宮前:
今日、持ってきた児童の感想文の中にですね、「てにをは」が全くできない子がいるんですよ。文章を見るとおかしいねって。でも、それを竹二先生にそのまま送ったということです。つまり、それだけ熱量があるっていうことですよね。子どもにとってね、「てにをは」なんかそっちのけで、今日良かったっていうところを表現したんですよね。そういうことができたということですね。子どもたちに感想を書いてもらって最初見たときね、こんな感想書いてって思うと、恥ずかしくて送れないと思ったんですよ。正直言ってね。だって、後からも読みますけども、林先生と宮前先生に比べて一番最初は読みましたけど、別なことも別な形で書いてるんですよ。つまりね、林先生の授業を受けて、一番見てたのは私のことなんですよね。いつも授業をやってくださってる宮前先生と林先生の違いをビシッと捉えて書いてるんですよ。いや、もうね、この感想を読んだとき、林先生に送りたくないっていうのがまず一番最初の私の気持ちだけど、子どもたちの正直な気持ちを書いてるわけ。うん、これを送らないっていうことは絶対できない。だから送りました。そしたら、それを読んで、「宮前さんありがとう、その感想を私のところに送ってくれて本当にありがとう。これから丁寧に読んで私も子供たちの気持ちを払います」という感想を書いてくれたんですよ。
実はですね。そうなんですよ、寝てる子もいるんですよ。実際、私も大学で仕事をしたりしたからなんですが、実はこういう経験をしたから、毎時間授業の感想を書いてもらった。大学生だから、高校生に書いてもらっていいんですよ。つまりね、共同授業で、どんなことが心に残ったのかな、あるいは先生に対する注文あったら書いてって。それを読むとね、やっぱり自分がね、変えなくちゃなんないこといっぱいあるんですよ。さっき学ぶっていうことは、子どもの問題意識、あるいは子どもの問いっていうものが生まれなくちゃ駄目だっていうことをお話したんですけど、実は目の前の子どもが学んでるか学んでないかなとわからないですよね。
何についてこの子はやってるのかな、何を考えてるのかなということを様々な角度から見る自分の手立てっていうのを、自分なりに持たないと駄目だと思うんです。私は、この子どもたちが感想文を通して、自分を見つめることができるっていうことで、それ以来その子どもたちの感想っていうのもすごく大事やってます。だから先生もね、寝てる子も多いんですけど、寝てる子が何を書いてるのか、どうしてこういう感想を書いてるのかなと。これね、ぜひやってみてください。
さっきもお話したように、林先生に送りたくないなと思った感想がたくさんあるんですけど、ある子どもがこういうことを書いていました。「林先生が大学の学長だと宮前先生から聞いていたので、白いひげをピンとさせて気難しいような人かなと思っていました。林先生に会うまでは、林先生の前で間違ったらどうしようというような心配がありましたが、あったら心配がいっぺんに消えてしまいました。それは林先生がとても感じが良くて、優しそうな先生だったからです。宮前先生が転任してきて、僕たちと初めて会ったときは、優しそうなふうには見えませんでした。やっぱり林先生は偉いんだなと思います。ありがとうございます」。
こういうね、短い文章でズバリ書いてある感想を読むとね、いくらね、かっこいいことを喋ったっていくら子どもたちね、受けるようなことを喋ったってやったって、子どもたちは、もう見透かしてるんですよね。だから、だからそういう自分のやってることを子どもたちはどう受け止めてるかっていうことは、何らかの形でちょっと教えてもらう。すごく大事じゃないかなと思います。
