思いつきで始めたスカイプによる『〈政治〉の危機とアーレント』読書会も3回目です。
このシリーズも回を重ねるごとに、ムスカばりに「読める!読めるぞ!!」という声と、
「相変わらずわからないね」
という二つの声を聴きながら、今回も9名によるスカイプ読書会が開催されました。
今回のテーマは「自分らしさ」と「私的所有」。
「政治」が織りなす「公的領域」の重要性を強調するアーレントには、ややもすると家庭や家事が織りなす「私的領域」、すなわちプライバシーの重要性を不当に貶めているという評価が長らくありましたが、むしろその「政治」が可能になるための条件としてのプライバシーの重要性を指摘したのが本書の特徴の一つです。
ここでのプライバシーとは、「自分らしくあること」が確保される領域を指すわけですが、しかし、ロック以降の近代思想が「自分らしさ」の「所有」という意味の「財産」を、無限増殖・消費する貨幣としての「富」(カネ)にすり替えてしまったことを指摘したことが重要になります。
これは、ヴェイユが『根をもつこと』で述べたように「私的所有は、魂の生命的な要求の一つである」という言葉とも符合しますし、その「自分らしさ」の根が奪われているとき、人々は全体主義への誘惑から自由になれないというのが、ここでの中心的な論点になります。
議論のなかでは、やはり自分らしさの所有という意味での財産と貨幣としての富の違いが、やはりよく分からないという質問が投げかけられました。
「自分らしさ」を所有するための財産とは何か?
たしかに、わかったようでわかりませんね。
それぞれ、具体例を模索します。
バブル時代にブランドが流行ったけれど、どんなにカネを費やして高価なモノで自分らしさを表そうとしても、それが消費的で空虚なものであるし、そうしたカネの価値で示せるものではないのが「財産」ではないか。
「家」は「財産」の典型だけれど、でも、現代の家はローンで何十年もカネに束縛されているし、失業なんかすればすぐにそれは剥奪される不安定性の上に所持されるものです。
すると、そのローンの返済のために働かざるを得ないし、けっきょくはカネの返済ためだけに働かざるを得ないというのが実態でしょう。
だから、労働と富の結びつきにおいてアーレントが人間の条件が切り崩される危機を指摘したことが、なんとなく見えてくるでしょう。
ある参加者は、私的所有は「家」だけでなく、作物の獲れる農地などもそうじゃないかと指摘されました。
その話を聞いた時、原発事故で農地を汚染された苦痛を訴える人々に対して、東京の弁護士たちが「汚染されていない食材はスーパーにいくらでも売っているじゃないか」と述べたというエピソードを思い出しました。
都市生活する人間にとって食材は商品でしかありません。
だから、食材はカネで購入すれば済む問題だろうというわけですが、自分の畑で獲った作物を食べる醍醐味を知る人々にとって、そんな理屈は論外でしょう。
そこには、まさにカネで交換不能な私的所有の意義が示されているように思われます。
また、別の薬剤店で働く参加者は、ただ医療機関に点数で指示された商品を手渡すだけの仕事に、どこか自分の思いが伝わらない感じがして、やりがいを得られないという話をしてくれました。
この働き方を「自分らしさ」という言葉で表現するならば、その唯一性を点数やカネによって等価交換されることへの疎外感といってもいいかもしれません。
その点、感情労働もシビアですよね。
感情こそ最も私的なものの一つですが、それをカネとの交換で切り売りすることは精神の荒廃や身体への暴力につながるでしょう。
まぁ、でも感情労働は微妙だよね、その感情のやり取りに生きがいを覚えることは教員やっていると経験するものでもある。そんな話も上がりました。
安心できないところで公共的な意見を求めるなんて、アンフェアだという話にもなりました。
なんのことはない。教員採用試験の欺瞞の話です。
不安定な講師業を続けてきた人間に対して、教育の在り方を問うなんて、出来レースもいいところだろうという話です。
けっきょく、そこは受験者の教員としての資質を問うといいながら、審査する側=支配する側の論理に従う範囲での意見を答えられるかを試すだけであって、そんな不安定な人間に自分の意見を語らせるというのは欺瞞もいいところだというわけです。
また、そんなにカネの論理に縛られて身動きできなくなる社会なら、いっそ逮捕されても借金は返さないよという人々が公然と現れ始めてもいいんじゃないか、という突っ込んだ問題提起もなされました。
みんなが公然とカネを返さなければ、この資本の論理だって少しは歯止めが利かないだろうか、というわけです。
