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9-7-4 税金の雨

2024-07-06 05:35:48 | 世界史

(挿絵:髭に対しても税を取る税吏)

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
7 西欧に窓を開くピョートル大帝の大改革
4 税金の雨

 不断の戦争と、常備軍の増大によって、軍事費が莫大な額にのぼり、国庫は底をつき、財源も枯渇(こかつ)した。
 そこでピョートルはさまざまな新税を考案させた。
 そこで「利得発案者(プリブイリシチク)」という新しい専門家が登場することになった。
 国家に利得をもたらす方法をあみだすことが、彼らの職務であり、名案をだしたものには褒賞(ほうしょう)があたえられ、またそれが出世のいとぐちにもなった。
 たとえば、クルバートフという男は、もと農奴であったが、主人にしたがって外国へ行ったとき、印紙税のことを知った。
 帰国すると匿名(とくめい)の手紙でピョートルに「鷲(わし)」印紙を提案し、その結果、年三十万ルーブルの利得を国庫にもたらしたということで商工局長にばってきされ、さらにアルハングリスクの副知事にまでなったが、ついに官金消費の罪をおかして死んだ。
 そのほか、おなじような例は、農奴からモスクワの副知事になったエルショフ、総監察になったネムチェフなど、数かぎりなくあったが、彼らはいずれも眼を皿のようにして、これらの税制の穴をさがし、つぎからつぎへと、これをうめる新種を考案していった……。
 「こわれた篩(ふるい)から落ちるように」、納税者である国民にふりかかってきた新税は、なんと土地税、枡目(ますめ)税、重量税、ショ-ル税、帽子税、枕税、大鎌税、皮革税、蜜蜂税、風呂税、洗濯税、水税、煙突税、西瓜(すいか)税、胡瓜(きゅうり)税、クルミ税……で、ついに課税のたねがつきると、こんどは職業や宗教、思想にまで税金がつけられた。
 たとえば分離派(改革された国教にしたがわない教徒たち)には二倍の税金をといったぐあいである。
 税金についで、ピョートルの政府が考えた収入増大策は、専売制度である。
 これまでの樹脂、泥炭、大黄(だいおう)、膠(にかわ)などのほかに、新たに、塩、ウォッカ、タバコ、タール、魚油、トランプ、サイ
コロ、将棋、それに棺桶までが国家の専売になった。
 ところで、ピョートル改革のさまたげになったものに、貴族や官吏の汚職がある。
 彼らの貪欲は手段をえらばなかった。当時のうわさによると、百ルーブルの税金のうち、国庫にはいるのはせいぜい三十ルーブルで、あとはすべて官吏が着服したといわれる。
 たとえば、就職したときには「着のみ着のまま」であった書記が、四~五年もたつと、石造りのりっぱな屋敷をたてるといったぐあいであった。
 そこでピョートルによってうちたてられ、絶対主義の中核であるロシアの官僚機構について一言しよう。
 そのさい、ピョートルが模範としたのはスエーデンやドイツの制度であった。
 これまでの貴族会議や全国会議は自然消滅となり、これに代わって元老院(セナート)がおかれ、これははじめツァーリの権限を代行したが、のちにはたんなる立法の協賛機関となった。
 また国政を監視するため全国に監察をおいた。彼らは酷薄をきわめ、密告を奨励し、政府の要人や上官といえども容赦せずに、絞首台やシベリアへおくった。
 ピョートル時代の最高の官僚は検事総長で、「ツァーリの眼のごとし」といわれ、国家行政全般を監視する役であった。
 中央政府の機構も改革され、イワン雷帝以来の官署庁もスエーデンの参議会(コレーギア)制にかえられた。
 この制度研究のためにピョートルは、ドイツ人出身の官房学者フックを、わざわざスエーデンに派遣している。
 その結果、外務、陸軍、海軍、司法、商業、鉱業、工業など、九つの参議会がおかれることとなった。
 こうして中央行政では官僚による統制がめざされたが、地方行政においては、貴族と上層市民による自治を主眼とする改革が行なわれた。
 またこの官僚制度で注目されるのは、ピョートルが制定した「官等表」(一七二二)で、これは官職を武官と文官に分け、それをさらに十四等級に格づけしたものである。
 八等官(陸海軍少佐、参議官)以上の職についたものは、前身がどうあろうと、世襲的に貴族の称号と特権とがゆるされた。
 最高職は文官では宰相、武官では元帥である。
 もしこれらの官等級を詐称すれば処罰された。
 ついで改革は、ロシアの教会制度にもおよんだ。
 そのころ、修道院領が重要な財源であることに眼をつけたピョートルは、修道院からその収入を処分する権利をとりあげ、これを世俗の官吏である修道院庁の手にうつした。
 すなわち、修道院領からの収入はツァーリの官吏があつめ、そのうちから修道士に給料として、ひとりあたり「十ルーブルとパンー塊」を支払ったのである。
 しかもあとのあまった分は国庫がそっくりもらうことになり、その額は毎年三百万ルーブルにも達したという。
 そしてこれは、のちエカテリナ二世のとき完成される、教会領国有化への第一歩となった。
 ロシア教会は、改革に反対したが、その長である総主教アドリアンが世を去ると(一七〇〇)、これより二十年間、ピョートルはその補充をおこなわず、欠員のままであった。
 そして一七二一年、ピョートルはついに総主教府を廃止し、これに代わるものとして宗務会議をおいた。
 そのメンバーはツァーリが任命し、これよりロシアの教会は、まったく国家に従属するものとなった。




