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6:2 聖体の秘跡 『公教と新教との教理上の主なる差異』

2022-08-29 21:53:26 | プロテスタント
『公教と新教との教理上の主なる差異』ヤコブ・リンデン著 荻原晃訳 東京公教青年会、1921年

6、秘跡

2、聖体の秘跡

【公教(カトリック)】

 聖体の秘跡は、パンとぶどう酒の形色の中に我らの主イエズス・キリストのまことの御体と御血とが籠っている秘跡である。

【新教(プロテスタント)】

 聖晩餐は、ただ、パンとぶどう酒ばかりである。しかし、一説には、そのパンとぶどう酒を飲食すれば、それと同時にキリストの御体と御血の力を受けるといい、他の一説には、そうではない、パンとぶどう酒は、キリストの御体と御血とを思い起こさせるものに過ぎない、すなわち、パンとぶどう酒は、キリストの御体と御血との、「かたどり」に過ぎない。



【反駁】

(その1)
 キリストが聖体の秘跡を約束なされたときに、
「わたしは命のパンである。
 あなたたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べたが、死んだ。 しかし、これは天から降ってきたパンであり、 これを食べる者は死ぬことがない。
 わたしは天から降って来た、生きるパンである。このパンを食べる人は永遠に生きる。しかも、わたしが与えるパンは、この世に命を与えるためのわたしの肉である。」(ヨハネ6:48-51)
と仰せられ、また、後に使徒達にパンを与え給うたときには、明瞭に
「これはあなたたちのために与えられるわたしの体である。わたしを記念するためにこれを行いなさい」(ルカ22:19)
「この杯はあなたたちのために流されるわたしの血による新しい契約である」(ルカ22:20)
とおっしゃったので、

 ルーテルの言うように、これはパンとぶどう酒である、しかし、汝等がこれを飲食すれば、御体と御血があとから来る、とは仰せられなかった。

 また、カルヴィンのように、これは、パンとぶどう酒である、しかし、我体と血の力がそれと結合しているとは仰せられなかった。

 また、ツウイングリのように、これは、我体と血のかたどりであるとも仰せられなかった。

それで、我らは単純に、救い主が仰せられたままを信じるのであって、ルーテル、カルヴィン、またはツウイングリの主張を信じないのである。


(その2)

 我らが信じているように、全教会ははじめから、聖体はイエズスキリストのまことの御体と御血であると信じていた。
使徒の弟子であるイグナシオ(アンテオキアの司教)は、
「我らの罪のために苦しみ給える救い主の御肉」といい、
聖ユスチノ(166年死)は、
「人となり給えるイエズスの御肉と御血」と言っている。
エルサレムの司教、聖チリロ(386年死)は、
「イエズスみずから、パンについて、これはわたしの体である、

と仰せられたから、誰がこれについて疑うことが出来ようか、

 また、明らかに、これは私の血である、と仰せられたのであるから、誰がこれについて疑問をいだくであろうか。そうして、それは御血ではないと思うであろうか。イエズスはかつて、水をブドウ酒に変え給うた。
 これを見れば、イエズスがぶどう酒を御血に変化されることができることを信じるのは、むずかしい事ではない。」
と言っている。

聖アウグスチヌスは、
「キリストは、我らにキリストの御肉を糧としてお与えなさった」
 その御肉を拝領せずして、これを食すべからず。
 もしも、拝領しないときには、罪を犯すのである。」と言っている。

(その3)
新教の晩餐は、単にパンとぶどう酒にすぎないというのはもっともなことである。なぜならば、新教側の牧師は、ぶどう酒を御血に、パンを聖体に変化させる権利をもっていないからである。




聖人を尊敬し、これに助けを求めること『公教と新教との教理上の主なる差異』

2022-08-28 03:17:52 | プロテスタント
『公教と新教との教理上の主なる差異』ヤコブ・リンデン著 荻原晃訳 東京公教青年会、1921年

4、聖人を尊敬し、これに助けを求めること

【公教(カトリック)】
 聖人を尊敬し、これに助けを求めることは、よいことで、かつ、有益なことである。

 新教徒は、繰り返し繰りかえし常に、われわれ公教徒は聖人を拝むと主張する。これは、軽薄なる誹謗である。我らは神のみを拝み、聖人を神の忠実なるしもべ、また、友人として尊敬するのみである、ということは、どの正統派カトリックの信者の子どもでも知っているし、また、どのカテキズム(公教要理)の中にも書いてある。

