どうやら、テリィとの別れは水木先生の中で決まっていた、ということを知り、ショック😱⤵️⤵️を受けています。
以下、水木杏子先生の過去のエッセイです。
衝撃の部分をコピペします。
↓
私はその部屋で、キャンディと対話しながら最終回を書きあげた。ペンを置いたときの体が浮くような感覚はまだ残っている。
窓の外はもうまっ暗だった。
枯れ葉が流れる音が聞こえていた。私は複雑な思いで何もみえない外をみつめていた。
これでよかったのだ、いや、他にもっと書き方はなかったか――そんな思いとともに深い安堵感が私の中を漂っていた。
あの日から、もう何年もたってしまった。なのに、今も時々彼女のことを尋ねられる。その多くが、なぜキャンディとテリィをむすばせてあげなかったのか、というお叱りなのだ。
そのたびに私は、終ってもまだキャンディのことを思ってくれる読者の人々の気持ちに胸が熱くなり、みんなにとてもすまないことをしたような気がしてくる。
けれど、テリィと別れることは初めから決っていたのだ。キャンディには三つの愛を考えていた。アンソニーとの淡いはかない初恋、テリイとの激しい恋、そしてアルバートさんとの運命的な穏やかな愛
――しかし、いがらし氏の描いたテリイがあまりにも素晴らしい少年だったため、人気が集中してしまったようだ。
私でさえ、テリィの動きにほれぼれし、胸をときめかせた。キャンディとテリィの別れのシーンを書いている時、やけに息苦しく、目の前がくもるのでどうしたのだろう、とペンを置き、ハタと気づくと、呼吸するのを忘れ、目は涙でいっぱいだった。
その場面を書き終ったあとも悲しくてたまらず、深夜一人で泣いていると起きてきたダンナサマがびつくりした顔をした。身内の誰かが亡くなった、ととっさに思ったらしい。
あとで考えると、自分で物語を作りながらとおかしくなるのだが、書いている時は夢中でその世界にひたりこんでいる。
本当に愛しあっていても運命のいたずらで別れなければならないこともある――そんな思いをこめて書いた場面なのだが、自分が恋人と別れたようにつらいのだ。
原稿をわたしたあとも、しばらく私は重苦しい心をかかえていた。
(略)
初出『児童文芸』 一九八〇年陽春臨時増刊号、再録『マンガ批評大系4マンガ家は語る』 (1989年平凡社)より
窓の外はもうまっ暗だった。
枯れ葉が流れる音が聞こえていた。私は複雑な思いで何もみえない外をみつめていた。
これでよかったのだ、いや、他にもっと書き方はなかったか――そんな思いとともに深い安堵感が私の中を漂っていた。
あの日から、もう何年もたってしまった。なのに、今も時々彼女のことを尋ねられる。その多くが、なぜキャンディとテリィをむすばせてあげなかったのか、というお叱りなのだ。
そのたびに私は、終ってもまだキャンディのことを思ってくれる読者の人々の気持ちに胸が熱くなり、みんなにとてもすまないことをしたような気がしてくる。
けれど、テリィと別れることは初めから決っていたのだ。キャンディには三つの愛を考えていた。アンソニーとの淡いはかない初恋、テリイとの激しい恋、そしてアルバートさんとの運命的な穏やかな愛
――しかし、いがらし氏の描いたテリイがあまりにも素晴らしい少年だったため、人気が集中してしまったようだ。
私でさえ、テリィの動きにほれぼれし、胸をときめかせた。キャンディとテリィの別れのシーンを書いている時、やけに息苦しく、目の前がくもるのでどうしたのだろう、とペンを置き、ハタと気づくと、呼吸するのを忘れ、目は涙でいっぱいだった。
その場面を書き終ったあとも悲しくてたまらず、深夜一人で泣いていると起きてきたダンナサマがびつくりした顔をした。身内の誰かが亡くなった、ととっさに思ったらしい。
あとで考えると、自分で物語を作りながらとおかしくなるのだが、書いている時は夢中でその世界にひたりこんでいる。
本当に愛しあっていても運命のいたずらで別れなければならないこともある――そんな思いをこめて書いた場面なのだが、自分が恋人と別れたようにつらいのだ。
原稿をわたしたあとも、しばらく私は重苦しい心をかかえていた。
(略)
初出『児童文芸』 一九八〇年陽春臨時増刊号、再録『マンガ批評大系4マンガ家は語る』 (1989年平凡社)より
つまり。
最初から、テリィとの別れは決まっていた‼️
ということらしいのです。
でも。なぜ、それなら、10年以上たって、小説キャンディキャンディファイナルを出されたのか⁉️
そこで。
真相をさぐるべく、小説「キャンディキャンディ」を購入しました~😆
(清水の舞台から後ろ向きで飛び降りる覚悟で‼️)
何度も読み❤️
大人の事情、も含めて、私が想像するのは。
もともと、水木先生(名木田先生)は。
漫画連載当時。
テリィは、キャンディという女の子の人生を駆け抜けていったひとりの人物として描かれたではないか、と思います。
そもそも、スイートなラブストーリーとして、「恋愛」だけを重視して物語を考えていらっしゃらなかったのだと。
だけど。
水木先生の予想以上にテリィというキャラクターが爆発的な人気になってしまい、最初のストーリーの組み立てが危うくなったのではないか?と思うのです。
水木先生が漫画の連載が終わったあとも、なぜキャンディをテリィと結ばせてあげなかったのか?とお叱りを受ける、とおっしゃっているように。
それは、たぶん、多くのファンが思うこと。
