カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

知恵の書の言葉:神を知る心 ー 知恵を働かせて

2020-11-21 14:07:44 | 神を探す心
アロイジオ・デルコル神父『神を知る心 ー 知恵を働かせて』

◆3、知恵の書の言葉

 このことについて、旧約聖書は、明らかに述べています。

 「何はさておき、神を知らない人は、誰でも、心底から愚かなものである」(知恵の書13:1)と、まず述べています。ご覧のとおり、うわべだけの愚さではなく、心底から、すなわち、完全に、どの見地からみても愚かなのです。

 続いて、こうも言います。

「彼らは、目に見える善いものを通して「存在するお方」を知ろうとはせず、その業に目をとめても、それを創ったお方を認めない。彼らが、この世を支える神々として認めたのは、火とか、風とか、すみやかな空気とか、大海とか、波濤とか、天からの光とかだった。だが、それらのものの美しさに心を奪われて、それを、神々だと思った彼らなら、それらの主が、はるかに、それらに勝るものだと知らねばならない。それらを創ったのは、美の創り主ご自身だからである。

 また、それらの力と、働きとに感嘆したなら、それらをお創りになった方がいかに勢力あるかを、推し量らねはならない」(知恵の書13:2-4)と。

 春の野に咲き乱れる花々! 果てしない空にきらめく星々! 荒磯にくだけ散る胸とどろかす波! 雄大な思いをわきたたせる海原! 若葉にキラキラとかがやく太陽!・・・この世にあるものは実に、素晴らしいもの、善いものです。

 そうすると、これらの素晴らしいもの、善いもの、強いものをお創りになった御方、神は、何と素晴らしい方、偉大な方、勢力ある方、美しい方、善い方でしょうか!



よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。

なぜ神を認めたくないのか:神を知る心

2020-11-18 17:35:24 | 神を探す心
アロイジオ・デルコル神父『神を知る心 ー 知恵を働かせて』

◆2、なぜ神を認めたくないのか

 「見たくないから見ないのだ」というなら、当然、「なぜ見たくないのか」と問わねばなりません。その動機について、先に少し述べましたが、ここでは、もっと詳しく考えてみましょう。

 ずるずると、悪い生活におぼれてしまって、泥沼のなかに、いつまでも、落ち着いていたい人、あるいは、不潔な行いを続けている人、嘘に慣れ、不正から離れたくない人たちにとって、”神”というこの存在は、どんな存在でしょう。快い存在?とんでもありません。快いどころか、迷惑至極な存在、嫌で、嫌で仕方がない、できることなら、抹殺してしまいたい存在です。

 そうです。誰しも、みな、清い思い、愛に満ちた心、善い行いの後には、必ず心に喜びが、泉のように溢れてくるのを感じます。でも、悪い思いに耽った後は、また、善くない行いをした後は、まるで心に、まむしをかこったようになります。

 どうやら、最初の間、当分は、考えないかもしれませんが、しかし、大さわぎをしていたその場所から離れて、ひとりぼっちになったとき、夜、闇の静寂に、あのこと、このことが、幻のように浮かんでくるとき、解んでくるとき、そうでなくても、突然元気だったその人が、病に倒れたそのときに、否が応でも、どうしても考えずにはいられなくなります。そして、この人たちにとって、やるせない心の逃げ場はただひとつ、「神がなんだ、そんなものはいないのだ」と、無理にでも否定することです。

 彼らは、こうして、神の存在さえ否定できれば、安心して、自分のやりたいことができるのですから、必死になって、その方法を探し求めます。このとき、もし、彼が秀でた知恵を持っていれば、それを乱用して、いろんなごまかしを考えてしまいます。

 ごまかし、そうです。

 自分が心の底で認める真実を、わざと否定するのですから、ごまかしでしかないのです。そして、ごまかしであるからこそ、いつまでも、続くことができません。


よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。

神を考える知恵

2020-11-13 04:05:03 | 神を探す心
アロイジオ・デルコル神父『神を知る心 ー 知恵を働かせて』

◆1、神を考える知恵

 聖パウロは、今述べた通り「神について知りうることは、彼らにとっても明らかである」と言ったのです。

 でも、なぜでしょう。答えは簡単です。神が、それを彼らに現わされたからです。そして、私たちは、人間である以上、知恵を持っていますから、神のみわざであるこの世について、多くのことを考えなくてはいけません。「考えない」と言う人は、知恵を持ってはいても、人間というより、動物に近いと言えるかもしれません。なぜなら、そういう人は電子計算器がただそこにあるというだけなのに似ていて、それを人らしく固有の目的に使うわけではないからです。それで、もし知恵を人らしく十全に使って、神のみわざを考えると、その人には、神は、まさに見えるのです。