さっき●●先生も林先生の子どもを見る眼差しのことをちょっと話されてました。実は、優しそうな先生だっていうことを感じ取ったのは、林先生も僕たちに向けてる眼差しなんですよ1人1人のことを見て、それでできるだけわかりやすい言葉で喋らなくちゃなと思って、そういう心遣いまで感じ取って、優しそうな先生で安心した。宮前先生よりずっと言ってもうズバリね、もう私なんかも見透かされてる子どもたちは教室で、その教師の話を様々な気持ちで聞いてますから、その子どもたちの本音の部分をね、ちょっとでもいいから探ってみるっていうことも私は大事なことじゃないかなと思います。
参加者F:
今の宮前先生の話にくっつけてなんですけど、今日の映画もちょっと気分良くないなって思って。さっきの宮前先生の話もつまんねぇなと思ったのもあるんですよ。それは何かっていうと、何でこんな素晴らしい人たちが、林竹二先生を大学の立派な先生だって子どもにすり込んで授業するのかな。宮(前)ちゃんも●●ちゃんも、みんな同じなんですよね。なんで林先生が来る前に「こんな素晴らしい先生来るんだよ」ってなっちゃうと、高校生にも関わってきたし小学生も大学生も関わってきたけど、特に小学生の子って本当いい人なんですよ。だからその場の空気を読んで、一番ここでこう発言したらみんな喜ぶよねって発言しかしないんです。だから、はっきり言って、あんまり当てにしてないです。私は子どもに書かせるのは信用できないんです。
ある意味でこの次なんですよ。私、今まで何度も宮前さんに言ってきていることを彼は無視して今日話したんですけど、林竹二先生のことを忖度して子どもたちはあんなふうに書いたんであって、宮ちゃんが駄目だってなんか全然思ってないんだよ。宮前先生の素晴らしい学級経営の上に立った林先生が授業してたにすぎないよって、そう思いますよ。
みんな、いや本人もわかってるけど、謙虚に言ってるのかもしれないけども、なんかね、あんまりね、そういう人たちを持ち上げ過ぎちゃうと話の論点がボケてきちゃって、やっぱり子どもたちが宮前先生よりもあっちがいいよねって言えるくらいの風通しの良い関係を、宮ちゃんは作ってきたっていうことは、私はすごいことだと思うよ。そういうふうに私は話してたんですけどどうでしょうね。
参加者L:
今、先生がおっしゃったように、林先生御自身、「いかに宮前君っていうのは、子どもに信頼されて、もうね、心が通い合ってる先生がいる」とおっしゃっている。学級経営にだって言いますし、それから、これ確か、「ビーバー」を受けて、「アマラとカマラ」を受けて「開国」ってやっぱりな、なんかやんちゃそうなね、特徴ある、あるんでやっぱ3年間いますし、それが久茂地小学校には、安里先生ってすごい教育熱心な校長先生もいらっしゃって、その方も、その林先生、心酔してる。やっぱり、そのもとで授業研究がですね、湊川のことで、だけど、林先生ね、やっぱかなり生徒と湊川で通じ合うので、水入らずでやぶっていうふうにやったら見事に失敗し、それはそ『教育の再生を求めて』に載っています。「私の実習記」っていうところにあって、もう子どもがね、騒いで全然いうことを聞かない。それが「開国」についても、これはちょっと別件のところで林先生変わったよね。そんな昔話は聞きないって言われたんで。
ただ、林先生ただもんでないのは、そこで生徒に言われたので、何とかね昔話じゃないようにっていうことで、それである意味でさっき話題になってましたね、田中正造ですね、そういうある種リベンジをして、やっぱ田中正造の授業ってのは相当生徒たちに入っているので、だからそれを林先生は心得ていて、結局あの、通常のですよ、通常のやっぱり学級経営があっての話だっていうことでやっぱり林先生は、いかに本当に湊川の先生方っていうのが、もう厳しい状況でね。あるのに対しても生徒指導もすごいやってるんで。そういうところにね、うん。やっぱりどっかで自分が傲慢だったっていうことを林さんはっきり言っていらっしゃるので。ですから、今の先生のおっしゃった論点、すごい大事です。これはあくまでそういう本音を言えるような、そういう宮前がいたからこそ、こういうのが出てきたということ。いや、本当に戦争です。そこ本当、間違えたなので、そこは人間がちょっと今ね、SNSとかネットで訳わかんなくなってると。やっぱり、そこは信じられんとなって。
