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第3回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・まとめ

2017-11-30 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
思いつきで始めたスカイプによる『〈政治〉の危機とアーレント』読書会も3回目です。
このシリーズも回を重ねるごとに、ムスカばりに「読める!読めるぞ!!」という声と、
 
「相変わらずわからないね」
  
という二つの声を聴きながら、今回も9名によるスカイプ読書会が開催されました。

今回のテーマは「自分らしさ」と「私的所有」。
「政治」が織りなす「公的領域」の重要性を強調するアーレントには、ややもすると家庭や家事が織りなす「私的領域」、すなわちプライバシーの重要性を不当に貶めているという評価が長らくありましたが、むしろその「政治」が可能になるための条件としてのプライバシーの重要性を指摘したのが本書の特徴の一つです。
ここでのプライバシーとは、「自分らしくあること」が確保される領域を指すわけですが、しかし、ロック以降の近代思想が「自分らしさ」の「所有」という意味の「財産」を、無限増殖・消費する貨幣としての「富」(カネ)にすり替えてしまったことを指摘したことが重要になります。
これは、ヴェイユが『根をもつこと』で述べたように「私的所有は、魂の生命的な要求の一つである」という言葉とも符合しますし、その「自分らしさ」の根が奪われているとき、人々は全体主義への誘惑から自由になれないというのが、ここでの中心的な論点になります。

議論のなかでは、やはり自分らしさの所有という意味での財産と貨幣としての富の違いが、やはりよく分からないという質問が投げかけられました。
「自分らしさ」を所有するための財産とは何か?
たしかに、わかったようでわかりませんね。
それぞれ、具体例を模索します。
バブル時代にブランドが流行ったけれど、どんなにカネを費やして高価なモノで自分らしさを表そうとしても、それが消費的で空虚なものであるし、そうしたカネの価値で示せるものではないのが「財産」ではないか。
「家」は「財産」の典型だけれど、でも、現代の家はローンで何十年もカネに束縛されているし、失業なんかすればすぐにそれは剥奪される不安定性の上に所持されるものです。
すると、そのローンの返済のために働かざるを得ないし、けっきょくはカネの返済ためだけに働かざるを得ないというのが実態でしょう。
だから、労働と富の結びつきにおいてアーレントが人間の条件が切り崩される危機を指摘したことが、なんとなく見えてくるでしょう。
ある参加者は、私的所有は「家」だけでなく、作物の獲れる農地などもそうじゃないかと指摘されました。
その話を聞いた時、原発事故で農地を汚染された苦痛を訴える人々に対して、東京の弁護士たちが「汚染されていない食材はスーパーにいくらでも売っているじゃないか」と述べたというエピソードを思い出しました。
都市生活する人間にとって食材は商品でしかありません。
だから、食材はカネで購入すれば済む問題だろうというわけですが、自分の畑で獲った作物を食べる醍醐味を知る人々にとって、そんな理屈は論外でしょう。
そこには、まさにカネで交換不能な私的所有の意義が示されているように思われます。
また、別の薬剤店で働く参加者は、ただ医療機関に点数で指示された商品を手渡すだけの仕事に、どこか自分の思いが伝わらない感じがして、やりがいを得られないという話をしてくれました。
この働き方を「自分らしさ」という言葉で表現するならば、その唯一性を点数やカネによって等価交換されることへの疎外感といってもいいかもしれません。
その点、感情労働もシビアですよね。
感情こそ最も私的なものの一つですが、それをカネとの交換で切り売りすることは精神の荒廃や身体への暴力につながるでしょう。
まぁ、でも感情労働は微妙だよね、その感情のやり取りに生きがいを覚えることは教員やっていると経験するものでもある。そんな話も上がりました。

安心できないところで公共的な意見を求めるなんて、アンフェアだという話にもなりました。
なんのことはない。教員採用試験の欺瞞の話です。
不安定な講師業を続けてきた人間に対して、教育の在り方を問うなんて、出来レースもいいところだろうという話です。
けっきょく、そこは受験者の教員としての資質を問うといいながら、審査する側=支配する側の論理に従う範囲での意見を答えられるかを試すだけであって、そんな不安定な人間に自分の意見を語らせるというのは欺瞞もいいところだというわけです。

また、そんなにカネの論理に縛られて身動きできなくなる社会なら、いっそ逮捕されても借金は返さないよという人々が公然と現れ始めてもいいんじゃないか、という突っ込んだ問題提起もなされました。
みんなが公然とカネを返さなければ、この資本の論理だって少しは歯止めが利かないだろうか、というわけです。
公然と法を犯して権利の主張を表明する「市民的不服従」の経済版ですね。
面白い考え方だなと思いました。
けれど、資本と国家主権の強大さは、おそらくそれを潰しまくるでしょう。
それでも、予想不可能な「活動」としての返済拒否運動が生じれば、資本と主権を廃棄するのかも…
(柄谷行人風に言えば「交換様式D」が到来する!的な。)

さて、いったん議論を打ち切り、第3章「自分らしさ」と「私的所有」へ突入します。
まずは、私的所有の重大な盲点として、個人の自由は全ての市民に保障されているわけではないという点を確認します。
一般に「政治・経済」の授業では、選挙権の人口拡大は往々にして時代の進歩と解してきましたが、近年の民主国家とされる社会で生じているファナティックな排外主義をみれば、それに疑問を覚えざるをえません。
誤解を恐れずに言えば、納税額などによって制限されてきた選挙制度では、たしかに資本家階級による利権政治という面は否定できないものの、一方で余裕のある身分であるがゆえの公共性を担保していたのではないか、という評価も成り立ちうるのです。
というのも、アーレント流に解釈すれば、家や土地、仕事が保障されることなく、絶えざる生活の不安に襲われている人が公的関心事に関わる条件は極めて乏しいからです。
元々、政治的主体としての市民とは、生命体としての生存を脅かされる恐怖から解放された人々であるはずですが、もし、生活の安定を奪われた人々が政治に参加すれば、生活の確保や安定が要求課題になり、それは既に反政治的なものが「政治」の主たる対象となってしまうという点で、「政治」の破壊をもたらすのです。