公然と法を犯して権利の主張を表明する「市民的不服従」の経済版ですね。
面白い考え方だなと思いました。
けれど、資本と国家主権の強大さは、おそらくそれを潰しまくるでしょう。
それでも、予想不可能な「活動」としての返済拒否運動が生じれば、資本と主権を廃棄するのかも…
(柄谷行人風に言えば「交換様式D」が到来する!的な。)
さて、いったん議論を打ち切り、第3章「自分らしさ」と「私的所有」へ突入します。
まずは、私的所有の重大な盲点として、個人の自由は全ての市民に保障されているわけではないという点を確認します。
一般に「政治・経済」の授業では、選挙権の人口拡大は往々にして時代の進歩と解してきましたが、近年の民主国家とされる社会で生じているファナティックな排外主義をみれば、それに疑問を覚えざるをえません。
誤解を恐れずに言えば、納税額などによって制限されてきた選挙制度では、たしかに資本家階級による利権政治という面は否定できないものの、一方で余裕のある身分であるがゆえの公共性を担保していたのではないか、という評価も成り立ちうるのです。
というのも、アーレント流に解釈すれば、家や土地、仕事が保障されることなく、絶えざる生活の不安に襲われている人が公的関心事に関わる条件は極めて乏しいからです。
元々、政治的主体としての市民とは、生命体としての生存を脅かされる恐怖から解放された人々であるはずですが、もし、生活の安定を奪われた人々が政治に参加すれば、生活の確保や安定が要求課題になり、それは既に反政治的なものが「政治」の主たる対象となってしまうという点で、「政治」の破壊をもたらすのです。
一方、国家や市場による私生活への侵害・監視はメディア、ケータイ、ネットによる情報管理、避妊・中絶など生命操作、臓器売買の可能性、非正規雇用とプレカリアート、住宅ローン、グローバル経済と金融ゲームなど多岐にわたり、今日、この「社会的なもの」に侵食されていないプライバシーなどほとんど皆無でしょう。
こうなると隠れ家として安心できる居場所としての「私的領域」は、もはや皆無かもしれません。
このような状況下で、「政治」は「政治」を壊す爆弾を内に抱えながら「民主主義」の危機を論じる時代であるというのが、本書を貫く大きな主張の一つとなります。
この段階の議論では、不安と政治の問題に絡んで、学校という空間は「政治」の空間のような気がするという意見がまず出されました。
その方によれば、自分の学生時代を振り返ってみても、そこはすごく居心地がよく、自分の意見を自由に言えた場所だったそうです。
これは、けっこう重要な指摘だと思います。
アーレントにおいて学校は、まさに私的領域から公的領域へ橋渡しをする中間的な「社会的領域」ともいうべき場所だからです。
この参加者が言う自由に意見を言いつつ、居心地が良いというのは、政治のための発言の自由さと同時に、安心できる自分の居場所としての空間が確保されていることを意味するでしょう。
リアルな話としては、学校や大学の昼食時に自分の居場所がなく、トイレの中でお弁当を食べる生徒・学生がいるという現象です。
その事例を見ればわかるように、子どもたちにとって学校は必ずしも居心地のいい場所ではなく、ともすれば弱者を排除する力学が生じるところでもあります。
だから、アーレントは、子どもの世界は自分たちだけで自律させてはいけないといいます。
もし、子どもだけの世界になれば、いじめが起きる残酷な世界になることは現代日本社会でもいやというほど問題化しています。
だから、学校の世界は教師という権威が存在しなければいけないし、そこにおいてはいかに自由な発言が可能になろうとも、不平等な命令―服従の関係性が支配するわけです。
後者の部分は、まさに家政内での封建的な父親の存在を想い起させますが、まさにそうした平等性がない部分が私的領域に備わることをアーレントは論じます。
権威に基づく命令―服従があるがゆえに、生命・生活の保護が為されるというのは、あまり納得のいく話ではありませんが、むしろアーレントはその私的領域における支配形態を平等原理によって営まれる「政治」に適用することを批判的に論じています。
プラトンの政治思想にもそれが見いだされますが、戦前の日本だって臣民は天皇の赤子だったわけで、思いっきり家族的国家を体現していたことは明らかです。
さらに議論では、この話題でふれられた「平等主義」に関してもう少し明らかにしてほしいという質問が出されました。
アーレントにおいて平等は差異の平等を意味します。
つまり、「違い」があるがゆえに平等に扱う原理のことです。
これと対比させられるのが、「画一主義」です。
日本、とりわけ学校はこの二つを取り違えることが往々にして行われます。
