
「10月2日(月)」
「どうする家康」
「徳川家康家臣団列伝」
「大久保忠世」
(小手伸也)
大久保 忠世(おおくぼ ただよ)は、
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
松平氏(徳川氏)の家臣。
三河国額田郡上和田(愛知県岡崎市)の
大久保氏の支流である大久保忠員の長男。
蟹江七本槍、徳川十六神将の1人に数えられる。
天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて
弟の忠佐、与力の成瀬正一、日下部定好と共に活躍して
織田信長から
「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」
との賞賛を受け、家康からはほら貝を与えられた。
同年12月、
家康から二俣城の城主に命じられた。
忠世は武田氏の来襲に備えて城の改修を行ったが、
現在二俣城跡に残る天守台や、
二俣城の向かいに築いた鳥羽山城の庭園などは
忠世によるものと考えられている。
『三河物語』には記されていないが、
『松平記』によると
天正7年(1579年)に家康の嫡子・松平信康の件で
織田信長からの詰問を受けたとき、
酒井忠次と共に弁解の使者に立てられて
安土城に赴いている。
この信康切腹の通説に関しては
不自然な点や疑問点も多く、
『安土日記』(『信長公記』諸本の中で
最も古態をとどめ信憑性も高いもの)や
『当代記』にあるように
信康の切腹は家康の意思であるという説が
近年では有力である
(松平信康#信康自刃事件について)。
また、
天正10年(1582年)6月の本能寺の変後に
家康が甲斐・信濃に勢力を広げると、
忠世は信州惣奉行として小諸城に在番、
依田康国の監視を務めている。
天正13年(1585年)の上田合戦では
鳥居元忠・平岩親吉と大将として参陣しているが、
真田昌幸の前に大敗した。
その他、
家康に謀反し浪人した
本多正信の帰参を助けたりしている。
天正18年(1590年)、
後北条氏の滅亡により家康が関東に移ると、
豊臣秀吉の命により
小田原城4万5千石を与えられた。
文禄3年(1594年)死去、
享年63。
法名、了源院日脱大居士。
大久保家の家督は嫡男・忠隣が相続した。
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