一方、国家や市場による私生活への侵害・監視はメディア、ケータイ、ネットによる情報管理、避妊・中絶など生命操作、臓器売買の可能性、非正規雇用とプレカリアート、住宅ローン、グローバル経済と金融ゲームなど多岐にわたり、今日、この「社会的なもの」に侵食されていないプライバシーなどほとんど皆無でしょう。
こうなると隠れ家として安心できる居場所としての「私的領域」は、もはや皆無かもしれません。
このような状況下で、「政治」は「政治」を壊す爆弾を内に抱えながら「民主主義」の危機を論じる時代であるというのが、本書を貫く大きな主張の一つとなります。

この段階の議論では、不安と政治の問題に絡んで、学校という空間は「政治」の空間のような気がするという意見がまず出されました。
その方によれば、自分の学生時代を振り返ってみても、そこはすごく居心地がよく、自分の意見を自由に言えた場所だったそうです。
これは、けっこう重要な指摘だと思います。
アーレントにおいて学校は、まさに私的領域から公的領域へ橋渡しをする中間的な「社会的領域」ともいうべき場所だからです。
この参加者が言う自由に意見を言いつつ、居心地が良いというのは、政治のための発言の自由さと同時に、安心できる自分の居場所としての空間が確保されていることを意味するでしょう。
リアルな話としては、学校や大学の昼食時に自分の居場所がなく、トイレの中でお弁当を食べる生徒・学生がいるという現象です。
その事例を見ればわかるように、子どもたちにとって学校は必ずしも居心地のいい場所ではなく、ともすれば弱者を排除する力学が生じるところでもあります。
だから、アーレントは、子どもの世界は自分たちだけで自律させてはいけないといいます。
もし、子どもだけの世界になれば、いじめが起きる残酷な世界になることは現代日本社会でもいやというほど問題化しています。
だから、学校の世界は教師という権威が存在しなければいけないし、そこにおいてはいかに自由な発言が可能になろうとも、不平等な命令―服従の関係性が支配するわけです。
後者の部分は、まさに家政内での封建的な父親の存在を想い起させますが、まさにそうした平等性がない部分が私的領域に備わることをアーレントは論じます。
権威に基づく命令―服従があるがゆえに、生命・生活の保護が為されるというのは、あまり納得のいく話ではありませんが、むしろアーレントはその私的領域における支配形態を平等原理によって営まれる「政治」に適用することを批判的に論じています。
プラトンの政治思想にもそれが見いだされますが、戦前の日本だって臣民は天皇の赤子だったわけで、思いっきり家族的国家を体現していたことは明らかです。
 
さらに議論では、この話題でふれられた「平等主義」に関してもう少し明らかにしてほしいという質問が出されました。
アーレントにおいて平等は差異の平等を意味します。
つまり、「違い」があるがゆえに平等に扱う原理のことです。
これと対比させられるのが、「画一主義」です。
日本、とりわけ学校はこの二つを取り違えることが往々にして行われます。
これに関しては色々な例を挙げながら模索されました。
たとえば、体育で一律100回の腕立て伏せをやらせるのが画一主義で、その子の体力に応じて目標回数を変更するのが平等主義なのか。
そうともいえるでしょう。
でもそうすると、別の子から不満が出るのが世の学校の常です。
これに関して、今日まさに人事評価をしてきた方が、一律に評価などできん!と啖呵を切ってきたという話も挙げられました。
その人の実力や目標がそれぞれ異なるのに、それを一律に評価するなんて無理だ、というわけです。
あるいは、子育てと働き方の問題など典型にそれが現れるでしょう。
熊本市議が議場にもちこん事例は、規則に書かれているから一律ダメという論理は、まさに原則主義であり画一主義であろうというわけです。
ジェンダーの不平等を考慮すれば一律に切り捨てるのではなく、それぞれの状況に応じて平等性を常に測りなおすという点で、差異の平等とは常にフレキシブルに再検討を促す原理と言えるのではないでしょうか。
この話題は後程再浮上します。

第3章は、アーレントによる所有権の正当化と貨幣を導入したロック批判から、その私的所有権論を批判して共産主義を主張したマルクスをさらに批判し、最後に彼女のプライバシー私的所有の意味を明らかにする展開となります。
まずロック。
そもそも「所有」を意味するpropertyには「自分の/固有の」という「自分らしさ」を示す内容が含まれていましたが、自分の身体の労働と手の仕事によって生じたものは「労働」が付加されたものとなり、私的所有権が発生するというロックの私的所有論は、市場や自然などの「物」に対する所有権が問題とされ、「自分らしさのためのプライバシー」という「私的所有」という意味が抜け落ち、「物を所有する」という意味での「所有権」に限定されてしまったといいます。
さたに、近代社会理論において物をたくさん所有することが、そのまま「自分らしさ」の増大とつながるかのように思われてきたのは、ロックの「貨幣」による自己所有の正当化の議論と深く結びつくとし、これが自分で使用する範囲の所有権を超えて、貨幣の無限の蓄積の正当化へ向かったといいます。

このロックに代表される近代の私的所有論に対してマルクスは、「貨幣の蓄積の増大=富が形成されれば(物をたくさん所有すれば)人間の豊かさが実現される」という割には、働けば働くほど労働疎外と貧困化を招くのはなぜかと問います。
その答えとしてマルクスは、労働と資本が対立する社会では、労働者から物(生産手段等)が奪われている事実があり、排他的な「私的所有」があるからだ!と結論し、すべての物を共有する共産主義へ向かうことを論じます。
しかし、このマルクスの「人間による人間のための…共産主義」は個人と社会の対立を超え、「個人的生活と類生活は別ものではない」とし、「人間の個人生活と社会生活の間にあるギャップを除去」しており、多様な個々人と社会との間の緊張関係が想定されていない、とアーレントは批判します。
つまり、個人と類の同一視こそがマルクスに対するアーレントの批判ということになります。