これに関しては色々な例を挙げながら模索されました。
たとえば、体育で一律100回の腕立て伏せをやらせるのが画一主義で、その子の体力に応じて目標回数を変更するのが平等主義なのか。
そうともいえるでしょう。
でもそうすると、別の子から不満が出るのが世の学校の常です。
これに関して、今日まさに人事評価をしてきた方が、一律に評価などできん!と啖呵を切ってきたという話も挙げられました。
その人の実力や目標がそれぞれ異なるのに、それを一律に評価するなんて無理だ、というわけです。
あるいは、子育てと働き方の問題など典型にそれが現れるでしょう。
熊本市議が議場にもちこん事例は、規則に書かれているから一律ダメという論理は、まさに原則主義であり画一主義であろうというわけです。
ジェンダーの不平等を考慮すれば一律に切り捨てるのではなく、それぞれの状況に応じて平等性を常に測りなおすという点で、差異の平等とは常にフレキシブルに再検討を促す原理と言えるのではないでしょうか。
この話題は後程再浮上します。
第3章は、アーレントによる所有権の正当化と貨幣を導入したロック批判から、その私的所有権論を批判して共産主義を主張したマルクスをさらに批判し、最後に彼女のプライバシー私的所有の意味を明らかにする展開となります。
まずロック。
そもそも「所有」を意味するpropertyには「自分の/固有の」という「自分らしさ」を示す内容が含まれていましたが、自分の身体の労働と手の仕事によって生じたものは「労働」が付加されたものとなり、私的所有権が発生するというロックの私的所有論は、市場や自然などの「物」に対する所有権が問題とされ、「自分らしさのためのプライバシー」という「私的所有」という意味が抜け落ち、「物を所有する」という意味での「所有権」に限定されてしまったといいます。
さたに、近代社会理論において物をたくさん所有することが、そのまま「自分らしさ」の増大とつながるかのように思われてきたのは、ロックの「貨幣」による自己所有の正当化の議論と深く結びつくとし、これが自分で使用する範囲の所有権を超えて、貨幣の無限の蓄積の正当化へ向かったといいます。
このロックに代表される近代の私的所有論に対してマルクスは、「貨幣の蓄積の増大=富が形成されれば(物をたくさん所有すれば)人間の豊かさが実現される」という割には、働けば働くほど労働疎外と貧困化を招くのはなぜかと問います。
その答えとしてマルクスは、労働と資本が対立する社会では、労働者から物(生産手段等)が奪われている事実があり、排他的な「私的所有」があるからだ!と結論し、すべての物を共有する共産主義へ向かうことを論じます。
しかし、このマルクスの「人間による人間のための…共産主義」は個人と社会の対立を超え、「個人的生活と類生活は別ものではない」とし、「人間の個人生活と社会生活の間にあるギャップを除去」しており、多様な個々人と社会との間の緊張関係が想定されていない、とアーレントは批判します。
つまり、個人と類の同一視こそがマルクスに対するアーレントの批判ということになります。
では、アーレントの「私的所有」とは何か?
一言で言えば、それは「自分らしさのためのプライバシー」ということになります。
すなわち、一人ひとりの人生の生活のあり方はすべて異なる以上、この違いを前提としなければ人間が尊重されたとは言いがたく、それをお互いに見聞きする営みが曖昧にされることは「公的」営みの危機であり、それは全体主義の状況のもとで生じる危険があるというわけです。
そして、一人ひとりの「違い」を認め合える世界の条件を保障するために、一人ひとりの違いを十分に育てるための「私的領域」・「財産」・「私的所有」が確保されなければならないのです。
おもしろいのは、「財産」と「富」の区別の事例として、「帝国ホテル」に住む事例と原発事故による生と場所の剥奪を挙げている点です。
参加者それぞれに「自分らしくいられる居場所はどこか?」と聞いたところ、自宅のトイレや布団のなか、風呂が挙げられました。
おそらく、そこは個々人の五感によって形成された秩序空間ではないでしょうか。
いくら毎日帝国ホテルに泊まってシーツを取り換えられていても、やっぱりしばらく洗濯もしていない布団のにおいに落ち着いたりするものです。
書棚なんて、他人がいじったらそれだけで秩序が乱された気持ちになります。
慣れ親しんだ空間というのは、個々人の感覚の相違によって生じる「癖」の集合体といえるかもしれません。
ゴミ屋敷といわれんばかりの乱雑な部屋であっても、そこには巣のような居心地の良さがあるわけで、それがプライバシーの空間ということなのでしょう。
