今日は ポルト・マウリチオの聖レオナルドの記念日です。その説教を紹介します。霊的な利益になるものです。
ただし、極端な数字が出てきますが、数字を字義通りに捉えるより、教訓的なものと理解した方が、受け入れやすいのではないかと思います。
ポルト・マウリチオの聖レオナルドの説教
『救われる人の数の少なさ』
編者の言葉
ポルト・マウリチオの聖レオナルド(1676-1751)は、ローマの聖ボナヴェントゥラ修道院に生きた最も清いフランシスコ会修道士でした。そして教会の歴史の中でも最も偉大な宣教者達の中の一人でした。彼は、彼の聴衆を収容することのできる大きな教会堂を持たない市や町ではどこででも、数千もの人々に向かって屋外の広場で説教しました。
彼の雄弁は非常に素晴らしく且つ神聖だったので、一度などは、彼がローマでの二週間のミッションにあった時、教皇と枢機卿会が彼を聴きに来たほどです。福いなる童貞の無原罪懐胎説、ご聖体への崇敬、そしてイエズスの至聖なる聖心への礼拝が彼の運動でした。彼の帰天後100年を少し越えた時に成立した無原罪の御宿りの教義は、かなりの程度彼に負っています。彼はまた聖体降福式の最後で唱えられる讃美(Divine Praises)を私達に与えました。
しかし聖レオナルドの最も有名な仕事は、十字架の道行きの祈りへの献身です。24年間の絶え間ない説教活動の後、75歳で、彼は最も聖なる死を遂げました。
ポルト・マウリチオの聖レオナルドの最も有名な説教の一つは『救われる人の数の少なさ』と題されたものです。これは彼が大きな罪の状態にある人々の回心を願ってしたものです。この説教は、彼の他の著作と同様、彼の列聖調査の時、教会の審査に付されました。その中で彼は、キリスト教徒の生き方の様々な状態を改めて吟味して、最後に、人類の総数の中で救われる人の数は少ない、と結びます。
この注目すべき説教を黙想する読者は、この説教に教会が認可を与えたことの論証の確かさを見ることでしょう。この偉大な宣教者の力強く感動的な説教がここにあります。
ポルト・マウリチオの聖レオナルド
説教『救われる人の数の少なさ』
◆1、導 入
救世主の弟子達の数が律法学者とファリサイ派が彼らに打ち勝つことのできるほど少なくはないことを、神に感謝します。彼らは太陽の上にさえ小さな斑点を探すかのようにして潔白を中傷し、教義と私達の主の御性質の評判を落すことによって、彼らの危険な詭弁をもって群衆を惑わそうとしましたが、それでも多くの人々はイエズスを真のメシアであると信じ、懲罰にも脅迫にも屈することなく天主の運動に加わりました。
しかし、キリストに従った全ての人が、栄光に至るまで彼に従ったでしょうか? ああ、私はこのように重大な事柄において軽率な判断をするよりも、むしろ深い神秘に対する尊敬をもって神の審判の測りがたさを黙して礼拝したいと思います。今日私が取り上げようとする主題は極めて重大なもので、それは教会の柱をも震わせ、偉大な聖人達をも恐れで満たし、隠遁者達を砂漠に送ったところのものです。今日の説教の目的は、救われるキリスト教徒の数は滅ぼされるキリスト教徒の数より多いか少ないかを見定めようとするものです。私はこれがあなたの心に神の審判に対する有益な恐れをもたらすことを望みます。
兄弟の皆さん、私はあなた方を愛するがゆえに、あなた方おのおのに「あなたが天国に行くのは確実です。キリスト教徒のより多くの人達が救われています。それゆえ、あなたも救われるでしょう」と言って、永遠の幸福の見込みをもってあなた方を安心させることができたらと思います。しかし、もしあなたがあなた自身にとって最悪の敵であるかのようにして神のご命令に背いているなら、私はどのようにしてあなたにこの甘い保証を与えることができるでしょうか? 私は神の中にあなたを救いたいという真実の願望があるのを見ますが、しかし同時にあなたの中に咎められるべき明確な罪の傾向があるのを見ます。
ですから、今日、私がはっきりと話す時、私は何をしようとするのでしょうか? 私はあなたにとって不愉快な者となるでしょう。しかしもし私が話さなければ、その時私は神にとって不愉快な者となるでしょう。
それゆえに、私はこの主題を二つの要点に分けようと思います。
第一の要点において、私はあなたを恐れで満たすために、この問題について神学者達と教会教父達に決めさせ、そしてキリスト教徒のより多くの人達が地獄に値すると断言させようと思います。そしてこの恐ろしい神秘に対する黙した礼拝において、私は私自身の考えは伏せておこうと思います。
