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映画『越後奥三面―山に生かされた日々』を語る会・記録④ゲストと参加者による対話篇その2

2024-07-31 | 映画系


◆男性6 どうも坂下と申しまして、先ほどから昭和村のお話がだいぶ出てましたけど、その隣の金山町っていうところからまいっております。
ええ、猪俣昭夫さんのこととかも話に出ましたけど、すぐ隣におられる方で、その弟子の方もまあ自分の友達なんで、よく知ってる方ばっかりなんですけれど。
まず第一に、昭和村のからむし商品に関して、僕はその織姫の第一期生とかなり近しく付き合ってた面とかがあって実態はよくわかってるんですけれど、冷や水をかけるようですけれど、正直言って、産業としてはまったく成り立ってません。
で、ええ、その前提で、どうしてその制度がこう続いているのかというと、昭和村のアイデンティティとして大切にしたい、その価値がある。それは間違いのないことです。
ただそれとともに、途中、阿部さんも消滅自治体に入ってない、その一つの要因として、からむしの方々、若い女性がたくさん入ってきたからということが非常に大きな要因なんです。
要は村の方も半分それが本意で、その制度を始めてっていうふうな面がありまして、それを私自身が責めるわけでは全くないんですけれど、皆さんに対して、まずからむし織自身がブランドとして成り立っていると誤解されるというふうなのはちょっと措いておいてほしいなあ、というふうなこと。それがまず第一です。
私自身、この映画みさしてもらって、いろんな意味で感銘を受けたんですけれど、やっぱり何がって言ったら、その土地においてどのように生きるのかっていう、それを文化と名づけようが、生活の知恵と名づけようが、いろいろあると思うんですけれど、そういったあり様が濃厚にやっぱり映し出されているからだと思うんですよね。
で、それがより便利化することによって、要は全世界、要はカスタマイズ化されて均一化されていくと。で、その影響で逆にNHKでは食の文化のことに関しても特集を組んでますけれど、要は食の内容が均一化されてしまって、それを補給するための、例えばとうもろこしとか、小麦であるとか、そういうふうなのは農地を大地を粉砕するようなやり方で潰すようなやり方で耕地を広げていく。
で、そういうことによって、その均一化された世界でさらに人口が増えていくわけなんですけれど、それが守られているという実態がある。要は非常に危険と隣り合わせだというふうなことをNHKは訴えているんですけれど、何を言いたいかというと、最近、朝日新聞のコメント欄で山極寿一さん。京大の前総長の方なんですけれど、そのかたがおっしゃってたのが、今からは適応と分散の時代に移っていく、と。
何が言いたいのかと言ったら、資本主義的な集約と、何って言ったらいいかな?それによってどんどん端が削がれていく、と。で、有利?な方に一極集中化していくかっていうふうなことになっていたわけなんですけれど、それがかえって危機を、生物史的な歴史を考えると非常に大きな危機をはらんでいる、と。
今まで適応と分散というふうな形で、その土地土地に応じた生活の有り様がそれぞれある社会が存在するというような形で、割合なんていうか、ネットがすごい敷かれていた面があるわけなんですけれど。
それがどんどん単一化することによって、逆にすごい権利になってるんで、それが次の時代としたらぜひそれは変わっていくだろうというふうなことをおっしゃってたんですね。
それは僕も非常に同意する言葉なんですけれど。にもかかわらず、それを残していこうというためには、やっぱり僕自身、民間のお金もなんですけれど、国策としてのそういう施策が、やっぱりどうしても関わらざるを得ないというふうな面もありまして。そこら辺、どういうふうな案が?っていうふうなこと、民間のお金をどう引き込むかっていうのが今、いろいろ頭の中では考えて、頭の中だけじゃなくて色々アクションをしてますけれど、まあそこら辺の、要は映画の価値として、先ほど言ったようなことを私自身、今回みさせてもらったものに対しては評価する反面、それを現代的な課題に対してどのように生かすのかっていうのを、そこが論ずべき点じゃないかなと思ってまして。もしよろしければ、各々三名の方からご意見を聞かせて頂ければと思います。
◆林 ありがとうございます。先ほどの3人衆のひとりの方ありがとうございます。また、今のご発言もありがとうございます。
ダムに沈むことを仮に納得一応した上のことであっても、どこまで切ないものだっていうのは、私も以前から高知県の早明浦ダムですね、沈むゆく大川村という調査をだいぶしていたことがあるので、渇水の度に昔の町が出てくるという早明浦ダムなんですけど、ダムというのは本当にどのような経緯を辿ってもいろんな矛盾とか、悩ましい気持ちをずっと持ったまま保たれる。
蘭さんが先ほど言ったとおり、それが本当に治水上合理的なのかという問題もいつまでもはらんでいると思いますので、常に私たちもダムカードでスタンプ集めて楽しくっていうことだけではいけないなと思います。
また、先ほどの昭和村のからむし制度。確かに女性が昭和村にIターンということですね、県外から移住してくることによって若い女性人口が増える、それで消滅可能性自治体にはならないっていう方程式になっていて、それが何か産業振興につながっているか、もしくは女性人口をなんとか維持というかですね、一定数は常に転居してくれるので小学校が維持できているということなのか。その両面が一応あるにしても難しいところだと思うんです。
昭和村は全村でいま、義務教育校一校でいろんな村を盛り立て、目の前には小中学校をなんとか維持しなきゃいけない課題がある。
私も生物多様性観察会などで福島大学・黒沢さんという生物の先生と一緒にお邪魔したりしたんですけども、なかなか根本的な産業そのもの―本来は奨励して―いまはカスミソウという花が発展してますけれども、それで若い人の仕事が生まれるっていうふうに、次にどう結びつけるかっていうのは、奥会津地域が悩んでいるところだと思います。
それで、話の後半のところで、京都大学の山極さんという霊長類の研究者の先生が言ったのは本当そうだなと思います。世界の増え続ける食料需要を満たすために、このNHKでもやってましたけども、アマゾンですら切り開いて大豆畑にしていっているっていうのが現状で、当面それで油とか食料需要をなんとかキャッチアップしようということなんですけれども、逆のベクトルも確かに生まれてきているということで、貴重な品種を守ろうとしたりですね、地域に固有の食べ物は維持していこうという動きも、それとはまた別の動きとして出てきているのも重要だと思っています。
それに関連する最新の動向として、山形県、山形で映画祭やる理由が一個これでできたわけですけど、山形大学の農学部が鶴岡にありまして、枝豆の品種でだだちゃ豆という歴史の長い品種を、ほかの一般に出回っているものから、ちゃんと区分して品種として評価していくというところから始まって、今や野菜のありとあらゆる品種を遺伝子的に解明して、それを国の農研機構というところのジーンバンク・遺伝子バンクに日本初登録したという。山形県がこれほど農業界で脚光を浴びた瞬間は過去百年間なかったぐらいの出来事が今年ありました。
それもお米とか大豆とか菜種とかすべて画一化して行くという抗いようのない大きな動きと、また別のちっちゃいかもしれないけども、地域に固有の取り組みは頑張っていこうというその両方やる必要があるんじゃないかという山形県政をあげての取り組みですので、東北地方の我々として注目したいことで、かつ福島県としてはちょっとそれが弱いところは頑張らなきゃいけないなというふうに思います。
◆阿部 そうですね。さっき昭和村の話になったんですけど、実際からむし織という『からむしのこえ』などをみてると確かにそこに夢があったりとか、何かそこに行けば新しい生き方ができるかもしれないっていうふうに、若者を呼び込む魅力の、ある意味、なんと言ったらいいかな、表象になっていて。
僕は映画をずっとやっていて思うのは、映画でサブカルチャー、いわゆる芸術以下でも娯楽以上、というところでサブカルチャーという言葉を使うのだけど、例えば『フラガール』という映画があった。これによってスパリゾート・ハワイアンズが全国に知られることになり、その大ヒットによって例えば東京女子大の―当時は就職氷河期でしたから、あの映画が公開された時は―就職ができない女の子が、一流の大学の女の子があそこに願書を送って来たっていうのが民報の記事になったくらい、サブカルチャーの影響ってすごく大きい。ある意味危険でもあるんですけど。
サブカルチャーがラジカルであると同時に、まず問題を共有する意味では最高の、ある意味文化なんですよね。
だからまずそこに、昭和村にからむしというのがあるよと。で、からむしをめぐって若い人たちが戻ってきたりとか、色々その何か地域振興にしたいなということで、どんどん外部から人が来ているよっていうことが一つサブカルチャーとしての位置付けというのはすごくあると思うんですよね。
で、例えば昭和村の今の舟木村長は若い頃に「奥三面」サブカルチャーをみて、自分は昭和村に戻りたいなと思って、村おこし町おこしの若者の集団のひとりとしてずっとやってきた意味を考えると、やはりされどサブカルチャー。たかがサブカルチャーされどサブカルチャーだなというふうに思います。
それと、この映画が今、なぜこの時代に必要なのかというところで言うと、やっぱり映画って僕は遅効性のサブカルチャーだと思って、即効じゃない。遅効です。遅く・ゆっくり・後からじわじわと効いてくる。
本当にすごい映画というのは、そのみた直後にはよくわからない。でも数ヶ月経って、あるいは数年経って、自分がその映画の何かの場面とスパークするような生き方を迫られた時に、すごくその、ある場面がこう自分の人生にリンクしてきた時に、それはものすごい大きな影響を及ぼしたりすることがある。それって即効性じゃなくて遅効なんですよ。本当にすごい映画は遅く・ゆっくり・効いていく。
そういうふうに考えると、この『奥三面』が作られてから40年経って、こうやって今、この映画をみたことによって問題が共有されていって、いろんな人がポジティブに、何がいまの問題なのか?何が自分の中で問題意識として生まれたんだ?みたいなことで、議論ができてるっていうのは、これこそまさに、遅効性の映画としての最高のあり方だなというふうに思うんですね。
で、ちょっと話し飛んじゃうんですけど、食べ物の話になっちゃうと、PRも半分兼ねるんですが、チャールトン・ヘストンという『ベン・ハー』の俳優さんがいて、彼が若いころに出た、ある意味B級作品なんですけど、『ソイレント・グリーン』(※米SFサスペンス、1973年公開))という映画が見直されて、いま東京で公開されています。
これも子どものころによくテレビの日曜洋画劇場の淀川長治さんが『ミクロの決死圏』とかなどの映画と一緒によく宣伝してたんですけどね。放映も当時よくされていて、僕、子どものころ何回もみてるんですよ。
このソイレントグリーンっていうのは、ソイレント社っていう、いまでいう多国籍企業が世界の食糧事情を牛耳ってて、ソイレント・イエローとかソイレント・オレンジとかっていう、クラッカーみたいな板みたいな食べ物を独占的に専売的に売ってですね、人類の食糧事情を賄っているというSFです。
いまから50年前に作られた『ソイレント・グリーン』は舞台が2022年なんですよ。だからいま公開してるんですけど。で、ソイレント社は新しい食べ物でソイレント・グリーンというのを作るんですけど、ソイレント・グリーンの製造過程をめぐってチャールトン・ヘストン扮する刑事みたいな人がその真実に迫っていくっていう話なんですけどね。
その2022年は、チャールトン・ヘストンみたいな30、40ぐらいの若者は牛肉を見たことがない、あるいは野菜を見たことがないんですよ。加工された食品しか知らないんですね。
50年前の『ソイレント・グリーン』を作ったときの、リチャード・フライシャー監督はちょうどジョージ・オーウェルの『1984年』を読んだのかもしれないけど、多分いまから50年後の2022年にはこんな世の中になってるかもしれないね――みたいなね。そういう意味ではサブカルチャーならではの飛躍ですけれども。でもいまこれを公開するっていう配給会社の狙いとしてあるのは非常にアクチュアルである、と。いま現在ソイレント・グリーンみたいな食べ物は、昆虫食とかコオロギ食みたいなものだったり、よくよく考えてみると、これだけの人口を賄うには野菜だって遺伝子組み換えだし、肉だって、もう本当にブロイラーですとか農場内での大量生産で牛なんかもほとんど飼料漬けにされて解体されていくみたいなね。そういう機械的な仕組みの中でしか、私たちの食糧を得ることが出来ていない。
でも、一方でこの『奥三面』をみていると、映画をみているだけの部分で、表層で判断するならば、すべてを自分たちで作っている。
でも、今の自分の生活を見なおすと、僕は土ひとついじれないっていうことに気づかされるんですね。で、僕はちょっとここで言いたいのは大好きな思想家でブラジルのイヴァン・イリイチという人がいて、この人は最初ラジカルで、そもそも原始社会に回帰しろっていうのか?みたいなことを言われたりもして、当時は非常に批判があったんですけど、いま読んでみると全くいまの現実に合致しているとしか思えない。彼がこう言っているんですよ。

経済成長の影に覆われたところでは、どこでも職に就くか、消費に携わらない限り、我々は役立たずなのです。
公認された専門家の手によらずに家を建てたり、死体を埋葬しようとすれば、無政府主義的な傲慢とみなされるのです。我々はもう既に自分の中にある力を失っています。そうした力を発揮させる環境条件をコントロールするすべを失っています。
外からの脅威と内からの不安に自信をもって対抗するという感覚を失っているのです。