ちょっと長くなってごめんなさい。林先生はですね、やっぱり自分は授業の事はわからない。哲学で学ぶってことはやってきたっていうんで、授業にあたってね、あの斎藤喜博って、いわゆる授業名人を呼んできてですね、最初はやってたんだけどやっぱりね、実は沖縄でも授業やったらしいんですけどね。いわゆる、さっきお話が出たように、教師の差ってのをもってるのかな、好きに走るとこがあったので、さっきの授業論でですね、著作集の7巻じゃないかなと思うんですけど、その末尾はね、ちょうどやっぱり斎藤喜博とかなり考えが違ってきたと思ったんで。結局ね、教育というのは出会いに終始するものではないかってこと書いてあって、何のために授業するかっていうと、それは心をね、まっすぐなんだよっていうので、やっぱり、そこは本当大事なとこなんで、すいません。あの、先生ね、大事なことを話してくださったので、あくまで楽曲で人と人とを繋ぐ。そこで先生がおっしゃってた林先生はね、自分の差がすごい決まって、自分のスタイルでやれっていうのになかなかね、自分のスタイルじゃなくて、型を求めるので。
林先生の教育の仕事っていうのは、福島に始まって福島で終わると思ってます。晩年ね、さすがに林先生もそんな動けなくなったときに、須賀川養護学校の若草学級っていうところの仕事をお知りになって、そこいわゆる五重苦の勝弘くんという重い障がいを抱えたお子さんに対して、安藤哲生先生という、まさに今って人と人とのコミュニケーションで、本当に何か安藤先生が勝弘君と出会ったときはね、植物みたいだった。ところが、安藤先生をね、こうやって勝弘君の方で自分の触ったりとかやりながら、「勝弘、安藤先生だ」って呼びかけた。そしたら3ヶ月経ったときに、ふとね、意思表示が出てきて、何とか立てるようにしたいって思った。それでは無理だったんですけど、ちゃんとね、腰が立つようになってですね、表情も。
最後の林先生のメッセージっていうのは何のために教育するかっていうと、一人一人自分を変えようとする。神様からね、いただいた、もう科学を超えた命って言ってしまうと、だから自分が自分を変えてくようなその命があるわけで、勝弘君は歩みはものすごく遅いけれども、その命をね、ちゃんと自分で引き出す。その手伝いってのは安藤先生とかですね、当時の須賀川の先生がなさったということで、それを林先生の最後の記録なんか教育の根底にあるものっていうところで、勝弘くんのお話をして、それが結果的にもう最後のメッセージで目的は思いました。
林:
私も2年前に、確か林竹二先生の展示を宮教大でやったときに聞きたいなと思っていたこともあって、今日楽しみだったんです。私なんかが林竹二さんの本いろいろ見てると、興味深いエピソードとしてですね、例えば斎藤喜博さんと論争した話などもあって、斎藤喜博さんはどっちかといえばですね、教育とはかくあるべしというものを磨きに磨いていって、古い封建的なものは捨てるべき、だからより新しい未来型に向かって教育ってのは民主主義。林竹二さんは東北大でセミナーしてるときに、ちょっとそれ違うんじゃないかと孔子はこう言ってるよと、途中からはもっと江戸時代の日本の人だってこういうことを考えてたんだぞ、寺子屋でそういうことに立脚して、年寄りも子どもも一人一人尊重しなきゃ教育にならないんじゃないかということで、喜博さんとは相当食い違う部分があったと思います。
