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9-8-5 ジャン・ジャック・ルソー

2024-09-11 13:10:25 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
8 フランス啓蒙思想――貴婦人たちのサロン
5 ジャン・ジャック・ルソー

 ジャン・ジャック・ルソー(一七一二~七八)は時計師を父として、一七一二年スイスのジュネーヴにうまれた。
 先祖は十六世紀中ごろ、フランスから亡命したカルバン教徒である。
 ルソーは自分の誕生を「最初の不幸」としているが、こうしたペシミズムは彼の生涯をつらぬく基調である。彼は神経質で内気、猜疑(さいぎ)心がつよく、放浪癖があり、傲慢(ごうまん)でエゴイストであった。
 十三歳のとき、、時計師の徒弟奉公にだされたルソーはこれをきらい、一七二八年からジュネーブをすてて、放浪生活にはいった。
 スイス各地やフランスをさまよったのち、彼は三二年から約八年はど、シャルメットのバラン夫人(一七〇〇~六二)のもとに寄食することとなった。
 十二歳年上のこの女性は、青年期のルソーにとり、母であり、情人でもあった。彼が一生のなかでもっとも幸福だったと回想するのは、この時期である。
 そしてこのころ、彼は音楽の才を示している。
 しかしやがて夫人との仲が悪くなり、一七四○年ルソーはシャルメットを棄てて、やがてパリで暮らすこととなった。
 まず彼の名が知られたのは音楽家としてである。
 そして彼は上流のサロンに出入りしたり、ディドロなどの啓蒙思想家たちと交際するとともに、一方では無学文盲といわれるテレーズ・ルバスール(一七二一~一八〇一)と同棲した。
 彼女は事実上の妻であるが、一七四七年ごろから数年のあいだにできた子供たちを、ルソーはつぎつぎと養育院へ送ってしまった。   

