・レコンキスタの物語
600年代後半、スペインはイスラム教徒によって侵略されました。徹底的に征服されました。イスラム教徒は、北アフリカからやってきました。イスラム軍は、津々浦々を迅速に展開し、教会の鐘を壊し、十字架を壊しました。当然のことながら、多くの人が刃にかかりました。多くの女、子供、司祭、男たちが殺されました。この侵略はあまりに早く、700年代前半には、スペインは基本的にイスラム教の国になってしまいました。その頃には、スペイン北部の山間部、アストリア山岳地帯にカトリックの残兵が少し残るだけとなっていました。カトリックの残兵達は、ペラヨによって導かれました。ペラヨは、その山岳地帯の洞窟に住んでいた、偉大な聖なる修道者の友であり、弟子でした。その洞窟は、今では、「コバドンガ」として知られる、すばらしい場所です。現在は、男子修道院がそこに建っています。その洞窟の祭壇では、聖アンソニー・マリー・クラレもそこでミサを捧げられました。ペラヨはイスラム勢力に抵抗した偉大な将軍でそこに葬られています。そこは山岳地帯で、洞窟に隠れるようにして巨大な滝があり、当時の戦士たちは、飛び込んだり泳いだりと、楽しく過ごしていたのだと思います。
しかし、そこに、おとめマリアが聖なる修道者に現れたのです。おとめマリアは「聖母ご自身が彼らを守ること、聖母の御保護のもとに彼らは多くの戦いに勝つことになること」と仰いました。ですから、そこは、「聖母のコバドンガ」と呼ばれ、美しいお召し物の聖母の御像があります。ペラヨとその部下は集まりました。ある人は、当時のペラヨ側の戦力を1000人であったと考えています。300人であったとする人もいます。兵士の数が問題なのではありません。イスラム教徒軍(戦力60000人)の侵入・侵略はさしせまっていました。ある日、ペラヨのもとに、オパス司教がやってきました。オパス司教は、ペラヨ将軍のところに来て、洞窟の入り口で大きな声でペラヨの名を呼びました。
オパス司教:「ペラヨ!」「ペラヨ!」
ペラヨはオパス司教を知っていたので、答えました。
ペラヨ:「はい、オパス司教様、どのようなご用件ですか?」
オパス司教は言いました。
オパス司教:「見よ、国全体がイスラム教だ。すべての都市はイスラムにのっとられた。自分の身の安全を考えよ。また、兵士の安全を考えよ。平和条約をイスラム軍と締結すれば、すべてがうまくいく。」
ペラヨは答えました。
ペラヨ「そしてあなたは、あなたの恥知らずの言葉で、わたしたちを納得させようとしているのですね。私たちが自分の立場を放棄して、イスラム軍が与えてくれるごほうびに喜ぶとでも思いますか。スペイン全土がカトリックにならなければなりません。私たちは異教徒のスペインを受け入れません。異教徒との妥協はありえません。司教様はすでにカトリックの旗印、カトリックの天主様を裏切っておいでです。そのうえで厚かましくも、我々が司教様を信用するなどということがあり得るでしょうか。」
イスラム軍と妥協していたオパス司教は、ペラヨに言いました。
オパス司教:「心配するな。戦いは無駄だ。あきらめて、武器を捨てた方がましだ。どうやって、わずかな兵力で、60000人もの訓練されたイスラム軍に勝つことができるのか。ペラヨ、おまえは敗者となるだろう。」
ペラヨは、ミサの聖福音を引用して言いました。
ペラヨ:「オパス司教様は、聖書の中で、天主の教会が「からしだね」に例えられているのをお読みになったことはないのですか。「からしだね」は小さいものですが、天主の御あわれみにより、ほかの何者より大きく成長するのです。」
オパス司教は言いました。
オパス司教:「でも、我々は、今や、我々を屈服させたイスラム軍に従うべきだ。そうすれば、奴隷になることや死刑を免れられる。生きろ。命を守れ。」
ペラヨは、今日に至るまで洞窟に響きわたる偉大な言葉を言いました。
ペラヨ:「我々の希望は、主イエズス・キリスト様にあり、この山からスペイン及びゴート族(3ー5世紀にローマ帝国領内を侵略した部族)の救いが来るのである。キリストの御あわれみにより、われわれは多数のイスラム軍から解放されるであろう。帰ってください、オパス様。それから、この伝言を天主の敵に持っていくがよいでしょう。」
オパス司教は自分の町に戻り、言いました。
オパス司教:「ああ、私には、あの現実離れした、頑固な、古くさい、教義に固執したペラヨとあの修道者と兵士たちをを説得することは無理だ。」
722年5月、イスラム軍は侵略を開始し、聖母はペラヨ軍を本当にお守りになりました。聖母は雨を降らせ、イスラム軍は、山、木々の茂み、ひどい雨での戦いに慣れていませんでした。年代記によると、ペラヨ軍の兵士たちは、剣を持って自分の足で走り回り、丘々や山々を飛び回りました。一方でイスラム軍は、馬が滑り落とされ、虐殺され、ひどい雨で流されてしまいました。聖母マリアによって勝利がもたらされたのです。ペラヨは、スペインの最初の王として戴冠しました。王国は722年から1492年まで、700年の長きにわたって、スペインを再びカトリックにするためにレコンキスタ(国土回復運動)の偉大な歴史を築いたのでした。