一人ひとりの「違い」を前提にするかしないか。
学校では建前上「個性尊重」を言いますが、同時に画一主義の服装頭髪指導を継続してきました。
このダブルバインドをどう考えるべきか。
それを、けっきょくは秩序の範囲内で認める自由と表現した人がいました。
90年代にやたらと「個性」を尊重する教育が推進されましたが、おそらくそれはこれまでの護送船団方式では立ち行かなくなった経済の論理と符合していて、ネオリベラリズム的な自由主義という意味での「個性尊重」という経済の論理が背景にあると思われます。
公的空間で政治が為されるための条件としての私的領域・プライバシーの確保が、一人ひとりの違いを十分に育てることにつながるという点では、「サバルタン的公共圏」という領域も思い出します。
これはフェミニズム政治哲学者ナンシー・フレイザーの用語ですが、ここでの「サバルタン的」とはLGBTや難民のような、公的空間において言葉を奪われた人々が形成する「対抗的公共圏」といわれる領域です。
世界から疎外された人々がどのように物語や言葉を紡ぎだすのか、という問題はユダヤ人として社会から追放された経験を持つアーレント自身の大きな課題でした。
同じような境遇にある疎外されたもの同士が集う安心した領域を「サバルタン的公共圏」というならば、それは公的/私的領域の閾にあるものともいえるでしょう。
家族の問題がシビアだとされる日本社会においても、こうしたプライバシー領域を補完する新たな領域の生成は意義深いことだと思いますし、そこでの政治性が課題として問われることでしょう。
しかし、サバルタンという用語は、もともとスピヴァックの用語であり、そこでは自らの疎外や迫害を自らの言葉で語りえない人々のことを指しています。
それは何かの強制力によって表現の自由が抑圧されているという意味ではなく、そもそも語る言葉をもってない人々のことですが、それに対してアーレントはどのように論じるのか、という質問が投げかけられました。
いわば、抑圧されている側がその苦しみを訴えるためには、抑圧している側の言語で語らざるを得ないのだけれど、そこにはすでに言葉そのものが抑圧の構造によって規定されているため、訴える側の本意は伝わらないという問題です。
いくら、知識人が代弁しようとしても、その知識人の言葉そのものがすでに抑圧者の言葉を奪っているという構造を、スピヴァックは見抜いたわけです。
発達障害を持つ人々が、周囲の世界になじめず、それを言語化できないままに疎外される事例から、その問題を指摘する発言が参加者の中から上がりましたが、率直に言って、アーレントはこうした言葉をもてな人びとに対しては解決策を提示できていないと思います。
その点で、彼女は知識人の側に類するとも言えますが、しかし、それよりもむしろ、アーレントが言葉のもつ力を信じ切っていたというべきなのかもしれません。
しかし、こうした言葉を奪われた人々が、「蜂起」という選択をしないのだろうかとの指摘も挙げられました。
言葉をもてないがゆえに放棄し、立ち上がる人々がいるのではないか。
とても興味深い指摘ですが、おそらくアーレントであるならば、その言葉を抜きにした闘争や暴力蜂起こそが脅威であるとみなしたのではないかと思います。
それはある種のルソー主義とも言えますが、その話は赤城智弘氏の「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」の論考を思い出します。
不安定な立場に置かれた若者の「希望は戦争」という言葉は、そのまま「暴力蜂起」と結びついているようにも思われるからです。
しかし、先に発達障害の問題に触れた参加者からは、そもそもそうした立ち上がることに関心を向けることからも疎外されている若者のことを問題にしたいのだとの指摘がありました。
同じ不安定で言葉を奪われていようとも、そこにはやはりある種の位相の違いがあるようです。
今回も予定していた90分内の時間でスムースに終えることができました。
ただ、スムースに終えることが、十分な理解や思考を深められたこととは別問題です。
皆さんの手ごたえはどうだったのか、カフェマスターとしては気にかかることです。
印象深かったのは、ある参加者がこうして読書会で一緒に読んでいると、佐藤和夫を介してアーレントの言いたいことがよくわかる、と思っているんだけれど、いざこの場を離れて読み直すと「はて?」という地点に戻ってしまうという感想です。
読書会そのものが「政治」の場であり、そこから離れて独りの「思考」という場になったとき、何か雲散霧消してしまっているというのは、アーレントを読む経験としては、何かとても本質的なことを衝いているように思われました。(文:渡部 純)>