9-7-3 「海への出口」を求めて

2024-07-05 18:14:19 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
7 西欧に窓を開くピョートル大帝の大改革
3 「海への出口」を求めて

 「ロシア史はすべてピョートルの改革に帰着し、そしてそこから流れ出る」といわれる。
 この意味からすれば、「ピョートル改革」はロシア史の転換点であり、これを境として「古いロシア」と「新しいロシア」とがわかれることになる。
 しかしそれほどに重要性をもつピョートルのロシア近代化も、はじめに一定のプログラムがあって、それにもとづいて着々と行なわれたものではなく、それはいわば情勢の推移につれて、「ゆきあたりばったり」に、手さぐりですすめられた。
 そしてそれを推進したのは、まず戦争であった。
 ピョートル三十五年間の治世において、平和な時期は二年とつづかなかったといわれるが、「海への出口」を求めることは、ロシアにとって不可欠であり、このため他国と衝突した。
 たとえばロシアはトルコの支配下にあったアゾフ海、黒海進出をめざして、アゾフ遠征(一六九五~九六)を行ない、苦心のすえ、これを陥落ざせた。
 この戦いは青年皇帝ピョートルの存在を、はじめてヨーロッパ諸国に示すものであった。
 その後、外遊のとき(一六九七~九八)、ピョートルは対トルコ同盟を諸国とむすぼうとしたが、果たせなかったこともあり、一七〇〇年、平和条約にふみきった。
 これによってロシアはアゾフを併合したが、黒海航行の自由はみとめられず、この問題は他日に残された。
 ロシア同盟しなかったイギリスやオランダは、むしろロシア進出を恐れる立場にあった。
 この対トルコ和平の年、一方でロシアは大きな戦争をはじめた。スエーデンとの北方戦争(一七〇〇~二一)で、その領土をうばうためである。
 当時のスエーデンは北欧の大国で、バルト海沿岸地方の多くを領土とし、ヨーロッパ一流の軍隊をもっていた。、
 そのころ、西ヨーロッパではスペイン継承戦争(一七〇一~一四)がおこるような情勢であり、諸国は東欧まで干渉する余裕がなかった(たとえば、スエーデンはフランスと接近していた)。
 好機とみたロシアはデンマーク、ポーランドと同盟して、戦いにふみきった。
 ところが一七〇〇年十一月、ロシア軍はナルバで、十八歳の年少王カール十二世(在位一六九七~一七一八)のスエーデン軍によって大敗した。

