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[沈黙批判]フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』、2-2

2017-01-11 02:04:39 | 遠藤周作批判
フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』

◆2-2、キリスト者の信条 ; 踏絵 (デルコル神父)

 遠藤周作氏が「自分がそんな強者ではないゆえに」といっても、キリストはゆずられない。また、かれは、「おのが弱さや拷問への恐怖、家族への配慮、そんないろいろの理由で足をかけたのでしょう」と、いちおうもっともらしい口実をさかんにもちだしているが、真理は真理、絶対にどんな場合にも、これを裏切ることは許されないのだ。

 弱さは口実にならない、キリストヘの忠実は、絶対的なものでなければならない。いのちを失いたくないから踏絵に足をかけたというが、はたして、いのちをそれによって保証できるだろうか?”いな”とキリストはおおせられる。

 キリストのことばはおそろしい、しかし、そのおそろしさが、私たちに大きな力をあたえる。「でも、キリストさま、あなたをきざんだこの尊い踏絵に足をつけなかったら、私はすぐ殺されてしまいます・・・」といくら泣きごとをいっても、キリストは、「殺されてもかまわない」とお答えになる。そして、「こうして私のためにいのちをぎせいにしてこそ、あなたは、私を人の前で証言することになるのだ」といっておられる。

 遠藤周作氏の踏絵の第二の口実は、「拷問への恐怖」である。これについてキリストは、いのちを奪われるまでの覚悟をつよく主張される。しかも、おそろしいおびやかしを使ってまでも、その教えを強調されている。すなわち、キリストに対する忠実、いのちまでも犠牲にするほどの証は、信者の自由な選択にゆだねられているということではない。それは、義務、しかも、絶対的な義務、容赦のない義務として要求されていることである。

 したがって、万一、このあかしをしないばあいは、ただではすまされないのだ、そこには永遠の地獄の罰がまっている。

「からだを殺せても、霊魂を殺せないものをおそれることはない、むしろ、からだと霊魂とをゲヘンナ(すなわち地獄)で亡ぼせるお方(すなわち神)をおそれよ」というキリストのみことばは、太陽よりも明らかにこのことを証明している。

 救いをえるためには、最後まで頑張らねばならないのだ。聖書は、どんなおそろしいことがあっても、「おわりまで耐えしのぶ人は救われる」とも、いのちをぎせいにしてまで「人々の前でキリストの味方だと宣言する人をキリストもまた天のおん父の前で、その人の味方だと宣言する」といっているが、その逆のばあいを考えてみなければならない。たとえば、”人々の前で、キリストの絵を踏んで、キリストを否む人をキリストもまた、天のおん父のみ前で否む"ことになるのではあるまいか!では、キリストからいなまれるとは、どんなことであろう?それは、「のろわれたものよ、悪魔とその使いたちのために準備された永遠の火にはいれ」(マタイ25・41)という宣告をうけることである。

(続く)

[沈黙批判]フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』、2

2017-01-10 05:02:31 | 遠藤周作批判
映画「沈黙」の公開が近いので、急遽、掲載します。これらの記事は半年前にカトリックグループに掲載されたものです。

フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』

◆2、キリスト者の信条 - 踏絵 (デルコル神父)

「弱い人のためにキリストは、この世にきた」

 昭和四七年一月二三日のカトリック新聞第六面に、遠藤周作氏の「踏絵」という短かい記事がある。

 この記事で、まず目にとびこんでくるのは、「弱い人のためにキリストは、この世にきた」というキャッチフレーズだ。

 まったくそのとおりだと私は思う。キリストは、私たち弱い人間のためにこそこられたのである。しかし私は、その記事をよんでいくうちに、あまりのおどろきに目をみはった!

