちは喜んだが、結果的に豊かになるどころかこうなった。失敗学でもいいから、そこまで伝承館はつっこんでほしい。改善の余地がある。双葉町民としては、こういう伝承があったから救われたよねとなってほしい。



(請戸小学校)
一方、伝承館のメッセージについては次のような批判も出されました。

●議事録が残されていないと、伝承館が成長する余地はないのでは。アンケートの活かし方もわからないし、そもそもそれが活用されるのかどうかも公開されないのはおかしい。事実の羅列はなにがしかのメッセージを伝えている。入場して冒頭の映像にある西田敏行のメッセージには、「莫大な雇用を生んだ」という文句だけだった。そのとき、原発の安全性について国はどう説明したのかなど、あえてメッセージ性をなくしているのではないか。

予定時間の半分が過ぎたところで、「伝承館に書かれていないもの」について論点を移しました。

●避難者の数について「当初16万人から7万人」になったとおいう記述があったが、その減った9万にはどこへ行ったかが書かれていない。これだけの説明では、「避難者が減ったなら大丈夫だ」という印象を与えるだけではないか。
●避難所の様子は写真などあったが、中通りの人たちの不安がどこにも書かれていない。飯舘村など、甲状腺件にしても今後の不安が何も書かれていない。若いお母さん方にはいろいろあるにもかかわらず。
●責任が全く書かれていない。国も、東電も、福島県の責任が一切書かれていない。
●伝承館に行く途中にフレコンバックがたくさんある。汚染水もたくさん目にしながら、そういうものがあることの不安をみんな抱えているのに、それが実際これからどうなっていくのか書かれていない。除染した土は今後どうなるのかとか。
●ライブラリースペースがない。ふつう、博物館美術館には関連施設情報・資料があるはずだけれど。
●原発事故発生から全国的な放射線量の推移についての記述がない。
●裁判に関する事例、結果がない。

施設や展示の構造そのものに対する次の批判は、いったい53億円もかけて何を作ったのかという当然の怒りを覚えます。

●片目弱視であり、展示物が見にくく、障がい者や高齢者を当事者としてみていない。聞いたところ、伝承館の職員もそう思っているとのこと。キャプションが小さい。音もあちこちで出ているので、どこの音を拾っていいのか困る。西田敏行のナレーションで流される斜め立体スクリーンをどれだけの人が見られるのか。高齢者、小学生にはムリ。入場した瞬間にユニヴァーサルデザインでなく、当事者性もないことがわかる。当事者がいなくなっても記録できるアーカイブ施設であってほしい。また、被災者にとって津波の映像はつらい。白黒写真なのはなぜ?昔のことのように表現したのか、PTSD対応なのか?語り部の抑制や展示物から葛藤が見えてこない。
●もう復興していますという感が強い。風評被害も以前ほどではないというメッセージばかり。被災地の近くにいればいるほど復興などしていないことがわかるのに。
●アーカイブという点でいえば、当時の県がどういう対応をしなくてはいけなかったかという資料が市町村に莫大にあるはず。が、それを記録保存しようという意志が感じられない。10年前に人々がどういう不安を持っていたのか。その当時の人々が抱えていた苦しみを見た人に感じられる施設でなくてはならないのではないか。
●放射線の被害、不安については一切書いていないことがなぜできたのか。水俣の人々は苦しみを見たくなかった。けれど、その苦しみを描いてどう見に来てもらうのか工夫した。
●当時被ばくの健康不安は24%、現在は8%というデータが示されていた。そこに違和感があった。


ついでに言えば、「自主避難者」という存在は伝承館のどこにも見当たりませんでした。
その存在はなかったことにされているのでしょうか。
それとは対照的に、福島に残った、あるいは戻ってきた在福外国人の方々への称賛が強烈に印象付けられる動画が展示されています。
ここには避難した人々への「排除」が暗に示されいることは否定できないでしょう。
それはさらに、「トモダチ作戦」で被ばくした米兵たちが訴訟を起こしている事実とも対照をなします。
では、伝承館はけっきょく福島県の広報機関に過ぎないということでしょうか。

それに対して、語り部をされている参加者からの言葉は非常に考えさせられるものでした。

●伝承館には、いまだ避難している人たちも来館します。その人たちは泣きながら展示を見ている、けれど自分たちのことを知ってほしいという思いで、耐えて来館している人たちがいるのも事実です。3km圏内に居住していた住民は、原発爆発以前に強制避難させられており、その意味で被ばくはしていないのですが、そうであるにもかかわらず、避難先では被ばくしたものとして言われない差別を受けた人もいます。それらを含めて、ここに来るのは被災経験を共感してくれる人がいるかもしれないと思って来館している。そういう話を聞いて伝承館は、そういう場でもあると考えました。自分たちがここ(双葉)から離れられないこともわかってほしい。しかし、ここに住めない現実の中で避難先に生きざるを得ない現実もある。その思いを踏みにじられたくないという象徴、同じような思いをもつ人と出会える場。そういうものとしての伝承館の意味があるのではないかと考えます。

これは避難という現実を経験した人、そして故郷を奪われたことの現実を知る人の言葉です。この会の前半に語られた「中身のない広報としての伝承館」から、一気に別の様相があらわになった瞬間でした。福島県の大きな「復興」物語をそのままに受容するほどナイーブな見学者ばかりではないことは、今回の話し合いのなかで核にされたことです。しかし、その大きな物語とは別の可能性が、被災当事者の葛藤から絞り出されたことは大きな発見だったのではないでしょうか。
もちろん、その場に集う人々が饒舌に自分の被災経験を語ることは難しいことであることは言うまでもありません。
それでも、なぜ語り部になるのか?
その問いに対しては「いままで語れなかったことへの思い」、「語る場所、語る機会がないことへの思い」、「残したい、れてほしくないという思い」、このような個々の小さな物語が位置づけられる場としての伝承館とは、おそらく語りそのものを規制する公的機関としての福島県が想定できるものではないでしょう。
しかし、そのような場としての伝承館に「育てていく」ことは、来館者の責任ですらあるのではないか。
これが、今回の話し合いが到達した一つの結論であったように思われます。
今回の企画では、当初相双地区以外の参加者が多くを占めていましたが、思いがけず語り部当事者の参加にも恵まれ、そしてその経験と思いが、話し合いに全く予想もつかない伝承館の意味をもたらしていただけたことに、つくづく出会いの偶然と有難さを感じさせられたものです。
今回の話し合いのまとめを公開させていただくことで、原発事故の教訓を示す機関として伝承館がさらによりよいものになることを期したいと思います。(文・渡部 純)

原子力災害伝承館で考える【満員御礼・募集を締め切ります】

2020-10-23 | 〈3.11〉系


【テーマ】原子力災害伝承館で考える
【日 時】2020年10月24日(土)13:00〜15:00(ダイアローグ)
     ※事前に各自で館内を見学してください。
【会 場】いこいの村なみえ
【集合場所・時間】いこいの村なみえコテージ会議 13:00
各自での現地集合になります。各自で伝承館見学と昼食を済ませてご参加下さい。
13:00より館内でのダイアローグを予定しています。
【定員】20名・満員御礼ににつき、募集を締め切らせていただきますm(__)m
【参加申込】 参加希望者はメッセージをください。定員になり次第応募を締め切ります。
【参加費】 〇展示入館料 大人600円 小中高:300円 ※各自でお支払いください。
【共催】エチカ福島
【開催趣旨】

去る9月20日に双葉町にオープンした原子力災害伝承館を見学し、みんなでその意味について考えましょう。
この災害資料館をめぐっては、県が学校へ助成金を出して交通費がほとんどタダ同然で訪問できるなど、かなりの公的資金が導入されています。
しかし、「タダ」ほど怖いものはないと考えるのは勘繰りすぎでしょうか。
まずは見学してみて、参加者同士の意見を交換しながら伝承館の意味について考えてみましょう。
果たして、この災害資料館が目指す「伝承」とは何か