 しかしカールがポーランドに攻めこんだので、余裕をえたピョートルは、いそいで軍制改革に着手した(カールが冬のロシアに侵入しなかったことのよしあしについては、軍事史上の問題となっている)。
 人的消耗を補充するため、彼はまず当時のヨーロッパにさきがけて、ロシアに徴兵制度をしいた。
 これは毎年三万人の新兵を徴集するのがねらいで、農家二十戸につき一人の割合であった。
 兵士には西ヨーロッパふうな訓練をこころみた。戦争がながびいたため、新兵はいつまでも除隊にならず、これはそのまま常備軍となり、ピョートルの晩年には、兵力は二十一万二千となった。
 一方、ピョートルは軍需工場の設立をいそいだ。
 また海軍としては、アゾフ違征のとき、急に艦隊がつくられたが、その後、外国技術者の力をかりてバルティック艦隊が編成された。前述のトルコとの講和のときには、これをもって威圧した。
 一七〇九年七月、ロシア軍はポルタバで、スエーデン軍に雪辱(せつじょく)をはたし、やがてバルト海沿岸地方に進出する。
 カール十二世は一時トルコにのがれ、翌年、この国はロシアに宣戦した。
 これには、ロシアの強大化を恐れるイギリス、オランダ、フランスなどの意向もはたらいていた。
 しかしロシア軍は損害が大きく一七一一年、和議がなり、その結果、ロシアはまえに獲得したアゾフを返還することとなった。
 それだけにいっそう、ピョートルは全力をバルト海方面にそそいだ。
 こうして北方戦争はさらにつづき、一七一八年、カール十二世は戦死したが、けっきょく一七二一年八月、講和が成立、ロシアはバルト海沿岸に領土をえて、ヨーロッパの大国として登場するにいたった。
 戦勝の栄光を背後に、一七二一年十月、ピョートルは元老院から、全ロシアの「イムペラートル」(皇帝)の称号をおくられて、これからロシアは公式に、「ロシア帝国」(それまではモスクワ大公国、モスクワ国家などとして、ロシアを支配)とよばれることなる(ただし、今後もツァーリの称号が併用される)。
 なお北方戦争後、ロシアはペルシアと戦い(一七二二~二三)、カスピ海の西岸地方をえた。ピョートルはさらにインドを志向していたが、これは果たされなかった。
 戦争につれてまず軍の改革がすすめられたが、西欧式な軍隊がうまれると、これまでの銃士隊や騎士(主として下層貴族よりなる)は無用の長物となり、ロシアの貴族層の変質をもたらすことになった。すなわち、貴族層を二分していた身分的差別がなくなり、大貴族とよばれていた特権層は士族(下層貴族)と合体した。
 その結果、変質をとげた貴族層は、あるいは近代的常備軍の将校として、あるいは絶対主義国歌の高級官僚として、世襲的に勤務することを義務づけられた。
 彼らは十五歳になると近衛連隊にはいり、ここで兵卒をつとめあげると、将校として他の部隊へ配属される。
 こうして近衛連隊が士官学校の役割を果たすことになるとともに、近衛将校の勢力がしだいに強くなる。
 彼らは皇帝ピョートルの腹心となり、外国へ留学し、西欧文化の移植者となり、改革の重要な担い手となった。
 戦争が長びくと貴族のなかには軍務を回避し、仮病をつかったり、所在をくらますものもあらわれたが、ピョートルはこれに厳罰をもってのぞんだ。
 軍務を退役となって所領へ帰ることのできるのは、老齢か、不具の場合だけで、あとはほとんど首都か、任地で生活し、ときたま休暇をもらって故郷へ帰るにすぎなかった。


9-7-2 ピョートル・ミハイロフ氏の外遊

2024-07-04 15:55:46 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
7 西欧に窓を開くピョートル大帝の大改革
2 ピョートル・ミハイロフ氏の外遊