【新教(プロテスタント)】
 聖人を尊敬し、聖人に助けを求めることは、不合理であり、かつ、無益なことである。


【反駁】

1、戦争、芸術、学問に功労のある人を尊敬することは、よいことであると誰でも思っている。そうすれば、道徳及び聖きことについてすぐれている人々を尊敬するのは、どうして正しくないのであろうか。

2、聖人を尊敬するときに、我々は恵みをもって、彼等をあのように尊いものにしてくださった、神、御自身を尊敬するのである。どうしてこれが不合理であって、かつ、神の御意にかなわないのであろうか。

3、聖書は、聖人を尊敬することをすすめる。「国々の民は賢徳(アブラハム、モーゼ、ジョシュア、ダヴィド)を言い広めよ。(中略)教会はその栄誉を謳えよ」(集会の書 44-15)

4、最も古代から、キリスト教会においては、聖人を尊敬し、その代願を求めたので、キリスト教の初代の様々な遺物は、その明らかな証拠を示すものである。

5、聖人はどこにでもいるのではないから、我らの祈りを聞く事ができないというのは、取るに足らないことである。
聖人は神によって、また、神の思し召しによって、我らの祈りを知ることは難しくない。天使もどこにでもいるものではないけれども、「改心する一人の罪人の為には、神の使等の前に喜びがあるであろう」(ルカ15の10)と救い主が仰せられた。もしも、天使らがそのことについて何も知らないならば、どうしてそのことを喜ぶことができようか。

6、聖人の代願を求めることは必要であって、かつ、神の思し召しにかなうものであることは、たえず神が、聖人に助けを求めることに対して、明らかなる奇蹟を行い給うを見てもわかる。
 ルーテルでさえ、背教してから2年目に、
「わたしは、聖人に対する代願については、聖人を敬いかつ聖人に助けを求めるべきものであることを、すべてのキリスト教徒と共に言い、かつ堅くこれを信じる。なぜならば、今日なお神が、明らかに、聖人の体と御墓に聖人等の名をもって奇蹟を行い給うたことを、誰も否定することができないからである。」




誰が聖書を誤りなく解くことができるか:公教と新教との教理上の主なる差異

2022-08-24 04:13:57 | プロテスタント
『公教と新教との教理上の主なる差異』ヤコブ・リンデン著 荻原晃訳 東京公教青年会、1921年

3、誰が聖書を誤りなく解くことができるか

【公教(カトリック)】

 聖書の中には往々解しにくいところがあって、無学な人々は容易に誤りに陥る。しかし、聖霊のつかさどり給う教会のみは、これを誤りなく解くことができる。
 聖パウロの書簡については、使徒聖ペトロでさえ、
「彼はすべての手紙の中で、そのことを述べています。その手紙の中には理解しにくいところもあり、無学な人や、心の定まらない人は、他の聖書と同じように、これを曲解し、みずから滅びを招いています」(ペトロ後書3:16)と言っている。

【新教(プロテスタント)】

 キリスト信者は誰でも自分で聖書を解することができるものであって、常に真面目に、しかも解することができるように祈りながら読めば、明らかに救いの道を知ることができるものである。

【反駁】

1、ルーテルは、聖書を読んで、善業は救霊を得るに必要なものでないということを言い出したが、今では多くの新教徒達は、善業は救霊のために必要であると思っている。それならば、いずれが救いの道を明らかに知ったものであろうか。

2、すべての教父たちは、真面目にしかも解し得るように祈りつつ聖書を読んだけれども、新教徒とは全く違った救いの道を認めたのである。それならば、どちらが正しいであろうか。

3、新教徒は、聖霊は、正直に聖書を研究するものには、真の意味を解き明かし給うと思っている。しかし、キリストの神性及び聖体の秘跡のような、最も重大な点について、彼等は互いに相容れない説を立てているが、これはどうしたことであろうか。果たして聖霊は、ある人にはこの事を他の人には反対なことを教え給うものであろうか。

●注意1
 新教徒は、公教会は信者に聖書を読む事を禁じると主張する。これは、全く嘘の説である。公教会は信者に聖書を読ませるが、ただ、次の3つの点を注意するのみである。