【コロナ対策】
なお、コロナ対策のため各自で当日のマスク着用はもちろん、検温をして下さい。
その際に、37.5°以上の熱がある場合には参加をご辞退いただきます。

【第12回エチカ福島報告①】公害事件と世代間伝達―水俣事件を第二世代はどのように考えてきたのか

2020-04-12 | 〈3.11〉系

昨夏、8月17日、エチカ福島では水俣より高倉草児・鼓子兄妹を招いてシンポジウムを開催しました。
テーマは「公害事件と世代間伝達-水俣事件を第二世代はどのように考えてきたのか」です。
このテーマには、「2011年の東電福島第一原発事故の被害を受けた我々が次世代に何をどのように継承すればよいのか」という問題意識が込められていました。
半年以上も前の記録になりましたが、その内容は全く色褪せないどころか、ますますリアリティを帯びています。
ぜひご一読ください。
前半の記事は高倉兄妹による講演内容になっています。



【ガイア水俣の歴史と高倉兄妹】
草児
まず僕らの話をさせていただきます。ガイアみなまたで働いていると言いましたが、も ともと僕の親父は千葉県茂原市出身で、若い頃に社会運動というか旅をして九州に来まし た。そのとき熊本で本田啓吉さんという水俣闘争の思想的リーダーにたまたま出会った 際、「今水俣が熱いからそこへ行ってみなさい」と言われた。そのまま水俣に居ついたの が親父でした。おふくろはまた別の理由で水俣に来たと思うのですが、詳しく聞いていま せん。とにかく流れ流れて水俣に残りました。親父は水俣に移り住んでから、水俣病患者 の川本輝夫さんと、水俣病の見えない患者さんたちをどんどん発見していって明るみにさ らしていこうという未認定患者掘り起し運動をしていました。

鼓子
未認定患者というのは、水俣病に認定されていない人々を指します。水俣病は県知事の 判断でもって認定か棄却かが決まるので、医師の診断ではありません。そもそも認定申請 制度を知らなかったり、申請すること自体に差別的な視線が注がれていた背景もあって、 側から見れば水俣病の症状があるように見えるのに、申請されていない方々が多数いまし た。父はその掘り起し運動に取り組んでいたんです。


草児
本来は国や県が未認定患者の掘り起こしをしなければいけないのですが、そのような 方々がたくさんいたというので父はその運動に取り組んでいました。さきほど主催者から 「相思社」というワードが出ましたが、正式名称は水俣病センター相思社といって 1970 年 半ばに構想されて建てられた施設です。目的の一つが、患者さんとその家族の拠りどころ にしようというものでした。

鼓子
時代的に 1970 年半ばは、水俣病第一次訴訟という大きな裁判で勝訴した患者たちがその 後どう生きていくかという問題がありました。勝訴はしたけれど、患者さんの人生はそこ で終わりではないので、地域で孤立している患者さんがどう生きていくのか。その生業や 運動の拠点としようとしたのが相思社でした。

草児
運動も続いていたので、相思社の中でも裁判を支援したり、患者さんとの共同作業とい う意味ももちろんありますがもう一つには相思社自体の運営のためにもキノコ工場をつく ったり、堆肥をつくって売ったり、長野県までリンゴを仕入れに行ってそれを配達して売 ったりだとか役割を分担していました。いろいろやっていく中で、今も残っているのが甘 夏づくりです。当時、不知火海沿岸を中心に漁師として生業を立てていた人たちが水俣病 を発症して生活できなくなっていたという経緯があるので、甘夏が熊本県下で栽培を奨励 されていたこともあり、甘夏づくりに向かう患者さんたちが出てきます。
第一次訴訟勝訴の後に、その人たちが生きがいとして何をしようかということになりま した。ランクが決められ、1600~1800 万円の補償がもらえることなったのですが、そのお 金は医療費の借金のカタなどに消えて何になるのかということになります。そのとき、運 よく甘夏があり、じゃあ陸に上がろうということになりました。出稼ぎなどで稼いだお金 で根気よく苗木を買って一本一本植えていきました。そのとき植えた苗木が今でも現役で す。その患者さんたちの甘夏づくりに対して、主に販売事務局としてかかわったのが相思 社だったのです。親父たちは相思社で仕事をし、甘夏については特に生活クラブという生 協とおつきあいが始まって販売量も増え、何とか生活ができるようになりました。甘夏をつくっている主体は患者さんたちだったので、その団体名を「水俣病患者家庭果樹同志 会」(以下「同志会」)としました。それが、いま「きばる」という名前に変わっていま す。
そのときにはまだガイアみなまたはありません。ガイアは 1990 年に出てくるのですが、 1989 年に起こった「甘夏事件」というのがきっかけになります。
当初、「同志会」をつく った際に、水俣病の被害にあった人間ができるだけ加害者にならないようなものづくりを しようというスローガンを掲げました。農薬や化成肥料が改善要素の最たるものでしたか ら、農薬はできるだけ使わないようにしよう、肥料も有機質のものを施肥しようと決め て、つくっていました。だから、農協さんとは違う流通網を立ち上げる必要があった。そ こに協力してもらったのが生活クラブ生協さんや、日本各地で甘夏を買ってくれる人々だ ったんですね。やるからには独自の基準をつくらなければいけない。たとえば酢とか焼酎 を代替資材として使って甘夏をつくるであるとか、農薬を減らしているので外観は市場の ものと異なるよ、という基準を外部に示していました。ところが1989 年にカイヨウ病がか なり流行ります。カイヨウ病とはコルク状の斑点がミカンの皮につく病気なんですけれ ど、これに加えて裏年というか生産量の少ない年だったんです。欠品がかなり見込まれた ので、相思社の甘夏部門が同志会の基準に合致しない、会員外の甘夏を手配して補填した んです。それを消費者にあらかじめ伝えておかなければいけなかったんですけれども、で きなかった。それは不義理じゃないか、水俣病の裁判支援や患者さんとものづくりをする 人間たちがいかがなものかと、ある新聞の一面に載ってしまった。その片を付けなければ いけないということで、父や母たちを含む相思社の一部メンバーが引責辞任しました。
もともと、よそから水俣に入ってきた人間ですから地元に帰る術もあったのですが、せ っかく植えてつくった甘夏があって、その甘夏をつくり続けたいという患者さんたちも数 人おられた。だからもう一度、不義理してしまったことを反省して、再スタートしたのが ガイアみなまただったんです。とはいってもその経緯については本で読むだけの知識しか ないので、本当のところを僕らが理解できているわけではありません。 はじめ 9 人のメンバーがいて、引き続き甘夏の販売を担うことになりました。ただ、「水 俣病患者家庭同志会」という名前は使えないので、「きばる」という名前に変えたわけで す。それで、資料にあるのはガイアみなまたの通信です。ガイアみなまたを立ち上げた頃 から出しているのでもう 59 号になります。そこに親父たちの思いをコラムとして載せてい ます。我々兄妹は相思社の時代に生まれ、そういった親父たちの背中を見ながら育ちまし た。

鼓子
大きくなってから気づいたんですけれど、ガイアみなまたが他の会社と異なるのは、共 同生活の場でもあるという点です。当時 5 つの家族が集まって有限会社を立ち上げたんで すけれど、貧乏なのでお昼と夕飯はみんなで食べる。子どもたちもまだ小さく、総勢 20 人 くらいで食卓を囲んでご飯を食べる日々で、車もシェアし、保育園のお迎えも親たちが交 代でしていました。

【親の水俣闘争に無関心な子どもたち】
草児
堆肥もつくっていたからか、蠅なんかが飛び回ってすごい環境だったね(笑)。 今日話すことはある意味特殊なことかもしれません。親父たちは水俣病に深くコミット してきた、そして甘夏づくりの背景にあるのは水俣病患者さんたちとの共同作業です。そ こで育ってきた我々なんですけれども、それだけのバックボーンがありながら、全然水俣 病のことを知らなかったというか、知る気がなかったというのが高校生までの生活でし た。目の前には水俣の海が広がっていましたし、僕なんかは小学生の頃からずっとその海 で泳いだりして遊んでいました。けれど、全然水俣病に興味関心がなかった。