 ピョートル一世(在位一六八二~一七二五)は、異母兄フョードル三世(在位一六七六~八二)のあとをつぎ、十歳で即位した。 しかし異母姉ソフィア(一六五七~一七〇四)は軍事力をもって、弟イワン(五世)をピョートルの共同統治者とし、みずからは摂政の地位についた。
 一六八九年からピョートルの親政(十七歳)となるが、このころイギリスで名誉革命がおこっており、またピョートルは清朝の康煕帝(在位一六六一~一七二二)と同時代人である。
 東西で偶然にも時をおなじくして、英明な絶対君主があらわれたことになる。
 ピョートルの人となりは、いかにもロシア的であった。
 身の丈は二メートル以上もある大男、腕力は人一倍つよく、子供のときから本格的な「模擬戦争」が大好きであった。
 そのころの遊戯隊(幼い皇帝の「おあそび」係のようなもの)がのちの近衛軍となり、彼の幼な友だちから、のちの将軍や大臣があらわれる。
 またピョートルは大酒飲みで、ドンチャン騒ぎを好み、自分でハンマーや斧をふるい、鍛冶屋、船大工、旋盤工、外科医以下、十四の「手職」を身につけ、はしけ、椅子、食器、タバコ入れなどの自作品を数多くのこした。             

 彼は何もしないことが苦痛な性分で、ひまをみては手仕事をしていたわけだが、医者のまねごと、とくに歯科をやりたがり、側近は実験台にされはしないかと、いつもピクピクしていたという。
 一六八九年、十七歳のころ、ピョートルは大貴族ロプーヒンの娘エウドーキアと結婚、その翌年、皇子アレクセイが生まれたが、この夫婦生活は気が合わず悲劇におわった。
 ピョートルは「戦争ごっこ」に熱中し、ほとんど家庭によりつかず、遊戯隊宿舎に泊まったり、「外人部落」のある将軍宅で夜を明かしたり、ときにはヤウズ河畔の仮宮殿で、三日三晩飲みつづけて騒いだりした。
 成人したのちも、彼がとくに機嫌のよいのは、新しい船の進水祝いのときであって、この日には、首都の上流社会の男女が招待され、船のなかで「海上の酒もり」がおこなわれた。
 みんなが底ぬけに酔っぱらって陸軍大臣メンシコフはテーブルの下に死んだように横たわり、海軍大臣アプラクシン提督は、泣きだすという騒ぎになる……。
 船に関心をもつピョートルは、造船術にも興味をいだき、先進的なヨーロッパで、これを直接に学ぼうと思いたった。
 さらに新しい技術一般を視察し、外国の軍人、技師、職工たちを招きたく、また外交上の目的もあった。
 一六九七年三月から翌年八月まで、二十代なかばのピョートルは約二百五十名の大使節団を編成し、自分はピョートル・ミハイロフという変名のもとに随員として外遊した。
 そして当時の海軍国オランダ、イギリスでは、船大工として造船術を学んだ。
 そのほか一行は軍事工場、病院、美術館、大学、劇場、議会などを見学し、親しく西欧文明に接した。
 この「野蛮人たち」にかんするエピソードは数多い。
 ドイツにたちより、ピョートルがダンスに興じたとき、貴婦人たちがしめているコルセットを知らず、ドイツの女性の助骨はなんと堅いのかと驚いた、などというのは罪がないが、つぎのような件は名誉にかかわるものであろう。
 一行がイギリスで宿泊した宿では、床や壁にタンがはきかけられ、家具はこわされ、酒宴のあとのよごれが残り、壁の絵は射撃の的となり、庭の芝生は、鉄の長靴をはいた一連隊が行進したかのようにふみにじられているありさま、家主から多額の損害賠償を要求されたという。