 これは苦しい家庭の事情とともに、著述への野心に燃える天才のエゴイズムがさせたものとみられている。
 なお当時、貧しい民衆のあいだでは、捨て子はふつうのことであったという。
 一七五〇年、ルソーはディドロのすすめもあって、ディジョンのアカデミーの懸賞論文に応募し、当選した。
 課題は、「学問と芸術の進歩は、習俗を純化することに寄与したか」であり、ルソーの論文『学問・芸術論』における答えは「否」であった。
 ルネサンス以来の文化は道徳を腐敗させた、学問も芸術も人間の悪徳からうまれる、たとえば天文学は迷信から、幾何学は吝嗇(りんしょく)からといった調子であり、他の啓蒙思想家のバラ色の進歩覬にくらべて、ペシミズムの色がつよい。
 とうしてこの論文は、ルソーが著述家となるきっかけとなったのみならず、社会や文明が人間を堕落させるという彼の根本思想をあらわしている。
 つぎの応募論文『人間不平等起源論』(一七五五)は落選したが、ここでは、私有財産が生ずるとともに不平等がおこり、富者が貧者をおさえるために法律や国家がうまれ、私有と不平等が確立すると論じられている。
 「ある土地に囲いをして『これはおれのものだ』ということを思いつき、人びとがそれを信ずるほど単純なのを見いだした最初の人間が、政治社会の真の創立者であった……。」
 ルソーは『百科全書』に「経済論」を寄稿したが、百科全書派、とくに重農主義者は所有権を「自然の権利」とみなしているので、ルソーのこれに対する見解は彼らと相違するわけだ。
 一方、音楽家でもあるルソーは『村の占者(うらないしゃ)』(一七五二)という小歌劇をつくった。
 このなかから「むすんで、ひらいて」というあのメロディーがうまれた。
 これは二人の羊飼いの男女が恋しあい、村の占者のおかげてハッピー・エンドになるという筋で、大当たりをとった。
 ルイ十五世、ポンパズール夫人のまえでも上演され、感心した王は年金をあたえようとしたという。
 その後ルソーは、社交界の才媛エピネー夫人やリュクサンブール公の好意をうけたたり、ウードト夫人を恋したりしつつ、一方では思想家、文学者としての名声を確立する作品を発表していった。
 書簡体の恋愛小説『新エロイーズ』(一七六一)は、情熱と感情の解放や高揚、豊富な自然描写、新鮮で健康な田園生活の讃美、誠実な女性観や結婚観などをもって、当時の人心をゆすぶるとともに、十九世紀ロマンティシズム文学に大きく影響した。
 一方、ルソーがその社会思想を発展させた『社会契約論』(一七六二)のはじめには、つぎの有名な一句がある。
 「人間は生まれながらにして自由であるが、しかしいたるところで鉄鎖につながれている。」
 そしてルソーは、すべてがけっきょくは政治によって左右されることを鋭く見ぬき、人民主権の立場にたつ。
 彼によれば、社会契約はこれまでの論のように支配者と人民との契約ではなく、個々人が結合して民主政国家を形成するための契約で、政府はたんに執行権を委託されたにすぎないとした。
 したがって国家の主人は人民であり、その意志は絶対的で、これにそむく場合には人民は政府をつくりかえることができるわけで、ルソーの考えは革命を正当化するものであった。
 また彼は直接民主主義や、民主的国家の連合体による世界平和を考えた。
 『社会契約論』と同じ年に、『エミール、または教育について』が発行された。
 それはエミールという男の子を主人公として、自然があたえてくれた人間の精神と肉体とをいかに自由に、あるがままに成育させ、新しい市民像を形成してゆくかを、物語の形式でのべた教育論である。
 所論は理想的で、現実ばなれしているが、これまでの人工的、機械的なつめこみ主義の教育に対するきびしい批判であり、後世の教育思想にあたえた影響は大きかった。
 ルソーが『エミール』を書いた動機の一つとして、前述の捨て子事件があげられている。
 つまり彼の悔恨、贖罪(しょくざい)の気持ちがこの作品にこもっているのではないか……ということである。
 そしてこの気持ちが、有名な『告白』執筆のきっかけとも推測されている。
 『告白』は主として一七六〇年代後半に執筆され、死後出版されたものである。
 これはルソーの自伝として貴重であり、また強烈な自我の表出、赤裸々な人間性の表現という点において、たんにロマン主義文学のみならず、ひろく近代文学の源流となった。
 一方、『エミール』の宗教にかんする部分が、一七六二年パリ大学神学部によって告発され、ルソーに逮捕状がでることとなった。
 これから約八年間、彼はフランス各地、スイス、イギリスと放浪生活をつづける。
 官憲や教会からの迫害とともに、ボルテール、ディドロはじめ啓蒙思想家との仲違いも彼を苦しめた。
 この間、彼は被害妄想に悩まされた。一七七〇年、帰国を黙認されたルソーはようやくパリに帰ったが、名声にひかれて来訪する客をさけ、楽譜写しの仕事と植物採集の趣味でほそぼそと暮らした。
 そしてあいかわらず被害妄想に苦しんだ。
 彼はどこでもスパイされ、監視されていると考え、また彼によれば、「果物屋が果物を割引して売るのは、自分にほどこしをあたえて侮辱するためであり、馬車が方向を変えるのは、自分をひき倒して泥をかけるためであった。」
 一七七八年、ボルテールがフェルネーからパリに帰り、熱狂的な歓迎をうけているとき、ルソーは最後の著作『孤独な散歩者の夢想』を書いていた。
 この随想集は迫害観念もほぼいえて、老境に達した著者が静かに自然の観想にひたっている姿が示されているが、未完のままに終わった。七八年七月、ルソーは世を去ったからである。六十六歳。
 ルソーの『人間不平等起源論』や『社会契約論』は、旧体制の政治や社会を鋭く批判するものであったが、『エミール』や『新エロイーズ』も、それらの新しい人間観、人間像によって封建的モラルを打破する意味をもっていた。
 ルソーが多くの知己と不和になり、孤高のうちに世を終えたことは、彼の異常な性格によるとともに、その革命的で先駆者的な思想のためでもあった。
 それだけに彼の影響力は同時代にとどまらず、時代をこえて大きかった。
 たとえばフランス革命期において、「人権宣言」や、ロベスピエール、サン・ジュストらの急進的革命家たちに、ルソーの思想がうかがわれるとともに、日本においても、彼の著書はある時期に熱読された。
 すなわぢ明治十年代の自由民権運動時代に、『社会契約論』は『民約論』として、明治中期のロマン主義から自然主義文学の時代に、『告白』は『纖悔録』として、ひろく読まれた。
 とくに中江兆民(ちょうみん)が漢訳した『民約訳解』(明治十五年)は、大井憲太郎、植木枝盛(えもり)たちにとってバイブル的存在であったという。
 『告白』は島崎藤村(とうそん)、北村透谷(とうこく)、国木田独歩(どっぽ)、田山花袋(かたい)らに愛読され、彼らは、文学とは自我の探究と表現であることを学んだのである。