鼓子
私も、小中高を通して水俣病に興味がなかったし、父親にそういう話を聞くこともなか った。学校の授業で、水俣病について教科書の勉強だけでなく語り部さんの苦しみや思い を聞く時間はあったのですが、チッソについてみんなで話そうとか水俣病事件について深 く考える場というのは授業の中にはなかった。当時そういう教育は受けていないと思って います。

草児
高校卒業するときも、僕は大学に行くんですけれど、大学に入りたい理由というのが水 俣を出たいからというものでした。何もない水俣から出て、早く都会へ行きたい。結局神 戸の大学に通ったんですが、僕の話をすると学部の同級生たちから「お前、水俣出身なん だぁ。水俣出身なら水俣病のことを教えてくれよ」と聞かれます。でも、全然知らないか ら、「本でも読んでおけよ」と言いながら、僕は隠れて図書館でこそっと本を読むんです よ。色川大吉さんの『水俣の啓示』という本とか。無茶苦茶おもしろいなと思いました。 だから、僕は大学の図書館で初めて水俣病と出会ったわけです。風景としては、さきほど 言ったように、水俣の海は目の前にあったし、親父たちが甘夏を売っていたし、水俣病の 患者さん、特に胎児性の患者さんたちがガイアの事務所に遊びにきてくれていたので、一 緒にご飯を食べたりなんかしていたんですけれども、それはよくも悪くも日常風景の一部 だったので、彼らが水俣病患者だということをまったく意識しないんですよ。○○さんっ ていう個別の名前でしか認識していなくって、胎児性の患者さんとしては認識していな い。今考えると、そこは不思議なところなんですけれど。

鼓子
私の場合は、ちょうど私が大学に入学した 2006 年以降、明治大学や和光大学で水俣展が 開かれていたので、水俣を外に行ってようやく知りました。水俣ってこんなに注目されて いて、こんな立派な展示があって、土本さんのドキュメンタリー映画もそこで初めて見る という。外に出てようやく注目されていることを知って、勉強しなければいけないなって いう気持ちになりました。2006 年は水俣病公式確認から 50 年でもあったので大々的に水 俣が報じられているのを見て、水俣出身なのに知らないのはまずいなと思いレポートを書 いたりしましたが、そこで止まっています。それ以上発展させようという気持ちはなかっ たです。

草児
僕も図書館で本を読んだといいましたが、詳しい学術書をたくさん読んだわけではな く、ミーハーなんです。緒方正人さんの「チッソは私であった」なんて、カッケーなぁっ て思ったりして。今思えば恥ずかしい限りですが、そういう表面的なところでしか触れて いなかった。

鼓子
展示を見に行くと、知っている人がいっぱい写っているんです。ふだん自分の周りにい る人たちがメディアに写って、写真に切り取られているときのカッコよさ。こういう人と 知り合いなんだなぁと思いましたが、それ以上深くは考えませんでした。

草児
大学卒業後、僕はとある生協に入りまして、一年間コールセンターに配属されたのです が、その窓口業務に耐えられるほどできた人間ではなかった。次の年には、仙台で冷凍食 品の営業を 10 か月したんですけれど、そこでぐうの音をあげてリタイアをし、そのまま水俣に帰って来たんです。まったく胸の張れる帰り方ではなかったんです。ほうほうの体で 逃げ帰って、たまたま親父たちがまだ甘夏をやっていたから、働かせてくださいというこ とでギリギリ働かせてもらえたんです。他にどこに再就職するとか考えなくて。そのとき 自分はどこにも適応できない弱い人間だと、すごい思いながら逃げ帰ったので、何も考え ず実家に戻ったというのが正直なところです。

鼓子
私の場合は大学卒業して東京で就職したんですけれど、じつは就職活動をする前にガイ アみなまたに入ろうとしました。農業に興味があったので、農地もあって甘夏も植えてあ るガイアは魅力的でした。水俣病のことを何かということは一切頭にはないんですけれ ど、親がやってきた甘夏の仕事を継ぎたいという単純な気持ちで、就職活動する前にガイ アで働きたいんだと父に相談したところ、「やめてくれ。お前が帰ってくる場所はない」 と言われました。父は私が外で働くことを望んでいたし、大学も必ず卒業して、それから 広い世界を見て来いと。もしガイアに戻って来たいと思っても、一回違うところに就職し てからにしろと言われていたので、一度農業法人に就職しました。が、兄と同じで、私も 東京での暮らしが合わなかったので水俣に帰りました。でも、私が水俣に帰って水俣病を 伝えるんだとか、そういうキラキラしたことはまったくなくて、居心地のいいホームに帰 りたいという気持ちが強かったんです。

草児
ここが重要だと思うのですが、親父は帰ってくるなと言うんですよ。一回飲んでいると きに、「ここはちょっときついぞ」と言われたことがありました。

鼓子
水俣病のことも、何で私たちに伝えてくれなかったのかなと、大人になってから思って いて。

草児
僕らは知ろうともしなかったんですけれど、親父は逆に自分がやっていることを伝える 気があまりなかった。

鼓子
なぜだったのかと聞いたら、自分が話すと偏るからと言われました。被害者の立場に立 って、裁判も一緒に闘っている人間の言葉を子どもに聞かせると間違いなく自分の方に寄 ってしまうから、そうではなくて自分で学んで判断してほしかったと。「君たちが聞かな い限りは、何かを伝えようとは思わなかったし、興味があるならば答えようと思っていた けど、聞かれることもなかったから」と言われました。

草児
でも、「闘う人」というのは滲み出てましたけどね。親父に電話がかかってきたときの ことです。最初親父も礼儀正しいのですが、いきなり「もう知らん!」と言ってガンと電 話を切って、「塩まいとけ!」と言うんです。激しいんです。だから、この人は闘ってい るんだというのは、言わなくてもわかる。小学校の頃ですけど、何かの会議から帰って来 るなり、「うわー!!!」と叫んで畳をドンドン叩き出すんです。すごく鬱憤がたまって いるんだ、というのは傍目に見てわかるんです。

鼓子
裁判や交渉などで父がメディアに取り上げられ、テレビに出てくるんですけど、何で父が出てるのかわからないのと、水俣病にかかわっていることをあまり友達に知られたくな いので、次の日に学校で友達から「お父さん出てたね」と言われても、「へぇ~」と流し ていました。あまり自分も深く知ろうと思わなかったですし、恥ずかしいと思っていまし た。父が水俣病にかかわっている人として出ることが嫌でした。

草児
結局、今ガイアみなまたで働いているんですけれども、帰って来た当初は特にそれぞれ 何も考えていなかったのが正直なところです。ところが、年を経ていっぱしの大人として 扱われるようになると、水俣の見え方というか、かかわり方が少しずつ変わってきます。 一つは地域にかかわる共同作業とか、町おこしの中で地域にかかわるようになると、ガイ アみなまたという評価がもろに出てくるんですよ。ガイアみなまたというと、くり返しま すが、元々は相思社で働いていた人間がやっている会社です。じゃあ、相思社で何をやっ ていたんだというと、患者さんの支援をしています。語り継ぐという作業をやっています と。
 そこで、ちょっとうがった見方をすると、色がついてしまう。「あぁ、高倉さんの息 子さんね」というのはある種のレッテルなのかなと思って、最初は変に反発もしていまし た。そういう風に見られると嫌でも意識せざるを得なくなる。親父がやってきたことは何 なんだろう、ガイアみなまたが今やっていることって何なんだろう。ガイアみなまたで働 くことで私たちができることって何なんだろう、と次は自分のレベルで考えるようにな る。 水俣って今、「再生」、「環境創造」とか明るい方へ明るい方へ向かっている。それはと ても大切なことなんですけれど、それと「水俣病事件が解決した」ということとは、ちょ っと違う。何でもそうだと思いますが、過去の事実、失敗や衝突や努力の積み重ねが土壌 として重なり合って、その上に未来が花咲く。
 だから過去と現在、そして未来は簡単に切 り離すことができないんですよね。そんなきれいに花は咲かないよ、と。そこに違和感が あって、だからせめて「いや、今もむっちゃ大変なんですけど何とか前に歩いていこうと みんなギリギリ頑張ってるんですよ」みたいな、地に足がついたところのもどかしさを伝 えたいという思いもあります。一度、環境省主催の講演会が東京であって、僕らパネリス トで招かれたんですけど、「あばぁこんね」という団体による町おこしのような事例を報 告した時に、最後のまとめで「若い人がこんな風に未来に向かっていろんなことをしよう としている。水俣ってすばらしいですね」みたいなまとめを、当時の環境省の事務次官が まとめようとしたので、僕が思わず「まだそんなんじゃないと思います」と言ってお茶を 濁してしまったことがありました。全然、すばらしいことができているとも思っていなか ったので。とにかく自発的ではないんです。周りから、外的要素から自分を考えるように なったんですよ。