このシリーズも回を重ねるごとに、ムスカばりに「読める!読めるぞ!!」という声と、
「相変わらずわからないね」
という二つの声を聴きながら、今回も9名によるスカイプ読書会が開催されました。
今回のテーマは「自分らしさ」と「私的所有」。
「政治」が織りなす「公的領域」の重要性を強調するアーレントには、ややもすると家庭や家事が織りなす「私的領域」、すなわちプライバシーの重要性を不当に貶めているという評価が長らくありましたが、むしろその「政治」が可能になるための条件としてのプライバシーの重要性を指摘したのが本書の特徴の一つです。
ここでのプライバシーとは、「自分らしくあること」が確保される領域を指すわけですが、しかし、ロック以降の近代思想が「自分らしさ」の「所有」という意味の「財産」を、無限増殖・消費する貨幣としての「富」(カネ)にすり替えてしまったことを指摘したことが重要になります。
これは、ヴェイユが『根をもつこと』で述べたように「私的所有は、魂の生命的な要求の一つである」という言葉とも符合しますし、その「自分らしさ」の根が奪われているとき、人々は全体主義への誘惑から自由になれないというのが、ここでの中心的な論点になります。
議論のなかでは、やはり自分らしさの所有という意味での財産と貨幣としての富の違いが、やはりよく分からないという質問が投げかけられました。
「自分らしさ」を所有するための財産とは何か?
たしかに、わかったようでわかりませんね。
それぞれ、具体例を模索します。
バブル時代にブランドが流行ったけれど、どんなにカネを費やして高価なモノで自分らしさを表そうとしても、それが消費的で空虚なものであるし、そうしたカネの価値で示せるものではないのが「財産」ではないか。
「家」は「財産」の典型だけれど、でも、現代の家はローンで何十年もカネに束縛されているし、失業なんかすればすぐにそれは剥奪される不安定性の上に所持されるものです。
すると、そのローンの返済のために働かざるを得ないし、けっきょくはカネの返済ためだけに働かざるを得ないというのが実態でしょう。
だから、労働と富の結びつきにおいてアーレントが人間の条件が切り崩される危機を指摘したことが、なんとなく見えてくるでしょう。
ある参加者は、私的所有は「家」だけでなく、作物の獲れる農地などもそうじゃないかと指摘されました。
その話を聞いた時、原発事故で農地を汚染された苦痛を訴える人々に対して、東京の弁護士たちが「汚染されていない食材はスーパーにいくらでも売っているじゃないか」と述べたというエピソードを思い出しました。
都市生活する人間にとって食材は商品でしかありません。
だから、食材はカネで購入すれば済む問題だろうというわけですが、自分の畑で獲った作物を食べる醍醐味を知る人々にとって、そんな理屈は論外でしょう。
そこには、まさにカネで交換不能な私的所有の意義が示されているように思われます。
また、別の薬剤店で働く参加者は、ただ医療機関に点数で指示された商品を手渡すだけの仕事に、どこか自分の思いが伝わらない感じがして、やりがいを得られないという話をしてくれました。
この働き方を「自分らしさ」という言葉で表現するならば、その唯一性を点数やカネによって等価交換されることへの疎外感といってもいいかもしれません。
その点、感情労働もシビアですよね。
感情こそ最も私的なものの一つですが、それをカネとの交換で切り売りすることは精神の荒廃や身体への暴力につながるでしょう。
まぁ、でも感情労働は微妙だよね、その感情のやり取りに生きがいを覚えることは教員やっていると経験するものでもある。そんな話も上がりました。
安心できないところで公共的な意見を求めるなんて、アンフェアだという話にもなりました。
なんのことはない。教員採用試験の欺瞞の話です。
不安定な講師業を続けてきた人間に対して、教育の在り方を問うなんて、出来レースもいいところだろうという話です。
けっきょく、そこは受験者の教員としての資質を問うといいながら、審査する側=支配する側の論理に従う範囲での意見を答えられるかを試すだけであって、そんな不安定な人間に自分の意見を語らせるというのは欺瞞もいいところだというわけです。
また、そんなにカネの論理に縛られて身動きできなくなる社会なら、いっそ逮捕されても借金は返さないよという人々が公然と現れ始めてもいいんじゃないか、という突っ込んだ問題提起もなされました。
みんなが公然とカネを返さなければ、この資本の論理だって少しは歯止めが利かないだろうか、というわけです。
公然と法を犯して権利の主張を表明する「市民的不服従」の経済版ですね。