ソクラテスとプラトンの研究なんかもずっと竹二さんはしてたんですけども、それもソクラテスをあたかも完成した聖人のように祭り上げることに大反対して、若い頃ソクラテスが何を目指してたのかっていうことを、自分は大事にしてるんだっていうことで、若き日の美しかったソクラテスっていうのをわざわざ書いたりしてるんですよ。林竹二さんの精神の持ち方として、すごくなんていうか、常に学びたいっていう、若々しさというかですね、そういうところがすごくあるわけだから何か教育学を完成させたとかって言ってる人に対しては、何かクエスチョンを投げかけて、本当にあんた、教育っていうものをそれ完成なんですかと。
自分は沖縄に行ってまだまだ学びに行かなきゃいけないんだっていうことで、自分も生徒の一人のような気持ちで、まだもっともっとこういう学校があるんだっていうところにどんどん突き進んでいって、最後75歳ぐらいになってさすがに体が動かなくなったっていう感じだと思うんですよね多分、林竹二さんがこの映画がもし一人歩きしたら、一番困っちゃうんじゃないかなと思って、林竹二さんの完成させた教育学としてこれ見てほしくないと思うんですよ。
竹二さん自身が65歳から小学校に出会い、70歳になってから湊川に出会い、沖縄の小学校に出会いながら、自分が今まで足りなかったなっていうことを常に考え続けるという。どんどん晩年に向かうにつれ旅に出ていくわけなんですけども、そこでやっと田中正造が理解できたということなんですよね。だからさっきのバスケ部の人たちが、部活が厳しすぎて授業中ずっと寝てるっていうことに、竹二先生がもし出会ったら、やっぱり若き日のソクラテスに立ち戻って、一緒に薪割りしたりとか、一緒に畑仕事をしたりして、今日精一杯一緒に頑張ったなっていうふうな、例えばそういうふうなアプローチもするんじゃないのかなと。その生徒の一人に自分もなりきって、一緒に考えるんじゃないのかなっていうふうにですね、そういう若々しさを竹二先生の生き方からは学んできました。
渡部:
なるほど。ただね、僕は今日の映画を見てですね、阿部さんが冒頭で言われましたけども、やっぱり問題含みだという点が2つあります。それはまず、これは教師である自分に対しても思うことなんですけども、しかもこの授業実践から50年後も批判するってことに、何て言うんだろう、アンフェアなことでもあるんですが、例えば『アマラとカマラ』は、現在の心理学では、これはもう否定されてる説ですよね(※鈴木光太郎『オオカミ少女はいなかった 心理学の神話をめぐる冒険』,新曜社,2008年,参照)。
これを前提に「人間とは何か」を授業でやったことに対して、もう生きてはいないので、何とも竹二さんにはお答えいただけないと思うんですけども、やっぱり僕も授業やりながら一生懸命教材研究しててもやっぱり間違ってしまったと、誤った事実をもとに授業でやってしまう可能性があるわけです。しかも、それをもとに「人間の本質だ」といったときに、全くこれが出鱈目だったっていうことに、竹二さんが今生きていたらどう答えるのか?これが一つです。
それから『開国』の授業で、子どもたちは「ペリーが沖縄に来ていた」ということにとても驚いたという感想が多かったですよね。あれ、僕は聞いてとても違和感がありました。授業の終盤に島津斉彬を立派な政治家と評して教えていましたが、それを薩摩に搾取されてきた琉球、沖縄で語るのかというのが、とても違和感がありました。これは僕の友人で、琉球新報社の新垣さんって記者がここ(福島)に来て話してくださったことですが、琉米条約っていうのは通商条約かな、彼がそれを修士論文で書いたんですけども、これは当時もアメリカが先に琉球を独立国として認めていた証なんだと。すると、その独立国である琉球を明治の日本政府が琉球処分で、一国の独立国を侵略、植民地化した証であるということを、彼は教えてくれたんですよね。