9-8-4 百科全書派

2024-09-04 00:36:20 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
8 フランス啓蒙思想――貴婦人たちのサロン
4 百科全書派

 イギリスでは一七〇四年ジョン・ハリスによって、また二八年イフレイム・チェンバーズによって、百科辞典が発行された。これらに注目したパリの出版業者ル・ブルトンは三人の同業者をさそい、四六年に、「ハリスおよびチェンバーズの英語辞典を増補しつつ、翻訳する……」という認可を当局から交付された。
 そしてこの企画の編集者として、白羽の矢をたてられたのがズニ・ディドロ(一七一三~八四)である。
 彼はシャンパーニュ地方、ラングルの刃物業者の旧家にうまれ、パリに出て学んだが、親の期待に反して定職につかず、文筆生活にはいった。
 そして詩、小説、文芸評論、美術論、哲学および科学論など、数多くの著作をものにし、彼に匹敵するのはボルテールくらいといわれるようになった。代表作には、小説『ラモーの甥』などがある。
 一七四六年ころのディドロは、まだ貧書生といったところであったが、翻訳などによって、出版業者に手腕をかわれていた。
 ル・ブルトンの仕事をひきうけたディドロは、たんに英語辞典の翻訳にとどまらず、まったく新しいものをつくることを決意し、ル・ブルトンらを説得した。しかし独力ではむつかしいと考えたディドロは、友人のダランベール(一七一七~八三)に共同編集者として協力をもとめた。

 すでに科学者として名高く、科学アカデミーの会員でもあるダランベールは、これに応ずるとともに、自分が出入りしていたジョフラン夫人らのサロンに、ディドロを紹介した。
 こうしてモンテスキュー、ボルテールなどの名士たちも応援してくれることとなり、この二名はむろん、ルソー、コンドルセ、ケネー、テュルゴーなどの知名人が執筆に加わった。
 一方、ディドロは無名で若い知識人たちの助力をえて、その家は彼らのたまり場となり、談論風発のうちに仕事はすすめられてゆくこととなった。
 『百科全書』(アンシ・クロペディー)――正式の書名は、司科学・芸術・技術についての合理的な辞典』である――の総執筆者は百八十余名におよび、中心となったのは四十代、三十代、二十代といった若い世代であった。
 協力者のうち百余名はブルジョワであり、また彼らの職業は官吏、医師、軍人、学者、技術家、工場主、僧侶など、多方面にわたっている。こうした多様な執筆陣は、思想や立場をかならずしも一(いつ)にしてはいない。
 しかし彼らはつぎの点では一致していた。すなわち理性の力を信じ、進歩と科学的真理に味方し、専制や狂信を批判しようとすることであり、とくに宗教や教会に関心が向けられた。
 したがって一七五一年に始まる『百科全書』の出版には、イエズス会を先頭とする保守勢力の妨害があった。