というふうに言っているんですね。
だから僕なんか『ソイレント・グリーン』をみちゃうと、本当にもう与えられたものを買わされて生きるしかないな、っていうふうな、当時の行き過ぎた消費世界に対する批判がフライシャー監督にあったと思うんですけど、姫田さんの映画をいまみてるとまさにその40年前の作品もすごく現実感を持って迫ってくるのはこういうことなのかなあと思っています。
◆姫田 ご理解いただけると思うんですけど、『越後奥三面』という作品は代表作ではあるんですけど、119本の中の1本なんですね。このプログラムの下の作品リストをみていただくと、民族文化映像研究所の中の姫田忠義監督作品は一作もないんですね。民族文化映像研究所作品と称して、みんなスタッフが一列に並ぶというようなことをやっております。それは姫田の考え方があったわけですが、この119本をみていただくと、だいたい姫田の興味っていうのが分かると思います。
というのは、いわゆるPR映画はないんです。それからまあ産業映画とかですね、70年代、60年代ご存知の方はわかると思うんですけど、そういうことも映像業界というものがあったんですけど、それとは無縁なんですね。
いろんな、当時はですね、ご縁があったところで番号が増えて119にはなったんですけど、なんか雑多なような感じがするんですけど、ひとりの人間がこれやってるんですね。岩波映画というのは6000本ですよね。確か6000本映画作ってるんですよ。民映研119に比べたら全然量があるわけですけど、ひとりの人間がかかった119本というのは凄い数だと私は思っています。
この『奥三面』がって言われると、すごく、ちょっと戸惑っちゃうですね。ひどい言い方をすると『奥三面』だけじゃないんですって説明する立場だと私は思っていますので。私の課題は何かというと、この残されたものをどう守るかっていうこと、一語に尽きるんですねえ。いま一般社団法人民族文化映像研究所として―ずっと株式会社だったんです―それを姫田が亡くなる直前、一般社団にしたものです。ほとんど休眠状態でございました。
いま3人でやってます。小原信之というものが代表をやって、私ともう一人、ドキュメンタリー監督で今井友樹という姫田忠義最後の弟子なんですけど、3人で一応社員ということでやっているんですけど、無給でございます。事務所はやめました。ただ、私が引き継いでおります、姫田が住んでいました団地を倉庫にしています。
映画のフィルムは、フィルムというのはネガですね。それが大変なんですよ保存が。湿度管理のある倉庫を借りています。その倉庫ではある程度費用かかってますけど、昔に比べると1/30ぐらいに抑えました。で、うちの団地を使ってますので家賃は無いです。
いま、どうやって収入を得ているかというと、制作はしておりません。映像制作は。私は私で自分の映像制作をしてますけど、ちょっとジャンルが違う。今井友樹は今井友樹の会社でやっています。小原は小原でカメラマンとしての収入が。
みんな手弁当でやっているんですけど、最後のページに書いてありますDVDの貸し出しっていうのをやってるんですね。こちらにも借りてくださっている方が来ているんですけど、要するに民家であったりとか、公共センター、公共ホールとかですね、お借りいただいて、そこで上映会をやっています。昔からやってるんです、民映研。
それを16mmのプリントでやってたら、もうこっちは16mmで貸したいんだけど借りる方が困っちゃうっていう時代になったんで、DVDにして、で返していただくという、料金的には60分までの作品が、15分でも60分までだと8000円です。厳密に言うと一回なんですけど、まあそこは黙ってましょう。だからですね、10人いると1000円で上映会みてもらえる。それを結構、全国でやっていただいています。
ですから、このような、今日のような立派なホールでみていただく贅沢はあまりにも贅沢すぎるほどの特異なことなんですね、出来事として。
初めてでした。きょうポップコーンのある映画館で上映というのは。さすがにポップコーン食べてる人はいないだろうと思ったんですけど、感激しました。
早速メールしまして、代表の小原に「ポップコーンがある」。本当に5人とか10人とか20人とか、そういうところで全国で上映していただきたいので、口コミで広がっていくと思います。このリストを見ていただくと、「これみたいな」というと、番号にあっても貸せない作品はあるんです。ただ、極力ありますので、是非ともご連絡を。(林 これ=パンフレット=を購入しないと分かんないですね)でも、なんかみんなほとんど持ってるような。ね。
◆阿部 劇場で売ってますんで大丈夫ですけど、木曜日まで。手を挙げられた方どうぞ。
◆女性 ちょっと補足したいことがありました。第1期生の織姫。昭和村のからむし織を継承する女性たちのシンポジウムに、コーディネーターをしてくれということで行ったことがあります。
もう10年近く前、25年ぐらい経ってるでしょうかね。雪の中、雪の絶壁の中を行って、昭和村の宿泊施設で皆さんのお話を聞きました。その中でおひとりの方はいまは三島町の男性と結婚して、三島町や奥会津地方の伝統食を引き継ぐような本を出されたりしている方です。それを踏まえて私が実感したのは、もちろんからむし織の伝統を継承する人たちを育成するということなんですが、大きな狙いはご指摘があったようにお嫁さんをほしかった。
先日、福島県が少子化率がどんどん、子どもの出生数が減ってるという話の中で、北塩原村がゼロ、三島町もゼロで昭和村はそこそこ生まれているのはテレビでも放映されていたんですけれども、織姫のおひとりとして福島にいらした方で、今は五十嵐さんという女性が地元の男性と結婚して5人お子さんを産んでいるんですね、これが大きいと思います。こういう現実があるということは確かです。
でも私、きょう映画をみて涙がいっぱい出ました。というのは、私が東京の杉並に生まれてほとんど高度経済成長とともに成長したんです。で、杉並も雑木林と畑しかなかったところがどんどん舗装されて、東京オリンピックになり、あ、前の東京オリンピックですよ、いろいろ変わっていった。
その私の生育歴からして、三島町にしばらく住んだことがあるんですけれども、とてもショックでした。色んな事がショックでした。
そこに住んでいた家のおじいちゃんは、熊の胆をちょっと食べれば、全ての万病は治るとおっしゃったんですけど、私は熊の胆を口にすることはできませんでしたし山鳥汁は東京の高級料亭でしか出てこないから高級な料理だと言われたんですけれども、一口食べただけで1週間寝込みました。そのぐらい何て言うんですかね、地元の新鮮なものは、高度経済成長の中で成長したやわな私の体に合わなくて。
その生活の中でいろんな学習をしました。まず雪がものすごく降るっていうことに対して、屋根から雪がドサッと夜中に落ちるんです。で、その落ち方がすごいんです。
で、この屋根から雪がドサッと落ちることによって、そこで生き埋めになる人いないんですか?ってお聞きしたら「いる」と。どうするんですかって言ったら「運命だ」っておっしゃったんです。「それが人のさだめ」だとおっしゃった。
それから、こんな雪が深くて夜は真っ暗だし、こういうところに住まないでもっと暖かいところに住みたいと思う人って多いんですか?って聞いてみたら、「ここを守っていかなければ日本の水資源は守れないんだ。だから山を守り続けなきゃならないんだ」っていうこともお聞きしました。
いろんなことをお聞きして、そして今日の映画に出てきた歳徳様、虫送りさまざまな行事が会津の三島町でもだいたい同じようなことが行われています。で、ゼンマイも本当に美味しいものでした。
でも、それらはことごとく失われているんですね。だって担い手いないんですから。このことを政治家に任せるとか、何とかじゃなくて、私たちは自分ごととして捉えてどうしたら若い人たちが故郷に戻ってきて生きていけるのか、教育していけるのか、この日本の経済格差の問題とか、いろんな問題を自分事として踏まえて何ができるかを考えなきゃいけないので、薫平先生がおっしゃったみたいに、学生たちがそういう田舎に住んでみたいと思っても、本当に生活が成り立つのか?子供達を教育できるのか?そういうことを私たち先に生きた世代は真剣に考えて、自分でできることをしなきゃいけないんだなということを考えました。
私は映画が楽しみたいので、そこから何か教訓を得ようとか思ってるわけではありません。ただ、自分が経験したことを、私より年上の人たちから聞いたこと、漆塗りの扉の前で語っていたおばあちゃんのような人たちが、女性としてどんな人生を生きたのか?そういうことに思いをはせながら、自分にできることを福島でやっていきたいなと思ったので、本当にお父様が残してくださった映像、心に沁みましたので、それを大切にして、残された日々を生きて行きたいと思いました。以上です。
◆阿部 ありがとうございました。もうそろそろ4時になります。4時半ぐらいに終わるということで、最後に一言ずつ。
じゃあ私の方からまず。今おっしゃられたように、本当に失われてしまったものを、映像に残すっていう簡単に言ってしまえばそれだけのことなんですけど、でもこの『越後奥三面』をみて、まだ三面は幸せだと思いました。たぶんこの時代、こんなことはあちこちにあったんだろうなって言うか、日本中できっと起こっていた。
まだ映像に残してもらえた、まだ声をとどめてもらえただけでも幸せだったなというふうに僕は思います。
今、私たちが共通認識とか、同時代意識としてすごく問題意識として持っているのは、たぶん震災を経験した僕らはいかにして、この思いというものを忘れないで継承していけるかっていうことだと思うんですけど、なかなかそれはとても難しい。
あと、いかに他者の苦しみに共感して寄り添えるかということ。この大切さを知っているんだけど、自分が逆の立場になって、それは本当に難しい。
その中で映画が果たす役割っていうのは、やはりそこに記憶の痕跡をとどめて―まずは残りますから―そこから発するっていうか、そういうことがすごく大切だなと思います。
映画って本当にすごいなあって思う瞬間が、僕たまにあるんですけど、この『越後奥三面』って、そういう意味では本当に僕にとっては大切な映画です。
あともう一つ。奥三面は消えてしまって、忘れ去られ埋もれようとしてますけど、姫田さんの仕事そのものが、蘭さんがおっしゃったように、いまだに正当な評価を得られていないのではないかなというふうに思います。
戦後の独立映画史、特に日本の映画作家、戦中戦後を経験した人たちっていうのは、すごく問題意識が高かった。皆さんが誰でも知っている大島渚のような人もいるかもしれないけど、大島さんよりももっと独立系の分野でやっていた作家がたくさんいます。
先ほど蘭さんもおっしゃったように水俣に寄り添った土本典昭ですとか、あと福祉映画をずっと続けた柳澤壽男さん(※1916年2月24日〜1999年6月16日)の映画なんかも、やはりすごいと思ってますし、今、みるべき映画ってのはたくさんあるんだけれども、忘れ去られ、埋もれようとしている。
日本の戦中戦後を経験した戦後独立系の映画というものを、この作品を通してもう一度再認識してもらって、皆さんにも興味を持ってもらえたら本当に嬉しいなあと思っています。今日はありがとうございました。
◆林 だんだん阿部さんが淀川(※映画評論家の淀川長治)さんに見えてきましたけど、最後、あの決め台詞言うのかな、「映画って本当に……」ってやるのかなと思いましたが。(注*淀川長治氏ではなく、正しくは水野晴郎氏」)
今日は貴重な機会をいただきまして、ありがとうございました。さっきの二瓶さんの話をお聞きしても、やっぱりつくづくですね、伝統文化であれ、山村の生活の知恵であれ、それを自分でやっていこうっていう人がいるということ自体が、いま相当かけがえのないことだな、と思います。
さっきのマタギの猪俣さんの話でも、僕もたまに金山町とか行っていると、「いおりカフェ」(※三島町早戸・つるのIORIカフェ)っていう金山と三島の境界線上にあるところ、冬なんか行くと、以前だと猪俣さんが鹿が取れたって、鹿をさばいたりしてるんですね。「え?ここに吊るしておくんですか?」と聞くと、「いや、冬は一階は使わないからいいんだ」と。周りが雪なので雪室になって、今でいうスノーエイジングという、高い湿度の中で肉を熟成させるということをずっとやってるんだということだったんですけども。
一緒に行ってた学生なんかはですね、すごいことやってるんじゃないかっていうことをそこで感じ取って、自分たち、もうお肉というものについて全く考えてなかったなということを口々に言います。
そういうことで地域おこし協力隊とか、いろいろな研修制度を使って農村とか山深いところに飛び込んでいく人がどんどん出てきてるっていうのは、私たちとしてはどのようにこれを、そういった人たちをちゃんと評価して、その感性を伸ばしていってあげられるか?
この映画をみて、また考えたくなりました。
最近の三島町の町議会議員選挙で、まさに協力隊で来た人が、女性なんですけども、トップ当選して、これから外から来た人の立場・経験を活かしながら町おこし頑張りたいという公約を掲げて、圧倒的トップ当選したっていうのが何か新しい息吹を感じます。
また、ジャーナリストの小林さん、今日いらっしゃってますけれども、映画の前後でフォーラムで話したんですけども、福島県の伝統、先ほどの会津の木地師のこととかですね、宮本常一さんがいわきの方を調査したり、飯坂温泉にもよく泊まりに来てたんですけど、あと姫田監督は『樹木風土記』(※副題 木と日本人、未来社1980年)という本の中では、川内村を調査した記録なんかも克明に書いています。1970年代ですけれども、当時、河原村長(※河原武 在任期間1959年5月〜1972年3月)さんという人は山をなんとか活かして村の振興につなげたいということでいろんな努力をされている。この右下の写真が河原村長なんですけれども、私たち意外と宮本常一さんとか姫田忠義さんたちがこれまで考えてきたことから、まだまだ学べそうだなということを改めて感じます。
それで福島県もダム開発もありましたし、只見だけではなく三春ダムもありましたし、なにより原発を立地して誘致してきた浜通り地域の歴史もあって、一部は計画を東北電力が断念した場所もあります。
ですのでこれから農村のいろんな活かせる活かして行きたいという若い人たちの発想を伸ばしていきたいと同時に、電源開発とか原子力発電を誘致してきたこと自身がですね、私たちの大人の世代の責任としてはどういう課題があったのかということは、そのままほっぽらかしてはいけないというふうにその二つのことをつくづく考えました。
また、姫田さんの会社の貴重な映像資料がまだまだあるそうなので福島大学とかこの如春荘などをお借りして、また上映会やってみたいなぁと、カフェロゴさんにもお世話になりたいと思っていますので、またこのような機会、何回も出来ればありがたいと思っています。今日はありがとうございました。
◆姫田 今日はご覧いただきましてありがとうございます。本当に今日みていただいて100%みていただいた方になるわけですよね。私はフェイスブックでこの今日のイベントを知って、「ちょっと興味あり」として参加ありってしたんです。
まだ今日3日目ですよね、上映は。3日目で、映画をみた人限定で別の場所で――って、すごく興味湧いて、うちの代表の小原(信之)と「これは面白いね」。遠藤(※遠藤協)くんも「え!このイベント面白いね」。だから、この形式は、要するにここで上映しなくてもいいんだ、ということなんですけど、いつも上映後にお話をしましょうっていうのが姫田のスタイルだったのですけど、場所を変えてというのができるっていうのがすごい。
普通できないですよ。皆さん三々五々散ってしまったり、あと1回だけだったら、例えば一昨日みたよ、昨日みたよって人がいらっしゃるかもしれないですよね。それがすごいなと思いました。
すみません、あんまりうまくしゃべれないんですけど、姫田が生きてたら本当に驚くようなことが福島でみていただいたと思います。これ東京でやったんです。大阪でもやって、先週は1回だけですね、1日だけでしたけれど高知でやりました。その高知は40年間上映会をやってくださっているところがあるので行きました。先々週は湯布院でやりまして、これも1回だけですね。
みていただいて驚いていると思います。ただこれ40年間誰もみてないわけではなくて、ものすごく貸し出し率は高い作品です。出荷(?)の多い作品なんですけど、新しくしたということを売りにして、「前みたのと全然変わらないじゃんか」っていう人もいらっしゃるかもしれないですよね。まあ当たり前なんです。何も変えてないんです。ただ、音がちょっと変わってるんですよね。
映画っていうのは引かれている磁気。このフィルムの中にこういう波形で音が入っているのでレンジが狭くなるんですね。今回はそれをマスターの6ミリテープから立ち上げたので、すごく低域が。今日驚いたのは、ちょっと音が大きすぎましたね。僕にはちょっと大きすぎるなと思う。
皆さん前の方の人、ちょっと重低音で困ったんじゃないかなと思う。細かいことですが6デシベル下げてもいいぐらいな感じ。6デシベルていうと50%なんですけどね。エネルギー。それぐらい。明るくなったら、スピーカーがあんなに並んでるのを知らなくて、あ、これか?これはちょっと低域をカットしないといけないぐらい、前の人はつらかったんじゃないかなと思いました。そう大きかったなあと思って。そんなちょっと余計な話をしています。
ぜひ、広めていただきたいと思います。「よかったよ」とか「いや、案外よかったよ」とか「とんでもなくよかったよ」とか言っていただいて、若い方はSNSで宣伝してください。
私はフェイスブックしかやらないんですが、代表の小原はツイッター・エックスでやっていますので、「奥三面」って検索で引っ掛かるとシェアとかしますので、ぜひ今日の感想など、ここでは言えなかったけれど、ネットだったら吐いて(?)やるっていう人もいるかもしれない。悪いことも含めてですね、みていただいて、書いていただければそれで広がると思います。
幸いにして東京は3週間やったんですけど、好評につき7月13日からアンコール上映が――。ぜひここでもアンコールがかかる、そんなような成功をさせたいなと思っていますので。(阿部 うちの仙台、他の地区でもやってほしいな、と)(会場 山形もやりまーす。山形も)
◆阿部 あ、言っちゃっていい?(会場 OK)山形もやるそうです。
◆姫田 ものすごく早く福島さん手を挙げたのは何故だろうと思ってたら、阿部さんという方がいらっしゃるから早々にできたんだ、と今日わかりました。初めてお会いしたので。
「なんで新潟でやらないの?」とかいろいろ文句が来るんですね。ただ、作戦司令部が遠藤くんというのと今井くんの2人でやってますので、次どこでかけてもらおうかという作戦をして、僕は年は取ってますけど若者の言いなりで。「30日やるんだったら行ってくるよ」という感じで動いてます。
本当に今日はありがとうございます。長時間10時から『越後奥三面』のことばっかり、絶対忘れませんよね。これね、ありがとうございました。
◆荒川 ええ朝からですね。2時間以上ドキュメンタリーみて、お昼もそこそこに集まって、また2時間以上熱いトークということで、非常に私としては、非常に幸せな時間でした。
たくさんの方に集まっていただいて主催した甲斐があったなと思っております。お集まりいただいた皆さんに御礼申し上げます。本当にどうもありがとうございました。
いろいろお話をしていただいた3人の講師陣にもう一度拍手をお願いしたいと思います。
林先生からも宿題をいただいて、また姫田作品をみる機会、話す機会があればいいなと思いますし、あとぜひとも第2部の方も何とかして、みたいなと思いますので力をお借りできることがあれば少しでもと思いますので、何とか第2部の方もみせていただきたいなと思います。以上でございます。これで解散といたしまして、皆さんどうぞ今日はお気をつけてお帰りください。どうもありがとうございました。

