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第4回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・まとめ

2017-12-28 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
昨日の福島は大雪でしたが、10人もの人が集まり第4回の読書会が行われました。
もっともスカイプ参加にはそんなことは関係ありませんが、忘年会を兼ねた某所では、あらためて顔をつきあわせながら話し合う方が、ひとりでスカイプ参加しているよりも参加感が違うし、読み進める実感があると話されていました。
直接的なコミュニケーションの力って何なんでしょうね。

さて、今回はアーレントの政治思想の最も基本的な「労働」・「仕事」・「活動」という3つの概念を扱うという点で、いよいよ読書会の山場を迎えました。
中には、この章が最も面白いといってくださった方もいらっしゃいました。
が、しかし、「やっぱり相変わらずわからないね、というよりも本書の冒頭で読むことに挫折して以来、読書会のレジュメや議論を聞いてから読むことにしている」という方から次のような問いが投げかけられました。
「なぜ、著者はこういう難しい書き方をしているのか?たとえば、NHKの『100de名著』で講師を務めた仲正昌樹さんの『全体主義の起源』の解説文などはとても読みやすいのに、どうしてこうしたわかりにくい書き方を選んだのか?」
加えて、「なぜ、アーレントはわざわざなじみのない難解な用語を用いるのか?それは翻訳の問題なのか?」という問いも投げかけられました。
これに関しては、佐藤さんご自身から難解な『人間の条件』を読んでみたいけれど読み進められていない大学院生を対象として書いたということを聞いたことがあります。
その点はぜひ著者と語る会で直接ご本人に質問してほしいと思うのですが、難解な用語に関しては想像する範囲で考えると、母語をドイツ語とするアーレントがアメリカに亡命して英語で論文を書かざるを得なかった事情もあるのかもしれません。
しかし、それ以上にしばしば指摘されることですが、翻訳の段階でどの言葉を選択するのかという問題はあるでしょう。
原書で読んだ方がむしろ読みやすいということは、よく耳にすることですが、翻訳を重ねる段階で日本語としては耳慣れない語句が用いられ、それがある程度固定化されて広まってしまうという面があることは否定できないでしょう。
それに関して、和光市で開かれている本書の読書会に参加された方は、やはりアーレントの用語は通常の意味とは異なるので、文脈や行間のなかから彼女が彼女が言わんとする意味をつかみだすしかないという感想をいただきました。
まぁ、いずれにせよ、難解な読解に挑戦しているという点では稀有な経験ですし、うんうんうなりながらアーレントを相手に思考することになんだかわけもわからず、こうして集まってくるわけですから、皆さん、何かを感じているんでしょう。

というわけで、今回は第4章「労働・仕事・活動」をレジュメに沿って議論していきました。
まず、この3つの概念をめぐる基本的な枠組みを概観するところから入ります。
西欧政治思想では「活動的生活」よりも「観想的生活」こそが最高としてきた点、ポリスの「不死」に対する疑念が「観照」という「永遠なものの経験」へ向かわせたという点、古代ギリシアにおいては「死すべき人間」の「活動」の儚さを「不死」のものにさせる歴史物語の伝統があった点です。
ここで、「活動的生活」と「観想的生活」ってなんだ?という質問が出されました。
前者は今回取り上げる労働・仕事・活動のことであり、基本的に身体が伴う活動のことで、後者は精神の営みだという理解で進めました。
ポイントは、「ポリス」を「世界」と読み替えてみれば、世界の存続に疑問を持つ時代には世界の存続にではなく、精神の生活に「永遠性」を見出す思想史があったという点は、核の時代を生きる我々にも当てはまるかもしれないということです。

そして、「労働」の問題に突入します。
アーレントとにおいて「労働」はかなり批判的に扱われる感があります。
たとえば、その批判は「労働がもつ他者との共同の忘却に向けられる」という点などはそうでしょう。
しかし、ふつう労働といえば、人々が共同しあうというイメージがあるけれど、これはどういう意味だ?
一同、「わからん」とうなります。
たしかに、労働疎外のように労働者同士が反目し合うという側面があることは働くものは誰でも経験があるでしょう。
ただ、ここでも通常の労働のイメージでとらえると訳が分からなくなるので、ひとまず「他者との共同の忘却に向けられる」営みを「労働」ととあえて見てはどうだろうか。
たしかに、自分の仕事上のノルマや数値目標を考えていれば、他者の存在は忘れるかもしれませんね。
さらに、労働は「背後に何も残さないこと、労苦の結果がそれに費やした労苦と同じくらい早く消費されてしまうこと」という一文をどう理解するか。
家事労働を考えれば理解しやすいかもしれません。
料理してもあっというまに食べてなくなる、洗濯してもすぐ汚れる…とりあえずそんな営みを「労働」と理解しておけばよいでしょう。

と、ここまでの話の中で、ある参加者から「ここまで労働を貶めて、いったいアーレントは何をしたいのか?」と怒気を込めた問いが投げかけられました。
何をしたいのか?
さしあたり、すぐに消費されて、この世界から亡くなることに対するアーレントの不安以上のものを読み取ることはできるのではないでしょうか。
でも、それってすごく西洋的なものいいで、日本なんか諸行無常の世界観だし、まったく真逆のとらえ方で理解できない。
そもそも、そんな消費されてこの世界から亡くなることへの否定感を、この広い世界でどれだけ通用するんだよ。
うーん、なかなか厳しい問いかけですが、一つ言えることは、やはりユダヤ難民として吹けば飛ぶような存在を経験したアーレントにとっては、やはりこの世界での不死への欲望というのは切実だったんじゃないですかね。
これは佐藤和夫の読みですが、アーレントはそこまで労働を貶めて解釈していなかった。
仕事後の一杯のビールの格別なうまさは、宝くじに当たる「幸運」とは違って、労苦がともうなうがゆえに「幸福」は生まれることを認めていたといいます。
ただし、その幸福感もまた、つかの間の儚いものであることには変わりがないのですが。
さらに、他者との共存が忘れられ、ひたすらカネや富の増殖が目的化された「労働」については、他者の世話に従事するケア労働には「活動」的が含まれているという点にふれ、「労働」という概念で労働の種類をひとくくりに区分されるというよりも、一つの職業の中には「労働」的な要素もあれば、「活動」的な要素があるという見方をすれば、一概に職業的労働一般を否定されたと思う必要はないのではないでしょうか。

続けて「仕事」です。
「労働」と「仕事」が区別される点は、生命維持のために消費されるものを対象にするか、個人の生命を超えて存続するものを対象にするかの違いといっていいでしょう。
『人間の条件』には「仕事は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。そこで、仕事の人間的条件は世界性である」と定義されています。