鼓子
私は 2016 年にガイアで働きはじめ、「きばる」をやっているけれど、そもそも「きば る」の生産者 27 軒の人たちがどういう人たちかなのか知らなかったんですよ。ずっと父た ちの代からお世話になっていて、その甘夏の売り上げのおかげで私たちは生きてこられた のに、どういう人たちがつくっていて、どういう気持ちでやってきたのかまったくわから なかった。
 だから、兄と一緒に話を聞かせてくださいと聞き取りにまわったんです。その ときに、女島という地区に住んでいる緒方幸子さんから「あんたたちのお父さんたちが運 動してくれたおかげで今があるとよ」って言われて、凄くびっくりしました。「高倉さん の名前聞いて、ここで感謝せんもんはおらんよ」って。お世辞もあるんだろうけど、それ でも本当にうれしかったです。やっぱりどこかで私は父たちがやっていることを恥ずかし いと思っていて、やってきたことはあまり地域で受け入れられていないし、相思社やガイ アみなまたという存在がよそ者の集まりで、水俣を混乱させているという見方をされてい るんじゃないかと、ずっと思ってきたので。
 60 代以上の方々からは直接そのようなニュアンスで言われることもあって、相思社とい うだけで「ああ、あの相思社ね…」みたいな。そういう気持ちもあって、自分も父母がや っていることを評価できていなかったので、あらためて「来てくれてよかった」と言って もらえたことがうれしくて、そのときからようやく私は父たちがやってきたことを知らな いといけないなと思って、私の場合はそこからぐっと水俣病事件とは何だったんだろう と、勉強し始めました。

【沖縄・高江の座り込みから学ぶ】
鼓子 
  同じ時期に私は沖縄の高江に行ってきました。Facebook や Twitter でちょうどそのと き、沖縄の高江にヘリパッドがつくられていることを知りました。政府が工事を強行する 中で住民が反対しているんだけれど、140 人しかいない小さな集落に機動隊が 500 人以上 投入されていました。高江に行って自分もびっくりしたんですけれど、肌で感じることが 多かった。
父母たちがやってきたことは、私とか次の世代が苦しい思いをしないようにとか、もっ とみんなが住みよい水俣にしたいという気持ちからなるものなのかなということを、高江 に住む人の話を聞きながら思いました。運動とか闘争と呼ばれているけれども、人間が幸 せに生きるためにはどうすればいいのか、尊厳を守るってどういうことなのかといった根 源的な問いを、一生懸命考えた上での行動が座り込みなどの住民運動なんだと。父の場 合、裁判闘争が主だったのですが、裁判というシステム上で闘わざるを得なかった苦労に 思いを馳せることが、ようやくできるようになりました。だから、兄と違うなと思うの は、兄は一歩引いて水俣病事件を見ていて、私は一歩前に出てるんだよね。

【水俣の記憶と世代間伝達】
草児
兄妹でバランスを取っているのかもしれない。やっぱり伝えるということは大事だと思 っていて、この 10 年が何もしなければ水俣という言葉が少しずつ消えていくだろうなとい うことをひりひりと感じています。記憶としても事実としても消えていくというか。水俣 病事件というのはいろんな記憶の集合体なんですよね。甘夏ミカンを通して水俣を生きて きた人もいれば、かわらず漁をしてきた人もいるし、裁判をしてきた人もいるし、チッソ という側から見てきた人たちもいる。いろんな糸が寄せ合って一つのものを織りなしてい ると考えると、我々はその一つの記憶でしかないんですけれど、格好つけていえば、小さ な物語を伝えることの意義というものを今すごく考えています。
 じゃあ、それを伝えたと ころで実際に何の効果があるかはわからないんですが、2,3 人ふり返ってもらえればいい かな、と。その伝えるということをどうすればいいか。 生まれ故郷で暮らしていると、いわゆる親父サイドではないその他大勢の方々とふれあ う機会がたくさんあります。その中で、「お前の親父が水俣に入ってきたことで大変だっ た」と、実際に面と向かって言われたこともあります。でも、今考えてみると、その人に もそういう発言をするだけの理由があるんですよ。悲しいつらい過去を経験していて。だ から、親父たちを責めることが第一義にあるのではなく、「この思いをどうしたらいいの か」みたいなのがあって、どこにも言うところがないから、とりあえず目の前の人に言う みたいなところがあるんじゃないかと思います。
 だから、それは甘んじて受け入れたい。 もともとケンカすることができない性質なのですが、ガイアの兄妹間の役割で言えば、妹 がすごい突き進んでやってくれているところがあるので、僕は逆にあまり突っ込まない。 この間も市議会の傍聴とかに行ってたよね。今度どうなんだっけ?公害が消えるんだっ け?

鼓子
水俣市議会の特別委員会に公害環境対策特別員会というのがあるんですけれど、そこに 「公害」という名前がついていると、未だに公害が発生していると思われたり、水俣に企 業を誘致する際にマイナスイメージになる可能性があるから外しましょうという議案が出 されて、可決されてしまったんです。環境問題として取り扱えばいいじゃないかとなった んですね。

草児
じゃあ僕も妹とこういう活動を一緒にやるかとなると、ヘタすればガイア自体が全部そ れになってしまう。そうなると、その他大勢の人の理解を得られないなと思って。これは 戦略的に卑怯だと思われるかもしれないけれど、僕はその他大勢の人たちと関係を保つ役 になろうと何年か前から意識しています。とにかく、ガイアみなまたというのは、めちゃ くちゃうまい甘夏を売る団体であります。そして、その甘夏からめちゃくちゃうまいマー マレードをつくる団体であります、というところを目指したい。このあいだ、愛媛県八幡 浜市でマーマレードアワードという審査会があり、日本中のマーマレードを集めて品評会 をしようじゃないかということになりました。もともとイギリスでやっているんですが、 その日本版です。そこに出品したら、ハイ!銀賞いただきました(拍手)。ある種の正当 な評価を得るということを僕はすごく意識しています。評価を得たからと言って、何か役 に立つわけでもなく、売り上げにつながるかどうかはまた別の話ですが、そのことによっ て一部の人たちが僕らの存在を知ってくれるというのは、僕らにとってかなりのメリット だと思っています。その銀賞を取ったガイアみなまたが、こんな変なことをしているとい う文脈の方がわかりやすいと思っているのです。