映画『越後奥三面―山に生かされた日々』を語る会・記録③ゲストと参加者による対話篇その1

2024-07-11 | 映画系

◆男性1 今日で2回目、「奥三面」の作品2回目みさせていただきました。いままでずっと3年ぐらい上映会を宮城県の方で、私たちさせていただいてるんですけども、そこでこちらの民映研の作品はすごくクローズ、今のお話からいわせていただきますと、クローズアップされるシーンが多くて、昔の技術がぐぐっと迫って、技術を残そうとしている感じにすら見える。なんか、宮本常一さんの作品は技術史だって言われると思うんですけど、それになんか近いなと思って、すごく勉強になってるんですけども、そういうなんか技術っていうの、すごく興味を持たれたんでしょうか?お父様の方。
◆姫田 まず、いろいろ自然科学とか動物とか、そういうのあるんですけど、とにかく人間なんですね。で人間が出てこない映画は一本もないんですけど、人間の行為を記録するっていうのが大前提で、その中ではいろいろジャンルがあるんですけど、生活と、あと生活文化。
僕は小さいころ、「お父さん、生活と生活文化ってなんで?生活文化でいいじゃない」(と言うと)「違う」と言うんです。色々作品にする、作品を今日は持ってきていないんですけれど、民映研のテーマにいろいろあって、その中で技術っていうものもあります。
それで細分化されてきて、作品として、例えば紙漉きであったりとか、塗師(?)であったりとか、まあそういうふうに作品があるんですけど、そのやられている人の、人間に興味を持つので入っていくというスタイルだと思います。
◆男性1 ありがとうございます。
◆阿部 さっきちらっと質問が出たんですけど、この作品を見た方は、「これは今の時代にみるべき映画だ」みたいなことをおっしゃった、と。「すごく言われた」とおっしゃってましたけれども、具体的に言うと、なぜ、みる方はそう思われるのでしょうか。
◆姫田 すみません。僕ばっかり喋って。あれなんですけど、まず驚かれるということ。それはご存じない方がまず驚かれるんだと思います。それで、この映画の裏側にはダムの問題がありますので、それを知ってからの観点で、なぜ村が消滅したのかと考えさせられるっていう問題もあると思います。
それであとは、もう人々の暮らしですね。一番大きく驚かれるのは、ぜんまい休みがある。休暇がある。それ、僕はこの映画が作られたとき、高校生だったので驚きました。「え、そんな休暇があるの」と。(※ぜんまい休みのような休暇の仕組みは)そこでしかないと思うんですけど、でも東北地方にはいろいろあったんだけど、残っていたのが、第6等級と言うんですかね、僻地学校の第6っていうエリアだったらしいんです。小学校が。
こういうのは奥三面分校ともう一つ、なんとか村という同じところが2つしかないという、新潟県内に。そういうところに驚かれる、初めて知る人があったんじゃないんですかね?
◆阿部 林さん、ここまでのことにからめて何か思うことありますか?
◆林 はい、そうですね、姫田さんの作品はすごく技術に焦点を当てるというのは私も感じました。それで宮本常一さん、20歳上の宮本常一さんと一緒に歩いて学んだことが、やはり影響しているのだろうと思います。
例えば、宮本常一さんが書かれた、未来社とかですね農文協から、膨大な著作物が―今読むことができますけれども―やはり農村とか離島とかですね、宮本さんが歩いてるとすぐ何かの技術に目を留めることがありますよね。漁師さんの仕草をみて「あ、これはこうだからこういうことをしてるんだ」と。山村、越後のような山村。山古志村なんかよく宮本さん行ってましたけど、「これはこういう理由があってこうやっているんだな」と。
福島県で言うとですね、いわきの、当時草野村というところに宮本さんは戦前、昭和10年代に行ってまして。有名な『忘れられた日本人』(※未来社1960年)の最終章、「文字をもった伝承者その2」というところで、高木誠一さんという人を取り上げているんですけど。
その高木さんが、草野村というちっちゃな村を成り立たせるためにどういう技術とかを導入してきたか。
たとえば島根県の方から黒毛和牛を取り寄せて馬耕じゃなくて牛耕を東日本で初めて取り入れた方なんですけど、宮本常一さんが見ると、戦争中、馬は軍馬徴用ということで陸軍に全部供出するわけなんですけれども、そうすると農村の中に動力がなくなってしまう。
だから西日本の方で絶対徴用されない牛が重宝される。で、黒牛というのはなかなかよく働くし、ススキとか稲藁もよく食べるということで、これを福島県で初めて導入した高木さんという人はすごく先見の明があった。
宮本さんの目を通すと、一つ一つの技術はその時の世界背景の中に位置づけられるっていうことがすごくあるんだと思います。
私も、宮本常一さんが例えば越後でいうと山古志村で古い技術を掘り出して、それを文字にしたかなど、いろいろ学びまして、あと100年早く生まれていたら一緒に歩きたかったなというふうなことを感じるわけなんですけれども、おそらく姫田さん20年違いですので一緒に西日本から北海道まで歩いて何か技術に目を留めながら、どうしてその土地の人はそういったことを発展させてきたのかということを注目するようになった……。(姫田 先生!姫田と宮本常一はたった2回しか旅したことがないんです)
◆姫田 旅といっても先生をお迎えして一緒に行ったってのは、広島県の豊松村という『豊松祭事記』(※6作目1977年)っていう作品、初期の6番だったかな、にあるんですけど、その撮影の時に先生が来てくれたので1回。あと山古志村。2回だけなんです。
で姫田がですね、先ほども申し上げましたが、昭和29年、1954年に宮本先生と出会ったので、多分そうだと思うんですけど、最初の弟子、一番弟子でした。一番弟子なんだけど、先生は先生でお元気で、学校の先生でもないし単なる研究家だったんで、旅をしてらっしゃいますけど、仕事は一緒にするんですけど、それは先生の話を聞いて「山古志村っていう村があってね。じゃあそこ行きなさい」で行くので、一緒には行かないんですね。
のち武蔵野美術大学のゼミ生とか持つようになってからは、学生連れて先生移動していますから、その若い世代、姫田からみて20ぐらい下の世代が一緒に歩いているんですよ、先生に連れられて。その方たちがいま名誉教授に、70くらいで。姫田がここに座ってたとしたら95歳で、生きてたら。宮本先生はもうすぐ120歳ぐらいなわけですね。20違い。
父がよく言っていたのは先生の話を聞いて「先生いいですね。良かったですね。今はカスしか残ってない」と言ってしまったらしいんです。で、自分でも言いながら、「カスって、失礼な」と。あまりにも先生が歩いた時代と、姫田が歩いた30年代、40年代の変容してしまっているので、全然先生の時代と違う。
姫田がこう歳をとりまして「姫田さんのいた時代はいいですね」って言われてるわけですよね。若い世代。そうすると世代的に言うと、まあ、宮本先生、4世代ぐらいの庶民のうち、常民って言い方もしてますけど、そういう暮らしをみて歩いて、本当にみて歩いて、それの影響を受けた第一世代が姫田で、第二世代っていうのは、いま民族学者として皆さんやられてる70、80歳のひとたち。
◆男性2 中島と言います。今度の映画の中身というよりも感想なんですけど、先ほど姫田さんは「いまみてほしい」という声があると言ったんですが、私もそういう感じを受けました。
というのは、映画の中身がかつて確実に日本のあちこち至るにところにあったものだと思うんですよね。だから、そういうことを僕らいまの人たちは、きちんと頭に入れて、これからの生き方とかを考えるべきだというふう思っております。
それで特にわたしが言いたかったのは、今日こちらに政治家の方々がいらっしゃっているかどうかなんだけど、まずあれをみて欲しいのは国会議員の方々。議員さん方、あと地方自治体の議員さん方、さらに言えば、政策とかなんかに携わる国家公務員特に省庁の職員も絶対にあれはみるべきだと私は思いましたし、さらにもっと言えば日本国民全部みたらいいと思うんですが、特に今日は大学の先生来てらっしゃるけど、大学の先生なんかもみたら非常に参考になるんじゃないかなというふうに思うんです。
ああいう生活が、文化生活があっていまがあるということだし、いまはまあ、ああいう生活がほとんどないんでしょうけど、けれども、グローバル化とよばれるような時代になって、SNSとか、そういうことで世界が一体化しようとしてるんだとは思う。
それと、過去の、映画の中の生活を踏まえていえば、いま地球温暖化とかギャーギャー騒がれているんだけど、ああいう生活を踏まえて考えると、やはり今の地球温暖化に対してもどうあるべきかっていうことを非常にいっぱいヒントが出てくるんじゃないかなというふうに思うんです。作品の中身についてはね。まあ、色々思うところもありますけど、とりあえずはそんな感想を持ちました。
◆阿部 ありがとうございます。今の発言を受けて、なにかひとことありますか?
◆姫田 ありがたいと思います。これ1時間の作品だったら、もっとみてもらえるかもしれないですけど、なかなかちょっと皆さんに2時間、147分座っていてくださいっていうのはすごく難しいなあと思っています。
ただ、僕らの世代の、今回デジタル化して、たくさん連れてくる方がすごくいるんですが、僕の友達とか。みんな「絶対みせる」って。「いや寝ちゃうから」とか思うんですけど、やっぱり連れてきてくれて、映画館に行く。「1/3寝ちゃってもポイント、ポイントはすごく残ると思う」って言うんです。その母親がね、友達に。だから若い人にみてもらえるんだと思います。
ただ、この映画、40年前にできた時、試写会に行った時に、ある高名な、ある大学の総長までやるような映画評論家の先生なんですね、みて、捨て台詞のように「長けりゃいいってもんじゃないよ。姫田くん」って言って帰った。それを姫田、生涯根に持っていて、まあ、その先生もご存命なのでいまみていただいたら、もしかしたら「今みるべき映画だ」と言ってくれるかもしれない。(林 蓮實さん?)いや名前出さないでください。そうなんですね。
◆林 あのもし蓮實重彦さんだとしたらですね。なんとしてでも改めてみて欲しいと思います。で、失われた山村の生活、特に山の恵みを大事にしながら助け合って親から子に継承してきているわけなんですけども、姫田さんの民映研の映像作品もそうですし、宮本常一さんの写真とか著作もそうですけれども、かつての日本人、どれだけいろんな知恵を持っていたのか、それを継承してきたのか、ということをありありと私たちに教えてくれますし、さらに今回の映画で言うとですね、それを、自然にそれが移り変わっていくならまだしもですね、ダムの底に沈めてしまったという、わざわざですね、終止符を打ってしまったわけですね。
そのように人間社会、文明から言えば、生活用水、工業用水を取ったり、山の治水をするためのダム、発電をするためのダムということかもしれませんけれども、その下に沈めてしまったものの重みというものはどこまで考えたことなのだろうかと思う。すごく批判精神があるメッセージになってるなというふうに思いますね。
きょう、はなみずき書店さんいらっしゃってますけれども、宮本常一著作集なども販売されて、一つは『民俗学の旅』(※1993年)という、有名な講談社学術文庫がありますけれども、その最後の方の宮本さんの記述はですね、「自分は山口県の周防に生まれて色々旅してきたけども、結局考えてしまうのは人間の進歩ってなんだろうかということを改めて考える」と。
その途中で戦争があって高度経済成長というものがあって、その中で農村漁村がどのようにして歩んできたかということを、宮本さんは書いてきたわけなんですけど、結局、進歩っていうのをしたんだろうか私たちは?と。『民俗学の旅』っていうあの本の閉じ方はそうなってるわけなんですけれども、今回の『奥三面』の映像をみるにつけ、山の恵みを生かしてきた伝統的な技術を水の底に沈めて得られたものがあったのか?何だったのか?ということは、映像のインパクトということがありますので、本当に強く訴えかけるものがあるなというふうに思います。
◆阿部 ありがとうございます。素晴らしいコメント。はいじゃあ。
◆男性3 うまく言えないので、感想だけど、先ほど技術論的な視点からっていうことで、わたしもそういうふうなことあるんだろうなと思っていますが、ただ、ひとつ言えるのは、思うのは、失われたものを懐かしいというふうな視点ではないのではないかという気がして、むしろ三面もそうですし、南会津まあ奥会津、南会津というのは行政圏の名前で、只見川沿線では、電源開発、一連のあれがあったもので、あそこは三島町が奥会津(音声不明瞭)ですから、ちょっと違った意味で使って、先ほど「奥」という意味で、奥会津とつけたんじゃないと私は思ってるんですけども。まあ、それはどうでもいい話ですが。
ええ、その技術論っていうのは、実はああいう三面も、奥会津も、檜枝岐もそうですけども、昔は生活するのが非常に厳しい。それこそ現金収入もない、食べ物もない。そうすると、あるものをいかに生かそうかということで、そこで生きてきたんですよね。ですから、そこでは当然高度な技術、技術をより高めるというものが必要だったから、そこでそういう技術が。
ですからいまでも只見もそうですし、奥会津も南会津もそうですけど、福島県内でもかなり山村地域、条件の厳しいところに行くと、一生懸命、面白いというか非常にいい作品っていうか、いい木工品とか、そういう作ってるとか、あと昭和村なんかはカラムシもある。
みんな、沖縄も、この前たまたま沖縄に行ってきたんですけど、沖縄に行っても芭蕉布っていうのは、昭和村と交流があるっていう話しをしていました。(会場 宮古ですか?)私は本島に行ってきたんですけど、そんなことで若い人たちがなにを惹かれるのかっていうような話が、実は言いたかったところなんですが。
むしろ今こういう世の中で、学歴がある、お金持ちだとかっていうことに目が行きがちだけれども、案外人間は、根源的に自分が生きるっていう楽しみとか、そういう風なものを求めて、ある程度私らみたいに終戦直後、貧乏な時代に育ったものは物質的なものを求めますけれども、若い人たちは比較的恵まれた時代を過ごしてきたので、むしろそれよりも精神的なもので、なんか求めてる。
それがまあスポーツとか色んなゲームもあるかも知れませんけど、意外とその昭和村に織姫がずっといたり、只見なんかでも先ほどありましたけれども、そういう人たちが移住して、自分の生き方とか、自分のなんかそれを見つけて生きていこうというのは、地域に、そういう文化的なものが、決して学問的に高い意味や、評価の高いものではなくても、個人個人にとっての非常に価値のあるというふうに思えるようなものが残ってるから、それに惹かれていくんじゃないかと、私はこのごろそういう気がしてるんです。
ですから、今日のあれも、技術的なものを残したいという思いもあったのかもしれませんけれども、みる側からすると、そうやって生きている人たちの素晴らしさ、まあ我々が失っているもの、なかなか見つけられなくているもの、それが実はそこに感じられるから惹かれていくんじゃないのかなっていうふうに、今日あの映画をみて感じました。その視点では非常に面白い、面白いというと失礼な言い方になりますが、非常にいい出会いだったと思っております。
◆姫田 ありがとうございます。嬉しいです。私から見るとですね、技術、技術って、まったく姫田は思ってないんですね。お話を聞いていたら、それをやってたよとか、今やってるんだよ、これからやるんだって話を聞くわけじゃないですか。じゃあ撮ります、撮りたくなるわけですよね。
だから何かの、民映研じゃない行政の仕事も色々やってるんですけど、頼まれることあります。まちの(音声不明瞭)記録してくださいってこともありますけど、結構、この奥三面もそうですが、椿山(椿山―焼畑に生きる1977年)も豊松(豊松祭事記1977年)も、その村を総合的にまるごと映像で撮りたいっていう欲がありました。
お話を聞き、奥三面はカメラが入るまで1年かかってるんですよ。で、自分がふらっといったんですね。ふらっといって話を聞いたら驚いちゃった。東京帰ってきて「全部撮る」。
みんな「え?そんな金ないでしょっ」ていう話になりますよね。それで、次行った時にもカメラ持ってないです。確かね、5回目に。
姫田はカメラというものは映像、暴力的だと思っていたんです。やっぱりカメラを持った人間は、初対面の人にボーンと入っていくことはしない。鉄則としてました。そこがまあニュースと違うところだと思います。
でも、お話を聞いてたら、こういうことやってる。例えばあの当時、今日も見ていただいた、やっぱり20年以上前にやめちゃったお話を、例えば「熊オソ」。1982年に撮影がはじまって2年目に、奥三面セミナーっていって、日本全国から、北海道から沖縄の人が集まってですね、セミナーやったんですが、あそこで。150人ぐらい集まって分宿してですね。その時に丸木舟、第2部をご覧になったらわかると思うんですけど、丸木舟の説明をおじいさんが皆さんにしてくれる時は、大根を使うんですよ。「こうやって切る」って持ってて、熊オソもミニチュアを作るんです。そうしたら「実物で作りたいですよね」って話になるじゃないですか。それでこう話が増えていってると思います。
あと、ちょっと脱線ですけど、『奥会津の木地師』是非みてください。田島で、それは昭和50年ぐらいですね、昭和48年ぐらいですから、50年前にやってたことを、もう木地師さんは定住されていて、要するに移動性の生活をしている人たちがかつて日本にはいたと。
まあ、これは木地師とか木地屋の話をご存知の方がいると思うんですけど、やまの七合目以上の木を切ってよいという、そういう免罪符をもって色々していたっていう伝説なんですけど。それはでももう定住されてるんですよね、田島に。
で、その方はですね、女性が出てくるんですけど。信州の上田からひとりでお嫁に来た。
僕はそれを小、中学生ぐらいに聞いた時に、上田からこう上信越線から東北線に乗ってこういうルートが来てますけど、といったら、「いやいや、只見抜ければ一発だよ」っていうことで、16歳で独りで歩いてきた。まあ、それは木地師のルートがあったと思うんですけど、お嫁に来て、「そっかじゃあ信州・上田と近いんだな会津は」と思ったので、まあそんな話がどんどん発展しているわけですよね。あの姫田が聞いていると。
◆林 今のご発言の件、蘭さんの話、そうだなと思いますね。この映画、おそらく二つの大きな投げかけになっていました。一つは、ダムの事業はこういうやり方でよかったのか、という、政策とかですね、国のあり方に対する警鐘を鳴らしている面は確かに強いなあという感じがまずあるわけです。
もう一つはですね。若い人なんかは確かにこういう山の恵みを生かしたようなライフスタイルとか、企業に勤めるだけではない、生活を立てていくやり方は、自分もやってみたいなと、汲み取る人が多いんじゃないかなと思いますね。阿部さんがこの間、フォーラムで上映した東出(※俳優の東出昌大)さんのその後っていう映画が、その後というか「Will」っていう映画があって、なんと猟師になっちゃったっていう映画なんですけど。