第二の要点において、私は、滅ぼされる人々は彼ら自身が滅ぼされることを望むが故に彼ら自身の悪意によって滅ぼされるのであるということを証明することによって、神を信じない者達から神の善き御性質を擁護しようと思います。それ故、ここに二つの非常に重要な真理があります。
もし、第一の真理があなたを恐れさせても、まるで私があなたの天国への道を狭くしているかのように思って、私に対して恐れを持たないで下さい。なぜなら私はこの問題において中立でいたいからです。むしろ根拠をあげることによってこの真理をあなたの心に刻み付ける神学者達と教会教父達にそれを向けて下さい。そして、もしあなたが第二の真理によって幻から解かれるなら、どうかそのことを神に感謝して下さい。なぜなら、このことは、神はあなたが彼にあなたの心を完全に差し出すことだけをお望みである、ということを意味しているからです。
最後に、もしあなたが私に、私自身はどのように考えているかをはっきりと語れと強いるならば、その時私はあなたの慰めのためにそれを語りましょう。
◆2、教会教父達の教え
常に神の御憐れみばかりについて語り、回心することは如何に簡単かなどと語り、様々な罪の中に急降下するような生き方をして、地獄への道の上でぐっすりと眠りこけている放蕩者達に向けて、その怠惰を牽制するために非常に役立つ確かな真理について説教壇の上から宣言することは、人のことを無益に詮索することではなく、有益な予防措置です。彼らをその迷いから覚まさせ、その麻痺状態から覚まさせるために、今日はこの重大な問題について調べましょう。
すなわち、「救われるキリスト教徒の数は、呪われるキリスト教徒の数より多いだろうか?」
信心深い人達はここにいなくてもいいかも知れません。この説教はその人達のためのものではありません。この説教の唯一の目的は、神に対する聖なる恐れを心の外に放り投げ、エウセビオスの考えを使って霊魂達を安心させることによってそれを滅ぼそうとする悪魔と手を結ぶ放蕩者達の傲慢を挫くことです。
この疑問を解決するために、一方に教会教父達を、ギリシアとラテン両方の教会教父達を置き、他方に最も博識な神学者達と博学な歴史家達を置きましょう。そして全ての展望の真ん中に聖書を置きましょう。
さて、これから述べることを、私から出たものだと思わないで頂きたい。なぜなら、既にお話した通り、私は私自身として語ることも、私としてこの問題に結論を下すことも、望まないからです。あなた方に語らねばならぬ偉大な精神達が語っていることとして聞いて頂きたい。彼らは、人々が天国への道を誤らぬようにと他の人々に光を与える神の教会のかがり火です。このように、信仰、権威、そして論証からなる三倍の光に導かれることで、私達はこの重大な問題について確実な答えを手にすることができると思います。
この質問が人類全体に向けられているものでも無差別に全てのカトリック信者に向けられているものでもないことをよく覚えておいて下さい。これはただカトリックの大人の信者達、選択の自由を持った、それ故彼ら自身の救われという重大な問題のために協力することのできる人達に向けられています。
最初に、その教えにおいて最も注意深く調べておりまた誇張がないと認められている神学者達の教えに耳を傾けてみましょう。それは二人の博識な枢機卿達、カエタノとベラルミーノです。彼らはキリスト教徒の大人の信者のより多くの者達が滅ぼされると教えています。そして、もし私に、彼らが何を根拠としてそのように言うのか、その理由をあげる時間があれば、あなたはあなた自身でそれに確信を持つでしょう。
しかし、私はここでスアレスの言葉だけをあげることにしようと思います。あらゆる神学者達を参照し、問題を念入りに研究した後で、彼はこう書いています、「最も一般的な意見は、キリスト教徒において選ばれる霊魂より滅ぼされる霊魂の方が多いであろうということである」。
これら神学者達にギリシアとラテンの教父達を加えれば、あなたは彼らのほとんどが同じことを言っていることに気づくでしょう。これは聖テオドール、聖バジル、聖エフライム、そして聖ヨハネ・クリゾストモス達の意見です。更にバロニウスによると、この真理は聖シメオンにはっきりと示され、そしてその啓示の後彼は自分の救われを確実なものとするために40年間というもの風雨に晒されながら柱の上で生き、それは全ての人にとって償いと聖性の模範となった、というのがギリシア教父達に共通の考えだといいます。さて、ラテン教父達に耳を傾けてみましょう。