では、アーレントの「私的所有」とは何か?
一言で言えば、それは「自分らしさのためのプライバシー」ということになります。
すなわち、一人ひとりの人生の生活のあり方はすべて異なる以上、この違いを前提としなければ人間が尊重されたとは言いがたく、それをお互いに見聞きする営みが曖昧にされることは「公的」営みの危機であり、それは全体主義の状況のもとで生じる危険があるというわけです。
そして、一人ひとりの「違い」を認め合える世界の条件を保障するために、一人ひとりの違いを十分に育てるための「私的領域」・「財産」・「私的所有」が確保されなければならないのです。
おもしろいのは、「財産」と「富」の区別の事例として、「帝国ホテル」に住む事例と原発事故による生と場所の剥奪を挙げている点です。
参加者それぞれに「自分らしくいられる居場所はどこか?」と聞いたところ、自宅のトイレや布団のなか、風呂が挙げられました。
おそらく、そこは個々人の五感によって形成された秩序空間ではないでしょうか。
いくら毎日帝国ホテルに泊まってシーツを取り換えられていても、やっぱりしばらく洗濯もしていない布団のにおいに落ち着いたりするものです。
書棚なんて、他人がいじったらそれだけで秩序が乱された気持ちになります。
慣れ親しんだ空間というのは、個々人の感覚の相違によって生じる「癖」の集合体といえるかもしれません。
ゴミ屋敷といわれんばかりの乱雑な部屋であっても、そこには巣のような居心地の良さがあるわけで、それがプライバシーの空間ということなのでしょう。

一人ひとりの「違い」を前提にするかしないか。
学校では建前上「個性尊重」を言いますが、同時に画一主義の服装頭髪指導を継続してきました。
このダブルバインドをどう考えるべきか。
それを、けっきょくは秩序の範囲内で認める自由と表現した人がいました。
90年代にやたらと「個性」を尊重する教育が推進されましたが、おそらくそれはこれまでの護送船団方式では立ち行かなくなった経済の論理と符合していて、ネオリベラリズム的な自由主義という意味での「個性尊重」という経済の論理が背景にあると思われます。

公的空間で政治が為されるための条件としての私的領域・プライバシーの確保が、一人ひとりの違いを十分に育てることにつながるという点では、「サバルタン的公共圏」という領域も思い出します。
これはフェミニズム政治哲学者ナンシー・フレイザーの用語ですが、ここでの「サバルタン的」とはLGBTや難民のような、公的空間において言葉を奪われた人々が形成する「対抗的公共圏」といわれる領域です。
世界から疎外された人々がどのように物語や言葉を紡ぎだすのか、という問題はユダヤ人として社会から追放された経験を持つアーレント自身の大きな課題でした。
同じような境遇にある疎外されたもの同士が集う安心した領域を「サバルタン的公共圏」というならば、それは公的/私的領域の閾にあるものともいえるでしょう。
家族の問題がシビアだとされる日本社会においても、こうしたプライバシー領域を補完する新たな領域の生成は意義深いことだと思いますし、そこでの政治性が課題として問われることでしょう。

しかし、サバルタンという用語は、もともとスピヴァックの用語であり、そこでは自らの疎外や迫害を自らの言葉で語りえない人々のことを指しています。
それは何かの強制力によって表現の自由が抑圧されているという意味ではなく、そもそも語る言葉をもってない人々のことですが、それに対してアーレントはどのように論じるのか、という質問が投げかけられました。
いわば、抑圧されている側がその苦しみを訴えるためには、抑圧している側の言語で語らざるを得ないのだけれど、そこにはすでに言葉そのものが抑圧の構造によって規定されているため、訴える側の本意は伝わらないという問題です。
いくら、知識人が代弁しようとしても、その知識人の言葉そのものがすでに抑圧者の言葉を奪っているという構造を、スピヴァックは見抜いたわけです。
発達障害を持つ人々が、周囲の世界になじめず、それを言語化できないままに疎外される事例から、その問題を指摘する発言が参加者の中から上がりましたが、率直に言って、アーレントはこうした言葉をもてな人びとに対しては解決策を提示できていないと思います。
その点で、彼女は知識人の側に類するとも言えますが、しかし、それよりもむしろ、アーレントが言葉のもつ力を信じ切っていたというべきなのかもしれません。 
しかし、こうした言葉を奪われた人々が、「蜂起」という選択をしないのだろうかとの指摘も挙げられました。
言葉をもてないがゆえに放棄し、立ち上がる人々がいるのではないか。
とても興味深い指摘ですが、おそらくアーレントであるならば、その言葉を抜きにした闘争や暴力蜂起こそが脅威であるとみなしたのではないかと思います。
それはある種のルソー主義とも言えますが、その話は赤城智弘氏の「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」の論考を思い出します。
不安定な立場に置かれた若者の「希望は戦争」という言葉は、そのまま「暴力蜂起」と結びついているようにも思われるからです。
しかし、先に発達障害の問題に触れた参加者からは、そもそもそうした立ち上がることに関心を向けることからも疎外されている若者のことを問題にしたいのだとの指摘がありました。
同じ不安定で言葉を奪われていようとも、そこにはやはりある種の位相の違いがあるようです。