やはり、ここでもなぜ永続的な建築物や都市の建築が重要なのか、という問いが提起されます。
さらに、いったいアーレントは耐用年数が何年以上なら「仕事」の対象とするのかと、やはり怒気を込めて問いただす声が上がりました。
だいたい、歴史を振り返ればさぁ、都市の存続に「不死」なんてありえないじゃないか。なにいってんの?
なんだか、皆さん、いつも以上にアーレントに突っかかってきますね。
生命の安住の地としての「世界」。
その「世界」が存続することへの配慮。
これが仕事の本質なのでしょう。
すると、またまた「アーレントはユダヤ人として虐殺されかねない経験をしたのに、なぜ一つ一つの生命を大切するという方向にいかずに「世界」への配慮なのか?という問いが投げかけられます。
たしかに。
ただ、アーレントが一人ひとりの生命を尊重していないということは考えられないのですが、そもそも、その生命が生きるための条件であるはずの「世界」に関心や配慮を寄せなくなったことを問題視しているんじゃないでしょうか。
「住まう場所」それ自体をもたないユダヤ民族というアーレントの背負った運命というかアイデンティティが、そうさせるのではないでしょうか。
アーレントは『全体主義の起源』で近代の人権思想の欺瞞を暴いてしまいます。
生まれながらにして誰もが持っている自然権としての「人権」は、国家権力によっても制限を受けないことは学校の社会科で習う基本事項ですが、実は、国家から追放された「難民」という存在は、自然にさらされたときにまったく「人権」というものが保障されない存在に貶められます。
つまり、国家権力に制限を受けないはずの人権がが、国家を失うと同時に破棄されてしまう矛盾を「難民」として切実に問うたわけです。
こう考えると、以下に個々の生命が大切だといっても、それが住まうことのできる「世界」の存続がなければ、いつでもその生は廃棄されるという恐怖が背景にあるのではないでしょうか。

さらに、「仕事」および「制作」には「目的と手段」のカテゴリーに支配される点が重要です。
都市や建物の建設にかかる「工作人」は、その手段として「道具」を用います。
しかしその道具が機械に変わっていくとともに、労働者に対して機械のリズムに合わせるように要求し始めるようになっていきます。
つまり、人間の労働負担を減らすという目的だった機会というの手段に、いつのまにか人間の自由が奪われてしまっているという事態ですね。
これに関しては、生活の豊かさを実現する目的をもっていたはずの原発が、いっきに世界を崩壊させかねないことに至った音は周知のことですし、さら核兵器が「抑止力」という名のもとに平和実現という目的の手段にされながら、いったん核戦争が始まれば人類そのものの自殺に至ることは容易に想像できるわけです。
つまり、近代科学技術は人間という目的のための手段であったはずなのに、いつの間にか逆転して手段に支配されているというのが、現代の危機ではないでしょうか。
そうした「目的―手段」というカテゴリーが「仕事」には内在しているという問題を、アーレントは喝破したということでしょう。
さらに、そもそも「何のための目的か?」と、身のまわりの目的が「有用性」(役に立つ)だけで終始してしまうことに問題を感じているという意見には多くの賛同がありました。

労働と仕事をめぐっては、今後AIの誕生により職業が減少することが懸念されていますが、それはある意味で人間的な活動的生活がより明確化していくんじゃないかという話にもなりました。
これは、AIによって労働がなくなっていくというわけではなく、おそらく質的に計算的な活動などのデータ処理はAIの方が量的にも正確さとしても人間を凌駕することは間違いないでしょうが、それとは区別される労働の活動性が見えるだろうということです。
外科手術や癌診断は明らかにAIの方が正確だというデータもありますが、その根拠は示してくれません。
その意味でコミュニケーションや職人的な勘のような部分がより一層問われてくるんじゃないかというわけです。
しかし、そうなると単純労働や考えたくないという人にとってはシビアな世界にますますなっていくでしょう。
AIによって労働・仕事がどのような変化をきたすのか、人間の条件の変化までもたらすのか興味深いところです。

と、ここまでで、予定時間をオーバーしてしまいましたが、皆さん、もう少し延長してもかまわないということで先を勧めました。
で、最後の「活動」です。
「話し合うことによってこそ人間は政治的な存在になる」
「人間が人間であるがゆえに直接コミュニケーションする存在であるということは人間が言葉で話し合うということによる」
「他者との語り合いの中にユニークネス(個性)を示していく」(第二の誕生)
「誰も自分の経験を誰かに変わってもらうことはできない。その経験を語るところにユニークネスが現れる」
いっきょに著者の「活動」にかける思いと興奮が爆発したかのような記述が連なります。

その中でも、「活動空間の条件」が「人々が互いの違いを認め合い、違いのゆえにこそ平等であること、コミュニケーションそのものに関心や喜びを向けうること」であるという点は一つ考えてもよい論点です。
学生運動に関わったことがある方から、「組織」の観点から個々の意見を主張しては全体の士気が下がるため、全体一致を要求されたことの経験が話されました。
個々の意見を尊重すれば「組織」としての統制が弱まり運動の力が萎え、しかし、個々の意見が無視されることにも同じ限界があり、その両者が一致するということをどうすればいいのかというのがいつの時代でも課題だったのではないかというわけです。
結論から言えば、おそらく次章で話題に上がると思うのですが、アーレントは基本的にその一致は望めないといいます。
その上で、お互いの違いを認めながら平等と個々人の自由を実現しつつ、協同のパワーを生み出すというわけです。
そんなのはユートピアに過ぎなのじゃないのか。

たとえば、「活動」といえばこの読書会などは、利害関係もないがゆえにその自由と平等を実現できている場であるともいえます。
しかし、これが何かの力を生むのだろうか。
終われば雲散霧消して次の一月を待つ間は何もないじゃないか。
たしかに、アーレントは「活動」の儚さも指摘しており、個々の存在が「不死」を目指すのであれば、「物語」として語り継がれることが必要だといいます。
この物語作者は本などで世界に書き残す以上、「仕事」の人であり、それによって儚い「活動」の「不死性」は建築物に匹敵する耐久性を可能にするということになります。
ちなみに、私のこのブログの記録は「仕事」ですね。ただ、紙媒体のような物質性がないので制作物といえるかは微妙ですが、G00が存続する程度の「不死性」はあるかもしれません。

今回、皆さんの中で少し理解が進んだとすれば、「労働」・「仕事」・「活動」という3つの人間の条件は相互に均衡しているものであって、どれかをなくせば人間の自由が実現するものではないという点でしょう。
さらにいえば、この3つの概念によって様々な営みが分類されるのではなく、それぞれの営みの中に3つの要素が混在しつつ、どの部分が強いのか弱いのかという視点をもてるようになったことではないでしょうか。
家事・市民運動・出産・教育などの営みには労働的もあれば・仕事的・活動的部分があります。
そう考えると、一概にサラリーマンだから、教師だから、販売員だからといって「労働」の徒労だけにとらわれる必要もないでしょう。
問題は、その中に3つの部分のどこかが偏ってしまいすぎることを相対化でk理宇思考をもてることではないでしょうか。