鼓子
兄はこう言っていますが、私は違います。私は変なことをしていると思っていないんで すよ。たしかに、父たちがやってきたことは左翼運動、言ってしまえば過激派と見られて いたので、私の中にもそれに対する偏見があったんですよ。運動やっている人というのを どこかで切り離したい気持ちがあったから、ちょっとかかわりたくないというか、あまり 評価ができていなかったんです。 でも、やっぱり高江に行ってみてわかったのですが、座り込みをやっている人たちって 本当に普通の人たちです。そこで暮らしている住民が別に運動をやりたくて住んでいたわ けではないのに、いきなり自分たちの住んでいる環境にヘリパッドができてどうしようと なった。でも、運動とかやったことないから、とりあえず座り込むことで抵抗の意思を示 そうという方法をとるわけですよ。
 父たちも運動がやりたくて水俣に来たわけでもない し、たまたま水俣に来て、水俣が気に入って、患者さんと出会ってしまったから、この人 たちを置いてどこかに行く気持ちにはなれなかったという、人間のつきあいで住んでい る。運動がすべてではないということがわかったんです。 だから私は変なことをやっているわけではないんだということを、高江に行ってわかった んです。 高江や、沖縄の基地反対運動している方々に向けられるネット上の批判は、かつて父た ちが言われていたことに似ています。だからこそ、権力に立ち向かっている人たちに対す る偏見を自分が持つのはおかしいなと思いました。私が高江に行くと水俣の知り合いのお じさんに話したときも、「日当 2 万円、出っとやろ」と言われました。おじさんはネットや っているように見えないのに、なぜ日当の話をするんだろうと頭を抱えました。アカが集 まっているとかものすごい偏見を持っている。沖縄の宿に泊まったときも日当が出るって 話は言われて、そういう偏見、わかってもらえなさ、お金のためにやっていると思われる くやしさを感じた。
 でも、高江で学んだのは、住民の人たちは伝え方をものすごく研究しているということ でした。偏見の目で見られること、SNS で発信すると炎上してしまうようなことをどう工 夫して伝えるか、共感を持って注目してもらうためにどうすればよいかを考えて実践して いる石原さんというご夫婦に会うことができて。二人は座り込みの現場で、夫婦で笑顔で 写真を撮って、それを SNS で「僕たちの笑顔は権力に奪わせません」と発信して、「いつで も愛とユーモアを」とずっと言っているんですよ。傍から見ると、緊迫した状況でそんな こと言っていて大丈夫?って思われるかもしれないけれど、でも否定されることではない じゃないですか。愛とユーモアなんてみんなに必要なことだから。だから、水俣に関して 伝えるときも、正しさとか信念を伝えるだけよりも、そこに愛とユーモアを添えることで 伝わりやすさが増すのではないかと。父母の運動に偏見を持っていた人たちにも理解して もらえる言葉がつくれるんじゃないかなと、今私は意識しています。
  本当に一番知ってもらいたいのは、水俣で一緒に生きている人たちです。水俣外の人た ちの方がフラットに見てくれるので、市議会が「公害」という名称を外す決定をするなん てあり得ないと言ってくれるんですけど、水俣のほとんどの人は「別にどうでもいいんじ ゃない」と言うでしょう。他にも水俣病の名称変更についての議論がまた復活したりして いて、水俣病という名前のせいで差別を受けている、その言葉を子どもたちの世代に残し ていいのかどうか議論したいと言っている方もいる。それはもっともなんだけれど、その 言い方では水俣病患者が悪いようにも聞こえてしまう。一方的ではない対話ができないか なと考えています。福島は対話の機会を多く設けられていると思うんですけど、水俣でも 同じようにできないかなということを考えています。兄は優しい人なので、センシティブ な議論はしたくないタイプなんですが、私は議論はしたいのです。

草児
親父たちが話す言葉と僕らが話す言葉の使い方は、全然違います。前提として、親父た ちが経験してきたことを僕たちは自分のことのように話してはならないと思っているんで す。たとえば、ガイアみなまたのテーマには「母なる大地にありがとう」というのがある んですよ。これはおそらく母の実感から出てきた言葉であると思うのですが、僕らは僕ら 自身の言葉を発しなければいけない。いろいろなところで何回かお話をさせていただく機 会がありましたが、完全に借り物の言葉なんですよ。僕の口から出てくる言葉は。そのと きに感じる無力感。この言葉は絶対 10 年もたない。僕自身がこんなことをしゃべっていた ら空虚なんですよ。僕のリアリティというのは、今は甘夏ミカンなんです。甘夏ミカンが 目の前にあってそれを箱に詰めて人に売るっていう。その甘夏ミカンが実は甘夏を通して 水俣を生きてきた人たちの軌跡につながっているので、それを自分の中でどう咀嚼して、 自分の生活実感を伴った言葉に変えていくかというのが課題なんです。だから、今日も話 しながら「あぁこれ、あの人の言葉だ」というのが出てくる。いろんな本をつまみ食いし ているから、いろんな人の言葉が出てくるんですけれど、そこから 8 割くらいの言葉を差 っ引いて残ったのが僕の言葉という感じなんですね。そこが忸怩たる思いなのですが。

鼓子
私は今回のテーマになっている、次の世代に伝えることは意識しています。それは自分 が小中高校を通して、まともな水俣病教育を受けた記憶がないからというか、水俣病につ いて全然話せなかったんですよね。知識として社会科の教科書で学び、目の前で患者さん が語りその話を聞くんだけれども、何がどうして水俣病事件がこうなってしまったのかを 考えるとか、みんながどう思っているのか話す場が一切なかった。(その授業を実践する ことは)すごく難しかったと、かつて小学校の先生をやっていた方に聞いたことがありま す。それは、私の生まれ育った地区が水俣病患者の多発地域だったことが関係していま す。患者家族が同じ教室の中にいたのと同時に、親御さんがチッソで働いている子どもも いるので、とてもデリケートな話題になります。そこで先生がチッソの加害性について話すと、子どもがどう思うか。親御さんがどう思うか。そのことを考えると話せることがも のすごく限られたと言っていました。水俣病教育に関しては一律にこういう話をしましょ うというものがなく、各教員に任されていたようです。その先生のアプローチは水俣病に 関する詩とか歌といった表現を通して子どもたちに伝える、それを構成詩という形で発表 させる。そういう形での伝え方はあったけれど、事件性を問うとか、みんなでディスカッ ションをしようということもなかったので、友達がどう考えているのかとか、まったく知 らない。そういう環境が水俣病に興味を持てない私をつくったと思うので、じゃあ今、自 分が次世代の子どもたちに残せるものは何なのかを考えています。何か指針じゃないけれ ど、「お守り」のようなものがあったらいいと思っていて、そのきっかけになるような一 冊の本をチッソの人たちも一緒に、みんなで話し合ってつくれないかなと考えています。 それはやっぱり自分が知らなかったということがあまりにも悔しかったというのが、大 人になって気づいたことなので、大人になった自分がやれること、責任を果たすことがで きるとすれば、子どもたちが水俣で生きていく上で知っておいてほしいことを一つ提示で きればいいのかなと思います。 水俣病のことを大人になってから勉強し始めたときに衝撃を受けたことがあります。
 昔 の資料って名前とか住所がそのままに載っているんですよ。そこに友達のおじいちゃんと かおばあちゃんとか、おじさん、おばさんの名前が出てきて、患者のいる家も地図で黒丸 の印がついていて、それ見ると友達の家だとわかるんです。そういう資料を通して、で も、私たち、そういう話を一度もしたことがなかったから、知らなかったなぁというのが すごく悔しかったし、友達に対して無神経なことを言ったかもしれないと、そのとき思っ たんですね。私は親族が水俣にはいないので、一歩引いて見れるんだけれど、自分の家族 が水俣病だったりとか、おじいちゃんおばあちゃんが水俣病で苦しんでいる友達がどうい う気持ちでいたのかなぁと知らなかったのは申し訳なかったなぁと思って、それはどうし ようもないんですけれど、知ったからにはできることをやりたいなというのは…やっぱり 知っておいた方がよかったんじゃないかなぁって。
 タブーだったからできなかったんだと 思うけれども、大人がタブーにしてしまったことが、子どもたちが何も知らずに育つ土壌 をつくったし、それによって偏見とかも生まれてしまう。大人たちがですね、患者派チッ ソ派っていう風に分かれて交わることがなかった時代があったので、それによって私自身 チッソ派に対して偏見もあったし、チッソ側にとっては私たちの父たちは本当に余計なこ とをする敵だったと思うし、そこを大人が頑張って交われることをつくっていけば、家庭 の中でももっと水俣病の話ができたのかもしれないけれど。でもそれができなかったこと は仕方がなかったというのも、事件史を読み返すとわかるんですよね。 1995 年に政治解決という区切りがつきますけど、そこまでは常に裁判で争っているの で、損害賠償の問題ですから下手なことは言えないし、ひざをつき合わせて話すなんての は無理だったと思います。政治解決がよかったとは思いませんが、それでも、それ以降よ うやく話せるという土壌ができてきたということは、改めて次の世代に…ア、何言いたい んだろう。