 もしそうやって神が認められてしまえば、その人はもう言い訳することができなくなります。なぜなら、神を知りつつ、感謝をしないでいたことになってしまいますから。

 結局、聖パウロが続けて言っているように「彼らは、愚かな思いに耽って、その無知の心が、くらんだのです。また、彼らは、自らを知者と唱えて、愚かな者となって、不朽の神の光栄を、朽ちる人間や、鳥、けもの、這うものに似たかたちに変えてしまったのです」(ローマ1:21-23)。

 さて、これまで述べてきた結論として、神の存在について、疑っている人があるとすれば、それは、神が見えないからではなく、見たくないからである、ということになります。


よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。

神を知る心 ー 知恵を働かせて

2020-11-11 08:52:41 | 神を探す心
アロイジオ・デルコル神父『神を知る心 ー 知恵を働かせて』

(巻頭緒言)

 創られた物の偉大さと美とは、その創り主を、類似によって推し量らせるものだと聖書に書いてあります。これこそ神を知る道です。この道を、知恵深く、一歩一歩ずつ進みましょう。

(巻末)

 神を知らない人は、誰でも、心底から愚かなものである。彼らは、目に見える善いものを通して、"存在するお方"を知ろうとはせず、そのわざに目を止めてもそれを創ったお方を認めない。

 神について知り得ることは、すべての人に明白である。神がそれを彼らに現わされたからである。

 神の不可視性、すなわちその永遠の力と神性とは、世の創造のとき以来、そのみわざについて考える人にとって、見えるものだからである。

聖書のことば


よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。

力トリックの答え:神を探す心 ー 目に見えるものを通して

2020-11-09 09:05:07 | 神を探す心
アロイジオ・デルコル神父『神を探す心 ー 目に見えるものを通して』

◆10、力トリックの答え

 さて、カトリックは、感覚的な現象にだけ重きを置くような実証論者に対してーすなわち、五官で感じられることだけを事実と信じて、五官に触れないから神はいないと主張する人々に対して次のように答えます。

一、生活は、単に現象の集まりだけでなく、そこに問題があり、問題には解決まであるということ。

二、また、その具体的な現象には、しばしば原因の説明が求められ、この宇宙のそれを説明するために、神にまで遡らねばならないと説いています。

 すなわち、キリスト教のとっている立場は、これです。

 第一に、神の存在とその権利を教え、次に、神がその御独り子をこの世にお遣わしになったこと、そして、そのみ教えを確認します。

 キリスト教は、この立場をもって、神と同時に、人間をも弁護することができます。

 もし神の存在を認めない人たちが、権利を握ったとすれば、他の人間を、どのように取り扱うかわかりません。彼らは、人を殺そうと、迫害しようと思うままです。なぜなら、自分が絶対的な主であるかのように考えるようになった人たちだからです。そこに公共福利の面から見ても、神の存在とキリスト教から享受する利点があります。

 聖書の中には、使徒聖パウロの言葉があります。彼は「不義によって真理を妨げる」偶像崇拝者に対して言ったのですが、その偶像崇拝者は、昔だけでなく、現代にもいるのです。

 しかし、現代の偶像は、単に幼稚な黄金の牛とか、古びた像というように、物質的なものではありません。そんな物質的な偶像がなくても、思想それ自体が、偶像になりうるのです。では、その言葉を、ここに引用してみましょう。

「神について知りうることは、彼らにとっても明かである」(ローマ1:19)と。この言葉の意味を裏返すと、「もし、明かでないといえば、知恵がない」ということになります。

 例えば、ある人が、「私は見えない」と言ったとします。「では、あなたは、盲人ですね」といえば「いいえ、とんでもありません。私は、ちゃんと目を持っています」と言ったとします。

 すると、どういうことになるのでしょうか。つまり、その人は、ちゃんと目を持っているのに、見たくないから、わざと盲人の振る舞いをしているということになるのです。

 結局、見えないからといって、それは、光がないとか、あるいは、自分に、十分な目がない、というわけではないのです。見えないように、隠してしまったのです。すると、見えないからといって、責任がないということにはなりません。それどころか、大きな責任があるのです。このことを、神の存在に対する人間の知恵という目に、あてはめて考えてみると、すぐにわかります。

おわり


よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。