面白い考え方だなと思いました。
けれど、資本と国家主権の強大さは、おそらくそれを潰しまくるでしょう。
それでも、予想不可能な「活動」としての返済拒否運動が生じれば、資本と主権を廃棄するのかも…
(柄谷行人風に言えば「交換様式D」が到来する!的な。)
さて、いったん議論を打ち切り、第3章「自分らしさ」と「私的所有」へ突入します。
まずは、私的所有の重大な盲点として、個人の自由は全ての市民に保障されているわけではないという点を確認します。
一般に「政治・経済」の授業では、選挙権の人口拡大は往々にして時代の進歩と解してきましたが、近年の民主国家とされる社会で生じているファナティックな排外主義をみれば、それに疑問を覚えざるをえません。
誤解を恐れずに言えば、納税額などによって制限されてきた選挙制度では、たしかに資本家階級による利権政治という面は否定できないものの、一方で余裕のある身分であるがゆえの公共性を担保していたのではないか、という評価も成り立ちうるのです。
というのも、アーレント流に解釈すれば、家や土地、仕事が保障されることなく、絶えざる生活の不安に襲われている人が公的関心事に関わる条件は極めて乏しいからです。
元々、政治的主体としての市民とは、生命体としての生存を脅かされる恐怖から解放された人々であるはずですが、もし、生活の安定を奪われた人々が政治に参加すれば、生活の確保や安定が要求課題になり、それは既に反政治的なものが「政治」の主たる対象となってしまうという点で、「政治」の破壊をもたらすのです。
一方、国家や市場による私生活への侵害・監視はメディア、ケータイ、ネットによる情報管理、避妊・中絶など生命操作、臓器売買の可能性、非正規雇用とプレカリアート、住宅ローン、グローバル経済と金融ゲームなど多岐にわたり、今日、この「社会的なもの」に侵食されていないプライバシーなどほとんど皆無でしょう。
こうなると隠れ家として安心できる居場所としての「私的領域」は、もはや皆無かもしれません。
このような状況下で、「政治」は「政治」を壊す爆弾を内に抱えながら「民主主義」の危機を論じる時代であるというのが、本書を貫く大きな主張の一つとなります。
この段階の議論では、不安と政治の問題に絡んで、学校という空間は「政治」の空間のような気がするという意見がまず出されました。
その方によれば、自分の学生時代を振り返ってみても、そこはすごく居心地がよく、自分の意見を自由に言えた場所だったそうです。
これは、けっこう重要な指摘だと思います。
アーレントにおいて学校は、まさに私的領域から公的領域へ橋渡しをする中間的な「社会的領域」ともいうべき場所だからです。
この参加者が言う自由に意見を言いつつ、居心地が良いというのは、政治のための発言の自由さと同時に、安心できる自分の居場所としての空間が確保されていることを意味するでしょう。
リアルな話としては、学校や大学の昼食時に自分の居場所がなく、トイレの中でお弁当を食べる生徒・学生がいるという現象です。
その事例を見ればわかるように、子どもたちにとって学校は必ずしも居心地のいい場所ではなく、ともすれば弱者を排除する力学が生じるところでもあります。
だから、アーレントは、子どもの世界は自分たちだけで自律させてはいけないといいます。
もし、子どもだけの世界になれば、いじめが起きる残酷な世界になることは現代日本社会でもいやというほど問題化しています。
だから、学校の世界は教師という権威が存在しなければいけないし、そこにおいてはいかに自由な発言が可能になろうとも、不平等な命令―服従の関係性が支配するわけです。
後者の部分は、まさに家政内での封建的な父親の存在を想い起させますが、まさにそうした平等性がない部分が私的領域に備わることをアーレントは論じます。
権威に基づく命令―服従があるがゆえに、生命・生活の保護が為されるというのは、あまり納得のいく話ではありませんが、むしろアーレントはその私的領域における支配形態を平等原理によって営まれる「政治」に適用することを批判的に論じています。
プラトンの政治思想にもそれが見いだされますが、戦前の日本だって臣民は天皇の赤子だったわけで、思いっきり家族的国家を体現していたことは明らかです。
さらに議論では、この話題でふれられた「平等主義」に関してもう少し明らかにしてほしいという質問が出されました。
アーレントにおいて平等は差異の平等を意味します。
つまり、「違い」があるがゆえに平等に扱う原理のことです。
これと対比させられるのが、「画一主義」です。
日本、とりわけ学校はこの二つを取り違えることが往々にして行われます。