草児
つまり、鼓子が言いたいことは 1995 年以降、補助線がたくさん引けるようになったとい うことだと思うんです。水俣病って裁判闘争の物語を中心に、たとえば第一次訴訟から関 西訴訟が終わるまでという一本の流れがあったりするんですが、その中で 95 年以降、堰を 切ったように私はこうだった、私もこうだった、私の親父はこうでね、こういうことがあ ってねという物語が出てきた。ポール・オースターという作家が、アメリカに暮らすいわ ゆる一般市民に何でもないような個々人の物語を募ったら、それが「ナショナルストーリ ープロジェクト」という一冊の本になったという話があるんです。それと同じで、どこぞ の誰々が話をするようになったんですね。今度はそれを誰が聞いてくれるのかという問題 なんです。補助線が次々できてきた、物語が一つではなくなった。これはものすごいことなんですよ。
 理解が深まるとかそういうことではなしに、物事がそんなに単純じゃないん だよということが明らかになるんです。水俣病事件もいい人/悪い人、敵/味方と分けら れがちです。でも、それは補助線によって解消されることもあるんじゃないかと思うんで すが、それは水俣では、今はまだできない。 僕は長丁場で考えていて、それは鼓子と意見が違うんですけど、僕があと 30 年生きられ たら 65 歳です。そうしたらですね、地域内でも発言できる機会が少し増えてくる。それで 情勢が少し変わるんじゃないか。
 そのときまで、これが一番大変ですけれど、65 歳になる まで今の志を持ち続けられれば、水俣に新しい補助線を引ける可能性も出てくるんじゃな いか。ただ、今はもう本当にたくさん出てきているので、この話を誰かが聞かなければ… どんどん消えていく泡のようなもので、誰かが掬い取らないと話は潰えていきます。僕ら が聞き取れるのは、甘夏生産者の話だけです。25 人の話で精一杯です。でも、あと何人か いれば 100 人、200 人の話が聞ける。それは別に本にしなくてもいいんです。それを自分 の血肉にして、自分の言葉で語りなおせばいいんですよ。 それをこの 5 年、10 年でやっていかないといけない。死というものは意外と身近にある というか、話を聞く前に亡くなられてしまってものすごく後悔したという経験もあるんで す。いつ聞くのって、今なんですよね。そのチャンスが今、水俣はめぐってきています。 これはかなり希望であると思います。
 一方でまだ混とんとしているのは変わらないのです が、その中で僕らにとっては、ガイアみなまたというところにマーマレードという商品が あることがほんとうに幸いです。マーマレードを軸にして商売をしていくことができる。 商売は余剰を生み出していくものですが、その余剰というのは金に変えたり時間に変えた り、いろいろな方法があります。たとえば、妹のように活動する時間に充てたらどうか。 資本は、本来は蓄積したり設備投資に充てたりするものですが、あえて別の使い方にして しまう。そうすると変に滞らないというか、滞る前に使ってしまえというのを、妹がやっ てくれていると思っています。 そういう意味もあって、僕としては商売というものに乗せて、商売ベースの話し方にな っていないといけない。それでマーマレードがある。マーマレードというのは、水俣病患 者さんとのおつきあいであるとか、ずっと甘夏を買ってくれていた尾崎英里さんという人 がつくり方をわざわざ教えに来てくれたことから始まっています。では、このマーマレー ドを地域の人がどう見てくれているのか、気になります。だから、銀賞を取ったことはよ かったと思うし、あるとき水俣に住む友人が「いい商品つくってるじゃん」とふだん言わ ないことを言ってくれたことがあって、「あっ、見てくれているんだ」と思ったんです。 そういう話ができたことが最近一番うれしかったことです。あと、ガイアみなまたは農薬 散布を減らした作物なんかを売っている、だからここで扱ってほしいと、ある農家さんか らからこっちにコミットしてくれたということも最近あって、これもうれしいことです。 とにかくこういうことを軸にしていくと、現地でぶれずにやっていけるかなと思います。

鼓子
福島で話すことを考えたとき、私は何かの役に立ちたいけれど、何の役に立てるのだろ うかと考えました。福島の方も水俣にたくさん来られて、水俣に学ぶということをずっと 8 年間やっておられるんだろうなと思うんですけれど、私たちは第二世代と言われますけ ど、その自覚もなかったし、特に何ができるかわかっていないし、伝えるって何だろうっ て、伝えたいけど自分の言葉が何なのかもわかっていない。たとえば、自分が水俣病の話 をしたり顔でしたところで、あの時代を経験してきた先輩方がどう見ているかなと思う と、怖すぎる。だけど話したい、だけど伝えたいという思いがある。 その中で、水俣病事件というと悲惨なんだけれども、そこでも人は生きていて、水俣を 離れずに暮らしていて、魚をずっと食べているんですよね。魚が大好きで、今でもおいし く食べています。そういう自分の生まれ育った土地への愛とか、海への信頼とか、そうい ったことを自分の体験とともに話すことしかできないなと思います。
 それは福島の方々も、似たところがあるのではないでしょうか。 水俣病事件といえば劇症型の患者さんがブルブル手を震わせて狂ったように死んでいく 姿とか、黒い御旗が上がって裁判でチッソの社長にみんなで詰め寄る姿とか、そういった 映像が思い浮かびますし、実際にあったことです。でも、それだけが水俣ではない。水俣 病公式確認当時から 63 年経った今も私たちがもがいて何とか生きていますということを、 どうやったら伝えられるかなということを考えながら生きています。 最後に、私たちが一緒に働いている生産者グループ「きばる」の会長さんで緒方茂実さ んという方の言葉を紹介させてください。茂実さんは妹さんが胎児性の患者さんで、弟さ んも患者さん、おじいさんも劇症型で亡くなられてますし、お父さんも原因不明で亡くな っています。お母さんも水俣病。親族のほとんどが水俣病の被害を受けてます。もともと 漁師だったのに、小学校 6 年生のときにお父さんを亡くされて、生業が成り立たなくなっ て甘夏生産へ転換した人なんです。 ちょうど 3 年前に、福島の原発事故を受けて水俣病事件を経験した人がどう考えるかと いうインタビューを「きばる」で受けたことがあるんですが、私も同席させてもらって、 茂実さんは何を語るのかなと思って聞いていたんです。そのとき、インタビュアーの方が 「水俣病事件によって茂実さんが奪われたものは何でしょうか?」と聞いたんですね。そ の瞬間、茂実さんが固まって、言葉を失われてから、「奪われたものはたくさんあるな ぁ」と言って、「数えきれない。けれど、生まれたものもあって、それがきばるです」と おっしゃってくれて…。 自分のおじいちゃんが狂って亡くなって、お父さんもある日突然、漁から帰って来たそ の日に亡くなって、そういう大切な人の死、しかも彼らには何の落ち度もない。そのとき は原因がわからずに…苦しかったと思うんです。そこから見出した希望と言っていいと思 うんですが、絶望の中にも希望はあるということを茂実さんは教えてくださった。しか も、それが彼にとっては「きばる」だとはっきり言ってくださったことが、私はとてもう れしくて、茂実さんの思いを継いでいきたい。
 だから、「きばる」は 40 年は続けると思っ ています(いや 100 年でしょ〔草児のつっこみ〕) 。今、皆さんは福島で暮らしていて、エ チカ福島も 7 年続けてこられて、言葉にする、考える作業をずっと続けられていることは すごいことだと思っています。復興という旗印のもとに無理やり言葉を引き出されたりと か、ポジティブな言葉を求められたりとか、本当につらいことだと思うんですね。事故が 収束もしていないし総括もできるような年月ではないのに、それを求められるのは本当に 大変だなと思って、その中で考えるということをやっておられるエチカ福島というのが、 私は希望だろうなと思うし、逆に水俣にも輸入できないかなというか、水俣でも立場が異 なっても相手を非難するのではなく話を聞く、対話をする場というものがつくれたら最高 で、水俣では今はないので…以前はあったんですけれど。