私も水木先生とお会いできたら、そう言ってしまいそう。
テリィと結ばせてあげて欲しかった、と。
つまり。
ひとつの「物語」としてキャンディキャンディを作られた水木先生のご意志とは別にファンの中の「キャンディキャンディ」がひとりだちをして歩きだしてしまったのではないかとおもうのです。
水木先生だけの「キャンディキャンディ」ではなく、ファンみんなのキャンディキャンディ。
それを水木先生は感じられて、小説キャンディキャンディファイナルを書かれた、と私は考えています。
当時の小中学生にトラウマを残したし💧
だけど。
そこには、当時からのアルバートさん(丘の上の王子様)ファンもいて
彼らにとっては、キャンディキャンディは、(当時から)ハッピーエンドであるので、今さらテリィとくっつけなおす、ということもできず。
だから、水木先生は、「あの人」を名前をださずに、それぞれファンが、自分の思う「あの人」と暮らしている、とおもえるようにされた、と思います。
だから。
アルバートさんファンにとっては、やっぱりね❤️と。
テリィファンにとっては、「よかった。色々あったけど、最終的にはテリィと結ばれたのね❤️」と思えるようにされたんだと思います。
だけど。
私はおもうのです。
アルバートさんと暮らしているのなら、小説「キャンディキャンディファイナル」は必要ではなく。
よって。
小説「キャンディキャンディファイナル」は、テリィファンに向けて書かれたと私は考えています。
多くの方が、「あの人」考察をされていて、今さら私がする必要もないくらいなのですが。
ここでは、私が「あの人」は、テリィ❤️と決定的‼️と思う2点についてだけ記載します。
ひとつめの決定的証拠は。
現在、キャンディは、イギリスのエイボン川近くのお家に愛する「あの人」と住んでいる。
もし。
それが、アルバートさんなら。
きっと、スカンクなどの小動物や鳥や犬やたくさんの動物に囲まれて暮らしているはず。
だって、記憶を失っていた時ですら、動物公園をさまよってしまうアルバートさんなのだから。
でも。そのキャンディたちのお家には、水仙や薔薇のお花は咲いているけれど、ペットに関する記載はなく。
動物がいる気配はまったくなし‼️
絶対テリィんちよ~😆❤️
そして。
決定的証拠‼️
ふたつめは。
アメリカにいる病気のポニー先生をお見舞いに行くのを控えている(行ってない)キャンディ。
もっとポニー先生たちの役にたちたいのだが、今は、なによりいつもわたしが近くにいることを望んでいるあのひとのそばをわたしも離れたくない。
↑これって、絶対、直情的なテリィだと思う~♥️
アルバートさんだったら、キャラが違いすぎない?
ひとりでぶらっと旅に出るタイプのアルバートさんが、キャンディと暮らしたら、超甘えんぼになる、とは思えない‼️
ましてや、シカゴでキャンディと暮らしていた時なんて、普通‼️だったもの。
それに。
そのキャンディの思いを書いてあるページのすぐ前に。
今までつらいわかれはいくつもあった。
けれど、生きてさえいればまた巡りあうことができるのだ。
だから、わたしはもう、別れを怖れない。
↑これよね❤️
最終的に、キャンディが別れても生きていれば会える、とわかった、ってこと。
キャンディが(1度)生きて別れたのは、テリィだけ。
アンソニーとステアは、生きて別れたわけじゃないよね。
だから。
水木先生の最初の構想では、キャンディとテリィは最初から別れることになっていたのだけど。
我々ファンの熱い気持ちに後押しされ、キャンディキャンディという物語が勝手に?動き出し、それを知った水木先生が、「キャンディキャンディファイナル」を書いてくださった、と信じているのです❤️
つまり。
「あの人」とは。
テリュース・G・グランチェスターなのです❤️
その後、追記しています。
テリィとキャンディの運命、というか、水木先生の最初の構想について、感じたことがあるので、追記いたします。
私のブログ、「テリィがキャンディと踊ったワルツ曲、判明」でも書かせていただいたのですが。
↓
テリィとキャンディは、「ロミオとジュリエット」だと最初から「暗示」がされていたのだ、と思います。
結ばれぬ運命、と。
それは、セントポール学院の五月祭。
あの時、テリィは、ジュリエットに扮装しているキャンディと木立の中で踊ったのだけど。
きっと流れていたのは、「ワルツ ロミオとジュリエット」
シェークスピア好きのテリィだから「いい曲だね」って言ってたし。
キャンディは、ロミオとジュリエットが出会った仮面舞踏会と同じように「仮面」をつけて五月祭に参加して。
それに、テリィがキャンディを招待したN.Y.の公演(キャンディと別れる原因となったスザナとのお芝居)も「ロミオとジュリエット」だった。
「ロミオとジュリエット」が影のように、キャンディとテリィの人生にまとわりついている。
これって、水木先生の最初の構想では、テリィとの「激しい恋」は、ロミオとジュリエットのように結ばれぬ恋だと決まっていて、それを暗示していたんだと思います。
だけど、水木先生の予想以上にテリィの人気が高まり、ファンの声を受け止めて、「小説キャンディキャンディ ファイナル」では、テリィと結ばせてあげたのだと思います。
キャンディキャンディは、水木杏子先生だけのものではなく、世界中のファンのもの。
水木杏子先生は、そんな風にお考えになって、小説を出されたのではないでしょうか。