最後に、「活動」は必ずしも優れた能力でありません。
そこには何をしでかすかわからないがゆえの自由、すなわち「不可予言性」という性質が備わり、そうであるがゆえに仕出かしてしまったこと元に戻すことはできない問題を引き起こす「不可逆性」という性質が備わります。
人間は、その過ちを自分自身で修復することはできません。
そうであるが故にアーレントは「赦し」という能力があることを指摘します。
従来、「赦し」は宗教的な能力だったわけですが、彼女はそれを超越的な能力ではなく〈政治的〉に実現可能な能力であるとしたわけです。
「撫順の奇跡」や「真実和解委員会」という実践には、具体的にその思想が結実しているともいえるでしょう。
この「赦し」があるがゆえに、人々は新たな「始める」ことができるというわけです。
そしてもう一つ、予測不可能な活動に安定を確保するための「約束」という能力があります。
「赦し」が過去の出来事に対応するのに対し、「約束」は未来に対応する力ですが、これによって人間の予測不可能で不可逆的な「活動」の自由から世界を守るための安定をもたらすわけです。

さて、思い付きで始めたこの読書会も後半に入りました。
2017年も年の瀬です。
こうして語り合える仲間に恵まれた一年でしたことをあらためて感謝申し上げます。(文:渡部 純)

第4回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会・レジュメ

2017-12-27 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
第4回佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会 (まとめ:渡部 純)

第4章「労働・仕事・活動」
この3つの概念はアーレント政治思想の中核
【基本的な枠組み】
① 西欧政治思想では「活動的生活」よりも「観想的生活」こそが最高(133)
② ポリスの「不死」に対する疑念が「観照」という「永遠なものの経験」へ向かわせた
③ 「死すべき人間」の「活動」の儚さを「不死」のものにさせる歴史物語
④ 3つの活動的生活(人間の条件)
「労働」…生命を維持するための営み。だが、その確保はときに暴力性を発揮する
⇒恐慌、飢餓、戦争
「仕事」・「制作」への警戒…近代思想・科学が歴史と自然を「つくる」ことができる
⇒全体主義・原子爆弾
「活動」…活動的生活の中核をなす自由な話し合い。
 ⇒予測不可能性と不可予言性、儚さ

1.労働
① 近代の労働賛美…資本主義と科学技術は労働からの解放を実現するように思われた
 ⇒しかし、アーレントの批判は労働がもつ他者との共同の忘却に向けられる
② 労働…「背後に何も残さないこと、労苦の結果がそれに費やした労苦と同じくらい早く消費されてしまうこと」
⇒他方、「生命の祝福」は労働に固有の物…仕事後の一杯のビール。この幸福は宝くじ に当たる幸運とは違う。労苦がともうなうがゆえに幸福は生まれる
③ マルクスの発見…は剰余価値が生みだす「労働力」は際限のない富の拡大の論拠となる
 ⇒私的所有の無視につながったことをアーレントは批判する。富の増大は話し合いという「ポリス(政治)的動物」の次元には達しえないのだ
④ アーレントが批判を向ける「労働」とは
⇒他者との共存が忘れられ、ひたすらカネや富の増殖が目的化された「労働」
※ しかし、他者の世話に従事するケア労働には「活動」的が含まれている

2.仕事
①仕事とは
「仕事は、すべての自然環境と際立って異なる物の「人工的」世界を作り出す。その物の世界の境界線の内部で、それぞれ個々の生命は安住の地を見いだすのであるが、他方、この世界そのものはそれら個々の生命を超えて永続するようにできている。そこで、仕事の人間的条件は世界性である。」(『人間の条件』)
② マルクスの労働=アーレントにおける「仕事」…人間が自然に働きかける中で自己を対象化し、人間主体が形成され世界が人間化される
⇒しかし、今日、人間が自然に働きかける営みは、もはや無制限に肯定されない
⇒工作人は自然の破壊者になる
⇒自然に対する「制作」の「自己確証と満足」は暴力の経験である
③ 「仕事」/「制作」はモデル(目的)と手段のカテゴリーに支配される

a.道具の手段性とテクノロジーによる人間の「適合」
① 工作人は世界の持続と安定性を目指す世界建設的な営む存在である。
⇒しかし、道具から機械に変わっていくと労働者に対して機械のリズムに合わせるように要求し始める
⇒機械が人間の条件になるのであって、そこから自由になることはありえない
② 科学技術の進行…蒸気⇒電力⇒オートメーション⇒核エネルギー=地球破壊の段階
⇒自然過程に核エネルギーが入り込むと、「目的―手段」の関係が成り立たず、自分たちの目的のために打ち立てるはずの手段が世界を破壊するようになる

b.手段性の拡大
① 制作の「目的―手段」の関係の問題点…何のための目的か?有用性だけで目的が定まるものはすべて他の物の手段としてのみ有用であるにすぎない
② 目的によって手段の暴力は正当化されるが…
 ⇒ベンヤミンの『暴力批判論』…軍隊や警察暴力を正当化する法

3.活動
① 「話し合うことによってこそ人間は政治的な存在になる」
⇒人間が人間であるがゆえに直接コミュニケーションする存在であるということは人間が言葉で話し合うということによる
③ 他者との語り合いの中にユニークネス(個性)を示していく(第二の誕生)
⇒誰も自分の経験を誰かに変わってもらうことはできない。その経験を語るところにユニークネスが現れる
④ 活動空間の条件…人々が互いの違いを認め合い、違いのゆえにこそ平等であること、コミュニケーションそのものに関心や喜びを向けうること
⇒経済的利害や労働条件によって活動の条件は奪われる
 ※サラリーマンは現代の奴隷!
⑤ 「活動」の忘却が全体主義を招いた
人間存在のリアリティやアイデンティティのためには「活動」が不可欠
⑥ 近代の『歴史の進歩』
・光…科学技術の発展、資本主義による富の形成、市民革命による人権思想や民主主義
・影…物質的欲望の際限のない拡大、帝国主義と植民地化、侵略戦争、排外主義…
⇒歴史の進歩という必然性の中で予測不可能な個々人の共同による「活動」は忘却された
⑦ 家事・市民運動・出産・教育の活動/非活動性
⇒家族の中においても政治的要素が意味を持ちうる
⑧ 「活動」の予測不可能性と一回性
⇒活動の不可逆性と不可予言性という性質…予測不可能な「活動」は過ちをももたらす
・「赦し」…新たな「始める」ことを可能にする人間の能力
⇒撫順の奇跡…担白という『告白』作業による修復的正義、真実和解委員会
・「約束」…予測不可能な活動に安定を確保する