聖グレゴリオははっきりと言っています、「多くの者が信仰に達する。しかし天の王国に達する者はほとんどいない」。聖アウグスティヌスは更にはっきり言っています、「それゆえ、滅ぼされる者に比較して救われる者は僅かである」。しかしながら最も恐ろしいのは聖ヒエロニムスの言葉です。彼の生涯の終わりに、弟子達を前にして、彼はこれらの恐ろしい言葉を口にしました、「常にその生き方が悪かった10万人の人々の中から、あなた方はかろうじて、許されるに値する一人の人を見出す」。
◆3、聖書の言葉
しかし、もし聖書が疑問をとてもはっきり解決してくれるなら、その時私達は何故教父達や神学者達の意見を探すでしょうか。 旧約聖書と新約聖書をひもとけば、あなたはこの「ごく僅かしか救われない」という真理をはっきりと示す多くの数字、象徴、そして言葉を見つけることでしょう。
ノアの時代には全人類が大洪水に呑まれ、僅か8人のみが箱船の中で救われました。聖ペトロは「この箱船は教会の型取りである」と言っています。
一方、聖アウグスティヌスは加えて、「そしてこれら救われた8人の人達は、ごく僅かのキリスト教徒しか救われないことを示している。なぜなら、本当の意味で世を捨てる人はごく僅かだからである。言葉だけでそれを捨てる人は箱船によって象徴される神秘には属していない」と言っています。
そして聖書も私達に、エジプトから出たヘブライ人の中で約束の地に辿り着いたのは200万人のうちのたった2人※だけであった、そして、ソドムとソドムと共に燃えて滅びた他の町々の火の中から逃れたのは僅か4人の人達だけであった、と言っています。これら全てが、わらのように炎の中に投げ込まれて滅ぼされるであろう人々の数が、ある日天の御父がその納屋の中に貴重な小麦のように集められるであろう救われる人々の数よりも遥かに多いことを意味しています。
この真理を確証する聖書の中の全ての数字をあげなければならないなら、私はいつまでも話を終えることはできないでしょう。受肉した知恵の啓示そのものを聞くことで満足しましょう。
福音書の中で好奇心の強い人が「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」と訊いた時、私達の主は何とお答えになったでしょうか。 主は躊躇いながらお答えになりましたか? 群衆を怖がらせることを恐れて、お考えをお隠しになりましたか。 いいえ、主はたった一人の人に問われましたが、そこにいた全員の人々にお答えになりました。主は彼らにおっしゃいました、「救われる者は少ないかと訊くのか。(私の答えはこうである。)狭い門から入るように努めなさい。なぜなら──あなた方に言っておく──入ろうとしても入れない人が多いからである」[ルカ13:23-24] 。
これを言っているのは誰でしょうか。 神の御子です。永遠の真理です。
彼はまた、別の時にもっとはっきりと言っています、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」[マタイ22:14] 。主は「全ての人が招かれている。そして全ての人の中から選ばれる人は僅かである」と言ったのではありません。彼は「多くの人が招かれている」と言ったのです。
このことは、聖グレゴリオが説明しているように「全ての人の中から多くの人が真の信仰に招かれており、しかしその中から救われるのは僅かである」ということを意味しています。兄弟の皆さん、これらの言葉は私達の主イエズス・キリストのものです。これらの言葉の意味をはっきりとわかりますか。 それらは真理です。
※ 200万人の2人の中には、モーゼやアロンも含まれていません。これら二人は、カトリック教会で聖人(≒義人)として扱われていますが、彼らも地獄に堕ちたというのでしょうか。このように、表現に明らかに誇張が含まれていることから「字義どおりにではなく、教訓として理解すべき」と書きました。とはいえ、ファチマの聖母を見た聖ジャシンタ・マルトが、この戦争で死ぬ人の殆どが地獄に堕ちる、などと言っていることを考えると、ここまで超極端ではないにせよ、死ぬ人の大部分が地獄に堕ちている可能性は、認めなければいけないと思います。ファチマの聖母や聖ジャシンタが嘘をつくとは、考えにくいからです。