 ところで、この西欧旅行は中断され、一六九八年八月、ピョートルは急に帰国したが、それは軍隊の一部に、異母姉ソフィア(すでに一六八九年、ピョートルに対する陰謀で、摂政を廃位されていた)をいただく陰謀がおこったからである。
 彼はこれをはげしく処罰し、みずから拷問室で反逆者の首を斬り落としさえした。
 ソフィアは修道院へ追いやられた。
 そしてピョートルはロシアの「大改革」に着手する。
 そのねらいは「西欧化」であり、まずバルト海にのぞむネバ川の三角州に、一七〇三年ごろから約十年をかけて、美しい西欧ふうの新首都が建設された。
 これが「ヨーロッパヘの窓」といわれたペテルブルグ(「ピョートルの街」の意、いまのレニングラード)であり、これよりロシア史の「ペテルブルグ時代」が開幕する。
 現在、エルミタージュ博物館で、革命まで皇居であった冬宮も、ピョートル時代に造営がはじまった。
 一七一二年、モスクワからペテルブルクヘ遷都された。
 ピョートルは新しい首都を飾るため金銭を惜しまず、すぐれた絵画や彫刻を買いもとめた。
 またフランスの建築家ル・ブロン(一六七九~一七一九)が招かれ、ベルサイユふうの離宮や庭園をつくり、ペテルブルグにゴブラン織り工業などを導入し、この地で世を終えたことは有名であろう。
 ただし、ネバ河口は不健康な沼沢地であったため、ペテルブルグ建設には多くの犠牲者がでたり、また、のち政治犯を収容したペトロパブロフスク要塞がつくられたような一面も、忘れられてはなるまい。 




9-7-1 西欧に窓を開くピョートル大帝の大改革

2024-07-02 16:36:14 | 世界史
(挿絵はピョートル大帝)

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
7 西欧に窓を開くピョートル大帝の大改革
1 文明開化のはしり

 十七世紀ロシアで、アレクセイ帝(在位一六四五~七六)の宮廷に、日給一・五ルーブルで、歴史家(年代記編者)としてつかえたユーリ・クリジャニッチという人物がいた。
 すぐれた学者であったが、幼時を孤児としてイタリアでおくり、カトリック神学校を卒業したのち、ヨーロッパ各地を遍歴し、最後にモスクワにやってきた。
 彼はここを「第二の祖国」として愛好し、スラブ語を勉強して、その文法や辞典を著わしたが、またスラブ族の統一を主張し、のちの汎スラブ主義の開祖ともなっている。
 しかしやがて「現行制度を批判した」という理由で、とつじょシベリアへ流刑となり、そこで不幸な十五年間をおくった。
 その著書のひとつ『政治的随想』のなかで、クリジニッチは、ロシアを西欧と比較し、そのいちじるしい後進性を指摘している。
 すなわちロシアは貧しく、教育がおくれ、農業や工業にかんする書籍もなく、商業都市や工場も少ない。
 ロシア人は、頭髪やあごひげはのびほうだいで、まるで森の中から出てきた人間のようにむさくるしい。
 彼らは不潔で、金銭を口のなかに入れて平気であり、食べたあとも食器を洗わない。
 ロシア人が店にやってくると、そのあと一時間ぐらい臭気がただよい、耐えがたく不快である。
 またロシア人の住宅も不便で、窓がひくいし、農家には煙突がなく、かまどの煙が立ちこめて、目をやられる。
 ロシア人は酒をのむときだけは景気がよいが、しらふのときにはまったく元気がなく、人間としての誇りも、民族としての自負も失っている……
 彼はさらに一歩すすんで、これらの欠点をとりのぞく改革をツァーリに進言している。
 すなわち第一に、国民の啓蒙、とくに書籍の出版と学問の奨励、
 第二に、「上からの改革」、つまり政府による法規の制定、たとえば商人は算数を修得しなければ、商店を開業する許可をあたえないようにすること。
 第三は、「政治的自由」の付与で、商人・職人・農民の各身分ごとに、それぞれの自治をみとめること。
 そして第四に、技術教育の振興、すなわち各地に工業学校をつくり、商工業にかんするドイツ文献を翻訳させ、ドイツ人の工匠や資本家をロシアへ招へいすること。
 そしてこれらは、のちのピョートル大帝による「大改革」のプログラムと一致している。
 ところで、文化がおくれていたモスクワ宮廷にも、このころになるとようやく「新しい風」が吹きはじめる。
 アレクセイ帝は「片足でギリシア正教的古代に、片足で西欧文化に」立つといわれ、はじめてドイツ式の洋服を着、ドイツ式の馬車にのり、妻子をつれて「外人部落」(モスクワ郊外で外国人が住み、「ロシア国内のヨーロッパ」といわれた)でバレエやオペラを観賞し、演会で酔っぱらうとラッパを吹いたり、オルガンを演奏し、また子供たちに、ラテン語やポーランド語を習わせたという。
 この「文明開化」皇帝は、詩文にも長じ、モスクワの外人たちの評判もよかったが、お人好しで、情熱に欠け、改革を断行するだけのファイトがなかった。
 一六七二年、後妻ナタリアが皇子を生むと、アレクセイ帝は大よろこびで、『外人部落』の市長ヨハン・グリゴーリに、劇を上演するように命じ、これが奇縁となって、ロシアで最初の劇場(『喜劇座』)が生まれたというが、この皇子こそ、のちのピョートル一世(大帝)であった。