これに関しては色々な例を挙げながら模索されました。
たとえば、体育で一律100回の腕立て伏せをやらせるのが画一主義で、その子の体力に応じて目標回数を変更するのが平等主義なのか。
そうともいえるでしょう。
でもそうすると、別の子から不満が出るのが世の学校の常です。
これに関して、今日まさに人事評価をしてきた方が、一律に評価などできん!と啖呵を切ってきたという話も挙げられました。
その人の実力や目標がそれぞれ異なるのに、それを一律に評価するなんて無理だ、というわけです。
あるいは、子育てと働き方の問題など典型にそれが現れるでしょう。
熊本市議が議場にもちこん事例は、規則に書かれているから一律ダメという論理は、まさに原則主義であり画一主義であろうというわけです。
ジェンダーの不平等を考慮すれば一律に切り捨てるのではなく、それぞれの状況に応じて平等性を常に測りなおすという点で、差異の平等とは常にフレキシブルに再検討を促す原理と言えるのではないでしょうか。
この話題は後程再浮上します。
第3章は、アーレントによる所有権の正当化と貨幣を導入したロック批判から、その私的所有権論を批判して共産主義を主張したマルクスをさらに批判し、最後に彼女のプライバシー私的所有の意味を明らかにする展開となります。
まずロック。
そもそも「所有」を意味するpropertyには「自分の/固有の」という「自分らしさ」を示す内容が含まれていましたが、自分の身体の労働と手の仕事によって生じたものは「労働」が付加されたものとなり、私的所有権が発生するというロックの私的所有論は、市場や自然などの「物」に対する所有権が問題とされ、「自分らしさのためのプライバシー」という「私的所有」という意味が抜け落ち、「物を所有する」という意味での「所有権」に限定されてしまったといいます。
さたに、近代社会理論において物をたくさん所有することが、そのまま「自分らしさ」の増大とつながるかのように思われてきたのは、ロックの「貨幣」による自己所有の正当化の議論と深く結びつくとし、これが自分で使用する範囲の所有権を超えて、貨幣の無限の蓄積の正当化へ向かったといいます。
このロックに代表される近代の私的所有論に対してマルクスは、「貨幣の蓄積の増大=富が形成されれば(物をたくさん所有すれば)人間の豊かさが実現される」という割には、働けば働くほど労働疎外と貧困化を招くのはなぜかと問います。
その答えとしてマルクスは、労働と資本が対立する社会では、労働者から物(生産手段等)が奪われている事実があり、排他的な「私的所有」があるからだ!と結論し、すべての物を共有する共産主義へ向かうことを論じます。
しかし、このマルクスの「人間による人間のための…共産主義」は個人と社会の対立を超え、「個人的生活と類生活は別ものではない」とし、「人間の個人生活と社会生活の間にあるギャップを除去」しており、多様な個々人と社会との間の緊張関係が想定されていない、とアーレントは批判します。
つまり、個人と類の同一視こそがマルクスに対するアーレントの批判ということになります。
では、アーレントの「私的所有」とは何か?
一言で言えば、それは「自分らしさのためのプライバシー」ということになります。
すなわち、一人ひとりの人生の生活のあり方はすべて異なる以上、この違いを前提としなければ人間が尊重されたとは言いがたく、それをお互いに見聞きする営みが曖昧にされることは「公的」営みの危機であり、それは全体主義の状況のもとで生じる危険があるというわけです。
そして、一人ひとりの「違い」を認め合える世界の条件を保障するために、一人ひとりの違いを十分に育てるための「私的領域」・「財産」・「私的所有」が確保されなければならないのです。
おもしろいのは、「財産」と「富」の区別の事例として、「帝国ホテル」に住む事例と原発事故による生と場所の剥奪を挙げている点です。
参加者それぞれに「自分らしくいられる居場所はどこか?」と聞いたところ、自宅のトイレや布団のなか、風呂が挙げられました。
おそらく、そこは個々人の五感によって形成された秩序空間ではないでしょうか。
いくら毎日帝国ホテルに泊まってシーツを取り換えられていても、やっぱりしばらく洗濯もしていない布団のにおいに落ち着いたりするものです。
書棚なんて、他人がいじったらそれだけで秩序が乱された気持ちになります。
慣れ親しんだ空間というのは、個々人の感覚の相違によって生じる「癖」の集合体といえるかもしれません。
ゴミ屋敷といわれんばかりの乱雑な部屋であっても、そこには巣のような居心地の良さがあるわけで、それがプライバシーの空間ということなのでしょう。
一人ひとりの「違い」を前提にするかしないか。