 第二巻まで出たところで、一七五二年発売禁止、五九年発行権取り消し、などにぶつかった。
 ダランベールは編集から手をひき、ボルテールは国外の出版をすすめたが、ディドロはねばって国内の非合法出版をつづけた。
 こうして非合法出版となったときにも、世論は百科全書を支持し、賠償金の支払を請求するものもなかったという(約五千部が予約購読)。
 またディドロは迫害、中傷、弾圧、また仲間の脱落にも屈せず、執筆者がいない項目を自分でひきうけて編集をつづけた。
 しかし政府側にも、ルイ十五世の寵愛をうけたポンパズール夫人、出版監督長官マルゼルブ(一七一二~九四)などのように、『百科全書』出版に理解をもつ開明派もあり、また一七六〇年代になると、反動の中心イエズス会の解散もあって、出版は有利に展開した。
 ただしディドロにとっては、泣いても泣ききれない場合もあった。
 発売禁止の法律がありながら、ディロドとル・ブルトンはマルゼルブと連絡しつつ、印刷、校正、製本にあたっていたが、この間ル・ブルトンはさらに当局を刺激することを恐れたとみえる。
 すなわち、一七六四年十一月のある日、ディドロは売り出すばかりの本をあけて見たところ、なんということであろうか、原稿とまったく違った個所があちらこちらにあったのだ! 
 二十年近く、この仕事に没頭してきたディドロの驚き、怒り、そして落胆は想像にあまりあろう。
 ル・ブルトンをはげしく責めたてたのち、家に帰った彼は机に伏して子供ように泣いたという。
 しかしけっきょく、あきらめざるをえなかった……。
 ともかく、『百科全書』は一七七二年、本文十七巻、図版十一巻、あわせて二十八巻が、啓蒙思想のいわば集大成として完成した。
 さらに七七年までに補巻として五冊が出版されたが、これはディドロと無関係である。
 ディドロをはじめとして、『百科全書』に執筆した人びと、いわゆる百科全書派(アンシ・クロペディスト)は一般に自然法の存在をみとめ、理性によってこれを見いだし、啓蒙運動によって普及し、社会を改革しようという立場にたっている。
 しかし彼らは社会変革の手段としては、革命的方法によらず、漸進(ぜんしん)的な改革を考えていた。
 たとえば彼らは政治上ではだいたい、議会主義によるイギリスふうの立憲君主政を理想とした。
 この点、百科全書派は自由主義貴族やブルジョワの立場にたつものであろう。
 したがって彼らのなかでフランス革命まで生きていた者は、その急進化に驚くのである。
 『百科全書』の目的は、学問や思想につき体系的・総合的知識をあたえるところにあったが、注目すべきば自然科学・産業・技術・経済関係の項目であり、これは当時の新しい生産者層の要求にこたえるものであった。
 また百科全書派は自然権のなかでは財産権をもっとも重視しているが、私有財産をまもり、かつ増大させること、それが国富、民富の増加と一致するという、当時のブルジョワらしい考えにうらづけられている。
 そしてこの見地から、彼らは自由な経済活動をもとめ、生産や流通をさまたげる諸条件の廃止をのぞんだのである。
 この点で、重農主義者(フィジオクラート)たちが『百科全書』に関係していたことは当然かもしれない。
 彼らは、ルイ十五世の侍医でもあったケネー(一六九四~一七七四)を中心として、財務総監をつとめたテュルゴー(一七二七~八一)、革命家ミラボーの父ミラボー(一七一五~八九)らの経済学者、政治家、思想家たちで、エコノミストともよばれる。
 それはまた、経済学史上はじめて、科学的な思想体系をもった学派といわれる。
 重農主義(フィジオクラシー)とは語源的に、「自然の支配」をあらわすように、この一派は、自然法にもとづく自然秩序を重んじ、とくに私有財産権をもっとも基本的なものとみなした。
 そして人為的秩序はそれを守り、その行使を保障すべきものと考えられた。
 そこで従来の重商主義の保護育成政策に反対し、つぎの言葉が示すような自由主義経済の主張となった。
 「なすにまかせよ、ゆくにまかせよ。(レッセ・フェール、レッセ・パッセ)」
 一方、重農主義者は農業こそが真に生産的であるとして、さらにその生産を高めるだめに、投資の助成、耕作地の拡大、税制改革、流通の自由などを主張した。
 こうして彼らは新興の地主、ブルジョワの立場を代弁しており、フランス革命前の旧体制(アンシャン・レジューム)を批判するものであった。
 しかし彼らは政治的にはだいたい王政の支持者で、ただ絶対主義ではなく、開明化、啓蒙古義化された王政をのぞんでいた。
 なお重農主義者の経済的自由主義は、イギリスのアダム・スミス(一七二三~九〇)に影響した。
 スミスは『道徳情操論』(一七五九)で、人間は利己的であるが、この利己心はそれ自体、資本主義社会において道徳的に価値あるものと主張した。
 そしてこの倫理観は、個人の利己的な経済活動が自由、平等に放任されてこそ、市民社会の繁栄が可能であるという、『国富論』(一七七六)の経済観に対応するものであった。
 このスミスにいたって、近代資本土義の経済論、近代市民倫理が成立したといえよう。