(続く)
ただし、極端な数字が出てきますが、数字を字義通りに捉えるより、教訓的なものと理解した方が、受け入れやすいのではないかと思います。
ポルト・マウリチオの聖レオナルドの説教
『救われる人の数の少なさ』
編者の言葉
ポルト・マウリチオの聖レオナルド(1676-1751)は、ローマの聖ボナヴェントゥラ修道院に生きた最も清いフランシスコ会修道士でした。そして教会の歴史の中でも最も偉大な宣教者達の中の一人でした。彼は、彼の聴衆を収容することのできる大きな教会堂を持たない市や町ではどこででも、数千もの人々に向かって屋外の広場で説教しました。
彼の雄弁は非常に素晴らしく且つ神聖だったので、一度などは、彼がローマでの二週間のミッションにあった時、教皇と枢機卿会が彼を聴きに来たほどです。福いなる童貞の無原罪懐胎説、ご聖体への崇敬、そしてイエズスの至聖なる聖心への礼拝が彼の運動でした。彼の帰天後100年を少し越えた時に成立した無原罪の御宿りの教義は、かなりの程度彼に負っています。彼はまた聖体降福式の最後で唱えられる讃美(Divine Praises)を私達に与えました。
しかし聖レオナルドの最も有名な仕事は、十字架の道行きの祈りへの献身です。24年間の絶え間ない説教活動の後、75歳で、彼は最も聖なる死を遂げました。
ポルト・マウリチオの聖レオナルドの最も有名な説教の一つは『救われる人の数の少なさ』と題されたものです。これは彼が大きな罪の状態にある人々の回心を願ってしたものです。この説教は、彼の他の著作と同様、彼の列聖調査の時、教会の審査に付されました。その中で彼は、キリスト教徒の生き方の様々な状態を改めて吟味して、最後に、人類の総数の中で救われる人の数は少ない、と結びます。
この注目すべき説教を黙想する読者は、この説教に教会が認可を与えたことの論証の確かさを見ることでしょう。この偉大な宣教者の力強く感動的な説教がここにあります。
ポルト・マウリチオの聖レオナルド
説教『救われる人の数の少なさ』
◆1、導 入
救世主の弟子達の数が律法学者とファリサイ派が彼らに打ち勝つことのできるほど少なくはないことを、神に感謝します。彼らは太陽の上にさえ小さな斑点を探すかのようにして潔白を中傷し、教義と私達の主の御性質の評判を落すことによって、彼らの危険な詭弁をもって群衆を惑わそうとしましたが、それでも多くの人々はイエズスを真のメシアであると信じ、懲罰にも脅迫にも屈することなく天主の運動に加わりました。
しかし、キリストに従った全ての人が、栄光に至るまで彼に従ったでしょうか? ああ、私はこのように重大な事柄において軽率な判断をするよりも、むしろ深い神秘に対する尊敬をもって神の審判の測りがたさを黙して礼拝したいと思います。今日私が取り上げようとする主題は極めて重大なもので、それは教会の柱をも震わせ、偉大な聖人達をも恐れで満たし、隠遁者達を砂漠に送ったところのものです。今日の説教の目的は、救われるキリスト教徒の数は滅ぼされるキリスト教徒の数より多いか少ないかを見定めようとするものです。私はこれがあなたの心に神の審判に対する有益な恐れをもたらすことを望みます。
兄弟の皆さん、私はあなた方を愛するがゆえに、あなた方おのおのに「あなたが天国に行くのは確実です。キリスト教徒のより多くの人達が救われています。それゆえ、あなたも救われるでしょう」と言って、永遠の幸福の見込みをもってあなた方を安心させることができたらと思います。しかし、もしあなたがあなた自身にとって最悪の敵であるかのようにして神のご命令に背いているなら、私はどのようにしてあなたにこの甘い保証を与えることができるでしょうか? 私は神の中にあなたを救いたいという真実の願望があるのを見ますが、しかし同時にあなたの中に咎められるべき明確な罪の傾向があるのを見ます。
ですから、今日、私がはっきりと話す時、私は何をしようとするのでしょうか? 私はあなたにとって不愉快な者となるでしょう。しかしもし私が話さなければ、その時私は神にとって不愉快な者となるでしょう。
それゆえに、私はこの主題を二つの要点に分けようと思います。
第一の要点において、私はあなたを恐れで満たすために、この問題について神学者達と教会教父達に決めさせ、そしてキリスト教徒のより多くの人達が地獄に値すると断言させようと思います。そしてこの恐ろしい神秘に対する黙した礼拝において、私は私自身の考えは伏せておこうと思います。