第1
 公教会は、ラテン語又はギリシャ語又はヘブライ語の聖書を読むことのできない人々が、翻訳の聖書を読むときには、教会から認可されたものを使うべきことを命ずるのである。それは、新教徒は至る所に誤訳の聖書をひろめているので、無学な公教徒が誤りに陥らないようにするためである。

第2
 翻訳書を用いるときは難解のところには正しい注釈のあるものを用いることをすすめる。もしそうしないと、誤訳のために大いなる禍を招くおそれがある。

●注意2
 新教徒は、さらに、
「ルーテルは机の下から聖書をひろいだした」と主張している。
すなわち、ルーテルの前には聖書というものはごくわずかの人々に知られたのみで、公教会は聖書の宣伝に何もつとめなかったと言いたいのである。
 しかし、実際は、その反対である。すでに中世期において、特に印刷術の発明以後には、聖書のように、公教徒の国民に知られ、かつこれほど多く広まった本はなかった。ドイツ語の翻訳でさえ、ルーテルの前にすでに17種あった。
 また、ルーテルの聖書の翻訳は誤謬がいっぱいで、新教徒の学者(ブンゼン)でさえ、ルーテルの翻訳中には三千箇所の誤訳があると言っている。その聖書を見れば、容易にルーテルは翻訳の中に、自分の意見をつけ加えようとしたものであることが証明される。



いかなる本が聖書に属するか:公教と新教との教理上の主なる差異

2022-08-23 06:10:47 | プロテスタント
『公教と新教との教理上の主なる差異』ヤコブ・リンデン著 荻原晃訳 東京公教青年会、1921年

2、いかなる本が聖書に属するか

【公教(カトリック)】
公教会が使徒から神の聖典として与えられたすべての本は聖書に属する。

【新教(プロテスタント)】
公教会が神の聖典とみなすものの全部が聖書に属するものではない。その中の2、3は偽りの本である。


【反駁】

1、公教会は、いかなる本を使徒から真正の神の聖典として受けたかは、15世紀の後代に至って起こった新教徒よりもよく知っているはずである。

2、ルーテルは、彼の新奇な教えが明らかに矛盾しているので、聖書の2、3の本を認めようとしなかった。
そして聖ヤコブの書簡中に明らかに、「善行の伴わない信仰は死したるもので無益なものである」と書いてあるのを見て、これを、わらくず書簡と言ったのである。




公教と新教との教理上の主なる差異

2022-08-19 02:08:34 | プロテスタント
『公教と新教との教理上の主なる差異』ヤコブ・リンデン著 荻原晃訳 東京公教青年会、1921年

1、キリスト信者は何を信ずべきか

【公教(カトリック)】
キリスト信者は、神が聖書と聖伝とをもって教え給うたことを全部信じなければならない。
(注)聖伝とは、使徒等が説教したものであるが、聖書には載せていない天啓の伝えのことである。

【新教(プロテスタント)】
救いを得るには、聖書の中にあることだけを信じれば足りる


【反駁】

1、確かに、神の教えてくださった教えであれば、その中の一つでも信じないというものは、大罪を犯すものであるから救霊を得ることはできない。しかし、確かに神の教えてくださったことでも聖書に書いていないことが色々ある。たとえば、誰でも洗礼を施すことができるなどである。

2、キリストは明らかに聖伝をも信じなければならないことを望み給うた。
それは、使徒達におっしゃったことからわかる。「汝等すべての被造物に福音を宣べよ、、、信ぜざる人は罪に定められん」(マルコ16:15-16)

3、新教徒は、神の御教えはただ聖書によってのみ保存されており、かつ宣伝されることを望み給うたと考える。しかし、もしそうであるなら、どうして使徒等に「すべての国民に福音を書け」とおっしゃらなかったのだろうか。なぜ、キリスト御自身がその御教えを御書きにならなかったか。どうして、すべての使徒が福音を書かないで、ただ2、3人の使徒のみが書いたのだろうか。どうして彼等はそんなに後になってから、まるで何かの機会を得た時に書いたのだろうか。それを手で書いた時代においては、あまりにも高価なもので、到底すべての人が聖書を手にすることが出来なかったのに、どうして神は印刷術を紀元1450年以前に発明するようになさらなかったのか。

4、聖伝によらなければ、いずれの本が聖書に属するか確知することはできない。