自転車屋男 2

神戸で自転車屋を営み
4年半スナックを営んだ
変な男の人生色々日記

「神嘗祭(かんなめさい)」!!「宮中および神宮」祭祀」!!

2023-10-17 13:49:09 | 地域
「10月17日(火)」

「神嘗祭(かんなめさい)」

神嘗祭
(かんなめさい・かんなめのまつり
・かんにえのまつり)は、宮中祭祀のひとつ。

大祭。

宮中および神宮(伊勢神宮)で祭祀が行われる。

また、
祝祭日の一つで、秋の季語でもある。

神嘗祭は、
その年に収穫された新穀(初穂)を
天照大神に奉げる感謝祭にあたる。

同じく宮中祭祀のひとつで、
天皇が天神地祇に収穫を感謝して
自ら新穀を食す新嘗祭の約1か月前に行われる。

元来は
新嘗祭の約2か月前に行われる祭祀であるが、
1879年(明治12年)以降、
神嘗祭が月遅れを採用しているため、
間隔が約1か月縮んでいる。

この両祭の関係について、
鈴木重胤は、租の納め始めの9月に先に神宮に奉り、
納め終わる11月に天皇がきこしめす(召し上がる)
という順序を意味する、と説いた。

鈴木が重視したのは
「延喜式」の祝詞の新年祭における記述である。

稲作の起源は、
天照大神がニニギノミコトが中つ国に降る
(天孫降臨)に際して稲を授けて発した
「斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅」であり、
稲づくりは天つ神の命令、委任を受けた業である。

そのため、
収穫は自分(天皇)のものではなく
神のものであるということから、まず新穀を神々に献じ、
「残をば」いただく、という
神勅の精神にのっとった祭祀であるといえる。

さらに、
内宮の祭神である天照大神は、
内宮の御饌都神(神饌を掌られる神)である
豊受大御神(外宮)に奉る。

これを根拠として、
神宮の祭典は原則として「外宮先祭」になっている。

神宮では
神嘗祭が最も重要な祭祀とされ、
神嘗祭のときに御装束・祭器具を一新する。

神宮の正月ともいわれる。

神宮の式年遷宮は、大規模な神嘗祭とも言われる。

神宮では、
式年遷宮後最初の神嘗祭を「大神嘗祭」とも呼ぶ。

伊勢の民衆は、
この祭りを「おおまつり」と呼び、奉祝の行事を行う。

神宮の神職や伊勢の神領民は
この祭りが終わるまで新穀を口にしないとされる。

かつては
9月11日(旧暦)に勅使に御酒と神饌を授け、
9月17日(旧暦)に奉納した。

1873年(明治6年)の太陽暦採用以降は
新暦の9月17日に実施となったが、
稲穂の生育が不十分な時期であるため、
1879年(明治12年)以降は月遅れとして
10月17日に実施されている。

また、
「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」および
「休日ニ関スル件」により、
1874年(明治7年)から1947年(昭和22年)まで
同名の祝祭日(休日)であった。

新嘗祭は
「勤労感謝の日」として現在まで
祝日として継続しているが、
神嘗祭は戦後は平日となっている。


●サイクルプラザ・イレブン(ホームページ)

https://cycle-plaza-eleven.com

●自転車屋男2(ブログ)

https://blog.goo.ne.jp/charinko_2008/

●Amazon

サイクルプラザ・イレブン(ネット販売)

●メルカリ

チャーリー自転車(ネット販売)

宜しくお願い致します!!

「どうする家康」徳川家康家臣団列伝」!!「服部正成(二代目 服部半蔵)」!!

2023-10-17 13:19:28 | 地域
「10月17日(火)」

「どうする家康」
「徳川家康家臣団列伝」

「服部正成(二代目 服部半蔵)」
(山田孝之)

服部 正成(はっとり まさなり/まさしげ)は
戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。

通称は半蔵(はんぞう)で、
服部半蔵の名でよく知られている。

天正10年(1582年)6月、
信長の招きで家康が少数の供のみを連れて
上方を旅行中に本能寺の変が起こるが、
このとき堺に滞在していた家康一行が
甲賀・伊賀を通って伊勢から三河に帰還した、
いわゆる「伊賀越え」に際し、
先祖の出自が伊賀である正成は
商人・茶屋四郎次郎清延とともに
伊賀、甲賀の地元の土豪と交渉し、
彼らに警護させることで一行を安全に通行させ、
伊勢から船で三河の岡崎まで護衛した。