奥会津でいうとですね、金山町の猪俣昭夫さんという人がヒメマスを飼う名人であると同時にマタギであるんです。あと、日本ミツバチの飼育の上手なんですけれども、その猪俣昭夫さんのもとに猟師になりたいという若い人が弟子入りして、一人前の猟師になりつつあることとか、先ほどの昭和村のからむし織習いたいと言って、他県からすごくたくさん、織り姫制度という研修制度習いに来るなど、あと、先ほどの映画の中でも雑穀を使って餅を作ったり、いま身の回りにあふれているものだけではない、何とも言えない、とち餅とかですね。そういったものをやってみたいという人が、すごく今の世代には増えてきたような感じがします。
ですので、私たちの学生なんかと話していると、我々おじさん世代だとダムとか山を切り崩していいのかという視点ばっかり、ちょっと頭でっかち的に映画をみせちゃうところはあると思うんですが、若い人は若い人なりに、そこから自分の人生どうなんだろうっていうような見方をしてくれると、それも頼もしいことだなというふうに思います。
◆姫田 割と少ない、ダムに関することは。2時間、147分の中で少ないと思ってるんです。
っていうのは第2部になりますとより濃く出てきます。皮相的でもある姫田の叫びも出てくるんですけど、それがないんです。
というのは、この映画ができた時は皆さんお暮らしなんです。まだ三面の村はある。そこで昭和44年ぐらいから昭和60年まで本当に皆さん苦労されて、それで区長がおっしゃってましたけど、もう本当にテレビとか、いいこと悪いこと、新聞とか書くから、それで苦労されている方たちがいるということで、ダム問題というものを本当に触れない、触れたくないっていうのがあったと思います。
あのやはり今ねそう、ちょっと突撃で、こうクローズアップするジャンルがいろいろあると思うんですけど、民映研、姫田忠義が考えたのは、やはりまず撮ってみせるのは、土地の人にみてもらうのが一回目なので、その人たちのお暮らしになってるところでどうみるか?っていうのが入ってるから、とても柔らかく、今のドキュメンタリストだったらやらないような和める感じがするんじゃないのかなと思います。
ダム問題、本当に、きょうは関係者いらっしゃるかどうかわかりませんけど、辛いですね。羽越水害っていうのが昭和42年に起きて、44年にダムの問題が立ち上がる。それは下流域の、いま、安倍首相的に言うと、国民の生命と財産を守るため、というようなことでダム問題の建設が立ち上がったといっていますね。
でも水害があった水域は三面川流域じゃなくて北の流域なんです。それなのに、三面ダムっていうのは、まあ僕も高校時代に行きましたけど、すでにあるんですよ。昭和29年だけどできているんです。その上に奥三面ダム、第2ダムを作る意味っていうのはさっぱり僕にはわからない。
で、国策、まあ黒部ダムとかは知りませんけど、県営ダムですね。水利、何のためにつくったのか?たとえば水力発電のためにつくったとかっていう時代じゃ、もうないですね。
北海道に行って、二風谷というところで撮影しているのが多いんですけど、そこに二風谷ダムができました。
皆さん苦労して、妥結して結局はダムができてしまうんですけど、10年でもう上げ砂。あんなゆるい、ゆるい川でも10年でもう浚渫しないともう使い物にならない、ヘドロのかたまりですね。奥三面みたいに急流からくる渓谷のものを溜めてどれだけ土砂を流しているわからないです。年に何回か一斉放水するんですよ。
そうしないとダムが溜まっちゃう。どうしてんのか分かんないですけど、まあ、早晩使い物にならなくなるんじゃないですか。奥三面あさひ湖っていう。ひらがなで、あ・さ・ひ湖というふうになってますけど。僕もちょっと学校でこう喋ったりするところがあるんですけど、「やっぱりつくりたかったんだろう。つくりたかったからつくった」。誰がつくりたかったかって言うのは皆さんご存知だと思います。
決してその土地の人がつくりたかったんじゃない。県営ダム、水利目的などたくさんあるじゃないですか。今も妥結してないところがいっぱいありますよ。当時いろいろ、本当に個別の賠償というか、すごくあるわけですよね、多くもらう人、全然もらえない家、45軒のうち。そういうことも語れないわけですよね、当時は。非常にその、姫田忠義の言い方ですけど、「こんな村ばっかりだよ」と。(列車騒音により聴取不能)
◆阿部 『第2部―ふるさとは消えたか』(※1995年)という作品は、何かこう第1部の補足のような感じで、別にみなくてもいいんじゃないっていうふうに評価がされているらしいんですけど、僕は一度みて、やはりこれはいっぺんにみるべきかなと思います。第2部では姫田さんはもうとにかく前面にでています。
まず冒頭、これYouTubeに動画が上がってるんで、えっと13分ぐらいの、これ言っちゃっていいんですかね?蘭さん。勝手に誰かが(林 海賊版?)――。ダイジェストになって、まず最初の画面出てくるんですよ。姫田さんがこういうふうにフレームで、こう奥三面の集落をこうやってフレーミングしてるんですね。
それでだんだんパンしていって、姫田さんのバストショットになった時に、こう彼はまず第一声「俺はね、この村ごと持ってどっか空の向こうに飛んで逃げたいよ!」っていうふうにこう言って第2部が始まるんですよ。
村上ですとか、新潟とかにきれいな家をつくってもらって、お金もある程度補償してもらって、都市生活者になった人たちが、生きがいを見失っている状況っていうのが第2部では非常に描かれている。で、僕がすごく覚えているセリフが、「何かを忘れてきた気がして仕方がないよ。口では言えない」っていうこのセリフ、やはりここにすべてがこもってますね。
確かに暮らしは便利になったかもしれないし、経済的にも楽になったのかもしれないけど、こういうの極端すぎるんですよね。だからそこがこの時代、まあ、ロスト日本の時代に作られたこの映画の、ある意味すごい象徴的な場面だったなというふうに思ってるんで、今日の上映を契機に、いつか『第2部 ふるさとは消えたか』もみられる状況を作れたらいいなと、僕は個人的に実感としては思ってるんですね。
で、からむし等の話になると、いまから3年ほど前に信州大学の分藤大翼さんっていう映像人類学者がいるんですけど、彼が昭和村の『からむしのこえ』っていう映画(2019年)を作ったんですよ。で、これは佐倉にある、なんだっけ?歴博?そこのたしか経費で作った学術映像なんですけど、すごく面白い映画で、これはうちで1日だけ1回上映したんですね。分藤さんが来てもらって。この中でもみてらっしゃる方もいるかもしれないんですけれど。分藤さんとお会いした時に、姫田さんの「『からむしと麻』、僕何百回もみてました。それをみた上で、自分は『からむしのこえ』を作ったんです」っていうふうにおっしゃったんですね。
こうやって姫田忠義という偉大なシネアストの作品っていうのは、心ある研究者や若い人たちに受け継がれているんだなあって思って、すごく嬉しく思いました。
で『からむしと麻』は消えゆくロスト日本の一面、昭和村の当時の営みというものを映画化して、姫田さんの当時の、いわばあの時代の映画人ですから、哀惜の念で、民俗学映画ってものを作ったと思うんですけど、分藤さんの映画はこれからこのからむしでこの村はやっていくんだ。これで前を向いていくんだみたいなメッセージになっていて、そういう意味でも、そこら辺ちょっとメッセージ的に違ってきてるんじゃないかなと思ったわけです。
◆姫田 今日、昭和村の方いらっしゃいますか?来てないかな。あの『からむしと麻』は1988年かな。今でこそ、からむしは全国区ですよね。福島県の昭和村が誇る産業で。確かに当時もそうだったんですけど、この映画を、父からすると青年たち、いま70ぐらいの、青年たちが映画を撮った、集まって撮ったわけです。
だけど横槍が入りました。それは昭和村なんです。これは村の機密事項だ。機密産業、その技術を映像で撮って見てもらうのは、なんて言うんですか、機密漏えいであるからやめろって言われたんですね。でも反対した若者、当時、3、40代の人たちによってできたんです。いま織姫制度ができて一大産業じゃないでしょうか。
◆阿部 この間、福島県の自治体で将来、消滅可能性自治体が発表されたんですけど、昭和村とたしか柳津でしたか?そこだけはならないっていうふうに。昭和村は、舟木(※舟木幸一)さんという方が村長やってるんですけど、舟木さんから一度はがきをいただいて、自分の人生を変えたものは何ですか?といったら、この「越後三面」。自分は若い頃にこの映画をみて昭和村に戻ろうと思った、というふうにおっしゃってました。
で、その舟木さんが、その当時から、からむし織制度というものを立ち上げて、なんだかんだ言われつつも30年持続ってすごいなってつくづく思うんですけど、今やもうからむし織は本当に日本の冠たる一大ブランドになっていますし、カスミソウっていうものが、麻に取って代わって昭和村の出荷品として一流ブランドに育てあげてますね。
だから、そういう意味では非常にこの「越後奥三面」はこんなところでも生きてるんですね。
◆姫田 ここ福島県なので、もうちょっとからむしに触れさせていただくと、あの映画の面白いところは『からむしと麻』なんですね。大芦とそのもうひとつ、おおなんとかっていう、ちょっと名前が出てこない集落(※大岐)でからむし、植物を育てて、片方が一年草であり、片方が多年草である。で、繊維をとる。それを並行して紹介しているんです。
それで普通からむしというと、越後上布になるまでの布とか、そういうものを説明するかと思うんですけど、いっさいそれはないんです。糸が出来上がるところで終わりなんです。
だけど、それは時間がなかったと思いますけど、とにかく植物から繊維を作り出して、それを糸にする、その人たちの、まあ糸車もそうですけど、その手の先をよくぞ記録したなと思います。
『日本の姿』で検索していただくとDVDが4巻ありまして、1巻に3話ずつ民映研の作品を30分にしたものがあります。その中に『からむしと麻』(※第4集所収)がありますので、図書館にあると思いますし、Amazonで 3500円ぐらいと思いますので、ぜひみていただければ。『奥会津の木地師』(※第2集所収)もそこに入っております。
◆林 姫田さん、その麻、からむしと麻は同じ麻の仲間なんですけど、もしかしたらですね、麻を作っていい免許っていうのはですね。非常に国からみるとデリケートな問題で、麻薬の原料になってしまうということですね、
 もしかしたら昭和村、映像化のことで、ちょっとためらっていたのは、その免許問題は昔から麻を作っていたところに限り許可されるっていう。免許制度がですね……。
◆姫田 あの、そこを撮して、これはまあ、皆さんご存知だと思いますけど、免許制だということをちゃんと謳って映像にしたんですけど、やっぱりからむしなんですね。
で、信州の、ちょっと名前出てこないんですけど、あるところで麻の技術を村の方たちがやりたいんだけど、麻は許可制なので作れないから、からむしをやってるんですよ。
東京にもからむしがいっぱい、電車の線路の脇とかにも生えているんですよね。それぐらいまあ言葉悪く言うと雑草でもあるんだけど、ちゃんと栽培して商品化しているのが昭和村と宮古島、沖縄の宮古島っていうのが当時あったそうですけど、昭和村が抜群なんですけど、今、麻の再現教室ができないから、私たちはからむしでやってるんだっていうところがいくつかある。(林 代用用品になっちゃってる)なっちゃったんですね。逆に、逆転してるんですよね。
◆林 昭和村では、からむしは先ほどの三面のゼンマイと同じぐらい、短期間の出荷で現金収入としては半分ぐらい占めちゃうということで、糸まで昭和村の中でして、山を冬に越えて越後の方に入ったら、それで1年分の現金が得られるということで、ぎゅうぎゅうにつめて背負ってね。雪山の中を決死行で、そこに家族の1年分の現金収入がかかっているということで、昭和村で必死になってるわけなんですけれども。
からむし制度がここまで発展してきてる奥会津地域のすごい努力を感じて、またそういった映像文化なんかも合わせてみてもらえると織姫制度なんかもまた弾みがつくのかなというふうに思います。今の上皇后さん、美智子さんが皇太子妃だった時に昭和村に来てからむし製品を買って一気にブレイクしたということがありました。
◆姫田 あの、うちの父がですね、母に内緒で―からむしの映画を作った時に―頼んじゃったんですね、製品を。シャツじゃないんですよ、裃なんです。(会場 大変。無茶苦茶高い)
はい、35万とか。でも着る機会がない。水色なんですね。水色のからむしで裃を作っちゃったんですけど。
2回だけ着ました。1回目は1989年フランスの勲章もらったんですね。(阿部 レジオンンドヌール?)じゃなくて、オフィシェール(※将校)というフランス芸術文化勲章っていうのを。オフィシェールというのがあって、フランスで着て行ったんですよ。
その写真を見ると、いや~な感じがするんですよ。国粋主義者みたいな。
民映研創立25周年という時にあった時に、裃着て入っていったっていう、その2回だけのために、うちはすごくそんな裕福じゃないので、母に内緒で。取ってあります。着る機会がないじゃないですか。切腹みたいになるじゃないですか。
あの、いろいろあります。『奥会津の木地師』、からむし……。それと茂庭のシリーズがあって、茂庭がダムになる前に行って、まあその話がいろいろあるんですけど、ちょっと長くなります。
色々、織物であり、焼畑であり、それから一番ここから近い松川というところの、黒沼神社の『金沢の羽山ごもり』(※35作目1983年)というのも80、83年に撮っているんですね。
今日も先ほどホールの方で申しましたけど、とにかく1980年に奥三面と出会って84年にできたんですけど、その4年間に29本ぐらい同時に作ってるんです。その中には『アマルール』(※副題 大地の人バスク、26作目1981年)っていって、フランスのバスクで、スペインのバスク地方のバスクの村を全部丸ごと撮りたいという欲のある作品を撮ったりしてですね。行ったご縁で勲章もらったんですけど。
その関係ではとにかく元気な50代で。ただ、姫田68ぐらいの時に肺気腫と言われまして、後年、歩くと苦しくくてですね、2013年に亡くなりまして。慢性COPD(※閉塞性肺疾患)、慢性肺疾患?それ以外は本当元気でしたから、髪の毛は白髪になりましたけど、はげなかったですし、ケチだったから入れ歯もなかったですし。本当に元気な人間だったんですけど、肺だけはちょっと悪かったですね。
◆阿部 ちょっと話題を変えて、どなたかご質問を。
◆男性4 本当に素晴らしい映画をデジタルリマスター版としていただいてありがとうございます。去年山形(国際)ドキュメンタリー映画祭で野田真吉((1913-1993)特集があって、今、姫田さんのこの作品をみているとやっぱり祭りもたくさん撮っていると思うんですけども、例えば野田真吉さんとかとどういう関係があったのかな、とか日本のドキュメンタリーと記録映像の業界とかその辺はどうなんでしょうか?
◆姫田 色々申しましたが、とにかくほかの方のお仕事全然知らないんですね。だから野田真吉さんって僕も知りませんでしたけど、父は知らないお名前だと思います。
でも去年大ヒットして、山形でね、すごく皆さんみて良かったっていう評価で。ああ、そうですか?と。あの山形ドキュメンタリー映画祭から一度も呼ばれたことはないんです。
まあそれほどだから知られてないですね民映研は。(林 山形を対象にした作品はありますか?)ないです。(林 福島ばかり?新潟と福島)そうですね。
すみません、ぜひ「山形でやってよ」って、あの僕は言いませんよ。だけど、あの言われるんですよ。この前、七芸(※大阪第七藝術劇場)で、大阪の七芸でもなんで山形でやらないんですか?と言われ、「呼ばれないからやれないんです」、って。唯一呼ばれたのが湯布院っていうところで、映画祭に先々週行ってきました。亡くなった時にも姫田の作品を何度も上映してくださって。
◆男性5 田口洋美さんの『越後三面山人記』(※副題 またぎの自然観に習う、農山漁村文化協会2001年)という書籍からこの映画に入らせていただいたんですけども、さっきの熊撃ちの話にもあったんですけれども、当時渋沢敬三子爵が越後三面にきた時に熊撃ちが見たいということで、熊撃ちをして下さった小池善栄おじいさんですか?この人が言ってたんですけれども、三面に昔わざわざ奥会津から木地師が来て、いろいろと技術を教わったりして、場合によってはその木地師が娘さんと結婚した人もいたっていう記述があったんですけども、当時その人たちの記述とか、ああこの人、会津から来てるとか、そういう情報とかっていうのはありましたか?
◆姫田 僕は存じ上げないですね、「田口君」とうちでは言っちゃってるんですけど、田口さんは何度もあの映画の中で出てきました。一番の若手スタッフで住み込んで暮らしていて、で、今名誉教授になってますけど、東北芸工大の先生になったんですけど、田口洋美さんもその越後三面、「奥」は入ってないんですよ。ベストセラーの本がありますので、ぜひ読んでいただければと思います。(林 奥会津と交流があった?)あったと思います。ただ姫田はそこを取り立てて言っていないのは不思議ですね。
木地師の大拠点、東日本の大拠点が会津だったんですよね。近江八幡、近江国のところが木地師の総本山みたいになっていて。西日本、東日本。関東は会津と小田原になっていると聞いています。
ちょっとそれは存じ上げない。ただ本当にメイン通路は小国、山形県の小国側と三面が一番で。村上に出るのは渓谷なので、道ができて、映画の中でも言ってますけど、ようやく道ができて、これで村上まで車で通えるようになったと。今ある道はその道ですね。
で、メインだった小国ルートの道は封鎖されたままです。人間が住まないと道路って直さないですからね。(林 5年前の台風の時?)そう、そうです。だからたぶんダムにつながって、もしその道があればね、山形県側から三面通って日本海側に出られる。人が通らないと直さない。
◆荒川 冒頭、只見の話をさせていただいたんですけど、只見から田子倉にルーツがある方がいらっしゃているので感想聞かせてもらってもいいでか?鈴木サナエさんと言います。ちょっとサナエさんの感想を聞かせていただきたいなと思います。
◆鈴木サナエ 只見町からまいりました鈴木サナエといいます。私もずっとこの映画を恋焦がれていました。で、その中に大西監督の『水になった村』の3人組の、私はひとりです。  
なんでこの映画をみたかったかっていうと、やっぱり私の母親の実家が田子倉にあったんですね。で、小学校一年の時におばあちゃんのうちは只見に引っ越してきたんですけど、その時に、私の小学校の時代には、ものすごい只見はもう燃えてました。
戦後復興で人口もどんどん増えてましたし、クラスには東大卒の息子さんいたり、労務者の人がいたり、本当にいろんな人がいました。でも、戦後復興でダムができることはいいことだとしか思っていなかったんですね。
小学校の4年の時に第一次湛水ってあって田子倉ダムに水が入る、その直前の姿を地権者に見せたいっていうので、バスを仕立てて、私は地権者でもなかったんですが、おばあちゃんにくっついて、あの田子倉の集落が見える場所まで行きました。
そしたらみんな私らは喜んでたのに、ばあちゃんが泣いていたんです。その涙っていうのが、やっぱり今思い出しても泣けます。
だから最初のあのおばあちゃんの映像、あれと最後の雪の中を○○に、こう歩く姿、それは多分いまの私かなあと思いながらみせていただきました。本当にいい映画をみせていただいて、ありがとうございました。で、すみません、ちょっと隣の相棒から。