第4回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会

2017-12-26 | 『〈政治〉の危機とアーレント』を読む
今年最後の佐藤和夫『〈政治〉の危機とアーレント』の読書会です。
途中からの参加もOKなので、その際にはメッセージをください。
第1回~第3回の様子はこちらをご覧ください

第1回の議論のまとめ
第2回の議論のまとめ
第3回の議論のまとめ


        
第4回『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会
【会の趣旨】
この『〈政治〉の危機とアーレント』を読む会は、来たる2月24日(土)に著者である佐藤和夫氏を福島へ招き、本書についてともに議論しながら、アーレントという思想家のアクチュアリティや現代世界の危機について語り合おうという目的で始まりました。
当初は5.6人の少人数で集まるイメージでしたが、広く声をかけたところ、あっという間に参加者が増え、2月の「著者と一緒に読む会」に関しては定員20名がすでに満席となってしまいました。
現在継続している「読む会」には13名が参加されています。
参加者も幅広く、福島市、いわき市、郡山市、二本松市、会津坂下町など県内にお住まいの方から、金沢市と和光市のように県外にお住まいの方もスカイプで参加されています。
年齢も30・40代を中心に20代から70代まで幅広く、職業も多種にわたっています。
その点で、哲学やアーレントなどまったく知らない市民が、佐藤和夫=アーレントを通じて現代世界の危機について学び合う場となっています。
毎回、カフェマスター(渡部)の方でレジュメを用意し、それを読み合わせながら、参加者同士でわからない部分や事例を挙げて自分の解釈を述べたり、ときにははみ出して現代社会の問題を語り合ったりするという、お気楽な場となっています。
毎回の読書会は、お仕事の都合や家事などで参加できない方もいらっしゃいますが、一章ごとに区切ることで途中からの参加者も、できるだけ参加しやすい形で進めていますので、関心をお持ちになられた方は、ブログよりお気軽にメッセージを下さい。

【開催日時】
 2017年12月27日(水)20:00~21:30
【読み合わせ箇所】
 第4章「労働・仕事・活動―マルクスと近代への批判」(p.131~p.168)
【参加条件】
 ⓵スカイプ通信での対話を行います。参加希望の方はメッセージをお送り下さい。
 ⓶可能な限り事前に指定範囲を読んでご参加ください。

「霊は存在するか?」まとめ

2017-12-24 | 哲学系
ぼぶ★れのん対カント。
すごいおもしろかった。
思わず深夜まで盛り上がってしまった。
ありがとう、ぼぶ!

というわけで、まずは渡部の方からカントの『視霊者の夢』の要約を簡単に説明した後、すぐにぼぶの心霊体験談に突入。
ぼぶからは自分の心霊体験談は信じてもらわなくてもいいし、疑問点はどんどんん突っ込んでほしいという希望が出されました。
その上で、彼は「血」なのかおばあさんの血筋によく霊感の強い人たちがいたという話から始められました。
おじさんに至っては「狐憑き」の症状がしばしば起こり、予言が的中するところを何度も見たというのです。
そして、小学校三年生のときに、はじめて不思議な経験をしたそうです。
その中でも、今回ぼぶがテキストとして選んだ心霊体験談は、中学校時代の文化祭でお化け屋敷をつくっていたときの話でした。
いい感じでお化け屋敷の制作が進み、いよいよ完成に近づいた夕暮れ時、その教室の暗闇のなかでぼぶは同級生のH君とともに突如女性の生首が降ってきたことをいっしょに見てしまったというのです。
その時の女性の顔、動悸の激しさは今でも思い出すそうですが、いっせいに逃げ出した後、同級生たちは混乱に陥り、恐怖だけが包み込んだその教室で、とりあえずその日はいったん帰ろうということになり、帰宅したそうです。
その帰り道、Hくんといっしょに下校していたぼぶは、ふたたび電流が走ったような瞬間を経験したそうです。
同時に近所の犬たちが一斉に吠え出し、不穏な感じがしたまま帰宅し、トイレに入ると今度は生暖かい風が首の周りにまとわりつき、変な感じだなぁと思って首の周りを手でさわったところ、今度は緑色のスライム状の物体がついていることに驚いたそうです。
気持ちが悪くて急いで洗ってしまったそうですが、今思えばあれは霊現象の何かをつかむ証拠物体だったじゃ中と悔しそうに語ります。
すると、H君から電話が入り、「今どうしている?」と聞かれたそうです。彼もまた帰宅後の不穏な感じに不安を感じたようでした。
実は、別の同級生のK君から「本当に見たのか?」と聞かれたそうです。
K君はポルターガイスト現象などをよく経験し、霊感が強い同級生なのだそうですが、彼はその日眠ることができなかったとのことでした
そして、「誰にも言うなよ」ということを条件に、実はそのお化け屋敷制作に使った教室は、かつて柔道場があった場所で、そこで女性が亡くなる事故があったということを教えてくれたというのです。

さらに、不思議体験は継続します。
高校生になったぼぶは、そのときの心霊体験談を二人の同級生に話したところ、特に彼女らが怖がりもせずに、妙に納得しながら聞いている様子を不審に思ったそうです。
そして、彼女らに「こわくないの?」と聞いたところ、「だって、その生首の女性、あなたの後ろにいるんだよねぇ」と教えてくれたというのです。
その二人の同級生は二人ともいわゆる霊感の強いひとだったらしく、お化け屋敷の霊がぼぶに憑いていることを一緒に見えたそうなのです。

ここでぼぶから、自分だけが見たものは幻想かもしれないけれど、複数人で同時に見た現象については、どう説明すればよいのか、そのことを皆さんと一緒に考えたいという明晰な問いが提起されました。
お化け屋敷の中でH君といっしょに見た生首も、それがぼぶの後ろに憑いた現象を見た二人の同級生も、複数で不思議な霊現象を共有しています。
これをぼぶは「共時性」と呼びました。
さて、この共時性を伴う霊現象をどう説明すべきか、論点は一つに絞られました。