第二の要点において、私は、滅ぼされる人々は彼ら自身が滅ぼされることを望むが故に彼ら自身の悪意によって滅ぼされるのであるということを証明することによって、神を信じない者達から神の善き御性質を擁護しようと思います。それ故、ここに二つの非常に重要な真理があります。
もし、第一の真理があなたを恐れさせても、まるで私があなたの天国への道を狭くしているかのように思って、私に対して恐れを持たないで下さい。なぜなら私はこの問題において中立でいたいからです。むしろ根拠をあげることによってこの真理をあなたの心に刻み付ける神学者達と教会教父達にそれを向けて下さい。そして、もしあなたが第二の真理によって幻から解かれるなら、どうかそのことを神に感謝して下さい。なぜなら、このことは、神はあなたが彼にあなたの心を完全に差し出すことだけをお望みである、ということを意味しているからです。
最後に、もしあなたが私に、私自身はどのように考えているかをはっきりと語れと強いるならば、その時私はあなたの慰めのためにそれを語りましょう。
◆2、教会教父達の教え
常に神の御憐れみばかりについて語り、回心することは如何に簡単かなどと語り、様々な罪の中に急降下するような生き方をして、地獄への道の上でぐっすりと眠りこけている放蕩者達に向けて、その怠惰を牽制するために非常に役立つ確かな真理について説教壇の上から宣言することは、人のことを無益に詮索することではなく、有益な予防措置です。彼らをその迷いから覚まさせ、その麻痺状態から覚まさせるために、今日はこの重大な問題について調べましょう。
すなわち、「救われるキリスト教徒の数は、呪われるキリスト教徒の数より多いだろうか?」
信心深い人達はここにいなくてもいいかも知れません。この説教はその人達のためのものではありません。この説教の唯一の目的は、神に対する聖なる恐れを心の外に放り投げ、エウセビオスの考えを使って霊魂達を安心させることによってそれを滅ぼそうとする悪魔と手を結ぶ放蕩者達の傲慢を挫くことです。
この疑問を解決するために、一方に教会教父達を、ギリシアとラテン両方の教会教父達を置き、他方に最も博識な神学者達と博学な歴史家達を置きましょう。そして全ての展望の真ん中に聖書を置きましょう。
さて、これから述べることを、私から出たものだと思わないで頂きたい。なぜなら、既にお話した通り、私は私自身として語ることも、私としてこの問題に結論を下すことも、望まないからです。あなた方に語らねばならぬ偉大な精神達が語っていることとして聞いて頂きたい。彼らは、人々が天国への道を誤らぬようにと他の人々に光を与える神の教会のかがり火です。このように、信仰、権威、そして論証からなる三倍の光に導かれることで、私達はこの重大な問題について確実な答えを手にすることができると思います。
この質問が人類全体に向けられているものでも無差別に全てのカトリック信者に向けられているものでもないことをよく覚えておいて下さい。これはただカトリックの大人の信者達、選択の自由を持った、それ故彼ら自身の救われという重大な問題のために協力することのできる人達に向けられています。
最初に、その教えにおいて最も注意深く調べておりまた誇張がないと認められている神学者達の教えに耳を傾けてみましょう。それは二人の博識な枢機卿達、カエタノとベラルミーノです。彼らはキリスト教徒の大人の信者のより多くの者達が滅ぼされると教えています。そして、もし私に、彼らが何を根拠としてそのように言うのか、その理由をあげる時間があれば、あなたはあなた自身でそれに確信を持つでしょう。
しかし、私はここでスアレスの言葉だけをあげることにしようと思います。あらゆる神学者達を参照し、問題を念入りに研究した後で、彼はこう書いています、「最も一般的な意見は、キリスト教徒において選ばれる霊魂より滅ぼされる霊魂の方が多いであろうということである」。
これら神学者達にギリシアとラテンの教父達を加えれば、あなたは彼らのほとんどが同じことを言っていることに気づくでしょう。これは聖テオドール、聖バジル、聖エフライム、そして聖ヨハネ・クリゾストモス達の意見です。更にバロニウスによると、この真理は聖シメオンにはっきりと示され、そしてその啓示の後彼は自分の救われを確実なものとするために40年間というもの風雨に晒されながら柱の上で生き、それは全ての人にとって償いと聖性の模範となった、というのがギリシア教父達に共通の考えだといいます。さて、ラテン教父達に耳を傾けてみましょう。