今回も予定していた90分内の時間でスムースに終えることができました。
ただ、スムースに終えることが、十分な理解や思考を深められたこととは別問題です。
皆さんの手ごたえはどうだったのか、カフェマスターとしては気にかかることです。
印象深かったのは、ある参加者がこうして読書会で一緒に読んでいると、佐藤和夫を介してアーレントの言いたいことがよくわかる、と思っているんだけれど、いざこの場を離れて読み直すと「はて?」という地点に戻ってしまうという感想です。
読書会そのものが「政治」の場であり、そこから離れて独りの「思考」という場になったとき、何か雲散霧消してしまっているというのは、アーレントを読む経験としては、何かとても本質的なことを衝いているように思われました。(文:渡部 純)>

第3回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会の案内

2017-11-27 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
回を重ねるごとに盛り上がりを見せている(?)佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』の読書会です。
第1回・第2回の様子はこちらをご覧ください
第1回の議論のまとめ
第2回の議論のまとめ

          

第3回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会
【開催日時】2017年11月30日(木)20:00~21:00
【読み合わせ箇所】第3章「自分らしさと私的所有」(p.105~p.130)
「プライヴァシー」を「自分らしさ」を確保する居場所と捉え、それが切り崩されることの危機を論じています。【参加条件】
⓵スカイプ通信での対話を行います。参加希望の方はメッセージをお送りください。
⓶可能な限り事前に指定範囲を読んでご参加ください。


【参加者によるこれまでの感想】

◎読書会は 「絶滅危惧種」だという話がありましたが、その通りだと思います。話が通じないことおびただしいから、もどかしいし、まどろっこしいし、なんだよー、とも思うことも多い。そして、「人間性」の違いからもう無理!って思うこともある(過去の経験)。
でも、間違いなく、私の思考はそういうところで巡り会った 「他者の言説」によって構成されています。
テキストを読むことも、映画を観ることも、芝居を見ることも、美術展にいくことも他者と出会うという意味では同じようなもの、に一見思えるのだけれど、実はかなり違うんですよね。
生身の他者のチョイスを、 「他者の肯定」を肯定する、という経験がそこにはある。ここでの肯定はとりあえず否定といっても同じことだ。
いわゆる同好の士が集まったサロン、とはちょっと違う話になるよね。アーレントは、実は自分の中でそれをやってるような気もする。
ここから先は國分功一郎氏の「二者」と 「多数」の問題にもなってくる。
ワクワクです。また次回を楽しみにしています。
◎(スカイプ通信という方法について)「生身の他者」と出会う、というのは読書会の重要な側面だとは思います。併用するといいんじゃないすかね。
◎対面の読書会とは違った雰囲気、言葉を浴びている感じです。確かに対面のよさもありますが、併用することで回数が重ねられますし、対面したときがどう変化するのか?が楽しみですけどね。
◎パウ・カザルス(1876年12月29日 - 1973年10月22日。スペイン・カタルーニャに生まれたチェロ奏者で、チェロ演奏の今日を築いた。指揮者、作曲家としても活動した)の「鳥の歌」。きょうここで聴けるとは!まったくの驚きで、いきなり感無量。カザルスの一徹な悲願を新たにした(彼の鳥は今も「ピース、ピース!」と歌い続けているから)。弟君の思いっきりの良い(やんちゃな!)「コレルリの主題による変奏曲(クライスラー)」ともども、兄弟による歓迎演奏あまりにも素敵で、心の中で「よき哉!よき哉!!」と興奮しつつ堪能させていただきました。
 さて「条件」という単語の多義性(大きくは下記A&B)の波に浮いたり沈んだりしながら……

 A:普段はもっぱら「求めるとき/求められるとき」に、「飲ませたり/飲んだり」するもの、というような意味で用いてきた「条件」

 B:あったり(起きたり)/なかったり(起きなかったり)するモノ/コトの因果を来す要因(観察して解明する背景要件・環境状況)を指して用いる「条件」

 取り急ぎ直感で読む、というか直感が感知するものについての表明・表現を思考錯誤している気分です。

・いわば「過渡期の絶え間ない連続」でありつづける生の現場における人間の「とりあえず(仮説・仮定)の生き方」のあらわれについてのハンナ・アーレントの観察洞察と論証の試み?……として理解しようとしています。
・分かりにくい、難しいということがしばしば口にされますが、ふと「アーレントの所感・所信」でしかないものを読みながら、つい「解答や提案」を求めてしまうからムズカシイのではないのかーーと思いはじめています(?)。
・「科学(主義?)」に由来する「永遠の過程性」という「逃避のブラックホール」が時折見え隠れします。

・愉快な仲間たちの個性のほとばしりがしずまり、理解未然の胸襟を開き合ったまま沈思黙考 ——— ひたすら理解しようとするところに訪れた沈黙のえもいわれぬ深さを味わった(共有しあった)瞬間がありましたね。振り返ると、信頼の海に糸を垂らす釣り人の幸福感に包まれたとでもいいたくなるような充足感があったことに気づきます。読書会の醍醐味の一つ?

 というわけで、このあともナニが起きるかわからないゾ!という希望を弾けさせた第2回読書会だったと思います! ありがとうございました。
 いよいよアブラが乗ってきたカンジの「まとめ」の力作にも感謝。ここまで書いてあったかなと思うほどよくわかります。次も楽しみです!

第3回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・レジュメ

2017-11-27 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
第3回の『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会が一週間後に迫ってまいりました。
レジュメをまとめましたのでアップさせていただきます。
今回は「第3章」の読解をメインにしていますが、前回読み飛ばした「第2章3節」も大きく関わりますので、そこでの議論も含めてまとめてあります。
今回からご参加いただくこともできますので、ご関心のある方はスカイプを設定していただいた上で、ブログメッセージよりご連絡下さい。



「自分らしさ」と「私的所有」(報告担当:渡部 純)

1.私的所有=自分らしさのためのプライバシー(第2章3節)
(1)公的領域で活動できるための私的領域の意味づけの重要さ
 労働からの解放はありえないが、「自分らしくあること」の追求が人間の基本的な条件として求められる〔90〕
 ⇒しかし、ロック以降の近代思想が「自分らしさ」の「所有」という意味の「財産」を無限増殖・消費する貨幣としての「富」(カネ)にすり替えてしまった!

