『シュステル枢機卿 - 模範的な司牧者』カスティリオニ神父・デルコル神父共著
★2、興味ぶかい事件 アルベルト・カスティリオニ神父
◆12、ガンデリー二先生との出会い
1973年5月、わたしに、またイタリアに行く機会が与えられました。こんどこそ、レニャーノ病院に行って、ガンデリー二先生に感謝しました。
書斎にわたしを迎えてくれたかれは、どんなにわたしとの再会を喜んでくれたことでしょう!帰ろうとするとき、わたしは先生にいいました、
「先生、あれから、もう10年以上もたったのですから、率直に、わたしの病気がどんなものだったか教えてくださいませんか?」
かれは、即座に、机の上にあった一枚の紙に書きました、「ワンフォ・サルコマ・パラアオルティコ・アッドミナーレ」(=腹部大動脈周囲リンパ肉腫)と。
この証明書をわたしは、今でも大事に保存しています。最近になって、わたしは、このコピーをシュステル枢機卿列福調査の今の担当者パッソー二神父さまに送りました。この神父さまの世話で、レニャーノ市の病院にまだ保存されていたわたしの入院当時のカルテも探しだすことができました。
ふつうなら、10年もすぎれば、カルテは焼却されることになっていたのですが、わたしの場合は、あまりにも、"興味深い事件"だということで、今までとっておかれたのです。そのために、これもそのコピーをミラノの司教館に送ることができました。ファヴィー二神父の証君シュステル枢機卿に関する記事を、ついでに、ここに加えたいと思いまず。「サレジオ的生活の泉にくんで」という題のサレジオ会員グイード・ファヴィー二神父の著書の序文に、こう書いています、
"神のしもベシュステル枢機卿は、ドン・ボスコの大伝記を書斎のとり出しやすい場所に置いていました。かれは、訪問者が、サレジオ会員であろうと、なかろうと、おかまいなく、喜んでこれを見せていました。またかれ自身も、毎日できるだけ、この本の2~3ページを読むことにしていました。「わたしは、これを読むときが、一日中でいちばん楽しいのですよ」とうちあけたことさえありました。
かれが、いく度もくりかえしていたことがあります、「博士号の尊称をおくられた教会博士たちの中にも、ドン・ボスコが残したこれほどの移しい資料を残した者は少ないと、わたしは確信しています」と。
これは、かれの秘書のひとりで、後にミラノのニグアルダの小教区主任司祭となったヨハネ・マッキ神父が、2~3年前に、わたしに証明してくれた言葉です。
ミラノのこの信仰ぶかい大司教が、天国からわたしの拙い、でも、愛と苦労の結晶であるこの本を祝福してくださいますように。また、すべてのサレジオ会員が、あいている時間をみんな喜んでささげて、設立者の聖性を研究するよう、はげましてくださいますようにと、わたしは祈ってやみません。
シュステル枢機卿のいたミラノ司教座聖堂は、この有名なドゥオモです。986年に、それ以前にあった大聖蛍と同じ場所に、このドゥオモの建築がはじまり、32年後にその大半ができたので、ここでのはじめてのミサを教皇マルティーノ五世がささげました。それにしても、工事は完成にむかって今もなお続いており、1774年には、いちばん高いせん塔に聖母のご像がおかれて、ミラノ人のプライドとなっています。
じっさいには巨大なご像でも、はるか上空に白く光る聖母の姿は小さく見えるので、マドニーナ〃小さな聖母〃という名でみんなに親しまれています。
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