でも、林竹二さんは、あの授業の中で島津斉彬のような立派な政治家がいたから、日本は植民地化されなかったんだぞっていうような授業をしたのを見て、それを沖縄でやることの歴史的なセンスというものに、僕はやっぱりこれは50年後からアンフェアな批判になるかもしれないけど、やっぱり批判的な視点を当時、時代的な制約もあって持てなかったのかもしれないけれど、でも1977年って沖縄復帰5年後ですよね。その時点でやっぱりそのような視点を持ってなかったっていうことの違和感といいますか、彼の無意識の植民地主義を批判的に論じなければいけないんじゃないかなと思うわけです。
ただ、今、薫平さんがおっしゃったように、当然これを完成系として見ないんだというのであれば、なるほどこれを更新するのは後の人たちの役目だと思うんです。
林:
あとね、竹二先生がもう一個印象に残ったこととしては、基地問題とかあるじゃないですか。あと学校の関係で言ったら、夜間中学が閉鎖されちゃう問題っていう、具体的に今最前線にある社会問題。林竹二先生はそれに対してどうしろと言ったか。それに対して、ハチマキ巻いて座り込みしたり、火炎瓶投げたりっていうのは浅いって言ってるんですよね。それよりは、本来すべき授業をしっかりやるべきことだと言ってまして、これは米軍基地に反対して、抵抗している人たちにとっては、ちょっと冷たいというかですね。それちょっと突き放したような言い方をしてるんだけど、本当の仕事場とか学校を放って、ハチマキ巻いて火炎瓶投げに行くよりは、もっと深いところで勝負したがというようなことなんですよね。だから、そこはまだ竹二先生がどういう世の中のあり方を願ってたかまではわかりませんけども、沖縄であえて、場合によっては、ほとんど本土で最も憎むべき島津の権化みたいな人が名君だったみたいな授業をわざわざしたっていうのも浅はかだったのか。それとも、いろんな議論を持って、本土の方にも悩みながらいろんなことやろうとした人たちがおったんだぞという、そういう視野で考えてほしいというメッセージだったのか。そこはわかりません。
参加者K:
すいません、ちょっと話についていけないんですけど、まず林竹二先生は、この人間とは何かと開国っていう事業を、どうして沖縄でやろうとしたのかっていうあたりのところがはっきりしないんですが。ただ、それだけ私が林竹二先生の本をたくさんちゃんと読んでないんでわかんないので、初歩的なことですけど、映画を見てると、何でこれをわざわざ沖縄を選んでやったのかなっていうのがわからなかった。
参加者L:いろんなそれはなんかちょっと私も覚えますもんね。林先生ってやつも結構ね沖縄いろいろね、今ご議論あったように、島津の評価とかあるにせよやっぱ林先生は沖縄をね犠牲にして、あの米軍基地問題をね、うん。それでちょっと、一応紹介します。結局ね、はっきりちょっと『教育の再生を求めて』の序文の方に日本の教育ってのはね、結構大きな輪を打ち捨ててそしてあの見せかけの虚栄をね、田中正造研究は深まったってお話なんですけど、この谷中村を見捨てて、それで日本はね、戦前の大日本帝国としてのまさに虚栄ですよね。だからね、先生おっしゃった大変な犠牲が生じてしまったわけだから。そういうふうになぞらえて、やっぱりね、谷中村を見捨てて、それらの大日本帝国が栄えたと。
また、戦後ですよ、多大な犠牲を払ったのに同じ間違いを犯して大きな骨を打ち捨ててやってるんで、そんな罪滅ぼしみたいなことをしたいので沖縄だったら引き受けていいかなみたいな話だったんですね。元々さっきグループ現代っていうね、確か阿部さんの方からあったと思うんだけど、かなりの社会派のところだったので、何とか林竹二の授業ってのは、元々は映画に残したって気持ちだったと。ただ、それをどこでね、やるかっていうところでは、なかなか考えがあったし林竹二もね、そういう意味では相関性があったように、やっぱり誤解を受けるってのはまずいってあったんで、何か記録取りたくないってなったらしいです。でも、沖縄っていうことで、何とか引き受けた。