草児
ですから、対話の場というのはクローズさせるというよりは、結果を出せないままでも 100 年続けた方がいいんじゃないか。それが水俣ではできていないのかもしれないです。 どこかで結果を求めて、終わらせている節がある。

鼓子
あるいはリーダーが変わってしまって終わらざるを得なかったということもあると思う んだけれど、そこを継続してやっていくということだし、必ずしも正解は一つじゃないん だなということをみんなが言い続けることはとても大事なことだと思いました。

第14回エチカ福島開催趣意書

2020-02-17 | 〈3.11〉系


来たる3月14日(土)にフォーラム福島にて開催される第14回エチカ福島を企画した荒川さんからの趣意書です。
多くのみなさまのご参加をお待ちしています。


私がこの映画に出会ったのは、2年前。南会津の只見町です。
その頃、仕事の都合で只見町で生活しておりました。
その只見の有志の方々が、大西監督を招いてこの映画の自主上映会を開催したのです。
人口わずか4500人、超高齢化率46%の町で80人ほどの人が集まりました。
驚くべき人数です。
ご承知の通り、只見町には昭和30年代に国策として造られた田子倉ダムという巨大なダムがあります。ダムの下には田子倉集落が沈みました。
私は、この映画を観て、“村がダムに沈む”とはどういうことなのかストンと腑に落ちたように思いました。
その只見町の方々がどのような思いで自主上映を企画したのか改めて聞いてみたいところですが、 とにかく、この映画を見た私は、福島でも上映したいと強く思いました。
この映画は、私たちが考えていかなければならない問題と深く関わっていると感じたからです。
「エチカ福島」は、これまで震災・原発事故以降の私たちの倫理(エチカ)を考えてきました。
今回で14回目を数えます。
これでには、フクシマに生活するものとして原発事故をどう捉えどう生きていけば良いのかを考えていくと同時に、エネルギーの問題や地方の在り方などもテーマとしてきました。
「水になった村」は、これまで私たちが考えてきたことを更に深いところから見つめ直し、これから考えていかなければいけないことを示唆してくれているように思います。
上映後、大西監督のお話を伺いながら、それぞれが思いや考えを巡らせ、紡ぎ合うことができたらと思います。
当初は自主上映会を考えていたところ、支配人のご快諾を頂きましてフォーラム福島での上映となりました。フォーラム福島に改めて感謝申し上げます。

第14回エチカ福島開催のご案内

2020-02-05 | 〈3.11〉系


【テーマ】映画「水になった村」
【ゲスト】大西暢夫 監督
【日 時】2020年3月14日(土)
     上映 13:30~15:45
     大西監督とのダイアローグ 16:00~    
【会 場】フォーラム福島
【チケット】前売り券1,100円・当日券1,800円 販売はフォーラム福島にて
【開催趣旨】

貯水量が国内最大の岐阜県揖斐川の徳山壇で、水をためる試験湛水が始まって一年。
旧徳山村の廃村後いったん離れた故郷に戻り、湛水直前まで元の生活をつづけたお年寄りたちの姿を追った写真家大西暢夫さんのドキュメンタリー映画「水になった村」がフォーラム福島にて上映されます。
今回のエチカ福島では、本作品の上映後に大西監督と会場とのダイアローグを行います。
これまでエチカ福島では〈3.11〉後の福島の〈倫理〉を問い続けてきてきましたが、そのなかで奥会津の「過疎」問題や国策としての〈電力〉政策に翻弄された「福島」の問題を扱ってきました。
国策によって〈故郷〉を奪われる/手放すことの意味は、原発事故によって土地を奪われた住民のみならず、その政策を受け入れてきた「福島」の人間にとって避けては通れない問題です。
この問題を考える上で大西監督の「水になった村」は大きな手がかりを与えてくれるはずです。
ぜひ、映画鑑賞後に大西監督といっしょにこの問題を語り考え合いましょう。


第13回エチカ福島・まとめ

2019-11-24 | 〈3.11〉系


第13回エチカ福島は、佐藤弥右衛門 (会津電力社長)× 山内明美(宮城教育大学)という夢のコラボレーションを会津盆地を見渡す「雄国大学」にて実現した。
テーマは「〈電力〉から考えるもう一つの生き方」。
地理的に集うのが難しい場所であるにもかかわらず、15名もの参加者に恵まれた。


弥右衛門さんが〈3.11〉を契機に始めた会津電力は、雄国発電所から300世帯の電力を供給している。
眼下に広がる太陽光パネルのその下にはワイン醸造用の葡萄畑も育ち始めている。



その実践の背景にどんな思想が備わっているのか。
以下は渡部の解釈をメモ書きしたものです。


まずは弥右衛門さんのお話。

会津盆地に流れ込む雪解け水は地面を3m掘れば湧いて出るほどに豊かだという。
その水をもとに米、麦、大豆が育ち、他所から何ももってこなくても十分なのが会津盆地。
むしろ余剰さえある。
それをもとに酒、味噌、醤油が醸造された。
地物を利用すれば十分すぎるほど間に合っていた。
しかし唯一欠けていたものが電力だった。
原発事故で考え方を変えざるを得ないことに直面する。
なぜ原発に依存してきたのか。
気づけば、会津の水源は只見川も猪苗代湖の水も尾瀬も東電に奪われていた。
猪苗代湖の水が山手線を回したといわれた時期もあった。
東京は水も人も奪っていく。
「カネがあれば」ではなく、「自分たちの資源を取り返せば」という思考へ切り替えれば10割自治は可能になる。
しかし、福島県は「自分たちでやるのだ」という意見をもって動かなかったことがいかに情けなかったことか。
国がやってくれるといつまでも自分たちで動こうとしない。
大事なことは決定すること。それが政治。
もはや国はどうでもいい。会津が独立し、会津が国連へ加盟しよう!
戦争に負けた日本がアメリカに米や麦、大豆、木材を買わされ、自給率が3割台に落ち込んでいる。
「循環」という発想がない。
なぜJAに再生化や循環といった百姓の発想が出てこないのか。
金融機関は原発事故後預金額が増加しているが、そのカネはどこへ行った?
「誰のために」という発想はあるのか?
もはや、誰かが革命を起こさなければいけないのじゃないか。

会津の独立、革命への機運。
珈琲を飲みながら穏やかに語るその姿とは裏腹に、独立、革命といった言葉の端々に弥右衛門さんの情熱が迸る。


その熱を山内さんの話が加速させる。
「3人いれば独立国家ができる」という井上ひさしの言葉を皮切りに、福島県の水源簒奪の歴史が説かれた。
地域自治に必要な3要素、すなわちそれは食料・エネルギー・自治力。
しかし、それらはいずれも地域から衰退していった。
山内さんが卒業された小学校は、かつて地元産の材料と地域住民の力で建設された。
豊かな物質のみならず人々の共同性、しかしそれらはわずか100年で失われた。
福島県も例外ではない。
明治国家初の国営事業だった安積疎水は士族授産の国内移民として開始されたがそこには水源の豊富な福島県へ眼をつけた明治政府の野心が備わる。
阿賀野川、只見川の有望な電力開発の背景には、1930年のルーズベルトのニューディール政策の一環であるTVAの思想がある。
TVA思想とは何か。
自民党の公共事業政策は雇用と経済を盛り上げるものとして土木事業が展開沙され、血流のようにカネが流される。
ダム建設の意義は地元へは水害対策と説明される一方、国にとっては経済政策であった。
しかし、土砂がたまってもそれをどうするかは放置されている。
使い捨ての公共事業ダム。
当のTVAは1990年代にそれが原因で洪水が起きるも、被害当事者たちの自己責任に帰せられる始末。
これが日本でも起きないといえるか?
田子倉ダムの土砂が限界に達し、ダムを解体した後のことをどこまで想像できているだろうか?
1953年の家電元年から「核の平和利用」は一続きだ。
とめどもない電力生活への欲望は今まで開発されなかった辺境の地を開拓する。
1952年には福島県が東電の水利権取り消しを求める行政訴訟が起こすも、敗訴。
2011年以後、日本は国土強靭化政策を宣言。
日本は今でもニューディール政策を継続している。
台風19号の被害の際には「八ッ場ダムは成功した」という発言さえ出る始末。
この公共事業推進は止まらない。
三陸の防潮堤建設に対して地元住民が建設反対するにもかかわらず、まったく行政は意見を聞き入れない。
カネの計算に基づく行政プログラムは、もはや人間の意見をくみ取ることを不可能にするまでに「発達」した。
大熊町の視察に行った。
2700台のダンプが汚染廃棄物を運び込む。
30年間の貯蔵といっているが、けっきょくこのまま最終処分場にされるのでは…
この無力感。あきらめ。
私たちは1953年以来のエネルギー全体主義によって何を奪われたのか?
地域自治の衰退。
どんなに声を上げても通じない国の行政。
東北はもっと怒らないといけない。
福島の皆さんはこのままでいいのか?!
土地を奪われ、自治力も奪われ、これでいいのですか!?