ちなみにカントは、霊は物質によって満たされた空間の中にもありうるという存在で、霊的存在はそれを集めてみたところで、個体のようにしっかり固まって全体をつくることができないといいます。
そうであるがゆえに、カントは霊的なものの存在は否定しなのですが、それを色や形のような物質的なもので捉えることは矛盾であり、そのような現象として認識できないと考えています。
それに対して金縛りを経験されたことがある参加者は、その時の説明できない圧迫感を受ける事実から霊なるものの存在を認める意見が挙げられます。
しかし、圧迫感があるというのは、やはり物理的現象なのではないか。
いやいや、それは空気のようなもので、説明がつかない経験なのだといいます。
たとえば、「この場所はなんかやばい感じがする」という具合に、いわく言い難い「空気」を感じたことはないか、という問いかけには少なからぬ人が賛同します。
でも、それは万人が感じるものではないよね。
たとえば、墓地にいけば必ずそういう圧迫感を感じるかというと、そんなことはない。
それってなんなんだろう。
いや、でもさ、金縛りは目覚めていないよ。
あれは肉体が眠ったままで、実は自分で試したことがあるけれど、目も開いていないし、まだ夢の領域だよ。
ただ、夢と違うのは、夢は自分の意志とは別に勝手にストーリーが進んでいくけれど、金縛りの場合は少なくとも自分の意志を働かせようとする。
それが身体に伝わらないから圧迫を感じるのであって、別にこの世ならぬものが物理的にのしかかってくるわけじゃない。

それでも、なにかを感じる人には感じる?
霊って、そんな偶然的で相対的なものなんだろうか。
たとえば、死者の多さで言えば、広島、長崎、沖縄のような戦争の被害が甚大なところでは、いたるところで霊現象が起きてもおかしくないではないか。
その意味で言うと、何か事件性があったから霊現象が起きるというのはおかしい気がする。
あの世があるとすれば、そんな秩序だったものじゃなくて、こちらの意識や理性で捉えられるようなものじゃないんじゃないの?
だから、突然変なところに現れたりするんであって、彼岸と此岸をむすぶ霊界の通路みたいなものがあるというのも嘘くさいし、いちいち説明をつけられること自体が胡散臭い。
その点からいえば、何か事件事故があったことと心霊現象が因果的に関係するというのは、此岸の人びとの論理でしかなく、けっして彼岸の論理とつながっているなんてわからないはずだよね。

これに関してカントはこんな風に言ってます。
異常なのはその〔霊〕現象が…めったにないことである。人間の魂が霊としてもつ表象は、その意識が一個の人間として肉体的器官の印象に基づいて脳裏に描く表象とはまったくちがっている。そういうわけで可視の世界と同時に不可視の世界にもメンバーとして属しているのは確かに同じ主体だが、決して同じ人間ではない。/なぜなら、この世についての表象は、そもそも状態が異なってるから、あの世の状態に伴ってくる観念ではない。そこで私が霊として考えていることは、普通の人間としての私によって想起されることではない。【p.59-60】

カントさんはむしろ霊現象がめったにないのが異常だというのですが、けっきょく彼岸と此岸の世界は状態が違うのに、なぜか霊現象は此岸の肉体的な経験でもって霊現象のイメージをつくるのは変だといっているわけです。
因果関係で出来事を結びつけて理解するのは、カントの用語では現象世界を秩序付けて認識する悟性の作用なわけですが、それを感覚を超えた彼岸の世界と結びつけて捉えることはまさに誤用だというのです。

森達也は「オカルト」で霊現象などオカルト現象は100%嘘だと言い切れないのだが、その出現があまりに偶然的なので証明は難しいことを述べています。
カントも霊的存在そのものは否定していませんが、やはり現象世界で人間の感覚に基づいた認識ではとらえられないといいます。
どうも、人間の理性や知性とは別の論理で物事が成り立っているのが霊現象なのかもしれません。

それでも五感で霊現象を経験したという話は尽きません。
ある新築の家で何も置いていないのに麝香のような香りがする部屋があり、そこが霊と関係するのではないかという指摘を受けてからお払いをしたところ、においが消えたという体験談を話された方もいます。
これも霊現象は物理現象と関係しないという定義からすれば矛盾します。
にもかかわらず、お盆に祖母の霊が現れるときは必ずたいてもいない線香のにおいがするという経験談も出されました。

ちょっとまて。
お盆には祖霊が彼岸から帰ってくるから、その時期に霊はたくさん現れるという説。
それって、なんで日本だけなんだ。
霊が全世界不屁的な現象なら、みんな共通の時期に出没するはずじゃあないか。
しかも、霊現象そのものも国によって現れ方が違ったりするのはなんでだ?
このことからしても、霊現象が物理的な形で現れることに矛盾はないか?

じゃ、ぼぶたちが共時的に見た霊現象ってなんだ?どう説明するんだよ?
これに関しては、心霊現象ではなくUFOの目撃体験をしたことがある参加者から、複数で見たという話が挙げられます。
そこにいた人たちはみんな間違いなく同一の不可思議な現象を目撃しているにもかかわらず、特に他に拡散はしない。
それはなぜなんだろう?
けっきょく、見た人にしか信じてもらえないという構造があるのか。
それを「秘密の思い出」と表現した人もいます。
たしかにそうかもしれない。けれど、それは単に精神状態がシンクロしたもので、それが同時に見た不可思議な現象として共有されるんじゃないか。
つまり、お化け屋敷の霊で言えば、緊張した心理状態で何かを見た瞬間にそれが「生首らしきもの」に見えたものが、後から事故現場の話などの情報が付け加わっていく中で、徐々に「生首」という形象として共有されていったのではないか。
この話にはかなり説得力がありました。
幽霊観たり、枯れ尾花。
たしかに、何かを見たのだろう。けれど、それが「生首」だったかどうかは、実はドラマ、物語によって後付けで形成されていったのではないか。
それが共時性という現象なのではないか。

しかし、しかし、それでもなぜか皆さん、錯覚とは区別された霊的なものの存在は否定しきれないようです。
それを突然、霊的なものが自分の名前を呼ぶ声を聞くという人もいました。
そこまでいくと、なぜそれが霊現象といえるのかどうか、どう判別するのかを問う必要があります。
ぼぶは、霊を見たことがあると答えただけで、某哲学教授に試験答案を破られた経験があるそうです。
霊を幻影や錯覚と確信している人にとっては、そび経験自体が霊的存在を認めたということを意味し、堪えがたいことなのでしょう。
カントも霊の存在は認めるものの、厳格に経験概念としてとらえることは不可能であるといいます。
しかし、そんな彼の文体もまた、実は歯切れが悪い。