9-8-3 フェルネーの長老

2024-08-12 20:18:07 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
8 フランス啓蒙思想――貴婦人たちのサロン
3 フェルネーの長老

 筆の先だけではなく、ボルテールはガラス事件、シルバン事件などのように、実際に宗教上の偏見の犠牲のためにたたかった。
 ツールーズの商人、カルバン主義の新教徒のガラス家で、一七六一年十月のある日、三十八歳の長男マルク・アントワーヌが首つり自殺をとげた。
 ところが司法当局は、彼がカトリックに改宗しようとしたため、家族たちが共謀して殺したものと決めた。
 そして六二年三月、父シャンは栲問ののち、車刑で生きながらからだをくだかれ、二時間も苦しんで絶命した。
 これに対してボルテールは、「……もっとも啓蒙された世紀におけるもっとも恐るべき狂信、わたしが書く悲劇もこれほど悲劇的ではない」として、ガラスの名誉回復のために立つこととなった。
 そして再審の結果、六五年、この目的が果たされたのである。
 またガラス事件から三ヵ月たらずで、南仏のある都市でほぼ同じような事件が起こった。
 測量技師で、やはり新教徒のピエール・ポール・シルバンの娘エリザペートは、ある神父にすすめられてカトリックの修道院にはいったが、信仰上の問題のためか、一七六二年一月、井戸へ入水自殺をとげた。
 一家の者に殺人の嫌疑がかけられたが、彼らは捕われるまえにスイスへ逃亡したため、六四年欠席裁判で両親は死刑と判決された。
 この事件に対してもボルテールは活躍し、七一年再審の結果、シルバン家の名誉が回復されたのである。
 これよりさきに、一七五八年ごろ、彼はスイスとの国境に近いフェルネーに土地を求めた。
 当局の追及に対して、いつでも国境をこえて逃げられる態勢をとる必要があったのだ。
 そして彼は約二十年間フェルネーに住み、王者のような豪奢な生活をおくり、諸著作やおびただしい手紙を書きつつフランスのみならず、ヨーロッパ思想界に君臨した。
 「フランスに二王あり。一つはベルサイユに住んで地上の王。一つはフェルネーにあって精神界の王。」
 諸国の王侯、貴族、知識人から、この「フェルネーの長老」に書簡は絶えなかったし、また各地から「フェルネーもうで」をする人びともひきつづいた。
 その邸宅には、つねに訪客のため食事の用意がしてあったといわれる。
 一方、ボルテールは村の発展、村民の啓発につくすことも忘れず、フェルネーの村は繁栄する小都市にかわったという。
 ボルテールはこれまで中央の当局をはばかり、パリをさけていたが、一七七四年ルイ十五世の死、ルイ十六世即位と世も改まった。
 そこで七八年二月、彼はパリに帰り、さながら凱旋将軍のように迎えられた。
 いささか誇張されているが、つぎのような言葉もある。
 「一七七八年二月十日、ボルテールの都入りとともに大革命がはじまった。」
 三月三十日、コメディー・フランセーズ座で、彼の悲劇『イレーヌ』が上演され、舞台にすえられたボルテールの像の頭に、月桂冠がおかれた。
 列席したボルテールはあまりの歓迎に、うれしい悲鳴をあげたという。
 「喜び死にをさせようとするのか。」
 しかしこうした状態は八十四歳の身にこたえたとみえ、この七八年五月三十日、ボルテールは息をひきとった。
 ボルテールは、哲学では経験論、宗教では理神論、政治上では立憲王政主義であり、貴族化した大ブルジョワの立場を代表していたといえよう。
 そして彼自身、大ブルジョワであった。前述のように彼はたくみな投資や投機で産をなした。
 ブルジョワとして、彼は享楽することにも貪欲であった。
 この点において彼は「フランス十六、十七世紀をつらぬく快楽的な伝統の代表的な継承者」であり、そしてこの快楽主義は、彼の皮肉なペシミズムと表裏をなすものであった。
 ボルテールはまた、他の多くの啓蒙思想家と同じように、けっして急進的であったわけではない。
 彼はカトリック教会を攻撃したが、無神論には賛成せず、それは社会に有害であるとして、大衆のあいだに秩序をもたらすために、宗教の存在の必要性を重視していた。
 「神がなければ、発明する必要がある」というわけである。
 もしもフランス革命の時代まで生きていたならば、もっともこれに反対したのは、人一倍民衆を軽蔑していたボルテール自身であったかもしれない。




