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”聖母マリアのしもべ会”七聖人創立者Sts.Septem Fundatores Ord.Servorum B.M.V.

2025-02-17 00:00:07 | 聖人伝
”聖母マリアのしもべ会”七聖人創立者Sts.Septem Fundatores Ord.Servorum B.M.V.記念日 2月17日




 古来聖会に於いては七を聖なる数字として尊んできた。なるほどちょっと考えても七つの秘跡、聖霊の七つの賜物、七枝の燭台、主の十字架上の七つの御言葉等七に縁のある聖なる事物は沢山ある。殊に黙示録などを読めば枚挙にいとまないほどその例を発見し得るのである。ここに語らんとする七聖人が協力一致「聖母マリアのしもべ会」を起こし修道に精進したのも、けだし偶然ではあるまい。

 これら七聖人はいずれも北イタリアなるフロレンス市の豪商で、その名をボンフィリオ・デ・モナルデ、ヨハネ・デ・ボナジュンタ、ベネディクト・デル・アンテラ、バルトロメオ・デリ・アミディ、リコヴェロ・デ・ウグチォネ、ゲラルヂノ・デ・ソステニヨ、及びアレキシオ・ファルコニエリと言い、13世紀半ばの人であった。
 当時イタリアはドイツ皇帝フェデリコ二世の軍勢に侵入され、国民はグエルフ人とギベリン人の二派に分かれ、町と町、人と人、互いに相争い物情騒然、誠に不安な世態であった。されば七聖人が人生のはかなさを悟り、世を厭い離れてひたすら天主に仕えようと望むに至ったのも無理からぬ事であったのである。

 その内に紀元1233年の被昇天の大祝日に聖母マリアが彼らのめいめいに御出現になって、出家修道を勧められたので、彼らもいよいよその決心をし、まずアッシジの聖フランシスコの如く自分の財産をことごとく貧者に施し、司教の許可を得て、9月8日聖母御誕生の記念日を期し、郊外のカマルチアというところにある小屋で憧れの修道生活を始めたのであった。
 ある日彼らが粗服を身にまとい、町を歩いていると、小さな子供等がぞろぞろついて来ながら、さも面白そうに「マリア様のしもべ!マリア様のしもべ!」とはやし立てた。彼らの修道会が後に司教から「マリアのしもべ会」と命名されたのは、この子供達の言葉によったのである。その時その子供達の中に幼いフィリッポ・ベニチオという子もいたが、これが後に「マリアのしもべ会」に入り、総長の重任をおびて同会発展に力を尽くし、聖人になったとは、ただただその奇縁に驚かざるを得ない。

 それはさておき、七聖人の感ずべき生活ぶりは間もなく町中の評判になり、大勢の人々が教えを乞うべく押し掛けて来るようになった。それで聖人達はこれを迷惑に思い、司教の許可を得て、更にそこから36キロほど離れたモンテ・セナリオという静寂な場所に、なおも祈りと苦行にいそしんだ。

 ある聖金曜日の事である。彼らが主の御苦難を黙想していると、聖母マリアが再び御出現になり、アウグスチノ会の戒律を用い、黒の会服を着し、また聖子の十字架の下にたたずむ聖母の御苦痛を尊敬すべき事を示し給うた。七聖人が早速その御言葉に従った事は言うまでもない。
 彼らはそのほか国のここかしこを巡って説教もするようになった。これは会をはじめた時の目的ではなかったが、天主の御光栄のため黙していられなかったのである。そして必要にかられてフロレンス市中にアノンチアート修道院と呼ぶ修院を設けた。
 巡回説教をするようになると、司祭でなくては都合の悪いことが多い。で、彼らの六人までは司教の承諾を得て叙階の秘跡を受けたが、ただ残る一人、アレキシオだけは謙遜の心からどうしても司祭の権力を受けようとはせず。あくまで平修道者として乞食の生活を続け、恵む者の為に天主の祝福を祈って一生を送った。

 七人の中、最初にこの世を去ったのはヨハネ・ボナジュンタであった。彼は1251年8月13日、ミサを献げた後自分の死すべき事を兄弟達に告げ、司祭服を着たまま聖書の主イエズス・キリストの御受難の顛末を読んでもらい「父よ我が魂を御手にまかせ奉る!」という所に至って腕を広げ、その言葉の通り自分の霊魂を天主の御手に返したのである。
 反対に、最も長寿を保ったのはアレキシオで、彼は1310年の2月17日、百十歳の高齢でフロレンス市に永眠した。