ぼぶは、たしかに理性や科学的なものとして霊は捉えることはできないかもしれない。
それでも、理性や感性とは区別された「魂」という次元で感じるものが人間にはあるんじゃないかと問います。
彼は、その例として意識不明になり、もう回復することはないとされたご親戚の病床で声をかけると、突然その方が涙を流したという体験談を話してくれました。
奇跡的にその方は回復されたそうですが、意識がない状態のときに涙を流した出来事を話すと、本人はそんな記憶はないといったそうです。
つまり、意識の有無とは別の次元で何かを感じる器官が人間にはあるのではないか。
それが「魂」なるものであり、意識をつかさどる理性とは区別されたそれがある限り、ぼぶは脳死は人の死だと認めることもできないといいます。
それが「祈り」など非合理とされながらも、人間がどんどん失っていってしまっている文化と関係があるのかもしれません。
もっと言ってしまえば、もしかすると「魂」なるもの、特別な人だけが感知できるチューナーみたいな機能を持つのかもしれません。
だから、カントは、
「この種の幻影は下品で通俗的なものではなく、その〔魂の〕器官が異常に刺激を受けやすい人に限って生じるものである」
「我々はおそらく来世においては新しい経験と新しい概念を通じて、われわれの思考する自我の中でまだ我々に隠されている諸力について教えられるまで、ただ待つほかないだろう」
というわけです。

実に、実に面白い回でした。
ぼぶ、ありがとう。
これで素敵な新年を迎えられそうです。皆さん、良いお年を。(文:渡部純)

霊は存在するか?―カント『視霊者の夢』を読みながら

2017-12-20 | 哲学系
  

【開催日】2017年12月23日(土・祝)16:00~18:00
【会場】サイトウ洋食店(福島市栄町9-5 栄町 清水ビル2階)
【参加費】飲料第300円
【カフェマスター】ぼぶ・れのん&渡部純


この世に霊は存在するのか?
子どもの頃からこんな疑問を抱いていた、そこのあなた!
哲学者カントが、同時代の神秘思想家スヴェーデンボリの「視霊現象」を徹底的に検証した批判的見解を読みながら一緒に考えませんか?
今回のカフェマスターの一人、ぼぶ・れのん氏は心霊体験豊富かつその体験を客観的に爆笑を交えながら語れるユニークな演劇人です。
従いまして、今回はカント『視霊者の夢』とボブ・レノン氏の心霊体験談をテクストとして交差させながら、対話を展開したいと思います。
現代地方版・哲学者対霊能者の対決の場を楽しみませんか?
なお、課題図書を読んでこなくても大丈夫です。
こちらである程度解説しますし、メインはぼぶ・れのんさんのお話を中心に進めます。
当会は宗教の勧誘ではありません。もちろん、この場での宗教勧誘も禁止しますし、もう一人のマスター渡部は唯物論者です。
今年最後のカフェロゴ、お気軽にどうぞ。


Café de Logosとは?

2017-12-19 | カフェロゴって何?―活動の趣旨
       

Café de Logos(通称カフェロゴ)は文学、哲学、アート、映画、政治、経済、社会、教育、科学、医療福祉、農業などなど、言葉で語れるものなら何でもお気楽に語り合いができる移動式の言論カフェです(※ほんものの喫茶店ではありませんので、ご注意ください)。
しかも、他店に間借りして、かつそのお店の珈琲、紅茶、あるいはお酒をいただきながら語らいます。
福島市を拠点にしていますが、要望があればどこへでも開店します。

カフェロゴには、その場を主催するカフェマスターがいます。
マスターによってその場のテーマや進め方、ルールは異なりますが、そこに場の個性が生まれるというものです。
けれど、カフェマスターだけでは喫茶店は潰れてしまいます。
その意味で、そこに集う参加者たちこそが、その店を盛り上げる主人公なのです。
テーマを提起するカフェマスターも、それに応答する参加者も、それぞれが主人公になれる場。
それが劇場としてのCafé de Logosです。

興味があればその場にパっと集い、興味がなければ素通りする。
仕事帰りに一杯ひっかけながら語り合う。
そんなお気軽なカフェ&バーとしての場がCafé de Logosです。

カフェロゴは代表者をもたず、この社会実験に賛同する人自身が当事者となり、企画の実行者=カフェマスターになります。
その企画の趣旨に賛同する人がひとりでもいれば、その企画は実現しますが、参加者がいなければ集いそのものが自然消滅する可能性があります。
なので開催の有無については注意してください。
お客が来なければ、お店をたたんですぐ休憩する。
そんな気まぐれなカフェ&バーがCafé de Logosです。

この言論活動のポイントは語り合いを媒介する「テキスト」の存在です。
何もないところで「さぁ、〇〇について話しましょ」といわれても意外と困っちゃいます。
人が話してみたくなるためには、それを媒介するものが必要です。
それが「テキスト」。
テキストといっても教科書じゃありません。
時に、それは本や新聞記事、雑誌、論文であったり、映画や絵、写真、映像、音楽などなど、その形式は様々です。
そして、それは「人」であったりもします。
他人にはわからない仕事内容や家事、育児、介護などなど生死の現場での苦労、悩み、葛藤。
それら個々の稀有な経験の「語り」は、人生の機微を共有できる素材そのものなのです。
それらを語ってもらいながら、それを受け取った人がさらに応答していく。
抽象的な問いからだけでは生まれない、リアリティを考えさせらえるものこそが「テキスト」です。
この活動では基本的にそれを媒介にして各人の考え方や感じ方を語り合っていく場です。

それで何が生まれるかはやってみないとわかりませんが、言葉や対話が未知の世界を開く可能性を信じて、語り合いの場を創造しましょう。
かつての古代ギリシアのアテネという町では、その辺の居酒屋や街角で市民同士が喧々諤々議論し合う文化があったそうです。
そんな言論の活気が、街なかのそこかしこで生まれる街になることを夢見る人たちが交差する「場」。
それがCafé de Logosです。

この社会実験は常に試行錯誤をくり返していきます。
それゆえ、いま、ここに書かれている活動の趣旨も、常に「書き換え」の可能性があります。
代表をもたないこの活動は、各企画のカフェマスターの個性によって運営の考え方も方法も変わります。
それでも、そのノマド的な遊動性は新しい時代の活動のあり方なのかもしれないと、とりあえず実験を試みるわけです。
ただし、それぞれの文章の署名は必要です。
個人が書いた文章や活動の企画運営を団体名で代理=代表することは、どこか読み手に無責任さを感じさせながら不安にさらします。
というわけで、Café de Logosでは、それぞれの活動企画書や文章は当事者のカフェマスターの署名を記します。
その意味で、カフェマスター同士の合意のもとで加筆修正変更されることに開かれています。
そのことが望ましい活動へ開く可能性を担保するからです。

Café de Logosは個々のカフェマスターのお店がつながったネットワークです。
それは空間的なまとまりのない「商店街」といった方がイメージしやすいかもしれません。
文学屋さんもいれば、アート屋さんもいる。
哲学屋さんもいれば、科学屋さんもいる。
政治屋さんもいれば、教育屋さんもいる。
育児屋さんもいれば、介護屋さんもいる。
ただし、それは学校でお勉強してきた専門家という意味ではありません。
自分が直面している問題は、それぞれが専門家なのです。
それぞれの屋号はそれぞれのマスターが名乗れる自由を認めるのがCafé de Logosです。