聖グレゴリオははっきりと言っています、「多くの者が信仰に達する。しかし天の王国に達する者はほとんどいない」。聖アウグスティヌスは更にはっきり言っています、「それゆえ、滅ぼされる者に比較して救われる者は僅かである」。しかしながら最も恐ろしいのは聖ヒエロニムスの言葉です。彼の生涯の終わりに、弟子達を前にして、彼はこれらの恐ろしい言葉を口にしました、「常にその生き方が悪かった10万人の人々の中から、あなた方はかろうじて、許されるに値する一人の人を見出す」。
◆3、聖書の言葉
しかし、もし聖書が疑問をとてもはっきり解決してくれるなら、その時私達は何故教父達や神学者達の意見を探すでしょうか。 旧約聖書と新約聖書をひもとけば、あなたはこの「ごく僅かしか救われない」という真理をはっきりと示す多くの数字、象徴、そして言葉を見つけることでしょう。
ノアの時代には全人類が大洪水に呑まれ、僅か8人のみが箱船の中で救われました。聖ペトロは「この箱船は教会の型取りである」と言っています。
一方、聖アウグスティヌスは加えて、「そしてこれら救われた8人の人達は、ごく僅かのキリスト教徒しか救われないことを示している。なぜなら、本当の意味で世を捨てる人はごく僅かだからである。言葉だけでそれを捨てる人は箱船によって象徴される神秘には属していない」と言っています。
そして聖書も私達に、エジプトから出たヘブライ人の中で約束の地に辿り着いたのは200万人のうちのたった2人※だけであった、そして、ソドムとソドムと共に燃えて滅びた他の町々の火の中から逃れたのは僅か4人の人達だけであった、と言っています。これら全てが、わらのように炎の中に投げ込まれて滅ぼされるであろう人々の数が、ある日天の御父がその納屋の中に貴重な小麦のように集められるであろう救われる人々の数よりも遥かに多いことを意味しています。
この真理を確証する聖書の中の全ての数字をあげなければならないなら、私はいつまでも話を終えることはできないでしょう。受肉した知恵の啓示そのものを聞くことで満足しましょう。
福音書の中で好奇心の強い人が「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」と訊いた時、私達の主は何とお答えになったでしょうか。 主は躊躇いながらお答えになりましたか? 群衆を怖がらせることを恐れて、お考えをお隠しになりましたか。 いいえ、主はたった一人の人に問われましたが、そこにいた全員の人々にお答えになりました。主は彼らにおっしゃいました、「救われる者は少ないかと訊くのか。(私の答えはこうである。)狭い門から入るように努めなさい。なぜなら──あなた方に言っておく──入ろうとしても入れない人が多いからである」[ルカ13:23-24] 。
これを言っているのは誰でしょうか。 神の御子です。永遠の真理です。
彼はまた、別の時にもっとはっきりと言っています、「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」[マタイ22:14] 。主は「全ての人が招かれている。そして全ての人の中から選ばれる人は僅かである」と言ったのではありません。彼は「多くの人が招かれている」と言ったのです。
このことは、聖グレゴリオが説明しているように「全ての人の中から多くの人が真の信仰に招かれており、しかしその中から救われるのは僅かである」ということを意味しています。兄弟の皆さん、これらの言葉は私達の主イエズス・キリストのものです。これらの言葉の意味をはっきりとわかりますか。 それらは真理です。
※ 200万人の2人の中には、モーゼやアロンも含まれていません。これら二人は、カトリック教会で聖人(≒義人)として扱われていますが、彼らも地獄に堕ちたというのでしょうか。このように、表現に明らかに誇張が含まれていることから「字義どおりにではなく、教訓として理解すべき」と書きました。とはいえ、ファチマの聖母を見た聖ジャシンタ・マルトが、この戦争で死ぬ人の殆どが地獄に堕ちる、などと言っていることを考えると、ここまで超極端ではないにせよ、死ぬ人の大部分が地獄に堕ちている可能性は、認めなければいけないと思います。ファチマの聖母や聖ジャシンタが嘘をつくとは、考えにくいからです。
(続く)