 彼ら七人は生誕死去の時こそ同一ではなかったが、皆同じ墓場に葬られ、均しく人々より尊敬を受け、遂に又相共に教皇レオ13世から列聖の光栄を受けた。

 その創立した修道会は今や全世界に広まり、修道院はおよそ七十、修道者は約八百名に及んでいる。


教訓

 「聖母マリアのしもべ会」を創立した七人の聖人は、この世に於いては聖い友愛に結ばれ、共に祈り共に苦行し、互いに励まし合って完徳の険路を進み、かの世に於いても天国の永福を共にしている。かように地上の愛は総て超自然の目的に依って聖化されたかめられねばならぬ。親子の愛、夫婦の愛、兄弟の愛、朋友の愛、そのいずれにしても天主への愛に基づき、また強められるべきである。











聖ユリアナおとめ殉教者  分娩および伝染病の守護の聖人 

2025-02-16 02:37:26 | 聖人伝
聖ユリアナおとめ殉教者  分娩および伝染病の守護の聖人  記念日 2月16日



 ユリアナは、ニコメデニア市の裁判官エウロギオスと婚約していた。しかし、彼女は、彼がキリスト信仰を受け入れなければ結婚しないと、言い張った。そこで彼女の父は、彼女を裸にしてひどく殴らせたあげくに、その裁判官に引き渡した。

 裁判官は、彼女に言った。「最愛のユリアナよ、なぜあなたは結婚を拒んで、私に恥をかかせたのですか」ユリアナは答えた。「あなたもわたくしの神をあがめてくださいましたら、よろこんで結婚いたしますは。そうでなければ、けっしてわたくしを思いどおりになさることはできないでしょう」彼は言った、「最愛の人よ、そんなことをしたら、わたしは、皇帝に首をはねられてしまいます。」

 ユリアナは答えた、「あなたがそれほど地上の皇帝にびくびくなさるのであれば、わたくしは、天の皇帝をどんなにか恐れなくてはならないことでしょう。ですから、どんなになさっても、わたくしを籠絡することはできません」そこで裁判官は、彼女を鞭でめった打ちにし、半日のあいだ髪の毛で吊しておき、鉛を溶かして頭からぶっかけるようにと命じた。

 しかし、これらすべての拷苦も、彼女をすこしも傷つけることができなかった。それで、今度は、鎖で縛られ、牢に投げ込まれた。すると一人の悪魔が、光の天使の姿をして彼女の前に現れて、こう言った。「ユリアナよ、わたしは、あなたを説得して、偽神たちに犠牲をささげさせるためにつかわされた神の御使いです。というのは、これ以上鞭打たれ、悲惨な死をとげるような目にあなたを会わせないためです。」

 ユリアナは、これを聞くと、泣き、そして祈った。「ああ神様、わたくしを堕落させないでください。だれがわたくしにこのようなことをそそのかしているのか、お教え下さい」天から声があって、こう言った。「その者の首すじをつかまえて、何物であるのか、泥をはかせなさい」そこで、彼女は、悪魔の天使をひっつかまえて、正体をあかすようにせまった。相手は答えた。「わたしは、あなたをたぶらかすために父が寄こした悪魔です。」「あなたの父とはだれのことですか」とユリアナがたずねると、彼はこう答えた。「ベルゼブブです。彼は、ありとあらゆる悪行をさせにわたしたちを寄こすのです。わたしたちがキリスト教徒に負けると、ひどく殴りつけます。

 やばいことに、わたしは、いまその不運におちいってしまいました。あなたに勝てなかったためです」彼は、いろんなことを白状したついでに、こんなことも言った。悪霊たちは、ミサにあずかっている人々や、祈祷や説教の行われている場所からはできるだけ遠いところへ逃げなくてはならないのだ、と。

 そのあと、ユリアナは、悪魔の両手をうしろ手にしばり、地面に投げ倒して、彼女自身をしばっている鎖できびしく打ちすえた。悪魔は、「おお、ユリアナさま、女主人さま、わたしを憐れんで下さい」と悲鳴をあげた。