というわけで、ゆるいネットワークの言論商店街の始まりです。(文:渡部 純)

ぼぶ・れのんって誰?―12月のカフェロゴ・マスターについて

2017-12-06 | カフェロゴって何?―活動の趣旨
                

今度の12月23日(土)に開催されるカフェロゴ「霊は存在するか?-カント『視霊者の夢』を読みながら」では、カフェマスター渡部によるカントの議論と、もう一人のマスターぼぶ・れのんによる自身の豊富な心霊体験を交差させながら、テーマについて皆さんとの対話を行います。
とはいえ、みなさん、「ぼぶ・れのんって、誰?」と訝しがっていると思います。
もしかすると、すんごい霊媒師で、俺たち、洗脳されちゃうのかもって思って参加を迷っている人もいらっしゃるかもしれません。
そこで、彼の人となりを紹介したいと思います。

ぼぶ・れのん(以下、ぼぶ)は、僕とほぼ年代が変わらない40半ばのおっさん演劇人です。そして、高校の先生です。
彼は僕より若干年上だった気がしますが、図々しくも一目会ったその瞬間から、「おぉ!わが友よ!(ジャイアン風)」と直観してしまったくらい、ベタ惚れした人です。
とにかく、アツい。アツ苦しいくらい、アツい。そして、そのアツすぎる精神は、時として身体を超越して酷使してしまうほどです。
でも、おもしろい。おもしろすぎる人です。
彼のつくる演劇も、まさにそのイメージ通りのものばかりで、鑑賞していると「あぁ、ぼぶってるなぁ」というものばかりです。

そんな彼は、いつも心霊体験を笑いを誘う語り口でおもしろく語って聞かせてくれます。
僕が、そんな彼の霊能力者としてのスタンスを気に入っているのは、「その場で自分しか霊を見なかった場合には、それは錯覚だと思うようにしている。けれど、同じ場所に居合わせた人が同時に同じ霊現象を見たというときには、そういう存在がいるんだなと思うようにしている」という点です。
とても、謙虚な霊能力者だなぁと思うし、それをドン引きさせないように語れるセンスをもち合わせた人なんです。
その割には、かなりの心霊体験をしているし、とにかくそれが見える人ってなんなんだ!という彼に対する憧憬にも似た思いが、ずっと僕の中にあったわけです。

彼と知り合ったのは、11年前に他界したある親友Kを介してですが、彼と会うと話が止まらない、けれど定期的に合うような関係ではないという不思議な関係です。
エピソードを紹介すると、Kが急逝した後、僕らは郡山のとある喫茶店に集い、10時間Kについて語り合ったことがあります。
ランチでそこのビーフシチュー食べて、ディナーも同じものを食べたとき、そこのマスターから「一日に二度同じものを注文したのは、あんたたちが初めただ」と言われたことがあります。
そんなに語り合えるんだから、しょっちゅう会っているのかといえば、まったくそうではなく、実は、彼と再会するのは震災以来初めてです。
それでも、会った瞬間、まず握手するかハグする仲で、ある意味、彼とはそんなに言葉は必要ないのかもしれないと思うこともあります。

実は、そんな彼と震災後に再開したのは、先日、彼が顧問をする演劇部の公演を観たときでした。
その公園の脚本は、彼自身が書いたものであり、その内容はわれわれをつなげてくれた、亡きKを題材にしたものです。
彼が主催する「こっから座」という演劇集団での初舞台では、涙しながら観入ったものです。
で、終演後、出口で待つ彼と言葉なしに涙ながらにハグしました。
まるで、桜木花道と流川楓が山王工業戦の最後に、思わず握手をしてしまうような感じでした。

そんな彼の作品「ARBがやってきた!」を観た感想の速記録を、以下にアップします。
少しでも彼に興味を抱いた方は、12月23日(土)16:00より、サイトウ洋食店でお待ち申し上げます。

「ARBがやってきた!」

親友ぼぶ・れのんが顧問をする演劇部の発表を鑑賞した。
まだ熱のあるうちに速記で書き残しておく。
この脚本は我々二人にとって忘れがたい友人を物語化したものであり、彼を深く知る人たちにとっては、亡くなった彼が再びよみがえってきたかのような懐かしい印象を受ける物語だ。
仮にその友人をKとしよう。
Kは11年前に突然この世を去った。
あまりにも唐突すぎて、われわれ二人は何が何だかわからなかったような気がする。
その彼が演劇の舞台で、しかも若い高校生たちによって再生されたことは、羨ましくも感銘を受けた。
しかも、その再生されたKはまだ大学新卒の20代である。
Kとは友人だといったが、実は彼は17歳も年上である。
友人ではなく完全に先輩である。
しかし、彼はそんな境界を取り払うおおらかな人だった。
当然、20代の頃の彼の姿など見たことはない。
しかし、彼が酔いながら若かりし頃のほろ苦い教師体験を思い出しながら静かに語る思い出噺は、僕ら若輩者に共鳴を呼び起こさせながら、その見ざる光景をフラッシュバックさせたものだった。
その「見ざる光景」を再現前させたのが、今回のあさか開成高校の「ARBがやってきた」だ。

舞台は1983年のとある高校。
まだロックが不良の代名詞であり、そのライブに行くことそのものが校則違反の対象とされるような時代だ。
ARBは石橋凌をヴォーカルとした社会派ロックバンド。
話は、そのライブを高校生が企画したことを高校側が耳にしたことが発端となる。
ライブ会場へ出入りしないように取り締まりに行こうとする生徒指導部長・権田とベテラン女性教師・西園寺に向かって、「なぜロックがダメなのかわからない」と、その指導に異論を唱える若手講師・夏目。そのあいだに挟まれる若手女性教師(名前、ど忘れしちゃった!)。

なぜロックはダメなのかと納得できない夏目を、生徒指導の常識でたたく権田と西園寺。青臭いともいえる夏目は、そのまんまあだ名が「坊っちゃん」。
厳しい生徒指導ができない教員を蔑む目で見る教員文化があることは、手に取るようにわかるし、いっぽう何かを許容することは一気に秩序の崩壊を招きかねないコワさもがあることもわかる。
だから、権田の中にも夏目の言い分がわからないわけではないところがある。けれど、立場上、学校の常識を激しく振舞わざるを得ないし、むしろベテラン二人はそれが身体化してしまっている。
まだ、当時のスカート指導がミニスカートを下げなさいではなく、「上にあげなさい!」だったという時代性にも笑わされる。
服装の基準なんて時代相対的なものだ。そんなものに、なぜ目を吊り上げて、生徒との関係性を壊してまで躍起にならなきゃならないないだ。
実際に、多くの現役教師はそう思っている。