弥右衛門さんの「独立、「革命」。
山内さんが声を震わせた「これでいいのか、福島人!」という呼びかけ。
私たちはいつまでも〈考え続ける〉だけでは、これに十分応えたということはできなくなってきたのではないか。
懇親会で明治・大正期の「革命歌」をCDで持参して下さった阿部さんは、この結末を予期していたかのようだった。


なにより、今回の雄国大学での開催は阿部さんに多大なご尽力を得て実現したものです。
阿部さんには感謝してもしきれません。
懇親会ではさらに革命への機運が酩酊とともに高まりつつ夜が更けていったのでした。

弥右衛門さん、山内さんほんとうに貴重なお話、ありがとうございました<(_ _)>(文:渡部 純)

第13回エチカ福島「〈電力〉から考えるもう一つの生き方」

2019-11-10 | 〈3.11〉系


【テーマ】第13回エチカ福島「〈電力〉から考えるもう一つの生き方」
【ゲスト講師】
佐藤彌右衛門さん(会津電力)
山内明美さん(宮城教育大学)
【日 時】11月23日(土)14:00〜17:00    
【会 場】雄国大学(喜多方市熊倉町新合字休石地内) 
    
【申 込】 自由参加ですが、できればメッセージに参加の旨お知らせいただければ幸いです。
【参加費】無料(参加者の見学料1,000円はエチカ福島が負担します)
【開催趣旨】

 「エチカ福島」は、これまで震災・原発事故以降の私たちの倫理(エチカ)を問うてきたが、大きく二つの系列に分けられる。一つは、震災・原発事故の被害にあったフクシマに生きる者として、私たちはそれをどうとらえ、その状況の中でどう生きて行けばいいのかを問うという系列である。もう一つは、私たちのこれまでの生き方の選択こそが結果として原発事故を引き起こしたと考え、その生き方を問うという系列である。特に、奥只見は原発前史として電源開発が行われ、奇しくも原発事故の年の夏にダムの林立する只見川で洪水が発生し大きな被害を出した。その只見川流域の地域、特に過疎が深刻化する奥会津の現状を知りその未来を考えることで、私たちのこれからの生き方について考えようとするものである。
 奥会津は、水や森林震源をはじめとする自然資源はもちろんのこと、歴史的にも豊かで奥深い地域である。そこに巨大なダムが建設され、それが作り出す電気は日本の高度経済成長を支え続けた。奥只見は当初ダム建設とダム関連予算によって栄えたが、やがて電源開発はダム発電から原発にシフトすることでそれは終焉をむかえる。奥会津に林立するダムは今でも稼働を続けるが、豊かな自然と引きかえにして得た経済的恩恵は先細りし、人々は奥只見を離れ過疎化は深刻な局面をむかえている。このことは奥只見に限った話ではない。このまま市場主義を貫徹すれば、奥只見をはじめとする日本の多くの地方を根こそぎにしてしまうだろう。
 奥只見の過去を問うことは、実は私たちの今までの生き方を問うことである。奥只見の未来を問うことは私たちのこれからの生き方を問うことである。私たちはこれまで何を選び何を捨ててきたのか。私たちはこれから何をたいせつなものとして守らなければならないのだろうか。
 今回の「エチカ福島」は、佐藤弥右衛門氏と山内明美氏をお招きし、それぞれ「電力の自立と地方の自立」「地域自治と福島の発電史」と題したお話をうかがう。

【第12回エチカ福島の開催】公害事件と世代間伝達―水俣事件を第二世代はどのように考えてきたのか

2019-07-29 | 〈3.11〉系
  
       高倉兄妹
 
     (不知火海に沈む夕日・2017年3月・渡部撮影)
 ※カフェロゴのマスターたちが共同代表を務めるエチカ福島のご案内です。
【テーマ】公害事件と世代間伝達―水俣事件を第二世代はどのように考えてきたのか
【ゲスト】高倉草児さん・高倉鼓子さん(ガイアみなまた
【日 時】8月17日(土)13:30~17:00    
【会 場】 福島市民サポートセンター3階・多目的ホール
【申 込】 特に申し込みは必要ありません。
【参加費】資料代100円(学生無料)
【主 催】エチカ福島
【開催趣旨】

過酷な公害事件を子ども世代はどのように見、考えたのだろうか。それに対して、大人たちはどのような姿を見せてきたのだろうか。
原発事故という未曽有の公害事件を経験した私たちにとって、このような問いを避けてとおることはできません。
しかし、その問いに対する答えを見出すことはまだまだこれから先のことでしょう。
2020年の東京オリンピックとともに、さまざまな場面で子どもを出汁に「復興」物語を喧伝する大きな力もはたらくなか、あの出来事の教訓を次世代に伝えることは日増しに複雑化しています。
そこにおいて世代間の伝達はいかにして可能なのか。

このような問題意識から、第12回となるエチカ福島では、水俣市よりガイアみなまたの高倉草児さんと鼓子さん兄妹をお招きして、講話と参加者とのダイアローグを開催します。
ガイアみなまたは、70年代半ばから水俣病問題をきっかけとして水俣に定住し、被害者の社会運動を支援しつつ、水俣病患者運動の中で知り合うことができた被害者家族とともに、 農薬を減らした甘夏栽培(生産者グループ きばる)を始めた団体です。
草児さんと鼓子さんは、その家族のなかに生まれた第二世代です。
   
   (ガイアみなまたのミカン畑・2017年3月・渡部撮影)

実は、渡部は3年前にガイアみなまたで援農をさせてもらいながら、10日間ほど水俣に滞在する機会を得ました。
その際に、高倉さん一家をはじめとするガイアみなまたの皆さんには、多くの方々に出会わせていただきながら、水俣病事件をめぐるさまざまなお話を聞かせていただきました。
そのなかでもとりわけ興味を引いたのが、草児さんと鼓子さんのお話でした。
お二人は水俣病事件をめぐる社会運動家であった親もとで育ちながら、その運動や思想について教えられることはほとんどなく、高校卒業まで水俣病事件に関心もほとんどなかったというのです。
その二人は進学・就職とともに県外へ出た後に、いま水俣へ戻ってご両親の仕事を受け継いでいます。
それは、近代水俣という土地に生まれ育った彼らの、人生の「転回」というべきものだったのではないか。いったい、そこにどのような思考のプロセスがあったのか。お二人のお話を伺いながら、私は世代間の伝達というものにたいへん興味を抱かされたものです。

もちろん、このお二人の経験がすべての公害事件地域の第二世代に生じたものではないでしょう。
しかしながら、先行世代というものは、次世代への継承の重要性を訴えつつも、得てして自分たちの枠からはみ出していく可能性には気づけないものです。
しかし、その先行世代の期待と第二世代の受け止め方のズレから生じる化学反応は、世代間伝達における希望の可能性でもあるでしょう。
そのヒントを水俣事件の第二世代ともいうべきお二人をお招きしながら、「3.11」以後の福島における問題としてみなさんと一緒に考える機会とさせていただきます。(文:渡部 純)