 さて、エウロギオスは、ユリアナを牢から引きだしてくるように命じた。彼女は、縛り上げた悪魔をうしろに引き連れて牢を出ていった。悪魔は、彼女に哀願して、こう言った。「ユリアナさま、女主人さま、わたしをこんなに世間の嘲笑の的にしないでください。そうでないと、これからわたしの力はだれにも通じなくなります。キリスト教徒はたいへん慈悲深いと聞いておりますが、あなたには血も涙もないのですか」しかし、彼女は、悪魔をしっかりと引っ張り、市場を端から端までつれて歩き、最後に糞だめの中に投げ込んだ。

 さて、彼女は、裁判官のまえに出頭すると、むごくもひとつの車輪にくくりつけられた。骨はくだけ、骨の髄が飛び散った。しかし、一位の天使が現れ、車輪を打ち砕き、たちまち彼女の五体を元通りに回復させた。これを見たすべての人々は、キリスト教を信仰するようになった。しかし裁判官は、その五百人の男達と百三十人の女達の首をはねさせた。そのあと、ユリアナは、鉛がいっぱい煮えたっている大鍋に入れられたが、まるで涼しい水浴びでもしているように鍋の中につかっていた。

 それを見た裁判官は、彼の神々が彼を助けてもくれなければ、すべての神々にこんな赤恥をかかせている小娘を罰しようともしない、と言って神々を呪った。それから、彼女の首をはねるように命令した。すると、彼女に打ち据えられた悪魔が、少年の姿をして現れて、こう叫んだ。「その娘を容赦してはいけませんよ。彼女は、あなたちの神々を侮辱し、ぼくを昨夜こっぴどく打ちのめしたんです。だから、自業自得のむくいを与えてやるのがいいんです。」ユリアナは、こんなことをほざいているのは誰だろうかと思って、ひょいと顔をあげた。悪魔は、それを見て、とんで逃げだし、こう叫んだ。「ああ、桑原桑原、どこへ逃げればいいんだ。彼女は、またぞろぼくをひっつかまえて、縛り上げようとしているみたいだ」

 聖女ユリアナは首をはねられた。裁判官は三十四人の部下達と共に航海に出た。と、大嵐がおそってきて、一人残らず海におぼれた。海は、彼らの溺死体を岸に打ち上げた。すると野獣や猛禽が集まってきて、死肉をきれいに平らげた。






聖クロード・ラ・コロンビエール  イエズスの聖心の使徒

2025-02-15 00:00:07 | 聖人伝
聖クロード・ラ・コロンビエール  イエズスの聖心の使徒    記念日  2月15日





 1641年フランスに生まれたクロードは、1658年にイエズス会に入会し、1669年に司祭に叙階される。1675年、パレール・モニアール市のイエズス会修道院院長に任命され、同市の聖母訪問会の女子修道院の特別聴罪司祭に任命された。ちょうどその時、1674年、主は聖母訪問会の修道女シスター・マルガリタ・マリア・アラコックに出現され、特別なメッセージを伝えようとされた。シスター・マルガリタは主の語りかけに恐れと困惑とを感じていたが、彼女の聴罪司祭となったコロンビエール神父は彼女の良き相談相手、指導者として彼女を励ました。

 1675年6月、御聖体の祝日に主は「聖心の信心」について、メッセージをマルガリタ・マリアに託された。人類を限りなくお愛しになるご自分の聖心と、それに冷淡な人類の忘恩を示された。イエズスの聖心を礼拝し、思いを寄せる日として初金曜日を特別な日とするよう彼女に望まれた。

 マルガリタ・マリアは躊躇したが、主はこう諭された。
「私の僕、クロード・ラ・コロンビエールのもとに行きなさい、彼に私の名によって聖心の信心を制定し、聖心に喜びをもたらすために全力を尽くすように願いなさい。彼は多くの困難に遭遇するだろうが、自らの力に頼まず、すべて神に信頼を置く者には不可能なことはない。」

 このことを聞いたコロンビエール神父は、イエズスの聖心の信心と九つの初金曜日を守る人に対するその”偉大な約束”を広めた。そのうえ彼は、イエズスの聖心の典礼上の大祝日制定のために大いに活躍し、1675年6月21日金曜日にはじめてイエズスの聖心の大祝日がささやかに執り行われ、祝われた。