9-8-2 シレーの恋人たち

2024-07-27 10:18:02 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
8 フランス啓蒙思想――貴婦人たちのサロン
2 シレーの恋人たち 

 ボルテール(本名はフランソワ・マリー・アルーエ、一六九四~一七七八)はパリの公証人の家に生まれ、ブルジョワの出である。学生時代から早熟で、野心家、才気にあふれ、何ごとにも闘志満々といったタイプであった。
 卒業後、親のあとをついで法律家になろうとしたが、どうも法律は無味乾燥でおもしろくない。つぎに外交官をめざしたが、これもものにならなかった。
 身持ちも悪く、札つきの不良青年であったが、そうするうちに文筆家として出発することとなった。
 しんらつな諷刺と皮肉にとんだ筆は、当時の政府に対する批判におよび、一七一七年から一時バスティーユの監獄ヘいれられたこともあった。
 一七二六年、三十一歳のボルテールはすでに詩人、劇作家として名もでていた。
 ところがある貴族と争って、またバスティーユヘ投獄され、数ヵ月後、イギリスに亡命ということで釈放された。妙なことから、彼は年来の希望であるイギリス行きを果たすことができ、この地に三年ほど留まることとなった。
 十七世紀以来フランス文化は国際的に尊敬されているので、彼はその文人として好遇され、知識人とひろく交際することができた。
 一方、イギリスはその経験論哲学、ニュートン物理学、シェークスピア、あるいは信仰上の寛容、言論の自由、議会制度にもとづくデモクラシーなどにおいて、ボルテールの思想形成に大きな影響をあたえた。      

 フランスに帰り、悲劇『ザイール』(一七三二)などで文名をあげていたボルテールが、一七三四年出版した『哲学書簡』(一名『イギリス便り)は、イギリスで見聞したことを書簡体にした一種の文化評論である。
 そこでは宗教、哲学、文学、政治、社会など、種々の面で民主的なイギリスと、絶対主義的で不寛容なフランスとが対比されている。
 ところがこの書物が当局ににらまれたこともあり、ボルテールはその追及をのがれて、パリからロレーヌ地方のシレーにうつった。
 ここでシャトレー侯夫人(一七〇六~四九)の邸宅に身をよせたが、夫人は彼の情人兼親友ともいうべき存在となった。ボルテールより十二歳年下で、そのころ二十七歳のこの女性は夫と別居し、自由な生活をおくっていた。
 シャトレー夫人はニュートンの書いたものを翻訳したり、ライプニッツの哲学を論ずるなど、なかなかの才媛であった。
 ボルテールは彼女を「女のニュートンさん」などとよんでいる。
 しかし一方では夫人はダイヤモンドを好み、衣装にこり、官能的でもあった。
 ボルテールは十五年間(一七三四~四九)シレーですごすこととなったが、劇に、詩に、論文に、歴史物に縦横の筆をふるい、彼の一生において、もっとも多作な時代だったといわれる。
 彼は邸宅に物理や化学の実験道具を持ちこんだり、舞台をもうけて自作の芝居を上演したりした。
 シレーの邸宅で、ボルテールは金にあかせて、贅沢な生活にふけった。          