同地で味方となった彼らは
後に馬廻、伊賀同心、甲賀同心として
徳川幕府に仕えている。

この時、
正成は栗という場所にいた所を召し出され
伊勢の白子まで同行したという。

正成は一揆勢に対し道をあけるよう大声で呼びかけ
その隙に家康らを通行させたが、
相手が襲ってきたため馬を乗り入れて応戦した。

しかし土塁に駆け上がった際に堀へ転落し、
上から槍で脚を十ヶ所近く突かれ気を失った。

家臣の芝山小兵衛は家康へ
「正成は討ち死にした」と伝えたが、
遺体を回収しようと戻ったところ生きていたため、
これを介抱しながら共に帰ったという。

岡崎に帰着した後の6月15日、
正成は御先手頭を申し付けられた。

天正11年8月、
正成は命を受け、伊賀者200人を率いて
甲斐国の谷村城(山梨県都留市)城番となり
守備にあたった。

天正12年3月、
小牧・長久手の戦いでは
伊勢松ヶ島城の加勢で伊賀甲賀者100人を指揮し、
鉄砲で豊臣方を撃退している。

正成は二の丸を守備し、筒井勢を防いだ。

続く蟹江城の奪還戦で
正成と配下の伊賀鉄砲衆は松平康忠と共に
東の丸(前田口)の包囲に加わり、
井伊直政の大手口突入が始まると二の丸へ攻め入った。

天正18年(1590年)
小田原征伐に鉄砲奉行として従軍した。

正成は大組百人の組頭として
根来衆50人を率いていたという。

この時、日下部兵衛門(根来衆50人)、
成瀬吉右衛門(成瀬正成の誤り、30人)も
大組百人の組頭を務めている。

戦で正成は十八町口にて奮戦し、
首を十八級挙げたという。

小田原の陣の功により
遠江に知行を与えられた正成は、
家康の関東入国後は
与力30騎および伊賀同心200人を付属され
同心給とあわせて8,000石を領した。

自身は武将であったが、
父親である保長が伊賀出身で忍びの出であった縁から
徳川家に召し抱えられた
伊賀同心を統率する立場になったという。

文禄元年(1592年)
肥前名護屋へ鉄砲奉行として従軍する。

徳川の陣営は前田利家の陣営と隣同士であり、
共用の水汲み場で下人や足軽らの諍いが起きた。

集まった両陣営の人数は
戦いが起きる寸全にまで膨れ上がったため、
正成は配下の兵に命じて火縄に点火させ、
前田の陣に鉄砲を向けたという。

また、
「正成は争いを収めようと肌脱ぎ駆け回ったが収まらず、
本多忠勝が出てようやく事態が収まった」
とする説もある。

この戦が正成にとって最後の出陣となった。

慶長元年11月14日(1597年1月2日)
病没し、江戸麹町清水谷の西念寺に葬られた。

死因となった病名は現在も不明である。

正成は隊士のために
横死したとする説を記載する史料もあるが、
真偽は定かではない。

また、没した日について、
寛政重修諸家譜は
服部家の家伝や西念寺の墓碑とは異なる
慶長元年11月4日と記している。

西念寺は、
正成が生前に信康の菩提を伴うために創建した
浄土宗の庵・安養院の後身である。

安養院は江戸麹町の清水谷
(現在の千代田区紀尾井町清水谷公園付近)にあり、
正成は1593年(文禄2年)
家康から300両を与えられ
寺院を建立するよう内命を受けたが、
西念寺の完成を待たず死去した。

その後、
西念寺は江戸城の拡張工事のため
1634年(寛永11年)頃に現在地に移転したとする。

西念寺の山号・寺名は彼の法名に因み、
現在も毎年11月14日に
「半蔵忌」の法要が行われている。


●サイクルプラザ・イレブン(ホームページ)

https://cycle-plaza-eleven.com

●自転車屋男2(ブログ)

https://blog.goo.ne.jp/charinko_2008/

●Amazon

サイクルプラザ・イレブン(ネット販売)

●メルカリ

チャーリー自転車(ネット販売)

宜しくお願い致します!!