 皇子誕生のすこしまえ、民謡で有名なステンカ(ステパン)・ラージンの乱がおこった。
 この人物について、公の記録はなにもないが、伝承によれば、ドン・コサックの出身、「年ごろ四十歳前後、中背で頑丈な体躯の男」で、ボルガ川を下る御用船をおそって財宝をうばい、これを貧民たちに分け与えたという。
 また民謡にあるように、ペルシアに遠征した帰途、人質として捕えた美姫を水中に投じて、ボルガの水神をなだめたという話もある。
 一六六七年、このラージンの指導のもとに、貧窮したドン・コサックや農民たちは、ツァーリの官僚や地主貴族の圧制に対して反抗した。
 乱はボルガ川の中・下流地域一帯におよび、反乱軍はアストラハン、サラトフ、サマラなどの中央ロシアの重要都市をつぎつぎに占領し、兵力は三万余にふくれあがった。
 そのすすむところ、貴族は殺りくされ、土地台帳は焼かれ、農奴は解放された。
 また、彼らは船隊をととのえ、攻城砲をつみ、「母なるボルガ」をさかのぼってモスクワへ攻めのぼる気配さえしめし、「動乱」の再来として、モスクワの貴族層はふるえあがった。
 しかし一六七〇年十月、シンビルスクの攻城戦に失敗したのが運のつきとなった。
 その敗報がつたわるとラージンは部下にそむかれ、故郷のドンにもいれられず、再起をはかって流浪中を捕えられ、七一年六月、モスクワの「赤い広場」で四つ裂きの刑となった。
 乱もこの年末ごろまでに平定された。




9-6-5 ロマノフ朝の成立

2024-06-28 00:35:35 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
6 雷帝後の動乱のロシア
5 ロマノフ朝の成立 