 コロンビエール神父はその翌年英国に派遣され転任したが、この機をのがさず、御聖体に対する信心とイエズスの聖心の信心を大いに布教するために利用した。彼はこのことで迫害を受け、投獄され、国から追放されるなどの苦しみを負い、困難に直面したが、聖心の信心を多くの人に熱心に説き、祈りと償いを勧めた。

 彼はやがて健康を害し、フランスに帰国後パレー・ル・モニアールに落ち着きそこで帰天した。それは1682年のことで享年41歳であった。
 彼は、いつ、どこにおいても、すべてに神の御旨が働くことを確信し、主の聖心に自らを完全に委ねようとした信仰態度のすぐれた模範となった。


 1641年 2月 2日 フランス、サンフェリアンに生まれる
 1658年 1月25日 アビニヨンでイエズス会に入会
 1669年 4月 6日 パリで司祭叙階
 1682年 2月15日 フランス、パレー・ル・モニアールにて逝去
 1929年 6月16日 教皇ピオ11世により列福
 1992年 5月31日 教皇ヨハネ・パウロ・2世により列聖





聖チリロ隠世修道者と聖メトジオ司教 

2025-02-14 00:00:07 | 聖人伝
聖チリロ隠世修道者と聖メトジオ司教        記念日  2月14日




 聖書に「良い便りをもたらす者の足は美しい」(ローマ、10-15)とある。この言葉はスラヴ民族の使徒として崇敬される両聖人にもぴったりと当てはまる。両聖人は9世紀現在のチェコスロバキアを中心とする中部ヨーロッパのスラヴ族に福音を述べ伝え、これを多数改宗させたことで有名である。また聖チリロはスラヴ語の文字を創案し、これでもって聖書を翻訳したのでスラヴ文字の創始者としても名高い。

 この両聖人は兄弟でチリロは802年、メトジオは810年、共にギリシャのテサロニケ市に生まれた。当時ここは東ローマ帝国の重要な貿易港として栄え、さまざまな民族が居住していた。その為チリロとメトジオはスラヴ人と交わる機会を得、スラヴ語を自由に話し、その風俗に親しみ、後年スラヴ族の宣教師となる素養を身につけた。また、二人とも東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルに遊学し、学業に優秀な成績をあげた。チリロは哲学、神学の他に実践面にもすぐれ、はじめ東ローマ帝国の宮廷付き司祭として高い栄誉を与えられていた。彼は謙遜と清貧を好み、心から宮廷の豪奢な生活を嫌い、とある小島に隠遁した。しかし皇帝の命で再び宮廷に連れ戻され、哲学の教授に任ぜられた。
 メトジオはテッサリア地方の知事に任ぜられ、大いに手腕をふるった後、官職を辞して修道院に入った。

 862年モラヴィアの国王ラスティツは使者をコンスタンチノープルにつかわし、東ローマ帝国皇帝ミカエル3世に宣教師を送ってくれるよう請願した。それは教理に暗い新信者を指導すると共に、異教徒をも改宗させ、国民を善良温和なキリスト者に教化することによって国の統一を固めようとはかったからである。そこでその最適任者にチリロとメトジオが抜擢され、モラヴィアに派遣された。二人とも着任そうそう巧みなスラヴ語で人々の教化にあたり、説教やスラヴ語での典礼運動に東奔西走、席の暖まる暇もなかった。またこの当時この地には文字も書籍もなかったので、チリロはバルカン地方の方言を基礎にしてスラヴ語の文字を新たにつくり、これをもってギリシャ語の聖書や信心書をスラヴ語に訳し、布教に用いた。このためモラヴィアの人々はまもなく教理に明るくなり、数年の間に異教徒もほとんど改宗した。

 こうしてスラヴ族の大半をキリスト教化したふたりは868年、教皇の祝福を願いかたがた所用を果たすためにローマへ向かった。ときの教皇ハドリアノ2世は二人を大いに歓迎し、両人から各地における布教活動の様子を聞かれ、その熱心と布教の成功を喜ばれた。二人はしばらくローマに滞在して故郷に帰ろうとしたときチリロは昼夜をかけての布教活動と心労のためか、突然重病にかかり、やむなくローマの一修道院で静養したが、ついに五十日後の869年終油の秘跡を受けて安らかにこの世を去った。