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600年代後半、スペインはイスラム教徒によって侵略されました。徹底的に征服されました。イスラム教徒は、北アフリカからやってきました。イスラム軍は、津々浦々を迅速に展開し、教会の鐘を壊し、十字架を壊しました。当然のことながら、多くの人が刃にかかりました。多くの女、子供、司祭、男たちが殺されました。この侵略はあまりに早く、700年代前半には、スペインは基本的にイスラム教の国になってしまいました。その頃には、スペイン北部の山間部、アストリア山岳地帯にカトリックの残兵が少し残るだけとなっていました。カトリックの残兵達は、ペラヨによって導かれました。ペラヨは、その山岳地帯の洞窟に住んでいた、偉大な聖なる修道者の友であり、弟子でした。その洞窟は、今では、「コバドンガ」として知られる、すばらしい場所です。現在は、男子修道院がそこに建っています。その洞窟の祭壇では、聖アンソニー・マリー・クラレもそこでミサを捧げられました。ペラヨはイスラム勢力に抵抗した偉大な将軍でそこに葬られています。そこは山岳地帯で、洞窟に隠れるようにして巨大な滝があり、当時の戦士たちは、飛び込んだり泳いだりと、楽しく過ごしていたのだと思います。
しかし、そこに、おとめマリアが聖なる修道者に現れたのです。おとめマリアは「聖母ご自身が彼らを守ること、聖母の御保護のもとに彼らは多くの戦いに勝つことになること」と仰いました。ですから、そこは、「聖母のコバドンガ」と呼ばれ、美しいお召し物の聖母の御像があります。ペラヨとその部下は集まりました。ある人は、当時のペラヨ側の戦力を1000人であったと考えています。300人であったとする人もいます。兵士の数が問題なのではありません。イスラム教徒軍(戦力60000人)の侵入・侵略はさしせまっていました。ある日、ペラヨのもとに、オパス司教がやってきました。オパス司教は、ペラヨ将軍のところに来て、洞窟の入り口で大きな声でペラヨの名を呼びました。
オパス司教:「ペラヨ!」「ペラヨ!」
ペラヨはオパス司教を知っていたので、答えました。
ペラヨ:「はい、オパス司教様、どのようなご用件ですか?」
オパス司教は言いました。
オパス司教:「見よ、国全体がイスラム教だ。すべての都市はイスラムにのっとられた。自分の身の安全を考えよ。また、兵士の安全を考えよ。平和条約をイスラム軍と締結すれば、すべてがうまくいく。」
ペラヨは答えました。
ペラヨ「そしてあなたは、あなたの恥知らずの言葉で、わたしたちを納得させようとしているのですね。私たちが自分の立場を放棄して、イスラム軍が与えてくれるごほうびに喜ぶとでも思いますか。スペイン全土がカトリックにならなければなりません。私たちは異教徒のスペインを受け入れません。異教徒との妥協はありえません。司教様はすでにカトリックの旗印、カトリックの天主様を裏切っておいでです。そのうえで厚かましくも、我々が司教様を信用するなどということがあり得るでしょうか。」
イスラム軍と妥協していたオパス司教は、ペラヨに言いました。
オパス司教:「心配するな。戦いは無駄だ。あきらめて、武器を捨てた方がましだ。どうやって、わずかな兵力で、60000人もの訓練されたイスラム軍に勝つことができるのか。ペラヨ、おまえは敗者となるだろう。」
ペラヨは、ミサの聖福音を引用して言いました。
ペラヨ:「オパス司教様は、聖書の中で、天主の教会が「からしだね」に例えられているのをお読みになったことはないのですか。「からしだね」は小さいものですが、天主の御あわれみにより、ほかの何者より大きく成長するのです。」
オパス司教は言いました。
オパス司教:「でも、我々は、今や、我々を屈服させたイスラム軍に従うべきだ。そうすれば、奴隷になることや死刑を免れられる。生きろ。命を守れ。」
ペラヨは、今日に至るまで洞窟に響きわたる偉大な言葉を言いました。
ペラヨ:「我々の希望は、主イエズス・キリスト様にあり、この山からスペイン及びゴート族(3ー5世紀にローマ帝国領内を侵略した部族)の救いが来るのである。キリストの御あわれみにより、われわれは多数のイスラム軍から解放されるであろう。帰ってください、オパス様。それから、この伝言を天主の敵に持っていくがよいでしょう。」
オパス司教は自分の町に戻り、言いました。
オパス司教:「ああ、私には、あの現実離れした、頑固な、古くさい、教義に固執したペラヨとあの修道者と兵士たちをを説得することは無理だ。」
722年5月、イスラム軍は侵略を開始し、聖母はペラヨ軍を本当にお守りになりました。聖母は雨を降らせ、イスラム軍は、山、木々の茂み、ひどい雨での戦いに慣れていませんでした。年代記によると、ペラヨ軍の兵士たちは、剣を持って自分の足で走り回り、丘々や山々を飛び回りました。一方でイスラム軍は、馬が滑り落とされ、虐殺され、ひどい雨で流されてしまいました。聖母マリアによって勝利がもたらされたのです。ペラヨは、スペインの最初の王として戴冠しました。王国は722年から1492年まで、700年の長きにわたって、スペインを再びカトリックにするためにレコンキスタ(国土回復運動)の偉大な歴史を築いたのでした。
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