ただですね、その半年、これ確か2月の授業なんですけど、10月に北海道の旭川で授業準備をしていて、脳梗塞で倒れちゃうんです。それ林先生、なんでたかっていうと、自分はさっき先生から言ってね、子供がこんな力が子供を見てっていうふうに言ってるのに、結局ね、林の授業はどうのこうので批判するにせよ、逆にそういう自分をこうも違うんだよね。カリスマシース群したって結局は、自分がやってるその子どものことを見ないで授業の方ばっかねどうすればいい授業もできる人がね、できるかっていう。なんかそれに疲れちゃって、倒れてしまったっていうそれがあったと。でも、何とか沖縄の約束を守りんなきゃっていうんで、結構必死でですね、リハビリしてだから鎌田の映画の中では、先生ちょっとね、手が病気したから手がけててちょっとチョーク落としちゃう場面とか、1枚目確認とかあるいはコップがね、駆動するなんてのが、ということで、うん。だからちょっと島津田式とかねまたいろいろあるとは思うんですけれども。うん。かなりあれですそういう大きな思いがあったし、それがそういうのがあったらもう、実は兄弟ですね。
林先生の学長時代は沖縄から学生の時点でなんかね、まだ完全復帰する前なんで那覇市長の女性の城間さんって方は、実は京大出身の方で女性市長だっていうんで、結構ね沖縄から学生が実は兄弟くるってのはちょっとやっぱちょっと林先生の講演会ってのもあったということであります。はい。
渡部:
今のKさんの質問ですけども、やっぱり『教育の再生をもとめて』の序文にこう書いてあります。
「私は私沖縄に赴かせた同じ力が私を湊川にはいらせたような気がする。ともに、それは、私にできるささやかなつぐないであった。/日本という「国」は、太平洋戦争の「あと始末」をつけるため、沖縄を切り捨てた。あるいは売り渡した。そしてその繁栄の中で、現在の見せかけだけの繁栄を手に入れた。そしてその繁栄の中で、国も人間も亡びようとしている。日本の「学校」は、その体制を守るために、子供たちを切りすててきた。その切りすての上に、いま学校は繁栄を(むしろ繁昌といった方がよいだろう)きわめている。そして、その虚構の繁栄の中で、教育は死に絶えようとしている。湊川に集まっている生徒たちは、公教育の中で最も甚だしく切り捨てられた位置にいる子どもたちだ。私は湊川に入って、すべての学校が、平然と実行している子供の切りすてが、どれほどの無惨を産んでいるかをつぶさに見た。それは子供をかれらの人生から切りすてることであった」ということです。
宮前:
今のところは、林先生の本当の気持ちをね、書き残されてる部分だと思うんですよね。だから、私は林先生のこういう様々な取り組みは、授業ってこういうものだっていうモデルを見せるようなつもりで全くない。やっぱりね、授業って、本当のところはどうでなくちゃなんないのかなっていう思いをね、ずっと追い求めてきた教育哲学者として、だから、私はどちらかというと林竹二先生は抵抗の人だったと思うんですよ。国に対しても、文部科学省に対しても、一般の学校現場の取り組みに対しても、本当にこれでいいのかっていう問いを持とういう意味ではね、私は田中正造の姿を林先生に見るし、田中正造から林先生いわゆる抵抗の根っこの部分をね、出るんだよなっていうふうにだから、やむにやまれぬ思いで現場に入ってるていう風にも思うんです。