 それから四ヵ月たった一六一三年二月、モスクワには各地からの代表、約六百名が集まり、ロシアで空前絶後といわれる大がかりな全国会議(ゼムスキー・ソボー=イワン四世時代につくられた)が開かれた。
 この身分制議会では、「動乱」の厄払いとして三日間の斎戒(さいかい)がおこなわれたのち、議事にはいり、新しいツァーリの選出がおこなわれた。
 しかし、ツァーリの立候補者はたくさんいた。
 すなわちポーランド王子、スエーデン太子、偽ディミートリーの遺児(マリーナの息子)、コリーツイン公、ムスチスラウスキー公、ツルベツコイ公などである。
 そこでまず、外国の王室から、ツァーリを招へいすることは、コサック代表のつよい反対にあって否決された。
 つぎにロシア人のうち、だれを選ぶかになると議論百出し、遺族たちが対立した。
 その間には買収、抱きこみ工作もおこなわれたというが、容易には決しなかった。
 しかし会議の途中から、下層貴族の士族やコサックのあいたで、「ミハイル・ロマノフ」という呼び声がしだいに高くなってきた。
 このロマノフ家は、イワン雷帝の最初の妻アナスターシァをだした由緒ある大貴族である。
 しかしボリス・ゴズノフの政敵となってからは、つねに逆境におかれ、それがかえって世間の同情をよんでいた。
 動乱中には、ツァーリ・シュイスキーに反対して、偽ディミートリーの側についたことも、のちにコサックの信望をえるもととなった。
 その当主はツシノの総主教フィラレートで、そのころポーランド軍の捕虜となっており、ミハイルはその長子であった。
 しかもまだ十六歳の少年で、「これといったとりえはなく、ツァーリにふさわしいとも見えなかった」というが、全員会議では、犬猿のあいだがらであった士族とコサックの二大勢力が、ふしぎにも「この人選にだけは一致した」という。
 また、つぎのようなエピソードもある。議論が紛糾して決しなかったので、民意をたしかめるために、数名の聖職者と大貴族が赤の広場に出かけて、「だれをツァーリにしてほしいか?」とたずねると、群衆は口ぐちに「ミハイル!」「ミハイル!」と叫んだという。
 このようにして、ロシアに新しい王朝、ロマノフ朝が誕生する。
 それは一九一七年のロシア革命でたおれるまで、約三百年間、この国に君臨することになる。
 しかもイワン雷帝のような帝王神権説による「専制君主」としてではなく、「人民から選ばれた」ツァーリとしてであった。
 しかし動乱の貴重な産物であるこの新しい政治原理は不幸にも、ロシアでは長つづきしなかった。          

 西欧の議会制度に発展するかに見えた全国会議も、歴史上のたんなる一エピソードにおわり、動乱がおさまり、国内に平和が回復するにつれて、新王朝はしだいにこれを必要としなくなった。
 その結果、初代ミハイル帝(在位一六一三~四五)のときには十回、二代アレクセイ帝(在位一六四五~七六)の治世には五回ひらかれた全国会議が、三代フョードル三世(在位一六七六~八二)からつぎのピョートル一世(在位一六八一~一七二五)にかけて、わずか三回召集されただけで、それ以上後はまったく姿を消してしまう。
 このことは中世ロシアの身分制議会である全国会議が、イギリスの「パーラメント」のように王権を制限する方向に発展しないで、かえって逆にこれを強化する役割を果たしたこと、したがってその役目がおわると、自然消滅するのがむしろ当然であったことを示している。
 ロマノフ朝のツァ-リたちも、側近や寵臣にあやつられるロボッ卜にすぎなかった。
 ミハイルがツァーリに選出された当日、大貴族のひとりは語っていた。
 「ロマノフ家のミーシヤ (ミハイルの愛称)はまだ若僧で、その分別といっても知れたものだ。
 それが、おれたちにはもっけのさいわいだ」と。
 ミハイルは十六歳、アレクセイも十六歳、フョードルは十四歳で即位しているが、このように歴代のツァーリが「若僧」で、おまけにそろいもそろって「意志薄弱者」であったことから、寵臣のばっこを容易にした。
 すなわちミハイル帝のときのサルチコフ家、アレクセイ帝のときのモローゾフ家、フョードル帝のときのリバーチェア家がそれで、これからロシア社会には「権勢家」とよばれる新しいタイプの人間が登場する。
 彼らは官金の着服、土地の横領をほしいままにし、一般庶民の恨みを買った。
 モスクワ市民は、共有地がとりあげられたため、家畜を放牧することも、薪をとりに行くこともできなくなり、
 「こんなことは、これまでのどのツァーリのときにもなかった」とこぼし、
 「ツァーリはバカで、大貴族モローゾフのいいなりになっている。……脳みそを悪魔にもっていかれたのだ」
 とうわさした。