 その後、メトジオは司教に叙階され、再びモラヴィアに帰った、まもなくモラヴィアはドイツとの戦火に巻き込まれ、自由な司牧が出来なくなったので、司教はパラニアに足をとどめ異教徒の改宗につくした。ところが許可なく布教したという理由で訴えられ、ドイツ王から投獄された。教皇はこれを遺憾に思い使節を遣わしてメトジオを弁護し、その温情あふれる懇願でついに彼は釈放された。

 それから数年して「メトジオは異端を伝え、正統な信仰に反する」とざんげんされたので、彼はローマに赴き教皇ヨハネ8世に謁見し、身の潔白を立証した。晴れの身となったメトジオは、再びモラヴィアを司牧した。この時の新しいモラヴィア王は暴政をしき、人民の自由を奪っていた、メトジオはこれを王に忠告したところ王の怒りにふれ、国外に追放された。しばらくして後悔した王にふたたび迎えられ、その後は王の協力もあって大いに活躍した。
 老後にはいったメトジオはやがて臨終の近きを悟り、一司祭を司教に叙階して自分の後継者とし、885年平和にこの世を去った。






聖ヴァレンチノ司祭殉教者 St.Valentinus Presbyter et M.

2025-02-13 00:00:07 | 聖人伝
聖ヴァレンチノ司祭殉教者 St.Valentinus Presbyter et M.       記念日 2月13日  (2月 14日)


 本日祝う聖ヴァレンチノ司祭は、同名の聖人数人の中で最もよく知られ、司祭の聖務日課にもその名を載せられている人である。

 この人は3世紀の中頃ローマ教会に於いて人望篤く、その徳行も衆に勝れていたので、当時聖会を迫害しつつあったクラウディオ皇帝は、早くも彼に目をつけ、これを召して棄教を命じた。しかしもとより熱烈な信仰を持つヴァレンチノである。どうして威嚇に恐れて聖教を棄てるようなことがあろう、決然としてこれを拒んだから、皇帝は然るべき処置をとらしめる為彼をローマ市長の許に送り、市長はまたこれを法官アステリオに渡したのである。

 ヴァレンチノはアステリオの邸に入ると、讃美歌を歌い声高らかに「主イエズス・キリスト、願わくはこの家に住む総ての人々に天よりの光を与え、信仰に導き給え!」と祈った。ところがアステリオは、自分の娘が2年ほど前から盲目になっていたので、今聖人の祈りにあった光という言葉を普通の意味に解し、娘の目を癒してくれるものと思い、娘を彼の前に連れて行き、試みにその治療を依頼した。ヴァレンチノはこれこそ聖教が天主より出でたものであることを実証する絶好の機会であると考えたから、奇跡の行われんことを一心こめて天主に祈念し、後彼女の目に手を触れて「願わくは永遠の光にまします主イエズス・キリストが汝の視力を快復せしめ給わんことを!」と祈ると、娘の目は即座に癒えたのである。
 この不思議を目の当たりに見た法官アステリオは、天主の御力の広大なのに驚き、直ぐに改宗を思い立ち、一族四十人と共に聖人の手から受洗した。そして彼らに堅信の秘跡を授ける為には、教皇カリストが親しくアステリオの邸を訪問されたと伝えられている。

 皇帝クラウディオはヴァレンチノが信仰を棄てぬばかりか、その力によってわが信任する法官の一族までキリスト教に入ったと聞き、立腹一方ならず、さっそく兵卒等を遣わして彼らを捕縛させ、アステリオ等はオスチアに引き行き斬罪に処し、ヴァレンチノは最も憎むべき者として、フラミニノの会堂で棍棒で撲殺せしめた。聖人殉教の日は270年2月14日であった。


教訓

 法官アステリオとその一族が改宗したもとは、聖ヴァレンチノがその邸に至ってとなえた一片の祈りに他ならない。彼はそれをとなえる時、かほどまで豊かな収穫を得ようとは夢にも思わなかったであろう。が、天主は聖人の祈りを用いて、未信者の上に溢れるばかりの信仰の恵みを与え給うた。我等も謙遜に誠意から祈るならば、たとえその結果は我等自身に知れずとも、天主によってどれほど偉大な事を行い給うか解らないのである。