(2)生命としての人間は「大地」という条件によって根源的に制約されているが、この条件は変容可能である〔93〕
 ⇒もっとも恐るべきは、この地球の中で自分が、ここだけは誰にも侵入されずに自分の場所(世界の内部に私的に保持された場所)をもつことができるという、いわば根本的な人間の条件が奪われること
 ⇒近代資本主義は労働のなかに所有と「財産」の起源を見出し、それが貨幣の肯定と結びついてしまったことで、「自分らしさのための所有」が、無限増殖する貨幣の量に還元される「富」であるかのように混同されるに至った。
 ⇒大地に根をもつことで可能になる「自分らしさ」の「所有」とは正反対のものであ

(3)ヴェイユの『根をもつこと』-「私的所有は、魂の生命的な要求の一つである」〔94〕
 ⇒自分の根が奪われているとき 人々は全体主義への誘惑から自由になれない〔95〕

2.「自分らしさ」と「私的所有」(第3章)
(1)はじめに
①私的所有の重大な盲点…個人の自由は全ての市民に保障されているわけではない!
 ⇒生活のための家や土地が保障されることなく、絶えざる不安に襲われている人が公的関心事に関わる条件は極めて乏しい
 ⇒元々、政治的主体としての市民とは、生命体としての生存を脅かされる恐怖から解放された人々であるはずなのだが…〔107〕
 ⇒もし、生活の安定を奪われた人々が政治に参加すれば、生活の確保や安定が要求課題になるが、それは「政治」を破壊するものを「政治」が主たる対象にすることである
②今日のプライバシー問題…国家や市場による私生活への侵害・監視
 ⇒メディア、ケータイ、ネットによる情報管理、避妊・中絶など生命操作、臓器売買の可能性、非正規雇用とプレカリアート、住宅ローン、グローバル経済と金融ゲーム、
 ⇒この市場世界で生き残るために強制される精神的隷属と身体的虐待の問題
 ⇒今日の「政治」は「政治」を壊す爆弾を内に抱えながら「民主主義」の危機を論じる時代である(外国人の排外主義とリーダー待望論)

(2)ロックの所有権の正当化と貨幣の導入
①property…「所有/自分の/固有の」という「自分らしさ」を示す内容が含まれていた
②ロックの所有権論
 ⇒自分の身体の労働と手の仕事によって生じたものは「労働」が付加されたものとなり、私的所有権が発生する〔114-115〕
 ⇒市場や自然などの「物」に対する所有権が問題とされ、「自分らしさのためのプライバシー」という「私的所有」の保障はブルジョワ市民階層を分析対象とした社会科学の主要な関心となりえなかった。
 ⇒「物を所有する」という意味は「物をもつ」という意味に限定されてしまった
③ロックの貨幣論
 ⇒近代社会理論において物をたくさん所有することが、そのまま「自分らしさ」の増大とつながるかのように思われてきたのは、ロックの「貨幣」による自己所有の正当化の議論と深く結びつく
 ⇒「財産の蓄積を持続し拡大する」ものとして貨幣を正当化したが、これは自分で使用する範囲の所有権を超えて、貨幣の無限の蓄積の正当化へ向 かった。

(3)マルクスの私的所有批判
①マルクスの近代経済学批判
 ⇒「貨幣の蓄積の増大=富が形成されれば(物をたくさん所有すれば)人間の豊かさが実現される」という考え方への批判から始まる。〔117〕
 ⇒「物をたくさん所有することが豊かだ」という考え方が労働疎外と貧困化を招く
 ⇒人間の豊かさは、人間が労働生産の過程で主体的に自然に働きかけながら、自己が対象化され豊かな人間環境が形成される「文明化作用」によって実現する〔118〕
 ⇒しかし、現実は労働者が富を生産すればするほど…それだけ貧しくなる。なぜか?
②マルクスの答え〔119〕
 ⇒労働と資本が対立する社会では、労働者から物(生産手段等)が奪われている事実があり、排他的な「私的所有」があるからだ!
 ⇒すべての物を共有する共産主義へ
③マルクスの問題点
 ⇒「人間による人間のための…共産主義」は個人と社会の対立を超え、「個人的生活と類生活は別ものではない」。人間は社会的諸関係のアンサンブルである。
 ⇒マルクス:私的所有の積極的な廃止の後に立ち現れるユートピア的な調和的人間
 ⇒アーレント:マルクスは「人間の個人生活と社会生活の間にあるギャップを除去」しており、多様な個々人と社会との間の緊張関係が想定されていない。
 ⇒個人と類の同一視こそがマルクスとアーレントの対立点である

(4)アーレントの「私的所有」=「自分らしさのためのプライバシー」
①アーレントの私的所有観〔122〕
 ⇒一人ひとりの人生の生活のあり方はすべて異なる以上、この違いを前提としなければ人間が尊重されたとは言いがたい
 ⇒一人ひとりが異なる存在であることを認めることが人間社会の出発点
②アーレントの「公的」概念
 ⇒「公的に表れるものはすべて、誰にでも見られ聞かれたりする」
 ⇒世界とは、他者によって見聞きされる中で生じてくる
 ⇒人間が互いに見聞きする営みが曖昧にされることは「公的」営みの危機であり、それは全体主義の状況のもとで生じる危険がある〔123〕
③一人ひとりの「違い」を認め合える世界の条件を保障するために
 ⇒一人ひとりの違いを十分に育てるための場所の確保(「私的」領域・財産・所有の確保)
 ⇒それを通じて自分のかけがえのなさが表明されること
 ⇒その表明を互いに認め合う空間の保障
④「私的」所有・財産の意義
 ⇒人間が公的領域で自由平等にコミュニケーションできる条件を成り立たせるもの
⑤ロック以降の近代思想のすり替え
 ⇒もともと「私的所有」は自分の生活に必要なものを思い通りにできることだった
 ⇒貨幣の正当化によって「万人が共有している世界に入る」可能性をもちこんだ
⑥私的所有・財産と富の区別
 ⇒「帝国ホテル」に住む事例と原発事故による生と場所の剥奪〔124-125〕
⑦私的領域の意義(まとめ)〔126-128〕
 ⇒自分らしい暮らし方を通じて自分を保つというのは人間の根本的な在り方であり人間の条件である。
 ⇒マルクスの議論は労賃。資本・地代の対立が人類経堂のものになれば個人と人類の発達の対立は消えるとしたが、そこには個性の問題が見逃されている
 ⇒「財産」とは一人ひとりが自分の安心できる「4つの壁」をもち隠れていられる状態であり、その上に公的領域で自分を示しうる条件が保証されている
 ⇒「根こぎ」の状態の蔓延こそが全体主義運動に組織化されていく