映画『越後奥三面―山に生かされた日々』を語る会・記録②如春荘ゲストトーク編

2024-07-11 | 映画系


2024年6月30日午後2時〜
カフェ・ド・ロゴス:映画『越後奥三面 山に生かされた日々』で語り合おう@如春荘
【話し手】
・フォーラム福島総支配人 阿部泰宏
・民族文化映像研究所理事 姫田蘭
・福島大学准教授 林薫平
【カフェマスター】荒川信一
(注:簡単な脚注を文中※印の後に適宜配し音声不明瞭のところは伏せ字○○とした)


◆荒川信一 お集まりの皆さんこんにちは、暑い中お集まりいただいて大変ありがとうございます。カフェ・ロゴ 映画『越後奥三面』をみて語り合おうということで、このような回を企画致しました。素人ばかりで語り合うのも――と思っておったところなんですが、このような素晴らしい豪華ゲストをお迎えして、この会を迎えることができました。まず最初にゲスト講師の方々のご紹介をしたいと思っております。
映画ご覧になってきた方、ご存知だと思いますけれども、今日きていただきました。民族文化映像研究所理事の姫田蘭さんです。後ほど自己紹介のような形でお話いただければと思いますけれども、姫田忠義監督のご次男ということで映画に携わって来られた方です。
続きまして、福島大学食農学類准教授林薫平さんです。今日は姫田忠義と宮本常一との関わりについてお話をいただけるとおうかがいしております。よろしくお願いします。
それから話を回していただき、映画の専門の見地から色々お話しいただきたいと思っています、フォーラム福島支配人のお阿部泰宏さんです。
今日ですね、後ろのほうにあると思いますが、ポストカードは、姫田さんからのみなさんにプレゼントだそうです。ありがとうございます。
ここからは主催者挨拶で、この紙使いましてほんの少し時間いただいて、私の方からご挨拶がてらこの会を企画した経緯というものを、本当に私ごとなんですけども語らせていただければと。ちょっとお時間ください。
2016年、仕事で3年間、只見町におりました。只見町はユネスコ・エコパークとして登録されている町で、今なおそこかしこに山に寄り添う暮らしが色濃く感じられる土地柄です。
また、只見は昭和30年代の高度成長期、国策によって田子倉ダムなどがつくられた歴史を持ちます。集落が水没し、まちは一時的な好景気に湧くといった時代の波に翻弄されたというような経験を持つ地域です。
そのまちで3年間過ごしたときにですね、只見生活の中で私はたくさんの人に出会うんですけれども、自然愛好家とか都会から移住して来られた方など多くの魅力的な方にお会いします。
その方々の中で女性3人組が只見で自主上映会を行った映画というのがありまして、それがですね、大西暢夫監督の『水になった村』(※2007年)というドキュメンタリー映画でした。
この映画は岐阜県の徳山ダム。徳山村というところで、同じようにやはりダムに沈む村に住み続けたご老人たちを撮り続けたドキュメント映画なんですけど、私深く感銘を受けまして、その映画を福島市でも上映したいと思いまして、阿部支配人にご相談して、福島でもそののちに実現化するんですけれども、コロナ禍だったからちょっと寂しい状況になってしまったんですけれども、そんな経緯があります。
で、その中でですね、只見の自然愛好家の御大、実は今日只見から来て、この映画をみていったんですけれども、只見に帰るということで、この会には参加できませんでしたけれど、その彼がですね「大西監督もいいんだけど、もっとすごいドキュメンタリーあんだぞ」。「もっと」というのは大西監督には失礼かもしれませんが。
というところで名前が出てきたのが、この姫田監督の『越後奥三面 山に生かされた日々』でした。そうなんだ……ということでみたい、みたいと思っていて、また後日ですね。まあ同時期なんですけど、阿部支配人とお話をする機会があったときに、この映画の名前が出てきて、「この映画をフォーラムで、かけないうちは。俺が仕事をやってるうちには絶対かけたいんだ」という熱い思いを聞きまして、2人の師匠といいますか、尊敬する人から同時期にこの映画の名前を私が耳にしまして、その時からですね、この映画をみずして死ねるかと言うような一本になりました。
今回上映ということで、私はこの映画を今日初めてみさせていただきましたけれども、せっかくですので、上映を記念してこのような会を開きたいということで企画を致しました。
このような講師の方々、それから皆様にお集まりいただきましたことを、本当に厚く御礼申し上げたいと思います。どうもありがとうございます。
さっそく、講師の方々のお話の時間としたいと思いますけれども、業務連絡といいますか、この様子を写真に撮ってホームページ等にあげたりすることもあるんですが、写真撮影はお断わりだという方がいれば手を挙げてもらってもいいですか?いらっしゃいますか?はい、わかりました。映らないようにしたいと思います。おひとり手があがりまして、ひとりということでよろしいですか?はい、ありがとうございます。
予定は4時半までということ、4時から4時間半という感じでお話を進めていただければと思います。腰が痛いとか、椅子が必要な方いらっしゃれば、椅子もありますので遠慮なく私の方にお申し出ください。
それでは阿部支配人にバトンタッチしたいと思います。よろしくお願いします。
◆阿部 ただいまご紹介いただきましたフォーラムの阿部です。今日はお暑い中こちらに来ていただきまして、ありがとうございます。早速、話に入っていきたいと思うんですけれども、林さんから今日ご覧になった感想など。
◆林 はい、ありがとうございます。私も初めて『越後奥三面』拝見しまして、また蘭さんのフォーラムでのお話をお聞きしまして、すごい歴史があるということをつくづく感じました。
特に印象に残ったシーンとしましては、熊の猟に出かけるシーンでありますとか、あと最後の方ですね、丸木舟を簡単な斧のような斧とノミで作ってしまう。また最後のですね。ポスターの写真にもありますけれども、伝統的な毛皮を身にまとって3人で、ダムに沈んでしまう前に、狩りをするという目的ではなく、もう一回雪山に行こうという、悪天候の中ですね、3人の雪山歩きがありましたけれど、なんとも言えないシーンでしたね。
この後、皆さんの感想もお聞きしたいと思うんですけども、まず印象に残ったシーンとしてはこのようなシーンでした。
なお、雪遊びをしていて、雪の玉が顔にぶつかっちゃった赤いジャージを着たヒロインの小学生のお嬢ちゃんがいましたけれど、多分映画が撮影された時期を考えてみますと、僕と同じぐらいな歳なんじゃないかなと思いますね。いまお会いできたらたぶん40代後半ぐらいなんじゃないかなと思いますね。会いたいなと言うふうなことも考えました。まず感想としては以上です。
◆阿部 ありがとうございます。質疑応答をしたいなと思いますが、まずは後ほどそれをやっていきたいなというふうに思います。今日は意外と、僕の予想した以上に、世代的に若い方も来てくれて、すごくうれしいです。
この映画をみたのは今から8年前。2016年、山形だったんですけれども、映画をみたときにすごく重なったのが、やっぱり震災後にこの映画をみてよかったなというふうにすごく思いました。故郷を失う、失郷するっていうメンタリティは、三面の人たちも、立場も状況も全然違うんですけどもすごく通い合うものがあったな、というか、もう今は存在しない人たちかもしれないけど、時空を超えて繋がったなという思いがあって、やはり映像の力ってすごいなって思ったんですね。
今日は若い方もいらっしゃるので、後ほど、どういう風に受け止められたのか、そういったところもお聞きしたいなと思っています。
姫田さんは、今までいろいろな場で姫田忠義さんの映像作品というのは、みていただく機会があったでしょうし、こういった語らいの場にも立ち会われたことがあるかと思うんですけれども、どうでしょうかね。今の時代の方々が民映研の作品をみて、なかなかこれ言い表すのは難しいかもしれないですけど、ザクっとした感じでいいですけれど、どういった感想をお持ちになるのか、どういった所感を皆さんお持ちになるかとちょっと聞かせていただければと思います。よろしくお願いします。
◆姫田 民映研の姫田蘭と申します。よろしくお願いします。この度、劇場でかかるように、DCP(※デジタル・シネマ・パッケージ)というフォーマットでデジタルリマスターをやったおかげでですね、今まで―明日で民映研創立記念日なんですね。7月1日。1976年ですから48年ぐらいです―長い歴史の中で大変革だと思っています。
それで東京で上映しまして、そこで一番最初にやっていただいたんですけど、7割がたの方が民族文化映像研究所も姫田の名前も知らずに予告編をみて来てくださった。(音声不明瞭)お客さんに初めて知っていただいているという、ものすごく驚かれる。「今、この時代にみるべき映画だ」と言ってくださって。
40年、50年、姫田を支えてくださった方が全国におられまして、今でも上映活動をやっているんですけれども、これは本当に地道な出来事になってしまいますが、今回のように1週間、僕らにとってはものすごいロードショーなんですけど、一日何度も上映されるのは、うちのスタッフにとっては本当に初めての経験。
本数はいっぱいあるんですけど、40年経ちまして、1984年に完成しましたけど、ちょっといろいろ復元している部分があるんです。例えば丸木舟の部分ですね。丸木舟は普段は作られてない。
それから、例えば「熊オソ」っていうのは昭和30年代には禁止されたし、ワナ猟は禁止されてますし、例えば最後の衣装、印象的に皆さんに言っていただいてますけど、昔の狩人の衣装を着て山にのぼることはしてないわけですね。猟銃で取りに行きます。
ちょっとよーく見ると、見ていただくとわかるんですけど、40年、たった40年前なのにものすごく昔の生活をしている人たちがいる、と思われていて、そこはちょっとやっぱり言わなきゃいけないなと思ってですね。あそこには自動車ありますし、テレビもありますし、ウォークマンもありますし、さすがにインターネットと携帯電話はございませんでしたけど、何ら変わらない生活で、これは姫田も映像で残していますけど、「どうしてあんな古く見えるんですか?」と言われて、「これはね、あえて排除している部分がある」と。
車があると、現場をよけて撮ってるし、話を聞いているときにテレビがあったらテレビをよけて撮ってるし、だから印象的になんかすごく昔の場面が……。
まあ、でもそれが狙いで、姫田としては狙いで、なくなってしまった生活行為を、完全な復元では、というよりは、若い時になさっていたことをやっていただくという復元を今撮らないともうそれは途絶えてしまうという思いがあったので、いろいろそういうシーンが核心。自給自足の生活、確かに自給自足ともいえますが、購買のマーケット、トラックに積んで野菜とか魚とかも来ますし、そういった意味では日本全国と変わらない生活をしているわけです。
あの大木はチェーンソーで倒しているんです。で、彫るのはよくやってるんですけど―姫田は丸木舟好きでして―ちょっと僕の話、いろいろあっちゃこっちゃ飛ぶんで、ぜひこの今日のパンフレット、最後から2番目のページに作品が出てるんで、それを見ていただくといいんですけど、『奥会津の木地師』(1976年5作目)という、福島県の田島、そこの記録がこの映画の1975年ですから、正確にいうと74年に撮られた民映研でのヒット作があるんですね。
実に貸し出しナンバー1の『奥会津の木地師』というふうに〝奥〟会津、とつけちゃったんですね。まずこれはあんまりいいとは思えなんですけど、姫田、奥をつけてしまうんですよ。で、その土地の方にとっては、なんで奥をつけるんですか?(林 田島は南会津ですから奥会津ではないです)
それでこの奥三面、この集落は奥三面とは言わないです。大字三面なんです。で、三面の衆も三面と言ってますけど。
自分たちが奥会津といっているのは、今だからいいと思います。三面っていう集落が村上にできたわけです。移住されて。今はないところを奥三面と呼ぶのは不都合がないと思うんですけど。当時はなんで奥をつけるの、と。
(阿部 それは差別的な意味合いを感じるから、なんで?ということでしょうか。福島にも町庭坂と在庭坂というのがあって、うちは在庭坂で小さい頃からコンプレックスがあって、なんでうちの住所は在なんだ?と)
◆林 本当に呼ばれていればまだしも、奥は、本当はつかないところわざわざつけちゃったっていう。地元の人は複雑ですよね。
◆姫田 でも最近は逆で、これ40年前の話ですね。今は行政の方が率先して奥飛騨とか率先して付ける時代になって、姫田が生きていたら、ほらみたことか、と思うかもしれない。(林 その第一号だと思います)
◆姫田 先ほど申しましたけれど、割と都会生活者だったので、偏見はないんですけど、皆さんお生まれになったところの因習だとか、そういうものがすごく、この村の中から出たいっていう生き方されている方もいらっしゃると思うんですけど、そういうところが姫田全然なかったものですから、村の生活をみると喜んで。知らないですから、自分が経験してない生活をみるんですから、喜んで入っていけた。
それがまるっきりね、すみません。『奥会津の木地師』というのは木をヨキ一一丁で倒し―それは機会があったらご覧いただきたいんですけど―本当に40分で一本倒すんですね。それで、やま型にとっていって、お椀の木地を作るんですけど、この奥三面の人たちはそれから10年後ですね。「丸木舟作ってたんですか?じゃあやりましょうよ」という。得意の説得があって。だからやってもらって。ただ切り倒すのはチェーンソーでやったんですけど。
それがどんどん発展して、アイヌの北海道二風谷というところでは、『シシリムカのほとりで』(副題 アイヌ文化伝承の記録1996年)っていう作品なんですけど、その中では切り倒した後に縄文土器、要するに石器で丸木舟を作るっていうシーンがあります。見事に石器で彫り上げるんですね。
◆阿部 ありがとうございます。『奥会津の木地師』に関してはこの岩波ブックレットで『忘れられた日本の文化』(副題 撮りつづけて三〇年1991年)という、姫田さんが書いた本があって、ここで姫田さんが、今、蘭さんがおっしゃったことを補足しますと、ちょっと読んでみると