夏目はあの手この手を使って権田を説得にかかる。
自分だってARBのライブに行きたいから、主催した生徒からライブチケットを購入したともいう。
権田が好きな演歌や西園寺が好きなクラシックとどう違うのか、と説得する。
挙句の果てには、権田が社会科の授業で少数意見を尊重する民主主義を熱く説いていたことを衝いて、この件についてもっと議論することを求める。

若手女性教師は立場の弱い講師である夏目をなだめつつ、自分自身もその生徒指導に納得がいかないことを訴える。
それに対するベテランの答えは、決まって「誰が責任を取るんだ」である。
この場合の責任とは、それをきっかけに学校秩序が崩壊したときにどうするんだ、ということだ。
時代はヤンキーや暴走族が暴れまくっていた時代だ。
その教師側の恐怖心はわからないではない(事実、中学生のころ、僕は教師が中学生に殴られるシーンを何度も見た)。
しかし、夏目はそれだけで生徒たちの芽がつぶされることに納得を示さない。
その中で、夏目の高校演劇部時代の恩師がコンクールを終えた後に、自分の無力さを嘆く夏目に向かって、ビールを一杯飲ませながら叱咤したというエピソードを語るシーンがある。
劇中でも夏目が語るように、高校生に酒を飲ませる教師なんて、世間的には悪い教師である。
しかし、それでも生徒に寄り添うような教師に自分はなりたいと訴える。
青い。まったく青臭い教師観である。
原則を犯してでも生徒に寄り添える教師。
いつでも、そのような教師は生徒に尊敬の混ざなしを受け、同僚に蔑んだ目で見られるものだ。
後者の目に耐えられる現場教員は少数派である。
ややもすると、それは「学校」という世間を知らない「坊っちゃん」としてしか見なされないことに耐えられないことの言い換えである。
だから、若い女性教師は夏目の意見に共感しつつも、最終的には自分自身の考えはないと嘆きながら、ベテラン側に着く。

しかし、最終場面。
ライブ会場見回りが決定し、そこへ向かおうとする西園寺と女性教員に、ふと権田はライブ会場とは異なる会場を、意図的に間違えて伝える。
それぞれが、暗黙の裡に権田の意図を理解する。
どんなに厳格な教師であっても徹頭徹尾原則を曲げないわけではない。
そこに情の備わったある種の理を直感したとき、別の判断を働かせるものだ。
それを担保するのは、もしかしたら権田自身が若いころに同じ葛藤を経験したことにあったのかもしれない、と言ったら読みすぎだろうか。

実際のKの経験は、これとは別だ。
当時、講師だったKは生徒指導部長にライブ会場のなかに生徒がいないか見回りに行けと命じられ、渋々会場の中へ入っていった。
もともと、くだらねぇと思って見回りのふりをするうちに、ついつい自分もARBの音楽に乗って、いつしか手を振り上げてジャンプしていたといっていた。
そこには、夏目のような血気盛んな坊ちゃんのような姿はない。
むしろ、ウジウジと上意に従いつつ、面従腹背のしたたかさも持ち合わせていないけれど、どこか底抜けの行動に転じてしまうKの人柄がにじみ出てしまっている。
この演劇でのやりとりをKが経験したわけではないだろう。
しかし、理不尽な生徒指導に直面したKの頭の中では、このようなやりとりがあったのかもしれない。
いや、少しでも一方的な原理主義の生徒指導に違和感を覚える教師は、すべからくこのような葛藤を心の劇中で繰り広げているのだろうと思う。

「ARBがやってきた」の秀逸さは、それを演劇によって再現したことだ。
正確には覚えていないが、ある審査委員が、激しい言葉のやり取りや過剰ともいえる演技に対し、乱痴気騒ぎで子どもっぽさと評した。
もっと現実の教師は、あんなにあけすけに意見をぶつけ合っているはずもないし、演劇はリアルを求めていかなければいけないみたいなことも述べていた。
現実の生徒指導協議の場面が、あのような激しさになるわけがないのは当然である。
しかし、そのリアルとは別のリアルがあることを示すのが、文学であり演劇ではないのだろうか。
この演劇はある種の戯画化であり、戯画化しなければならないほどくだらない事をまじめに遂行しようとする教師の原理主義を相対化するためには、最高の起爆剤なのである。
なにより、当の指導対象たる高校生たちが、指導する主体の内側に入って演じるということは、彼らにとっても指導主体の論理を考える機会なのではないか。
そこから思考や対話の可能性は開ける。
逆に、この作品は教師が見て、感情や心をざわつかせた方がいい。
それは、単にかつて自分の中にあった「坊っちゃん」の青臭さを懐かしむのではなく、自分の中にもある違和感をよみがえらせるためである。
そして、本当はあの劇中の4人のようにアツく議論を交わしたうえで、納得して前へ進みたいという思いを想い起すためにである。

あさか開成高校の演劇部部員の演技は「見事」という言葉しか見当たらなかった。
幕が上がった冒頭、ライブに熱狂する若者を演じる迫力はすごかった。
朝から抱いていたもやもや感が奪われ、一気に劇中に引きずり込まれた。
4名の教員役途中から「現場の教員」にしか見えなかった。
それぞれのセリフのテンポも絶妙であり、一瞬たりとも気を抜ける場面がなかった気がする。
不思議なのは、個人的にKやぼぶを知っているからなのだろうか。
権田の叫ぶセリフはぼぶの叫びにしか聞こえないし、彼の葛藤はKとぼぶの葛藤にしか聞こえない。
若かりしころのKは、夏目のような清廉さがあったようには思えないし、もっとじめじめとしていたであろうはずなのに、そのセリフはKの言葉そのものであったように思う。そして、それは同時にぼぶの言葉であるように。
権田と夏目の取っ組み合いは、いつのまにか、するはずもないKとぼぶの取っ組み合いのようにも見え、そこには二人の演技のはずなのに4人の姿が混在して乱闘しているかのような不思議な光景を何度も何度も見た気がする。
偶然、ぼぶと開演前に言葉を交わす機会があった。
ぼぶはKからもらったという額入りの絵を持参してきていた。
まるで遺影だ。
でも、ぼぶにとって、Kはまだまだ死んでいないどころか、何度でもこの作品によって再生されている。
今度は、ぼぶがこの作品によって何度でも何度でもこの世界に二人いっしょに再生されていくのだろう。
心の底から、この物語られる二人が羨ましいと思った。(渡部 純)