第二回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・まとめ

2017-11-09 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む


今回の『〈政治〉の危機とアーレント』第二章「人間の条件と20世紀」を対象とした「読む会」はSkype通信で9名の参加者に恵まれました。
しかも、福島市の某所に集った4名は、そこのご子息らによるバイオリン&チェロの優雅な演奏で迎えられ、至福のプレリュードを過ごすことができました。写真は、お兄さんのチェロによるパブロ・カザルス風「鳥のうた」の演奏風景です。しゅんたろうくん・こうたろうくん、ありがとう!スパークリングワインも格別でした!(飲み会じゃないよ!)
というわけで、今回の「読む会」は前回の反省を踏まえてレジュメを短くまとめ、各人が本書の文章に即して自分の意見を述べ、議論しあえる時間を取れるようにしました。しかし、これはこれで本文の丁寧な読解を省くという点で、内容理解が断片的になってしまうという問題も生じます。ここは、参加者のご意見をお聞きしながら、さらに工夫を凝らさなくてはいけませんが、何事も「仮説実験」ですので、このものまま凸凹しながら進めることにしたいと思います。

さて、今回のレジュメは思い切って、かなり省略して二つの論点に集約しました。
一つは、アンドレ・マルローが描く清ジゾールとブーバー=ノイマンの生きざまの比較を通じて、「人間はどのような「条件」において悪魔か天使になるか」を問う点です。
もう一つは、「労働」という人間の条件を中心に、アーレントが影響を受けたシモーヌ・ヴェイユの議論をめぐって「奴隷的でない労働の第一条件」を問おうという点です。

まず、アンドレ・マルローが描く『人間の条件』では、国共合作において自己が引き裂かれる中国共産党員の姿が描かれますが、そこにおいて清ジゾールが「みんな、ものを考えるから苦しくなるのだ…もしこの思考なるものが姿を消せば、この光の中に散らばっているなんと多くの苦痛が消えてなくなることだろう」と語る場面があります。
そこに佐藤氏は「信じるにはあまりに残酷な現実を前にして、人はどのようにふるまうのか」という一つの姿を見出します。いわば、思考し続けることの困難、あるいは思考しない自由を求める姿が、そこに描かれているといっていいでしょう。
そして、この思いは、原発事故災害下で多くの被災者が経験したのではなかったでしょうか。
しかし、他方でカフカの恋人ミレナとともにソ連とナチスドイツの強制収容所を体験したブーバー=ノイマンは、「自尊心を失うような自暴自棄にも陥らず、絶えず私を必要としている人間を見出し、友情と友好な人間関係を築けたことが」力となり生き延びることができたといいます。
この二人の経験の違いに佐藤氏は注目し、「『考える』営みが個人的性格ではなく世界との関係において規定されてしまう問題」、そして「どんな人間になるかは一人ひとりが作り上げる人間関係の目を抜きにはあり得ない」ことを指摘しています。

続けて佐藤氏は、マルローが「死に対する勇気ある挑戦によってのみ、自らを死から救うことができる」と述べたように、サルトルが「自由」を、そしてカミュが「理性」を引き合いに、「革命」が社会的政治的条件にではなく、「死すべきもの」という人間の条件(勇気、自由、理性)そのものに向けられたという点に着目します。つまり、自由や理性のために死が肯定されたと言い換えてもよいのではないでしょうか。
そして、そこにおいて「思考の闘いから「政治」(行動)へ逃避しようとする実存主義にとって、「政治」の公的領域に接近できるのは「革命のとき」だけだったというわけです。

実は、これまで筆者はなぜアーレントが対ナチ・レジスタンスについて「思考から行動へ逃避した」という評価をしたのかよくわからなかったのですが、それがこの部分を読み終えて急に腑に落ちた気がしました。
これまで筆者は原発事故下での被災者からその経験を聞き取る中で、原発を容認してきた過去とそれに反対する現在の自分とが折り合わないという話をしばしば耳にしてきました。
放射線の汚染地域に残った選択を他者から責められることにしばしば傷つきながら、将来の不安と過去の選択のはざまで折り合いをつけられない人の苦しみを耳にしてきました。
そこには、県外の人びとから「福島県民はここまで理不尽な目にあいながら、なぜ声を上げないのか」と発破をかけられると、行動を起こさなければならないという焦燥感と、それができない自分の負い目に苛む声もありました。
いみじくもノーベル賞作家のアレクシエーヴィチも、福島を視察した後に「日本には人々が団結しあうという形での抵抗の文化がない」と評したものです。
この出来事になにがしかの負い目を抱く被災者は、そのような声を耳にすると、いち早く行動に移さなければならないという焦燥感に駆られるものですが、それは裏を返せば、この苦しみから解放されたいという心理的反応ともいえるでしょう。
しかし、そこには同時に、この出来事に対して腑に落ちないままに行動に移ることが、どこか自分自身を押しとどめている実態もあります。
行動に移れない自分は「勇気がない」だけなのだろうか、「自由」を放棄しているだけなのだろうか。
そんな思いももまた、それらの人々の言葉からは窺えたものです。何より、これらの経験は私自身のことでもあります。