木の内側を深ぶかと(これ、けずっていくというのかな)けずって(※本書には「刳って」とあり、それに従えばこの読みは「えぐって」と思われる)行くこの手引きのロクロが日本に登場したのは、奈良時代のなかごろだと聞いたことがある。もしそうだとしたら。この木地師、藤八(※小椋藤八)さん、平四郎(※星平四郎)さんらの青年期のころまでの千数百年間、それが絶えることなく伝えられてきていたのである。進歩がなかったと笑うことはたやすい。が、ヨキ一丁で巨木を倒す作業からはじまり、手引きのロクロにいたるこれら一連の作業を見つめながら、私はついに一度も笑うことができなかった。それどころか、私はただ感嘆し、いつしかそれが感謝の念に変わって行った。
なぜなら、五〇年も昔にすでに止まってしまったはずのこの一連の作業を、藤八さんたちは少しも忘れず見事に実現して見せてくれた。そしてそれを通じて私は、幼いときからおのれの体にたきこんだものは、老いても決して忘れないという人間のすごさ、素晴らしさを感じることができたからである。
しかも、この老いたる人たちの伝えてくれたものは、ただ単なる人間個人のすごさ、すばらしさのみではない。あえて言えば、千数百年の歴史を一身に体現したもののすごさ、素晴らしさである。(※「壮絶――体の中に伝えられたもの」p33〜34)

今日の丸木舟ですね、あのシーンなんか見てると、まさにこの『奥会津の木地師』のスピリットと一緒かなっていうか、まあ、それは再現してくれっていう姫田さんの思いっていうのは、それを是非映像に記録しておきたい、これはいずれ絶えてしまうものだから、というその哀惜の情から来てるんだろうなというふうに思われるわけですね。
この後、皆さんの方でなにかおっしゃりたいこととか、お聞きになりたいことあったら、双方向でやりたいなと思っているので、どなたか挙手を、ぜひ聞いておきたいということがあったらどうぞ。

映画『越後奥三面―山に生かされた日々』を語る会・記録①フォーラム福島アフタートーク編

2024-07-11 | 映画系


民族文化映像研究所『越後奥三面 山に生かされた日々』@フォーラム福島シアター5
2024年6月30日(日) 10時上映の部アフタートーク記録
【話し手】
・民俗文化映像研究所理事 姫田 蘭
・フォーラム福島総支配人 阿部 泰宏
・記録:小林 茂
(注:簡単な脚注を文中※印の後に適宜配し音声不明瞭のところは伏せ字○○とした)


◆姫田蘭 ご覧いただきまして本当にありがたく思っております。
◆阿部泰宏 僕もこの映画は本当に上映したくてしたくてしょうがなくて30年かかってるんです。
 そういう意味でちょっとこの30分の間、もうすごく、ちょっと感傷的になったりしてるもんですから、話がうまくまとめられなくて。ましてや、息子さんの蘭さんに来ていただけると思っていなかったので、本当に自分にとってもこれは忘れられないん日になったというふうに思っているんですが。姫田さんがこういう生き方をされるようになったきっかけですね。
姫田忠義という存在を、いかなる人物だったのかということを、すごく興味を抱かざるを得ない、この映画をみてしまってですね。
蘭さんからみて、お父さんというのはどういう存在だったのか、そして忠義さんがなぜこういう道を歩まれたのかというところを、なかなか短時間でご説明いただくのが難しいかもしれないんですけど、ご紹介いただければなと思っております。
◆姫田 ありがとうございます。姫田忠義は昭和で言いますと昭和3年に生まれました、1928年ですね。神戸で生まれました。
 姫田家は非常に貧乏なうちだったんですが、でも都会ですね。昭和の初期とはいえ、やはり神戸という、いろいろ文化が入るまちで育ってきたので、農村とか農山村・漁村で育った人間ではないので、逆にこういう世界に、自分の神戸の因習が嫌だとかっていうことは一度もなかったと思います。喜んでこういうふうに、こういうところに興味を持ったと思うんですが。
 姫田は16歳。旧制中学四年生で入隊しました。海軍の少年飛行兵いわゆる予科練ですね。予科練で入隊して高知の航空隊で終戦を迎えました。航空隊といっても一度も飛行機に乗れず、松の木から油を取り、穴を掘って上陸に備えていたという、そういうような少年時代で。
それからですね神戸高商、いま神戸大学っていう名前ですけど、旧神戸高商を卒業しまして、住友金属という割と大手の本社に勤めまして、そこで演劇に出会ってしまうんですね。
その昭和20年代というのは、職場で労働演劇っていうのはものすごく盛んだった時代で、そこで、なぜか無縁だった演劇に目覚めて、で仕事を辞めてですね。昭和29年、1954年に東京に出てくるんです。
 演劇の劇団に入るんですけど、演出部っていうところに入るんですが、ものすごい速さでまあ挫折するんです。演劇が嫌いになるんですね。
というのは、上京してきた29年に宮本常一さんという―うちでは宮本先生と呼んでいますが―のちには民俗学者として、あのご存知の方も今多いと思うんですけど、当時は民俗研究家。全国離島振興協議会の初代事務局長をなさってましたけど、それに出会うんです。
 で一日にして、「この人は僕の師匠だ」と思ってたらしいんですね。そこから昭和29年、宮本先生の話を聞くにつれ、興味がそっちに。
ただ生きていかなきゃいけないので、当時、始まりましたテレビ業界、「チロリン村とくるみの木」という、その人形劇が、まあ知ってる世代もいらっしゃるようですけど、その演出を3年やりまして。でももう毎日のことだったのであのやってられなかったらしいです。
それでやめて、いろいろ教育テレビのシナリオ放送作家ですね、今でいう。シナリオライターとして生活しています。だからまだここでも映画には無縁なんですね。
であの今、ドキュメンタリー映画監督って言う方いらっしゃると思うんですけど、実は民映研作品119本でいわゆる姫田忠義監督作品一作もない。で、監督とは名乗ってないんですね。
 今日ご覧頂きました、エンドロールずらっと名前が書いてある。スタッフでデスクも撮影も録音も一律に書くっていう、なんか妙な変な民主主義が姫田が考えちゃったので、姫田忠義監督作品って一つもないんです。
 で、自分は映画界とは無縁だと。まあ、ドキュメンタリー映画界とも無縁だ、アカデミズムとも無縁だっていうことをよく言ってまして。まあ、始まりはどっちかというとテレビ業界なんだと。
自分はテレビの人間から始まって、それで仲間を得まして、カメラマンに伊藤碩男(いとう・みつお)さんって、今でも、90を超えましてお元気なんですけど、出会ったことによって2人で映像を撮るようになっています。
 民族文化映像研究所の第一作目は、演出が姫田ではなく、伊藤さんなんです。で撮影しながら演出して、姫田が何やってたかというと、お膳立てと録音と。自分が見つけた九州の村を撮りに行ったわけですけど、まあそんなような始まりがあって。そうですね、ほかのドキュメンタリーの映画作家の方は見たことがないと思います。
あのお歴々。晩年、土本典昭(※土本典昭1928年12月11日〜2008年6月24日)さんと(阿部 あ、水俣のね)、土本さんと映画祭でお会いすることがあって、それで2人が登壇したらですね、「お互い見ないよね。人の作品は」「そうだよね」って言いあったらしいんですけど。確かによその方が何をやってるか全く知らないでまあ亡くなりました。
◆阿部 そうすると姫田さん、僕、姫田監督ってさっき言っちゃいましたけど、正確には監督と言うよりは制作者というか、そういった制作総指揮みたいな形で今の言葉で言うと、といった方が当てはまるでしょうか。
◆姫田 そうですね、自分で企画してっていうことが多いです。ただ、あのクレジットで名乗るとしたら演出なんです。
 今、演出っていうとなんか演劇とかなんか、もうちょっと違う感じに思うかもしれないんですけど、当時ドキュメンタリー界は監督っていうのは劇映画の人が名乗るものなので、ドキュメンタリーで監督ってなかったんですよ。
テレビもそうですね。テレビのあれも今なんか監督って、あまりみない、NHKは出さないようにしてますけど、演出っていうディレクターですよね。ディレクターなんで同じなんですけど。それがまあ名前ですよね。
◆阿部 『越後奥三面』は、ほかの姫田作品に比べると、姫田さんが自分でナレーションを入れて、映像の推移とともにこう解説を入れてくっていうスタイルはほかの作品でもあるんですけれども、この映画はどちらかというと姫田さんの作品にしては社会性と言いますか?それが強いかな?と印象をもったんですね。
やはりまず最初のうちに、この村はいずれ水没してなくなってしまう、反対運動もあったんだけれども、あえなく、まあ高度経済成長期の波に抗えずに、あえなく妥結されてしまって、村人の人たちのいく末も決まってしまっているっていうところをまず紹介して。で、いわゆるその村の生業ですとか、いろんな民俗学的な映像というのがずっと続くんですけど、ことあるごとに姫田さんはムラがなくなってしまうことについてどう思うか?と言うことをお聞きになってらっしゃるというのがすごいあるなというふうに思ったんですね。
 第二部に至っては、最初に姫田さんがもう自分は、俺はもうこの村ごと持ってどっかに飛んでしまいたい、みたいなところの、何か苛立ちの言葉をぶつけて、そこから始まるんですけどね。
 そういう意味では、非常に姫田作品の中では特殊だなという気がしたんですね。でやはり僕が興味を持っているのは戦中戦後派の、あの映像作家というのは、やはり価値観がひっくり返ってしまった、すごく挫折を経験している。
そこで、クリエイターになっていた人たちにある種、共通するものがあるなというふうに思っているんです。
 ところが、往々にして映画作家は、政治的な映画ですとかそういう人たちは社会派の監督になったりとか、あるいは市民活動家になっているだとかであるんですけど。姫田さんはその民俗っていうアプローチ、こういうジャンルに行ったっていうところが非常にユニークだなと思ってるんですけど、蘭さんからご覧になって、そういう生き方というのは?どんな風に捉えていらっしゃるんでしょうか?
◆姫田 映画を撮りたくて映画を作っているのではないっていうのがまあ大前提にありますよね。もともとはその宮本常一先生をですね、まあ、追っかける部分は本当に最初の最初でしたんですね。
 その映画を作るためにその村に行くわけではなく、たまたま行ったところで、これはなくなってしまう、特に自主制作の作品はそうなんですけど、この村はダム問題になりました。
 あとはもう、例えば『椿山』(※7作目、副題 焼畑に生きる1977年)っていう作品がありますけど、それは焼畑の村なんですね。当時でも焼畑をやってる、これは記録しなくてはいけないという使命感があって、それがまあ作品になっているわけですけど。
 社会派とかですね。そういうところは本当にある意味、避けてましたよね。その憤ってますよ。例えば何か事故があったとか、事件があったりとかすると出向いて行ったりするんですけど。
 それを作品にしようと、例えば水俣の仕事は、それは土本さんがやってるからとか。まあ、成田の問題は小川さん(※小川紳介1935年6月25日〜1992年2月7日。山形国際ドキュメンタリー映画祭創設の提唱者)がやってるからということはあったと思いますけど、それは自分でやるべきことじゃない。それはやっぱり宮本常一という存在が大きくてですね。何でしょう?生きてる間はとにかく宮本先生っていうことを、私はあの生まれた時から知っている先生だったんで、あのうちに来た人がですね。中学三年生の時に亡くなりましたけど。とても普通のおじさん、偉いまあ先生、先生と言っておりましたので、偉い方だとは思ってましたけど、おじいさんだと思ってました。
 その影響がやっぱり。ただ、80年に宮本先生が亡くなって、変わりました。あまり言わなくなったんですね。この作品のときには宮本常一先生が――という言葉はほとんどなかったと思います。
 ある意味、自分が出会った場所で作品を作っていくっていうことがごく自然な流れとして、出会いがあって、やっぱり趣味の映画を撮る前、日本全国こうテレビ番組作ったりしてたんですけど、それはやっぱり宮本先生が監修者だったりすることもあるんですけど、先生がここに行け、あそこに行ったら何かあるからそこに行ってみれば――っていうようなところから始まったんだと思うんですよ。亡くなったあと本当に自分の世界になったなと思います。
◆阿部 宮本常一さんとのエピソードというのは、この『ほんとうの自分を求めて』(ちくま少年図書館1977年)という姫田さんがお書きになった中にあるんですけど、これ非常に面白いですよね。出会いがね。
 たまたま宮本先生の本を読んだ姫田忠義さんが、アポなしで、たしか研究所に訪ねて行かれるわけですよね。
 どこの学生、どこの若者ともよくわからない、たったひとりたずねてきた若者に対して、朝の10時ぐらいから自分のオフィス、デスクの部屋に招じ入れてですね。いま何をやってるかっていうのを語り出したら、なんと夜中の10時までで、途中で店屋物を取ってくれたとかいうエピソードが書かれているんですけど。
◆姫田 はい、それが昭和29年。どこへ行ったかというとですね、東京の三田っていうところに渋沢邸というのがあって、渋沢栄一、今度1万円札になります。渋沢家のその当時の惣領である渋沢敬三先生の渋沢邸に「アチック・ミューゼアム」(※屋根裏博物館)という、戦中にちょっと名前を変えて、日本常民文化研究所。日本常民文化研究所をその豪邸の中に作ってたんですね。
で、姫田は「読書新聞」という新聞雑誌に、瀬戸内海の海賊の話を先生が書いて、それを読んで、まあ自分は瀬戸内海の生まれですっていうか、神戸なんですが、あの母親は岡山の北木島というところなので身近に感じて突然会いに行って、そしたら招じ入れてくれて、その一日中本当に――割とエリートサラリーマンだったわけですね、大阪本社それが東京出てきて極貧になったので玉ねぎをガリガリ生で食べて出かけたらしいです――だから宮本先生は玉ネギ臭かったんじゃないかなと言ってましたけど。
 そこでカツ丼をご馳走になり帰ってきたって言うんですが、それでいっきにもう信奉してしまいましてですね。それにまだ宮本先生は36年か、昭和36年に武蔵野美術大学の教授になりますけど、まだその頃は民俗研究者でしたし。
 うちの父母が昭和35年に結婚したんです。何月何日かっていうことは両親とも覚えてなかったんですけど、宮本先生の日記でちゃんと書いてありましてね。「今日は姫田君の結婚式だった。芸能人がいっぱいいて面白かった」って書いてるんですよ。
 まあテレビ業界の人たちはいたんでしょうけど、芸能人はいないはずなんですが、宮本先生からしたら芸能界の人たちがいて、自分の知らない世界の人たちが(音声不明瞭)が周りにいてびっくりしたと書いてるんですね。
 それぐらい大学の先生になるまでには、特にお世話になって、うちの家族も、兄が先生に抱っこされたり、写真撮ってもらったりとかして。ちょっとよけい脱線しましたけど。
◆阿部 渋沢敬三、宮本常一、姫田忠義という系譜、なんて言うか師弟関係ですかね?系譜を見ていると、非常に面白いなというふうに思いました。
時間もそろそろなくなってきたので、ここで僕もうかがいたいのは、今ロビーに張り出しているんですけれども、三面が今どうなっているか?っていうことです。ダムがあるわけですけど、今も姫田さんは三面ダムとかあちらの方に出かけられたりすることっていうのはありますか?
◆姫田 あの、ちょっとノスタルジックなので、うちの父は9月10日生まれなんで割と9月10日に行くことが多いんですよ、時間作って。でもあの当時は何時間もかけた三面ですけど、東京から車で日帰りしちゃうぐらいなんですね。
 あとダムです。寂しくありませんでした。人っ子一人いない時間がとても寂しいところなんですけど、春になりますとね山菜を取りにくる方が。危なくないのかなと思うんですけど、舟まで持ってきて、ダム湖を横断して山菜を取りに行ってるらしいんですね。そういうおじさんに話を聞いたりすると、三面の人じゃないんです。そこに来る人はもう三面の人じゃないんですね。
◆阿部 僕もこの映画をみて、行こうと思ったんですけど、途中までしか入れないんですよね。特に秋口。冬はとても行くのは難しい。四駆じゃないと落ち葉がすごい、滑っちゃうので。なかなかすごいところだなというふうに改めて思ったんで。この映画を見て感慨を受けられた方はですね、暖かい季節、今の時期なんか行けるかな?と思うので、ぜひ見ていただくと余計アクチュアリティが増すと思うんですよね。
◆姫田 そうですね。これから午後の会がありますので、その時にはいろいろ話したいと思いますけど、どうしてあんなものを作ってしまったのかなっていう疑問ありながら、私はいつもみていますので、これに関しては。あ、宣伝してもいいですか?
 今回、このプログラムを作りました。ぜひお買い求めいただけますと、ありがたいです。1000円です。そしてですね。この先ほどから紹介しています『民映研作品総覧』(※副題 日本の基層文化を撮る2021年)、これ、ちょっと高いんです。1980円なんですけど、残りが3冊となっております。
 それから『ほんとうの自分を求めて』。これは実はちくま少年文庫というところ、筑摩書房から出てたんですけど、姫田が亡くなった後に再版しまして、姫田が書き下ろした最初の本です。これもあと2冊。1500円。(阿部 でも書店に注文すればあるんですよね)はい。
◆阿部 民映研でも取り扱っていらっしゃいますよね。
◆姫田  はいそうです。「はる書房」というところで検索していただけます。まあ、これはアマゾンでも買えますけど。
◆阿部 パンフレットはすごく販売率が良くてですね、だいたい3割ぐらいのお客様が買って行かれます。だいたい映画のパンフレットって、1割弱なんですけど、でもこのパンフレットはすごくよくできていますし、やはり映画の中を深掘りしてますので、これで1000円だと非常に安いですので、お買い求めいただければなと思います。
 本当に僕自身ナビゲーターうまくいかなくて申し訳なかったんですけれども、時間になってしまったので、この辺でお開きにしたいなと思っています。この後はですね。カフェ・ド・ロゴスという市民対話サークルの方々の主催によるお話し会をやるんですけども。その件について主催者の荒川さんから。
◆荒川信一 皆さん、こんにちは今ご案内ありましたけれども、カフェ・ド・ロゴスということで、この映画で語り合おうというイベントを企画しておりました。場所は如春荘というところで、県立美術館の方へ歩いて10分かかんないくらいのところに、昭和チックな古民家なんですけれども、そこで語り合う会を企画しておりました。
 そこにですね当初、阿部支配人に来ていただくことを思っていたところに、今いらっしゃった姫田蘭さん、それからですね福島大学の准教授であります林薫平さんをお招きして、この話の続きを聞かせていただけるというふうになりました。林先生につきましては、宮本常一との関係を語っていただくというふうに聞いております。
 時間なんですけれども、SNS等では1時半と告知しておりましたが、時間が押してきましたので2時からということで、今までお知らせしていた時間30分遅らせて2時からの開始としたいと思います。入場無料・予約なしで結構ですので、ご都合が合えば来ていただければと思います。以上です。よろしくお願いします。