学校では建前上「個性尊重」を言いますが、同時に画一主義の服装頭髪指導を継続してきました。
このダブルバインドをどう考えるべきか。
それを、けっきょくは秩序の範囲内で認める自由と表現した人がいました。
90年代にやたらと「個性」を尊重する教育が推進されましたが、おそらくそれはこれまでの護送船団方式では立ち行かなくなった経済の論理と符合していて、ネオリベラリズム的な自由主義という意味での「個性尊重」という経済の論理が背景にあると思われます。
公的空間で政治が為されるための条件としての私的領域・プライバシーの確保が、一人ひとりの違いを十分に育てることにつながるという点では、「サバルタン的公共圏」という領域も思い出します。
これはフェミニズム政治哲学者ナンシー・フレイザーの用語ですが、ここでの「サバルタン的」とはLGBTや難民のような、公的空間において言葉を奪われた人々が形成する「対抗的公共圏」といわれる領域です。
世界から疎外された人々がどのように物語や言葉を紡ぎだすのか、という問題はユダヤ人として社会から追放された経験を持つアーレント自身の大きな課題でした。
同じような境遇にある疎外されたもの同士が集う安心した領域を「サバルタン的公共圏」というならば、それは公的/私的領域の閾にあるものともいえるでしょう。
家族の問題がシビアだとされる日本社会においても、こうしたプライバシー領域を補完する新たな領域の生成は意義深いことだと思いますし、そこでの政治性が課題として問われることでしょう。
しかし、サバルタンという用語は、もともとスピヴァックの用語であり、そこでは自らの疎外や迫害を自らの言葉で語りえない人々のことを指しています。
それは何かの強制力によって表現の自由が抑圧されているという意味ではなく、そもそも語る言葉をもってない人々のことですが、それに対してアーレントはどのように論じるのか、という質問が投げかけられました。
いわば、抑圧されている側がその苦しみを訴えるためには、抑圧している側の言語で語らざるを得ないのだけれど、そこにはすでに言葉そのものが抑圧の構造によって規定されているため、訴える側の本意は伝わらないという問題です。
いくら、知識人が代弁しようとしても、その知識人の言葉そのものがすでに抑圧者の言葉を奪っているという構造を、スピヴァックは見抜いたわけです。
発達障害を持つ人々が、周囲の世界になじめず、それを言語化できないままに疎外される事例から、その問題を指摘する発言が参加者の中から上がりましたが、率直に言って、アーレントはこうした言葉をもてな人びとに対しては解決策を提示できていないと思います。
その点で、彼女は知識人の側に類するとも言えますが、しかし、それよりもむしろ、アーレントが言葉のもつ力を信じ切っていたというべきなのかもしれません。
しかし、こうした言葉を奪われた人々が、「蜂起」という選択をしないのだろうかとの指摘も挙げられました。
言葉をもてないがゆえに放棄し、立ち上がる人々がいるのではないか。
とても興味深い指摘ですが、おそらくアーレントであるならば、その言葉を抜きにした闘争や暴力蜂起こそが脅威であるとみなしたのではないかと思います。
それはある種のルソー主義とも言えますが、その話は赤城智弘氏の「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」の論考を思い出します。
不安定な立場に置かれた若者の「希望は戦争」という言葉は、そのまま「暴力蜂起」と結びついているようにも思われるからです。
しかし、先に発達障害の問題に触れた参加者からは、そもそもそうした立ち上がることに関心を向けることからも疎外されている若者のことを問題にしたいのだとの指摘がありました。
同じ不安定で言葉を奪われていようとも、そこにはやはりある種の位相の違いがあるようです。
今回も予定していた90分内の時間でスムースに終えることができました。
ただ、スムースに終えることが、十分な理解や思考を深められたこととは別問題です。
皆さんの手ごたえはどうだったのか、カフェマスターとしては気にかかることです。
印象深かったのは、ある参加者がこうして読書会で一緒に読んでいると、佐藤和夫を介してアーレントの言いたいことがよくわかる、と思っているんだけれど、いざこの場を離れて読み直すと「はて?」という地点に戻ってしまうという感想です。
読書会そのものが「政治」の場であり、そこから離れて独りの「思考」という場になったとき、何か雲散霧消してしまっているというのは、アーレントを読む経験としては、何かとても本質的なことを衝いているように思われました。(文:渡部 純)>