アーレントは、『過去と未来のあいだ』で「思考」の経験についてカフカの寓話を引用しながら、過去と未来の両方から押し寄せる「力」に対して、「現在」という頼りない場に何とか踏ん張りながら、両者と闘わなければならない営みだといいます。
過去の自分の為した(為さなかった)負い目との折り合いのつかなさと、将来自分に何が起こるかわからないという不安とのせめぎあいの中で、この「原発事故」という出来事と和解することを目指しながら、「思考」の場に踏みとどまること。
これもまた「抵抗」の別の形なのではないか。そのような理解の仕方において、アーレントの「思考から行動への逃避」という文が腑に落ちたわけです。

しかし、この部分に対しては、少なからぬ反論が提起されました。反論というか、このアーレントの考え方には到底納得がいかないというものです。
その理由の一つは、まるで「思考」が「行動」よりも優れているといっているとしか聞こえないというものです。なるほど、このレジュメのまとめ方だけでは、そのように受け取られるでしょう。
なぜ、行動がだめなのか。「行動しながら思考できる」という参加者からは、思考/行動を区分する二項対立的なアーレントのとらえ方は納得ができないといいます。
「逃避」とは何事だ!というわけです。
これに対して、別の参加者は、デモに行ったりすると、それまで自分のなかだけで悶々としていたものが、仲間がいることで安心するという感じがしたという経験もあるから、「行動への逃避」という表現はわからないではない、という感想も出されましたが、違和感を示す方が趨勢でした。

正直なところ、これらの批判的感想に関しては、「え?ここに反応するの?」という驚きを覚えたものです。
これらの反応にどう捉えればよいでしょうか。
まずアーレントが「行為action」ではなく「行動behavior」としている点は無視できません。アーレントにおいて前者は「自由」に対応するのに対し、後者は「画一性」に対応する語です。つまり、動物的な反応において営まれるのが「行動」ですので、そこ点を考慮しなければならないでしょう。
このことを「浅慮」による「行動」と表現された方もいらっしゃいました。では、思考した上での行為はすぐれているのか?
これについて、別の参加者から「アーレントは思考した後にどうなると考えていたのか?」という質問を投げかけられました。アーレントにとって、「思考」は知識をもたらすわけでも、正しい答えや良い行動指針をもたらすものでもありません。
むしろ、思考する間、その人は世界から「ひきこもり」、外見上はじっと固まっているように見えます。
じゃあ、なぜ思考するのか。
アーレントは、ただこれまで「正しい」とか、「常識」と思い込んでいた事柄を解体してしまう営みを「思考」ととらえます。
したがって、「思考」とは何か行動指針を提示するものではなく、むしろその吟味を通じて解体してしまう営みなわけですので、彼女の定義上行動が同時に起こりうることはありません。
行為や行動を麻痺させるネガティヴな考え直しを迫るもの。それが思考です。
これを営んでいる間はつらい、というのは過酷な出来事を経験する中で、思考と止めてしまいたいという清ジゾールや原発事故の被災経験者の言葉からも理解できるのではないでしょうか。
そこに踏みとどまれずに、行動に移ったのが、実存主義的な傾向性をもったレジスタンスではなかったか。
もちろん、そのすべてではないにせよ。

それでも、やっぱり「現実との和解」というフレーズが納得がいかないという参加者の声もありました。
本書では言及されていませんが、これは「理解」のことだという点を触れました。アーレントは「理解と政治」というエッセイの中で、「現実との和解」を「理解」という営みで説明しています。
「出来事」の「意味」を探求し続ける「理解」は、ほとんど終わりのない営みなのですが、それは彼女にとって「全体主義」という前代未聞の出来事と闘う上で欠かせないものでした。
「理解」はどこか「思考」に近い感じもしますが、「思考」が「思い込み」を解体する営みであるのに対し、むしろ「理解」は破壊された「世界との和解」を目指す点で、やはり別の営みでしょう。
人は、どこか前代未聞の出来事と言いつつ、それまでにつくられてきた概念を用いることで、なんとかそれへの対処法などを模索します。
しかし、そもそも未曽有とか前代未聞の出来事に対して、従来の概念では対応できるものではありません。
それまでの「帝国主義」という概念で「全体主義」に対処しようとしても、対応策を踏み間違えるだけです。
それは「原発事故」という出来事に対して、従来の「公害」という概念では不十分な対応に終わってしまうということです。
そこにおいてこそ、「思考」や「理解」の営みが意味を持つのではないでしょうか。
しかし、これは苦しい闘いです。
そもそもなかったものを、新しい概念で名指そうという営みは格闘以外の何ものでもありません。
ならば、いっそ従来の抵抗の仕方で対処しようした方が、なにほどか自分がそれに役立ったという思いに浸れるかもしれません。
しかし、出来事と自分のあいだに違和感や齟齬を覚える人々は、一足飛びに行動へ移れません。
その人間的な意味を見出す余地が、この部分にはあるのではないでしょうか。