映画「越後奥三面―山に生かされた日々」を語る会

2024-06-01 | 映画系


【鑑賞作品】「越後奥三面―山に生かされた日々」
上映時間・145 監督・姫田忠義 監修・デジタル版 小原信之/姫田蘭 進行・デジタル版・今井友樹/遠藤協
【上映期間・フォーラム福島】6/28(金)~7/4(木)予定
【語り合う会】6月30日(日)14:00~16:00【開始時間を変更しました】
【ゲストトーク】
姫田 蘭 氏(民映研理事)
阿部泰宏 氏(フォーラム福島支配人)
林 薫平 氏(福島大学食農学類准教授)

【会 場】如春荘
 ※あらかじめフォーラム福島で本作品をご覧になってから如春荘へお越しください。
【カフェマスター】荒川信一


 新潟県北部、朝日連峰に位置する奥三面。狩り、漁、採集、田畑・・・縄文の時代から連綿と続く、山とともに生き山に生かされてきた人々の暮らし。
 その奥三面がダムに沈むまで、映像作家・映像民俗作家の姫田忠義ひきいる民族文化映像研究所が執念もってフィルムに残した記録映画です。
 熱い思いで本作の上映を実現したフォーラム福島支配人:阿部泰宏氏をお迎えし、その思いやこの映像の価値をお聞きしながら、参加者みなさんでこの映画をテーマに語り合いましょう。

【作品紹介】
(C)民族文化映像研究所
新潟県の北部、朝日連峰の懐深くに位置する奥三面(おくみおもて)。人々は山にとりつき、山の恵みを受けて暮らし続けてきた。冬、深い雪におおわれた山では、ウサギなどの小動物や熊を狩る。春には山菜採りが始まる。特にゼンマイ採りは戦争とよばれるほど忙しい。そして慶長2年(1597年)の記録が残る古い田での田植え。夏は、かつて焼畑の季節だった。川では仕掛けやヤスでサケ・マス・イワナを捕らえる。秋には、木の実やキノコ採り。3万haに及ぶ広大な山地をくまなく利用して生きてきた奥三面がダムの底に沈む…。
40年前まで確かに存在した山の暮らし。その喪失と記録が現代に問いかける記録映画の金字塔がデジタルリマスター版で蘇る。(1984年9月21日、日本初公開)

【予告編・フォーラム福島URL】
https://www.forum-movie.net/fukushima/movie/5734

映画『差別』を福島で見る会

2023-04-29 | 映画系


日時】2023年6月24日(土) 16:30~18:00
【会場】如春荘(福島市森合台13−9)
【入場料】 無料
【参加申込】当日参加もOKですが、可能な限り参加希望のメッセージをお送りください。
【飲食物】各自でご用意ください。

【予告編】『差別』

高校無償化の適用を国に求めた朝鮮学校の裁判を記録したドキュメンタリー映画『差別』が、6月23日より1週間、フォーラム福島で上映されます。
6月24日(土)13時の上映後は福永玄弥さん(東京大学准教授、フェミニズム、クィア研究)のゲスト・トークがありますが、その場だけでは話たりないという方々のために、如春荘にて16:30~18:00に対話の場を設けます。
この映画が扱う裁判運動の中で多くの在日コリアンの若者たちが悔しい思いをしたことを、私たちはどれだけ知っていたでしょうか。
政治の事情で多くの子どもたちの教育の機会や民族の多様性を奪う社会であってはならないでしょう。
世界中で「寛容」という考え方が見直されている今日、私たちの社会を見つめ直す上で大切な作品です。
ぜひ多くの皆様にご覧になっていただいた上で、この問題にどうこたえるか一緒に語り合いましょう。
当日参加も自由ですが、できる限り参加を希望される方は「参加希望」をお申し出ください。

第14回エチカ福島開催中止のお知らせ

2020-02-29 | 映画系

大変残念ながら、この度のコロナウィルス問題の影響を鑑みまして、3月14日にフォーラム福島にて開催予定でしたエチカ福島開催中止をお知らせ致します。
長時間にわたる映画上映とトークイベントは、健康面で配慮せざるを得ないと判断いたしました。
ゲストにお招きする予定だった映画『水になった村』の大西暢夫監督をはじめ、上映にご協力いただいたフォーラム福島様には多大なるご尽力をいただきましたが、このような結果となってしまいましたこと、誠に残念というほかありません


なお、映画自体は予定通りフォーラム福島にて上映されます。
故郷を失う意味を考える上で、たいへん貴重で興味深い映画です。
是非ご覧にただければ幸いです。
いずれ、エチカ福島ではこのテーマを追求するとともに、何かの形でで再度大西監督を招くチャンスを考えたいと思います。
引き続きよろしくお願い申し上げます

ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』を映画館支配人と読む会・まとめ

2019-10-06 | 映画系

今回は、「あの」フォーラム福島の阿部泰宏さんをゲスト講師に招いてのベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』読解が開催されました。
ベンヤミンは難しい。
文章そのものを追うことはできても、いったいそれがどのような意味をもつのか具体的な文脈において読まない限り、何度読んでもチンプンカンプン。
こんな悩みを抱いていたところ、阿部さんが福島県立医大で映画論講義を行っている話を思い出し、矢も楯もなくその講義をベースにしたお話を聞かせてほしいと、とてもわがままかつ贅沢な企画を無理にお願いしたという経緯がありました。
阿部さんの映画論の該博さは周知のことですが、以下そのお話のまとめたいと思います。


 まず、芸術概念の歴史的変遷過程の解説から始まりました。
13世紀の中世大学におけるリベラルアーツへの発展から20世紀につながる「芸術」概念の変遷についての解説の中で、とりわけ興味深かったのは、二度の大戦を経た後、人類の存続そのものを脅かしかねない危機的状況のとば口にあることを知ってしまった段階において、文芸・芸術は政治意識の反映としてあるべきだと、サルトルのアンガージュマン、ブレヒトの異化効果が生まれてきたという点でした。そして、ここが阿部さんにとっての映画論、あるいはベンヤミン読解の肝ということになるのです。
以下、阿部さんのお話の展開をそのまま記録しましょう。

映画はフィルムという材料を使い、フィルムのコマを連鎖的につなげて映写機に投射するモーションピクチャー(動画)という科学技術を用い、成立する。これが当時の芸術家や知識人に意識変革をもたらした。映画が一対複数で観ることができるようになると根本的に文化が変容、このあたりからメディア論が生まれる。グーテンベルクの印刷術が出現した当時の人々や日進月歩のデジタル革命時代の今日に生きるわたしたちと同様に、自分の家や町にいながらにして、世界中の人種・習俗や政治背景を見ることができてしまう映画という文化が短期間のあいだに膨張していくことに、知識人や芸術家は期待と同時に、危機意識をもった。
 とくに、演劇人のそれは大きかった。演劇は生身の人間が舞台で演じるものだが、映画はカメラを使う。それによって、モンタージュ(編集)ができる、クローズアップ(接写)やトラヴェリング(鉄道レールのようなものにカメラを載せ、たとえば、疾走する騎馬隊と平行移動しながら横移動撮影したり、クレーンを使った俯瞰撮影をしたり)など、さまざまな撮影技術を駆使して、自由に、人間の機能を飛び越えた画面が得られた。たとえば、人の目は一点にしかピントが合わないようにできている。しかしパン・フォーカスという撮影技法は画面の手前も奥も均質にフォーカスを合わせられる。すべてがクリアであり、これが人間の視覚では得られない映像を映画は見せていることになる。今日では4Kや8Kなどは、現実では「見えない」産毛や汗まで映しだしてしまうように。このような映画を眼前にして演出家はとまどっていた時期に、映画監督のアベル・ガンスなどは手放しで映画技術時代に熱狂し、批評家のリチョット・カニュードは、それまで大衆を堕落させる低俗文化だといわれていた映画を全く新しい「第七芸術」と位置づける。

 ここから、阿部さんによる『複製技術時代の芸術作品』極私的解釈についてのお話が、5つの論点に分けて語られていきます。

≪論点1≫「〈複製〉ということについて」
ベンヤミンはファシズム台頭と情報メディア革新の時代で、複製技術としての映画が秘める功罪を如実
に予感していた。複製と聞いてわたしたちが思い浮かべるのはまず、紙のコピーだが、コピー機による複製も今や前時代的になっている。それどころか「今日、複製の概念は生命にまで及んでいる」(多木浩二)。複製技術時代というよりも「再生」、「増殖」技術時代と形容すべきではないか。

≪論点2≫「アウラの喪失がもたらすアンヴィバレンツ」
 ベンヤミンによれば、一回性(オリジナル)、所有関係(伝来の正統)、『いま、ここに』という場所性、それらすべてを伴った歴史的証言力が、複製技術によって失われる。それをアウラの消失と定義づけた。あるいは、それまでの芸術の礼拝的価値が展示的価値に転換した、とも指摘している。

(その展示的価値という概念理解につながる、オリヴィエ・アサイヤス監督の映画『夏時間の庭』の一部を視聴)

映画の内容はこうだ。フランスで有名な画家が亡くなって久しい。残された妻は、夫との思い出がつまった家や家内のおびただしい美術品を守ってきたが、自分の余命もいくばくもないことを予感、そして成人している三人の子どもたちに、家や美術品を寄贈するなり売るなり自由にしなさいと言い遺す。つまりこの映画は寄贈とは、美術品とは何か、ということを描くユニークな作品なのだ。さて、それぞれの子どもたちは思い出のある品々を整理したくはないけれど、それぞれに人生が、家庭があり、経済的にもお金が必要だ。きょうだいは話し合い、美術品はオルセーへ寄贈、ないし家は売却することを決心する。

(ここで、かつて亡父が使っていたマジョレルの文机が、美術館に展示され、その脇をギャラリーが通し過ぎていくさまを、複雑な思いで見ている長男の場面を観賞)

 ここは家族の生活の中で実用されていた家具が、家の中にあって当然の、空気のようだったモノが、ある日突然、芸術として展示されることに違和感を覚える、という場面だ。家族の歴史のつまった思い出の品が、家族の側にしてみると、展示されることで「思い出」というアウラが失われるというもので、ベンヤミンのいうアウラ、芸術の展示的価値とはどうことか、をさまざま考える上で格好の場面となっている。
 この映画は、オルセー美術館が開館20周年に合わせ、アサイヤスに発注した記念製作映画であるにもかかわらず、果たしてオルセーが喜ぶ映画なのかという出来栄えになっている。美術館は美術館でその限界というものをわきまえているし、とはいえ美術品は美術館に寄贈された以上はその由来を、歴史を語り継がねばならないという倫理意識も示されている。監督のアサイヤスは、もともとフランスで最も権威ある映画批評誌カイエ・デュ・シネマのライターから監督に転身した人で、独特の視点を持った映画作家で、彼には駄作が一本もない。


≪論点3≫「ベンヤミンの執筆動機」
「政治を美化しようとするあらゆる努力は戦争という一点に帰結する。戦争、ただ戦争のみが、現在の所有関係に触れることなく、大規模に大衆運動に目的を与えうるのである…」(『複製技術時代の芸術作品』からの引用)
この「あとがき」からは劇作家、ブレトレト・ブレヒトの政治的影響が色濃く見て取れる。

(ここで、ストローブ=ユイレ「アンティゴネ」の一場面を視聴)

 この映画にはブレヒト、ヘルダーリンが関与している。実はベンヤミンはブレヒトと盟友であり、確執もあった。ブレヒトからベンヤミン、ストローブ&ユイレと、三者を結ぶのが「アンティゴネ」。
「アンティゴネ」は紀元前440年ころの、ソフォクレスによるギリシャ悲劇。「アンティゴネ」は善悪、男女、王と家来、父と子といったテーマを包含した哲学的・道徳的テキストで後世、さまざまな人が翻訳している。もっとも決定的だったのはヘルダーリンの翻訳だった。ヘルダーリンはヘーゲル、シェリングの同時代人。彼は30代半ば以降、統合失調症になり以後、亡くなるまで約40年間、塔のなかで閉じ込められたまま生きた文学者。隔離される直前に書いたのが、「アンティゴネ」翻訳だった。
 アンティゴネはオイディプス王の娘。アンティゴネは、実の兄弟が相争って死んだ際に、オイディプス王に代わって国を治めていたクレオン王が、国のために戦死した兄を顕彰したのに対し、私怨で戦死した弟は野ざらしにするという差別的な処分をしたことを激しく非難。弟を埋葬しようとして死刑を言い渡される。
この映画のタイトルが「ソフォクレスの「アンティゴネ」のヘルダーリン訳のブレヒトによる改訂版」と書かれてあり、つまり紀元前440年ごろのソフォクレスの原典を、2200年後にヘルダーリンが訳し(1804年ごろといわれる)、それをブレヒトが気に入って1947年に改訂している、そのブレヒトに傾倒していたストローブ&ユイレが1991年に映画化。つまり、2000年にわたる一つの筋がこの映画から見えてくる。
共通しているのはアクチュアリティ。
2000年も経ってなぜ「アンティゴネ」が読まれているのかといえば、いわばソフォクレスの時代というのは戦乱に明け暮れた時代、ヘルダーリンの時代はフランス革命後の不安定なドイツ、そしてブレヒトはナチス時代を生きた。つまり圧政という時代に人はどう生きるべきか思い悩むのだけれど、そういう哲学的な葛藤に陥った人にとって、このアンティゴネのテキストは非常にアンヴィバレントな問いを突きつけるのだ。
クレオンとアンティゴネの対立というのもよく読むと非常に面白い。
クレオンはクレオンで倫理的である。いわゆる国家を統治する王の立場としては秩序を乱した弟を許すことはできないし、一方、国家のために死んだ兄は立派な死に方だったととらえる。しかし、アンティゴネは違う。死んだ人は両方とも平等に埋葬しなければいけないと考える。この二人のボタンの掛け違いが悲劇を生む。いわば愛なのか組織なのか。倫理なのか秩序なのか。
この映画をなぜ取り上げたかというと、ストローブ=ユイレ(*事実上の夫婦で、連名表記が監督名のクレジット)は、フランスとドイツ国境に接するアルザス・ロレーヌ地方の出身。ジャン=マリー・ストローブはアルジェリア戦争を徴兵忌避したことで、11年間フランス入国を拒否された筋金入りの人道主義者。ストローブ=ユイレの映画は政治的・哲学的・美学的にとにかく興味深い。彼らの映画には、立ち上るアウラがあると思う。ベンヤミンも映画が好きで、デンマークの映画作家カール・テオドール・ドライヤーの傑作「奇跡」に言及している。やはりストローブ=ユイレのようなストイックな画面構成で、これも間違いなく一つのアウラが立ち上っている。
 つまり、一回性というものやオリジナルものではない映画のなかにもアウラが感じられるということは、ベンヤミン後の映画監督たちは無意識にそれに挑戦していたともいえる。