 大改築を加えた豪勢な屋敷のみならず、その邸内には小川あり、森あり、丘あり、谷ありというありさまで「地上の楽園」とまで評されたという。
 ボルテールはすでに高い文名のうえに、父から相続した財産を、外国貿易などに投資したり、また富くじでもうけたりして、当時の文士としてはめすらしい財産をつくった。
 しかしこのシレーの生活も終わるときがきた。二人の仲が冷たくなっていたとき、夫人は若い愛人に夢中になり、一七四五年その子をうんだが、それがもとで世を去ったのである。
 五十六歳のボルテールは、一七五〇年七月ベルリンを訪れた。プロシア王フリードリヒ二世の招きに応じ、その宮廷につかえるためである。
 この王はいわゆる啓蒙専制君主であり、フランス文化に心酔し、かねがねボルテールの名をしたっていた。
 これまで両者は長らく文通しており、また二、三度ボルテールは王のもとへ行ったことがあった。
 ボルテールはプロシアの宮廷に三年ほど滞在した。
 彼は有名なサン・スーシー(無憂)宮にも部屋をあたえられ、側近の知的グループの一員として、豪奢(ごうしゃ)な生活をおくった。その史書、『ルイ十四世の世紀』(一七五一)は、ベルリンで発行されている。
 しかし彼の自由奔放、わがままな性格は、窮屈な宮廷生活にけっきょくは適していない。
 またパリにくらべると、田舎町のベルリンにも不満で、彼はドイツ人をみくびっていた。
 そのうえ、利殖にたけたボルテールは、この道で裁判沙汰までおこした。王のほうでもやっかいなものを背負いこんだと、しだいに後悔する……。      

 こうして一七五三年、ボルテールはプロシアを去り、やがてスイスにおちついた。
 そして文筆活動に専念したが、代表作の哲学小説『カンディド』(一七五~九)などの発表とともに、彼の本領、いわば当代無比のジャーナリストとしての面目も発揮される。
 時事的な面では、絶対主義やカトリック教会に対する攻撃、とくに、高位の聖職者や教徒の不寛容などに向けられた。
 「恥知らずをたたきつぶそう(Ecrasons I'infame)」、彼の手紙の末尾には、しばしばこう書いてあったというが(ただし用心のためか Ecr. I'inf. などと略して)、いわばこれは彼のモットーであったのであろう。



9-7-6 ベーリングの後援者

2024-07-20 02:37:15 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
7 西欧に窓を開くピョートル大帝の大改革
6 ベーリングの後援者

 ロシア人のシベリア進出は十六世紀から本格的に行なわれているが、またこの地は流刑地として有名である。
 まさしく「シベリア流刑史は、シベリアの発見とともにはじまる」のである。
 そして十七世紀にもシベリア経営は、主としてコサックにより原住民を征服しつつ行なわれ、その間にはオホーツク海岸や、いまのベーリング海にのぞむ地方も探検された。
 このシベリア開発のおもな目的は良質の毛皮をうることにあり、これをもとめて、多くのロシア商人が出かけた。
 彼らによって都市がつくられ、これに応じて、農民の強制植民もすすめられた。
 ヤクーツク市は、シベリア東部進出の拠点となった。しかし十七世紀中ごろ、ロシア人がアムール川(黒竜江)の流域に進出すると、当時の清朝勢力と衝突するにいたった。両者のあいだにたびたび戦いがまじえられたが、これを平和的に解決したのは、一六八九年に成立したネルチンスク条約である。   

 その後もピョートルは中国との交渉に意をもちい、死去する直前に派遣されたロシア使節団は、一七二七年、清国とのあいだにキャフタ条約をむすんだ。
 これは蒙古方面との国境や、通商、外交上などについて定め、二十世紀にいたるまでのロシアと清国との関係をきめるものであった。
 一方、十七世紀末、ウラジミール・アトラソフ(?~一七一七)によってカムチャッカが発見されていたが、晩年のピョートルは、極東方面への探検隊派遣を計画した。そして海軍大尉ベーリング(一六八〇~一七四一、デンマーク人)の一隊が、一七二五年二月、ピョートルの死の直後、ペテルブルクを出発してヤクーツクへ向かった。
 ここからオホーツクへぬけるあいだにさえ、一行は飢えきって、死んだ馬の肉はむろん、荷袋や衣服の皮革まで食糧とするありさま、十月末ころ、やっとオホーツクへ達した。
 そして、一七二八年三月、苦心のすえニジニ・カムチャッカにたどりつき、船をつくって七月中ごろ出航、のちにベーリング海峡と名づけられた海上を進んだが、陸影を見なかったのでひき返し、二大陸が離れていることを知った。               