 そこでキリストは、弱い人間を強め、その弱さから救いあげるためにこられたのではない。結論からみると、かえって人間をめめしくし、その弱さのどれいにしてしまって、救いの希望をまったく奪いとってしまうのである。

 記事には、こう書いてある。

”私はこれ(=踏絵)をふんだ人の足も随分つらかったと思います。もちろん大部分の人は、それを平気で足にしたにちがいない。しかし、少なくとも信徒である者は、乙の踏絵に足をかけることに、心とともに体の痛さを感じたでしょう。自分がそんな強者ではないゆえに、おのが弱さや拷問への恐怖、家族への配慮そんないろいろな悲しい理由で足をかけたのでしょう。
 くろい足指のあとには、人びとのせつない気持がこもっているような気がしました。私は、その時、凹み、すりへったキリストの顔かまた、こういうように言っている気がしました。「早くふむがいい。それでいいのだ。私が存在するのは、お前たちの弱さのために、あるのだ」と。

 遠藤周作氏は、「小説家」だったら、なにをいってもよいと思っているのだろうか?

 かれはまた、”自分は、そんな感じがした”といっているが、感じたことはみな真理だとでも思っているのだろうか?

 ”沈黙”のなかで、かれは、キリストに同じことを言わせているのだから、ここは、そのくりかえしにすぎない。

 いやしくも信仰あるものなら、かれが、「早くふむがいい、それでいいのだ」とキリストのみ顔にいわせるのをきいて、キリストに対する大きな侮辱だとふんがいするだろう。

「私が存在するのは、お前たちの弱さのためにあるのだ」とキリストにいわせたのも、ひじょうに矛盾がある。

 キリストがこの点について、すなわち、この根本的な問題について、ひとこともふれなかったとしても、常識にもとづいて考えるなら、こんなことは、とても考えられないことである。

 ましてキリストは、これについて、ひじょうにはっきりした容赦のないことばをいっておられる。とすると、なおさら、遠藤周作氏のいっていることは、単に信徒としての立場からだけでなく、人間であるかぎり、いな、小説家としても、みとめることはできない。

 なぜなら、非常識に対して、小説家だからという口実はなりたたないからである。

 では、これについて、実際キリストが、何をいっておられるかを明記してみよう。つぎに抜粋するところは、マタイによる福音書(第一〇章)に書かれ、二千年ものあいだ忠実な全キリスト者の信仰をささえ、力づけてきたことばである。

 もちろん教会のなかにも、福音を、フィクションとか、神話とかいっている人々もいるが、かれらのことは問題にする必要はない。

 ところでキリストは、こういっておられる。

「人を警戒せよ、そうしないと、あなたたちは、衆議所にわたされ、あるいは会堂でむち打たれるだろう。また、あなたたちは、私のために総督や王の前にひきだされるだろう。それは、その人たちと異邦人との前で証言するためである。出頭するときには、どういうふうに、なにをいおうかと心配する必要はない。いうべきことは、そのときに教えられるだろう。話すのは、あなたたちではない。あなたたちのうちにある父の霊が話してくださる。兄弟は兄弟を、父は子を死の手にわたし、子は親にさからい、親を死なせるだろう。あなたたらは、私の名のために、すべての人から憎まれる。しかし、終わりまでたえしのぶ人は救われる・・・。弟子は、先生以上のものではない。下男も主人以上のものではない。弟子は、先生のように、下男は主人のようになればじゅうぶんである。人々が家父をベルゼブルといったのなら、その家の者にたいしては、なんというであろうか? かれらをおそれるな」。

 ごらんのとおり、キリストの言葉は、ひじょうにはっきりしている。

(続く)

[沈黙批判]フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』、1

2017-01-09 00:33:05 | 遠藤周作批判
映画「沈黙」の公開が近いので、急遽、掲載します。これらの記事は半年前にカトリックグループに掲載されたものです。

フェデリコ・バルバロ神父、アロイジロ・デルコル神父共著『キリスト者の信条 踏絵について』

◆1、衛星テレビの「沈黙」

 平成元年一二月二一日午後一〇時からNHKの衛星テレビで、遠藤周作氏の「沈黙」の映画が放送されるという番組のお知らせがあった。その知らせをみて、わたしは悲しく思った。