私に「宮前くんのところに応援に行くよ」って言ってくれてるんですよね。ええ、だけど、だけど、そうやって現場に入って、子どもたちが一生懸命頑張っている姿を見るにつけね、うん、本当に学校の取り組みはこれでいいのかな、どの子も学びがってるのに本当に学ぶ場所になってるか、学校は本当にこれでいいのかっていう、林竹二のやむにやまれぬ問いかけが、この実践にまで突っ走る姿だなと思います。それで、先生方を批判したり落としてるっていうよりも、むしろね、林先生の問いかけの根っこにあるは、あとは文部科学省の行政の姿だったり、あるいはその国の沖縄に対するその取り組みが本当にこれでいいのかっていう問いがね、林先生を突き動かしてるとじゃないかと。
例えば、教育亡国っていう林氏は最後の著作、あれなんか読むとね、うん。もうやむにやまれぬ写真集の叫びを私は聞くんですよ。だから、なんていうんでしょう。私達こうやって授業をあえて映像で見たりすると、これが授業なんだっていうそのモデルを見せてるんだ。でも、何でもないですね。むしろ本当に授業ってこれでいいのかなっていう、林先生の問いかけの映像でもあるように、私は林先生がもう散々苦労してね、あれを残している意味がないっていうふうに私は思っています。それで、私一番心に残ってる言葉は、教師の仕事、それは魂の世話だっていう、林先生の言葉ですよね。何かを教えて点数を上げるとか、学力を上げるなんていうことではなくて、その子の持ってる本当の良さ、本当の素晴らしさっていうのを引き出し伸ばしていく。ハイセンスの授業の中でも、教育っていうEducationと言ってるけれども、あれは子どもの隠されている能力を引き出すことになる。
実は、魂の世話っていうことを言い始めたのは、どういうふうにして授業をいろいろやってる中から、本当の教師の仕事は魂お世話なっていくと考えたんだなって、私は思って。引き出すっていう仕事は、仕事が教師の仕事なんだっていうことを言ってたんですけど、そうではなくって、楽しい世話、それが教師の仕事だっていう言葉は、やっぱり私は大事にしていきたいなと。
参加者G:
皆さんにいろんなアドバイスいただいてありがとうございます。私やっぱり一番やりたいのは、学ぶこと何かがわかったっていうときの幸せな気分そのわくわく感とかそういうのを知って欲しくて授業をしてるつもりなんですが、そこに行くその話が聞けないとか、何かを見せても好奇心を持たないとか、そういう子がすごく増えてるので、そこが何とかしたいなっていつも思ってるんです。
けれども、もうその領域って私達、教師ではもうなんかどうにもできない。もちろんクラスには1人か2人目を輝かせてじっと聞いてる子もいます。もうガヤガヤしてる中でも遠く後ろの方でずっと聞いてる子もいます。だからそういう生徒が2人3人いるので救いにはなってるんです。けども、だから、なんか、これは私の感想でしかないんですけど、最近の子って何ていうのかな、欲がないっていうか、自分の人生をもっと豊かにしたいっていう欲がないのかなって。諦めてるのかなっていう気がして、そう思うとなんていうか、教師だけじゃなく、周りの大人って本当にこんなこういう人生になってしまうような、それでもいいって思ってしまうような若者、子どもたちを育ててるのって、すごく罪深いなって思うんですよね。だからそこなんか何とかできないのかなって、いつも思うんですけど、何だか先の二つの選挙を見ても、アメリカの選挙を見ても、なんかすごく暗い気持ちになってしまうんですけど。
でも、高校の教師をしていて日々しんどいなと思うんですけどでも、たわいのない会話とかを生徒としてるとすごく楽しいです。それだけは楽しいです。そこが好きだなと思っています。最後にごめんなさい。一個だけくだらない点です。私さっき50代後半で大学に入って、そこから10年経って教員やってますって言いました40代です。40代後半で大学入ったので、今まだ60代ですすみません、70代ではございません!すいません!