したがって、ここでアーレントは「思考」が「行動」の優位にあるといっているわけでも、「思考」すれば正しい「行動」がとれるといいたいわけではないということだと思います。
自分と出来事とのあいだにある齟齬との和解を目指す精神の営みが殺されない人間の条件とは何か、と問うているのではないでしょうか。
いわば、抵抗=暴力的蜂起を促したサルトルとは別の仕方があったのではないか。
その意味で、今まさに「抵抗」という概念そのものが問われているのかもしれません。
もっとも、沖縄の人々あたりにはいつまでもたゆたっている場合じゃねぇだろと突っ込まれそうですが。
しかしながら、やはり皆さん、この部分は消化不良の感があったようなので、ここはぜひ著者と語る会において、ぜひ佐藤氏へ疑問を投げ込んでもらいたいと思います。
もう一点。
こうした「思考」という精神の居場所が殺されずに済む為には、ブーバー=ノイマンがミレナという悲惨な現実を共有し、語り合えたパートナーという意味での他者が存在したということが、大きな「条件」であったという点は、「人間の条件」の重要な要素として確認しておく必要があるでしょう。

というわけで、後半は第二の論点、すなわち「労働」の問題に移ります。
ここは皆さん、体験的に理解が進みやすいところであったかなと思います。
労働の過酷さの本質は、まさにヴェイユ=アーレントの指摘の通りで異論はありませんでした。
ただし、果たしてそう単純に労働には喜びや自由をないと言い切っていいのだろうか、という疑問が出されました。
いくら労働といっても、やりがいがあったり達成感があったりすれば、誰でも喜びを感じます。
すると、一概に奴隷的な労働と労働一般を一緒くたにして良いのだろうかという疑問が生まれるのは当然です。
アーレントは概念を厳密に規定するがゆえに、「それは言いすぎじゃない」と思われる個所はいくらでもありますが、その典型的な例が「労働」概念に現れているともいえます。
アーレントの言う労働は賃労働じゃないの。だから、それは近代的な意味での労働概念だよね。
確かに、そうとも言いたくなりますが、彼女はあくまで古代ギリシアからその概念をもってきているわけなので、時代限定的なものではないはずです。

それでも、身近な経験でいえば、職場の同僚関係がうまくいっていれば、毎日が楽しくなるという意味では、円滑な「人間関係」が形成される労働環境であれば奴隷的ではなくなるのではないかという意見も出されます。
また、職種にとらわれずにフレキシブルに職場異動することで、会社全体の動きをつかむことができることは労働する上でも自由や存在感を得られるという意見も出されます。
むしろ、そこにおいて人事聴取などで若手から「自分は何の役に立っているのか」という質問が多く出されることは、そのことと大きく関連していることだといいます。
職場において自分が何の仕事をしているのかわからないというのは、マルクスの「労働疎外」でも指摘されることですが、こうしたいわば自主管理や協同管理システムが自由な労働と結びつくのはないかというのは、空想社会主義者と揶揄された社会主義者たちの思想にもありました。
スペシャリストではなくジェネラリスト。
こうした労働環境の構築は、依然欠かせない課題であることは否めないでしょう。

しかし、そうであるにもかかわらず、アーレントがヴェイユから読みとった、労働と自由の相容れなさをどう考えるべきか。
アーレントのマルクス批判の要点の一つは、最終的に資本主義が解体し共産社会が実現されれば、労働のないユートピアが到来するとした点に向けられています。
アーレント=ヴェイユにとっては生命の必然性から人間が解放されない以上、それに対応する「労働」からも人間は解放されないどころか、それをなくしてしまうことは、「人間の条件」そのものを破棄してしまいかねないことになります。
言い換えれば、それを失ってしまっては、まさに人間であることをやめてしまいかねない、ということになるでしょう。
そうではなく、人間は「労働」という条件から解放されえない以上、その在り方をどうしていくべきかを試行錯誤しつつも、「活動」や「仕事」という領域をいかに確保していけるか。
とりわけ、「自由」に対応する「活動」や「政治」の公的領域を失いかけている近代人は、それを自覚しようぜっていうことではないでしょうか。

したがって、生命の必然性に支配される「労働」にそれとは対極にある「自由」を結びつけちゃうのは、「自由」そのものを失っちゃうよと、「人間の条件」の概念区分の混同の危うさを指摘しているのが、この章の骨子なのでしょう。
おそらく、その背景には「労働すれば自由になれる」という標語がアウシュビッツ収容所の門に示されたことと無関係ではないでしょう。
働けば自由になれるという観念は、どこか経済的自立こそが自由の実現という形になっても流通していますよね。
もちろん、それは大事。だけれど、「自由」はそれとは別にあるものだよ。それを間違えないようにしようね、ということなのでしょう。
たしかに、労働環境の改善によって「労働の自由」あるいは「自由な労働」というのは実現されるかもしれません。
しかし、アーレントが問題にしたいのは、極限の状況になったとき、労働の必然性がその暴力をあらわにするということではないでしょうか。

これは、本書でたびたび指摘されることですが、高度経済成長のように経済的豊かさが充実しているところでは、なかなか見えにくい労働の暴力性を指摘しているのでしょう。
いくら、自由裁量や自主管理の経営形態がとられれば、いくぶんか労働の強制が軽減されるかもしれないけれど、結局その条件そのものは廃棄できない。
逆に、経済成長が見込めない現実の社会を見れば、雇用形態から労働形態まで、労働弱者に対する絶望的な抑圧が法改正によって進められています。
そこにおいて、「そんな労働が嫌ならどうぞ働いてもらわなくて結構。ほかに働きたい人はいくらでもいます」という暗黙のメッセージを発し、「働かなければ生きていけない」という必然性の論理でもって自由を束縛します。
そこにおいて、生存の限界状況があらわになったところに剥き出しの暴力を発現するわけです。

アーレントはいつでもそうですが、おそらく最悪の状況になったときの人間性が「人間の条件」によって、いかに左右されるかをつきつめて論じようとします。
一見、そんな無茶苦茶なと思うこともしばしばありますが、しかしまさに「〈政治〉の危機」において、それがあらわになるものでしょう。
それが本書を貫くアーレント解釈の中心にあるように思われます。
しかし、しかしです!もしかすると、その条件の重要性に気づいた時には、既に世界は取り返しようのない危機に陥っているときなのかもしれないのです!(文:渡部 純)