 この問題作が出てから間もなく、昭和四七年(一九七二年)一月二日付の「カトリック新聞」第六面に、遠藤周作氏の「踏絵」という短かい記事が出た。いうまでもなく、「沈黙」の中の踏絵の場面を正当化するためだった。

 これに対して、ドン・ボスコ社の「カトリック生活」(当時バルバロ神父編集長)の中に、わたしもバルバロ神父も、これに対する抗議的な反論をのせたことがある。当時、多くの読者から、勇気をもってこの反論をのせたことに対して、感謝と賛成の手紙や電話をうけた。

 あれから六年後、一九七八年一二月二四日、クリスマスの特別番組として、一二チャンネルのテレビで、遠藤周作氏と井上洋治神父のインタビューがあった。そこには、キリストについての遠藤氏の考えかたがよく現われていた。かれがいうには、キリストは奇跡をしたといわれるが、じっさいは無力で何の奇跡もしなかったのである。キリストは死後弟子たちによって神格化されたが、どうしてそうなったか、わたしにはわからない。キリストには、弟子たちの理解力をこえる何かがあった。そのためにこそかれらはキリストをうらぎったが、のちにこれを後悔して、キリストをすてたつらさと悲しさのあまりに、キリストを神格化して、はじめて認めるようになった。こうして少しずつイエズスは、キリスト、すなわちメシア、救い主となってきたのである」と。

 以上は、遠藤周作氏がのべた説であり、かれはこの説をその作品「キリスト伝」「キリストの誕生」、「沈黙」などで書いたと言っていた。しかし、これを書いたのは、「信仰宣言としてではなく、小説家としてである」と、かれは自己弁解した。あたかも小説家なら勝手に信仰をうらぎってもよいかのように!

 昭和五四年(一九七九年)四月八日、「カトリック新聞」は遠藤周作氏が、「芸術院賞」を受賞したことを大きく報道した。その記事によれば、遠藤氏を「キリスト教を広めた」ということでほめている。その記事は、「この遠藤さんの”無力"な神観に対して、カトリック界からも異議がないわけではない」と、いちおうことわっているにしても、カトリック新聞の記事では、かれ遠藤氏が”キリスト教文学とカトリック作家の市民権を獲得した"と高く評価している。

 当時として遠藤氏の「本が四〇万部もでるということは、その三倍ぐらいの人びとが少なくとも、キリスト教のその精神性に触れたことになる」と、その記事はむすんでいた。

 同年九月三〇日付の「カトリック新聞」にも、「遠藤氏の文学が布教に役立たないか」という問題を提供はするが、納得のできかねるあいまいなことしか述べていない。

 わたしの考えは、遠藤氏の文学は、キリスト教や聖書をテーマにしたにしたにしても、布教にとって大きなマイナスであり、とくに非キリスト者にとっては、”ゆがめられたキリスト教”を紹介したにすぎないのである。

 それで、平成元年末の衛星テレビで「沈黙」の映画が上映されると聞いたとき、わたしは非常に残念に思った。これほど進歩的な衛星テレビが"ゆがめられたキリスト教"を広めるために協力するとは! と。

 「沈黙」という小説を、カトリック者でも、残念なことに聖職者の中でさえ、今もなお高く評価するものがあるのを考えて、教会の正しい立場を紹介するために、一七年前の「カトリック生活」にのせた反論をふたたびここに出版することにした。

 ある人は、「古くさい!」というかもわからないが、”ゆがめられたキリスト教"を紹介する小説や映画をほり出すことをNHKは「古くさい!」と思わないのだから、わたしも”キリストの正しい姿"を守る反論をほり出すことを「古くさい!」と言ってもらいたくない。キリストの教えは決して古くさくならないし、その真理は永遠のものであって、小説家の説によって変わるようなものではないからである。