≪論点4≫「映画とアウラの関係性」
 ピカソを見ても専門知識を受けた学芸員の説明を受けないと理解できない。けれど、チャップリンの作品はそうではない。つまり、みんなが評論家になれる。それをベンヤミンは、映画は一般大衆を専門家や評論家にしてしまうのではないかということを述べている。
「映画館のなかでは観客の批判的態度と享受的態度…」
映画のオリジナルは、ネガだ。ネガから複製した、たくさんのポジフィルムが世界じゅうの映画館に配給される。だが、われわれにとってはネガもポジも画質に違いはなく同じに見える。つまり映画をフィルムという物質で捉えると、映画にアウラはそもそもないことになる。しかし、映画を空間と捉えた場合、映画の中にアウラが現出するかもしれない。そこは映画監督の腕の見せどころだ。さらに、その現出したアウラを、魔術的に礼拝的に再現できるのは映画館ということになる。映画館の闇だけである。フランス文学者で映画批評家の蓮實重彦氏は、かつて映画を見る場所は映画館によって決まるといっていた。映画館といえど、ちゃんと闇を確保していないところもある。彼は昔の映画館はよかったといっていた。猥雑ではあったが、二階から人が落ちてくるくらいの闇。映画の闇に照らし出されるスクリーンの中にこそ、映画のアウラが知覚されるのだ。今の映画館で闇が確保されているかといえば、消防法やユニバーサルデザインなどの制約上、かつてのようにはいかない。さらにもう一つ言えば、矮小なスマホなど高精細画像によって、映画のアウラは現出されうる状況が生まれている。動画配信サイト、ネットフリックスの「ROMA」は、スマホで観れるわけがないだろうと思っていた。あのパン・フォーカスや文学性は映画館のスクリーンでなければ観客は集中度を保てないはずだ、と思っていたが、観れてしまった。映像から喚起されるアウラは映画館だけの特権ではなくなりつつあるのでは、と脅威に感じる。では、映画館にまだ残されたアドバンテージは何か?それは「集団の反応」である。集団の中で見、まわりの反応も含めた五感で感じ取る何か。そこから生まれる説明不能な集団で映画を観ることでつくりだされる反応が、一つのアウラだといえる。「集団の反応」は個人の部屋では望めない。ベンヤミンがいう「遊戯空間」とはこうしたことではないか。

≪論点5≫ ゴダールが仄めかす、新たなる〈複製〉概念
 かつて淀川長治は「ゴダールは映画を破壊した人だ」といった。「映画は大衆がわかるものではなければいけない」とも。とはいえ、映画の前衛と知の部分の最前線をひた走るゴダール。彼は80歳を過ぎた今もなお、ますますラディカルに映画をつくりつづけている。ジャン=リュック・ゴダールは、1950年代に起きた映画の革新ムーヴメント、ヌーベルヴァ―グの中心人物だ。映画は撮影所システムの下、大がかりなセットと集団でしか制作できないと思われていた時代に、主に映画批評をしていたパリの若者たちが、手持ちカメラをもって街々に出、演技や撮影術の修練を受けなくても映画は撮れると示した。ゴダールは、そのヌーベル・ヴァーグの中心的人物だった。彼は「勝手にしやがれ」「気狂いピエロ」で華々しくデビューした後、70年代に地下活動的な映画製作にふけったのちにふたたび80年代、商業映画シーンに復帰する。そのときにゴダールが試みたのは、フィルムからヴィデオに「変節」することだった。音楽がすでにコンサートから個人に部屋に移り、映画もまたヴィデオが現れ、個人が機械で自由に操作できるようになった。つまり、途中でストップをかけたり、巻き戻したり、飛ばしたり、観る側が恣意的に作品を取沙汰できる時代に、シネアスト(映画作家)はどうふるまうのかとなったとき、ゴダールはヴィデオにいったのではないか。彼の独自の映画文法ソニマージュ(Sonimage、Son(音)とimage(映像)の融合、を意味する造語)の実験の時代だ。

(「マリアの本」「ゴダールのマリア」の一部を視聴)
「マリアの本」は14分の短編映画で夫婦仲が悪くなった夫婦が別居することになったことに動揺する少女の物語だが、その少女の心象風景に突然鳴り響いたかと思えば、寸断される音楽や微妙にぎこちなくずれるシークエンスのつなぎなど、「異化」的な演出方法で観客を幻惑させ、はっとさせることで、メロドラマの新しいナラティブ(物語り方)を試みている。ゴダールは文学や音楽に精通した博覧強記のインテリだ。彼はあえて、さまざまなテクストやクラシック音楽をぶつ切りにして挿入する。
なぜ、ゴダールはこういう映画文法を採るのか。それは、映画はもはや、観客が映画館の中でちゃんと端坐して2時間、3時間なり、じっくりと起承転結のドラマを見ているといったありようではない、時間的なゆとりもない時代がやがて訪れる、だったらゴダールはぶつ切りにされ寸断され止められ、あるいは物語が解体されるなかでなお耐えうる構造の映画を作る、未来の映画を撮ろう、としているのではないか。途中、どこから見ても、順逆が入れ替わっても、物語が成立する映画を実験的にやっている。これがいわゆるソマニージュであり、ゴダールのゴダールたるゆえんだと思うのだ。
 ゴダールのやりかたはまだまだ理解されていないけれど、前衛というものが50年、100年経ったときにスタンダードになるのが芸術の世の流れだとすれば、もしかしたら50年後100年後の観客はこういうものをふつうのドラマとしてみるのかもしれないと、一つの反問を観客に投げかけている。

(ストローブ=ユイレ監督作品「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」の一場面を視聴)

 ストローブ=ユイレに戻ると、この「アンナ・マグダレーナ・バッハの日記」は映画にアウラを現出させた、最たる成功例なのではないかと思う。これを観たときはものすごい衝撃だった。
ストローブ&ユイレがここでやっているのは、完全にバッハを再現すること。当時の楽器を使い、オルガン奏者のグスタフ・レオンハルトがバッハに扮し、パトロンだったケーテン侯もアーノンクールという音楽家が演じている。バッハの生涯と人物像を、二番目の妻アンナ・マグダレーナの日記から読み解くが、彼女のモノローグと演奏シーンのつなぎで構成されるバッハのこの「伝記映画」に驚かされるのは徹底したリアリズムというか、ストイシズムというか、ストローブ=ユイレの完全主義が見て取れる。この映画そのものがアウラではないかと思うぐらいだ。

最後にまとめとして、ゴダールの言葉を引きたい。
「以前にはこんなことは起こりようがなかった。戦争のためだったり、たくさんの映画を見る機会がなかったり、批評の状態のせいだったり、その後にも本当は起こりはしなかった。理由は単純なことで、見るべき映画、追いかけるべき映画がいきなり膨大になって、映画史はこんな風に巨大な遺産と化したわけだ。というのも60年代になると4つか5つの映画大国の映画のみばかりか、世界中の映画が見られるようになったからだ。今どきの20歳か25歳ぐらいの人だったら、シネマテークに10年も15年も通い詰めでもしなければ、見たことがなかったものを追いかけ、それだけでなくさらに一つの軸を手にして、そのまわりに自分自身の歴史を組み立てて、君たちを含めた誰の後ろに自分が連なっているのかを知り、自分のことはそれとの兼ね合いで決めなければならないとわかるようになるのが無理であるのは、言うまでもないことだ」(「映画史」2A・映画だけが…より)

 これはゴダールが「映画史」という映画の中でいろんな哲学者や文学者、画家、過去の映画作家のさまざまな場面をコラージュ風にちりばめながら、自らの著述を画面の中にさしはさむ長大な作品の中の述懐だけれども、ここに映画を観ることの歓び、ダイナミズムが表象されている気がする。
あるいはボードレールのことば。

 「私たちは旅をしたいのだ、蒸気もなしに、帆もなしに!お願いだ、われらの牢獄のアンニュイを紛らわすため、カンヴァスのようにぴんと張られたわれらの精神の上に、地平線を額縁にした御身らの思い出の数々を過(よぎ)らしめよ。話してくれ、何を見たのか」  (『悪の華』所収「旅」より)

 これを映画になぞらえると、映画の無限の可能性を感じてしまう。
ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』を書いた30年代、40年代というのは、映画が人々の生活の中でプレゼンスを強めていった時期だった。だが一方でこの映画をどう受け止めていいのか。娯楽なのか、メディアなのか、芸術なのか、どれにもカテゴライズすることができなかった時代に、多義的な感性で受け止めようとしたベンヤミン自身の心の揺れ動きを半ば迷走しながら矛盾しながら定義しようとしたのが本書であり、我々の時代における「ベンヤミンにとっての映画」とは何か、それを考える契機となるテキストなのではないかと考える。


とても重厚かつ濃密な阿部さんの映画論に、参加者一同魅了されっぱなしの2時間でした。
実は、大学の講義では学生さんに興味を持ってもらえなかったエピソードをお話のあいだにさしはさまれたのですが、一同まったく眠くならない映画論に至福の時間を過ごすことができました。
きっと、その学生さんたちも、年齢と経験とともにその深みを理解してくれるのではないでしょうか。
実際の映像資料が用いられたことで、より深くベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』を理解することもできましたし、ベンヤミンの問題提起を超えた現代の映画論についてお話を聞かせていただいたことは、まさに大学の講義そのものでした。
思想とは、まさにこうした生活の中から解読されるべきものであることをあらためて学ばせていただきました。
お忙しいところ、レジュメや機材まで準備して下さった阿部さんには心から感謝申し上げます。
こうした福島の力人文知を開拓していく可能性をあらためて感じさせていただけたことに無上の喜びを感じます。(文:渡部 純)





ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』を映画館支配人と読む会

2019-08-31 | 映画系
 

【テーマ】ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』を映画館支配人と読む会
【ゲスト講師】阿部泰宏さん(フォーラム福島支配人)
【日 時】10月5日(土)15:30~18:00    
【会 場】PNTONOTE(ペントノート)
     福島市上町2-20 福島中央ビル2階

【申 込】 要申込(参加希望者はメッセージをください)
満員御礼m(__)m申込受付を終了させていただきます
【参加費】会場費300円(会場使用料&講師交通費込み) ※ドリンクは各自でご購入ください
【カフェマスター】渡部 純
【開催趣旨】


ヴァルター・ベンヤミン。
このユダヤ系ドイツ人思想家の名は、よほど人文系に通じた人にしか知られていないでしょう。
しかし、現代思想と呼ばれる著書を読めば、そこかしこにこの名前が登場するのです。
では、いったいベンヤミンとは何者なのか、その思想とはいったい何かと問われればその答えに窮します。
しばしば目にする彼の肩書は「文芸批評家」というものですが、これは彼の書くものの重厚さからすればいささか軽すぎる気がします。
かといって「哲学者」と呼ぶには、その多領域にわたる思考と文体の自由さと相いれない気がします。
ベンヤミンの友人であったハンナ・アーレントは彼を「最後の文人(homme de lettre)」と評しましたが、これがもっとも秀逸な表現のような気がします。
今回のカフェロゴでは、そのベンヤミンの映画論である『複製技術時代の芸術作品』を映画館支配人である阿部泰宏さんをゲストに読み解いていきたいと思います。
本作品は映画という複製技術によって近代人の知覚にどのような変化をもたらしたのかという分析から、資本主義や歴史認識を探る方法として論じられたものです。
と、まぁこういう難しい議論は後回しにして、阿部さんによる映画解説からベンヤミンの意図を読み解いていただきながら、参加者同士でわいわい映画と近代を読み語ろうというのが開催趣旨です。
阿部さんが当代きっての映画通文化人であることは周知のことですが、重要なのはアカデミシャンではない市民の現場感覚から現代思想を読み解くということです。
この可能性を切り開く場としても多くの方々にご参加いただければ幸いです。(文:渡部純)

映画『愁いの王―宮澤賢治―』を観る/語る会―マスターの書簡

2019-07-17 | 映画系


※フォーラム福島の阿部泰宏さんが毎日新聞のコラムで『愁いの王』について書いて下さってます。

(※今回は映画上映を企画したマスター深瀬の吉田監督への謝辞と感想と感想をもってまとめとさせていただきます。)

吉田監督
福島の深瀬です。一昨日『愁いの王』上映会を無事に終えました。超満員でした。福島でも、当日券を求めて来られて結局観ることができない方が何十人もいらっしゃったそうです。映画の後の言論カフェは、めずらしく僕の妻も参加したのですが、活発に行われました。これは悪い意味ではないのですが、兵庫から来てくれた東北農民オケの仲間は、理解することの難しい、特に宗教家としての賢治を少しでも理解するためにこの映画を観に来たが、ますますわからなくなった。これからまた勉強しようと思ったと言っておりました。観に来てくれた古い友人は翌日に次のようなメールをくれました。
昨日の映画は 不思議に心に残りました
私は 賢治の人生で あれだけ賢治を突き動かした日蓮宗の精神…というものが ほとんど分かっていないのです
家は日蓮宗で おじいちゃんは 毎朝小さな仏壇に向かって静かに御経をあげていました 私の記憶の中のおじいちゃんは もの静かで優しく いまでも日向のようなあたたかさを感じさせる品のよいひとでした
おじいちゃんとあまり話をした記憶はないのですが (私はおばあちゃんとばかり話していたので…)おじいちゃんがなくなった時の悲しさは 生まれて初めて感じた深い悲しみでした
私と違って記憶の良い兄が おじいちゃん
と仲良しだったので 今度おじいちゃんの話を聞いてみようと思います
日蓮宗は 先祖代々ではなくおじいちゃんが信じていたものだったのでしょうか
この宇宙とまっすぐにつながる真理が日蓮のたどり着いた世界だったのでしょうか
賢治は そう思ったのでしょうか
父の政次郎さんは 信仰と現世の折り合いをつけていて 賢治の目からは 真宗そのものが 欺瞞と感じられたのでしょうか
地震 津波 冷害 凶作…家族を救うために身売りする娘さんの絶望…そうした現実世界を 日蓮の教えを胸に 変えなければと 生涯をかけたのが賢治だった
自分の守られた生活を捨て 健康を顧みず 命のかぎり 自分のできることをしようとしたのが賢治だったのか と思います
生き物の命をいただいて生きる その申し訳なさ有難さ
自分だけ守られた生活のなかで安穏と 他のひとの苦しみを 見てみぬふりはできない
やはり 賢治は 釈迦のようなキリストのような人だったのではないかしら
賢治が国柱会を離れたのは 『なんとか学会』のように組織に安住し組織が自己目的化ていることを知ったからではないかなぁ
一晩寝たら あの映画が素晴らしかったことが分かりました
あの中で 何度もでてくる十字架は 何のエピソードから出てきたんだったかしら 分かったら教えてね
賢治の童話また読んでみます。
(引用終わり)
映画の中にイエスが現れる場面が二度あります。また、波打ちぎわに十字架が立てられ、突然死した若い女性の墓もまた十字架です。ロシア正教会のものとも思われる十字架も出てきます。そもそもこの映画全編に流れるのはバッハはプロテスタントです。しかしバッハはロ短調ミサというカトリック音楽も書いていますね。
テクストは作者の手から離れた瞬間に、それを受け取る側の読みは任される。テクストは読みに開かれている。
文学テクストであろうと映像テクストであろうと。その意味で、監督が全て素人の出演者に対して決して演技をしないこと、感情を込めないことを原則とし、カメラもあえて固定カメラのみで技法を全く使われなかったことには意味があると思います。素人を使ったことも、素人に対して演技はするなと要求したのも正解だったと思います。固定カメラも個人的にはよかったです。あれで上手なプロの俳優が情感たっぷりに演技したり、カメラがチョコチョコ動いたりしたら、むしろ平板な、つまり様々な解釈に対して閉じられた作品になったかも知れません。
例えば一枚の絵のように、絵はすぐには何も語りませんが、ゆっくりそれも自分だけに語り始めるように、この映画は僕の心の中で語り始めています。深瀬