 その後、一行がいろいろな情報や物資をえて、ペテルブルグへ帰ったのは、一七三〇年三月であった。
 さらにこの事業を完成させるため十分に準備をととのえ、一七四○年、ベーリングは二度目の探検に出発した。
 そして一行はアラスカに達し、アリューシャン群島を発見したりした。
 しかし帰途、ベーリングは難船して無人島(いまのベーリング島)にうちあげられ、そこで生涯をとじた……。
 この晩年のピョートルは家庭生活において、めぐまれなかった。
 最初の妻エウドーキアとの不和については前述したが、彼女は修道院にはいり、やがて正式に離婚する。
 皇太子アレクセイも成人すると、この母に味方し、父を敵とするようになった。
 彼は「改革」に反対する大貴族の陰謀にくみし、
 「親父が死ねば、わたしがツァーリになる。
 そのときにはペテルブルグは荒野となり、首都はふたたびモスクワになるだろう。
 海軍も廃されるし、スエーデンとの戦争もやめる」

と公言したが、ついに「反逆罪」にとわれ、一七一七年死んだ。
 この死因については、さまざまなうわさが流されていた。
 ビョートルははじめ、アレクセイを廃嫡して修道院にいれる考えであったが、この息子は父にそむいてウィーンに逃亡し、ついで本国に送還されると、軍法会議にかけられた。
 そこで死刑が宣告され、二日後に執行されたというが、一説によると、この日の朝、父と九名の将官のまえで取り調べをうけ、拷問中に死んだともいう。
 ピョートルの二度目の妃がエカテリナで、一七〇二年夏、北方戦争中、敵の捕虜のなかから見つけられたという女性である。

 その後五年間ほどを、彼女がどのように暮らしたかはわかっていない。
 一説によると、彼女は本名をマルタとよび、リトワの農奴の娘であったというが、ロシア軍に捕われてからは、おそらく「遠征妻」「兵士妻」など、いわゆる陣中のなぐさみものとなったのではなかろうか。
 記録ではっきりしてくるのは、シェレメーチェフ元帥家にいるときからで、やがてメンシコフ公爵邸にうつっているが、これはかこいものであったらしい。
 たまたまピョートルがここを訪れたとき、一目見て好きになり、むかえて皇妃とした。
 このようにいかがわしい素姓の女性であったから、エカテリナは学問も、教養もなく、文字さえも読めなかったという。
 ただ持ちまえの美貌のうえに、よく気がきき、客扱いが巧みであったのが、ピョートルの気にいったらしい。
 しかしさすがのピョートルも、この皇妃を外国の王室の前にだすのは気がひけたとみえて、フランス訪問のさいにも同伴はしなかった。
 彼女の好みは派手であったが、あるドイツ王女の評によると化粧は「道化役者」のようで、衣裳は「流行おくれ」で、「一目でおさとが知れる」と。
 ところでピョートルの最期は、偶然がきっかけとなった。
 一七二四年十一月のある日、国内視察中に、たくさんの兵士たちを乗せたボートが、浅瀬に乗りあげているのに出くわした。
 ピョートルはみずから水中にとびこんで腰までつかり、大男の強い腕力をもって、これを救った。その水がたいへん冷たかったためか、彼は急に発熱し、視察をあきらめてペテルブルグに帰ったのち、翌二五年一月末、世を去った。
 五十二歳。ロシア絶対主義国家の原型があとに残された。
 一七二二年、ピョートルは皇帝自身が後継者を指名する帝位継承法を制定していた。
 しかし彼はこれを行使せず、死にのぞんで何か書こうとしたが、読みとれたのは、「すべてを………あたえよ」という言葉だけであったという。