中村:
映画を見る前に、この4人で事前に1回ミーティングをした日があったんですね。そのとき林竹二先生の話をいろいろ、ああでもない、こうでもないと喋った後に、なぜか知らないんですが、西田敏行さんの『学校』っていう映画の話になって、もうすごい盛り上がったんですね。なんか、西田敏行の話で盛り上がって。その後にお亡くなりなったんですけども、その後、実は僕は生徒たちに「西田敏行って知ってる?」って聞いたら、半分ぐらいかな。
なんかよくわかんないからみようよってことで、『学校Ⅱ』を授業で使って養護学校の話を見終わったところ。3回か4回ぐらい授業かかったんですけど、そのときに、永瀬正敏演じる若い先生が、やはりを苦労して生徒を何とか見つけて学校に戻ったときに、「本当に何を僕は教えたんだ、何を与えたんだろう」って、もうわかんなくなっちゃうんですよ。西田敏行が「いや、教えるとか与えるとかっていうんじゃなくて、生徒から僕らが学んだことを返すんだよ」っていう。もう、渋い言葉を言ってるシーンがあって。だから、もうさっきGさんが先ほど見せてるとか、教えるとかって言ってたんだけども、多分そうじゃないんじゃないかな。僕らが子どもたちをじっと観察して一緒に学んでいく中で、何かを僕らは学び取って一緒に学んでいく中で、学び取ったものをやっぱり返していって、一緒に育ってくっていう。多分そういうことなんだろう。
そこでその時間がやっぱり今までなかったから、そういうふうになって、だからそれを回復するっていうことが多分これからの授業のテーマになるんじゃないかなって。僕は工業高校の定時制ですごく苦労してきたときに、やっぱ体験したので、西田敏行のあの言葉はすごくしみて何回見てもいいなと思ってます。ぜひフォーラムでリバイバル上映してもらえないかなって思っているんですよ。本当にやった。
渡部:
僕は分校に勤めていたことがあるんですけど、そこは村の子が3分の1、あとは中学校時代に不登校だった子が3分の1、あとはグレーゾーンの障害があったり、学力といったらもうというところで、でもやっぱり、さっきGさんさんおっしゃったように、生徒の勉強がおもしろいなっていう目が輝く瞬間って、教師業を続けられるモチベーションなんすけど。
ある世界の問題をつなげていくという教材を自分で作ったんですよ。そしたら、言葉なんか持てないような、運転免許も取れないような子たちが、先ほどの感想文にあったような「てにをは」も書けないけれど、なんとか自分たちでその世界の問題を言葉で繋いでいくということを、もう必死になってやるんですよね。だから、林竹二の本を読んでて本当に共感するのは、学力といっても、お勉強の学力と関係なく、何かをやって、作っていって、それって面白いよねと感じるいう力は、どこかみんなにあって、僕らの仕事ってはそれを探り出すしかないんじゃないかな。今の中村さんのお話聞いてて思い出しました。
林:
皆さん今日は活発な議論をしていただきましてありがとうございました。また岩崎先生とそのお友達の先生たち、あと宮教大からいらっしゃってきました。ありがとうございました。皆さん教育現場でいろんな経験、悩みをされて、阿部さんも広い意味では教育的なそういう意味で言えば、一緒にこの企画して良かったなと。
それでちょうどあの西田敏行さんの話も9月ぐらいだったと思うんですけども、『学校』っていう映画、たぶんこの4人は全員30回ぐらい見てるんじゃないかということです。やっぱり、何か学校とか、授業とかっていうもので、それで竹二さんが人間になるっていうのはどういうことなのかという。これは21世紀に入ってこんなに世の中が混沌とすると思わないときから、警鐘鳴らしてます。一人一人が深いところでじっくり黙って、ゆっくりとした考えを持てるような働きかけを生徒の一人になって一緒に作っていくっていうことが、こんだけ新しい世の中だとますます必要なんじゃないかなと思いますので、僕自身に言うと明日からまた一人の生徒に戻って、本当の学生たちと一緒に考えるように生活したいなというふうに思いました。また今日の話した記録など頑張ってまとめていただいて、貴重な貴重な記録になると思いますので、はい。また共有できるようにまとめたいと思います。どうも長い時間お疲れ様でした。ありがとうございました。
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