10月23日
月曜日
「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝
鳥居元忠
(音尾琢磨)
天文8年(1539年)、
松平氏の家臣・鳥居忠吉の三男として
三河国碧海郡渡郷(愛知県岡崎市渡町)に生まれる。
父は岡崎奉行などを務めた岡崎譜代で、
元忠も徳川家康がまだ
「松平竹千代」と呼ばれて
今川氏の人質だった頃からの側近の一人で、
天文20年(1551年)から近侍した。
柴裕之は
元忠が13歳(天文20年)から家康に仕えていたとする
『寛政重修諸家譜』の記事が
正確であることを前提として、
弘治元年(1555年)に
家康が14歳で元服して今川義元から偏諱を与えられて
「松平元信」を名乗った際に
3歳年上の元忠も同時に
元服・偏諱授与の栄誉を受けたのではないかと
推測している。
家康の三河統一後、
旗本先手役となり旗本部隊の将として戦う。
長兄の忠宗は
天文16年(1547年)の渡の戦いで戦死し、
次兄の本翁意伯は出家していたため、
元亀3年(1572年)に父が死去すると、
家督を相続した。
永禄元年(1558年)の寺部城攻め、
元亀元年(1570年)6月の姉川の戦い、
元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いに参加。
諏訪原城合戦では斥候として敵陣に潜入し、
敵に発見されて銃撃で足に傷を負い、
以後は歩行に多少の障害を残したものの、
天正3年(1575年)5月の
長篠の戦いにおいては石川数正とともに
馬防柵の設置を担当する。
続いて、
天正9年(1581年)の高天神城の戦いに参戦した。
天正10年(1582年)の天正壬午の乱では、
家康の背後を襲おうとした
北条氏忠・氏勝軍の別働隊10,000を
甥の三宅康貞・水野勝成ら2,000の兵で撃退し
北条勢約300を討ち取り(黒駒合戦)、
戦後家康より甲斐国都留郡(山梨県都留市)を与えられ、
初め岩殿城に入り、やがて谷村城主となる。
この地域は
武田氏統治時代においても
小山田氏が独自の支配体制を確立していた上、
北条氏との国境地域であったことから
特に重臣である元忠が配置されたとみられる。
なお、
都留郡でも小山田氏の支配の及んでいなかった
北部地域などは元忠の支配から除外され、
徳川氏に従った
甲斐国衆の支配下に置かれていたとみられている。
元忠には朱印状を含めた印判状の発給が許されたり、
家康直属の奉行人と言えども
元忠本人の了承なしに領内の統治に関与できないなど、
家康からは軍団長として
一定の排他的自律性に基づく支配が認められていた。
天正13年(1585年)、
上杉景勝へ通じた
真田昌幸を討伐しようとした上田合戦では、
大久保忠世・平岩親吉と共に
兵7,000を率いて上田城を攻撃するものの
大きな損害を受け、撃退される。
天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、
岩槻城攻めに参加した。
戦後家康が関東に移封されると、
下総国矢作城4万石を与えられる。
元忠の配置は
常陸国の佐竹氏や東北地方の諸大名の
南下に対する備えであり、
引き続き強い支配権限が与えられていたとみられ、
その位置づけは元忠没後の鳥居氏の
東北地方要地への移封につながったと考えられている。
矢作城に入ったが、
城の狭隘を理由に、岩ヶ崎へ新城を築き移り住む。
岩ヶ崎城は佐原市岩ヶ崎字城山にあり、
元忠は岩ヶ崎城を本格的に築城するため
普請奉行を決め仕事に着手したが、
完成をみずに廃城となった。
慶長4年(1599年)、検地を行う。
矢作領84か村にわたる合計高約4万石で、
一名「矢作縄」といわれ、
それ以前より2倍半の増盛がなされた苛酷なものであった。
慶長5年(1600年)、
家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、
諸将を率いて出兵すると(会津征伐)、
伏見城を預けられる。
6月16日、
家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし
「わしは手勢不足のため、伏見に残す人数は3000ばかり。
そなたには苦労をかける」と述べると
「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば
自分と松平近正両人で事足ります。
将来殿が天下を取るには
一人でも多くの家臣が必要でございます。
もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は
城に火をかけ討死するほかないから、
人数を多くこの城に残すことは無駄であるため、
一人でも多くの家臣を城からお連れ下さい」と答えた。
家康はその言葉に喜び、
深夜まで酒を酌んで別れたと伝わる。
家康らの出陣中に
五奉行・石田三成らが家康に対して挙兵すると、
伏見城は前哨戦の舞台となり、
元忠は松平家忠・近正・内藤家長らと
矢作等から徴発した1,800人の兵力で立て籠もる
(伏見城の戦い)。
元忠は最初から玉砕を覚悟で、
三成が派遣した降伏勧告の使者を斬殺して
遺体を送り返し、戦い続けた。
13日間の攻防戦の末、
8月1日、鈴木重朝と一騎討ちの末に討ち死にした。
享年62。
元忠の首級は京橋口に晒されたが、
親交のあった京の商人佐野四郎右衛門が知恩院の内である
長源院に葬ったといわれている。
その忠節は大久保忠教より
「三河武士の鑑」と称された。
最期の地になった伏見城に残された血染め畳は
元忠の忠義を賞賛した家康が
江戸城の伏見櫓の階上におき、
登城した大名たちの頭上に掲げられた。
明治維新による江戸城明け渡しの後、
その畳は明治新政府より壬生藩鳥居家に下げ渡され、
壬生城内にあり元忠を祭神とする
精忠神社の境内に「畳塚」を築いて埋納された。
床板は「血天井」として
京都市の養源院をはじめ
宝泉院、正伝寺、源光庵、瑞雲院、宇治市の興聖寺に
今も伝えられている。
元忠所用の
「糸素縣縅二枚胴具足」は
鈴木重朝が召し取ったものの、
重朝は元忠の子の忠政に
形見として送付しようと打診した。
忠政は感激しながらも
「名誉と共にご子孫に伝えてほしい」と丁重に断った。
その後、
近年に至るまで重朝の子孫に代々伝わっていたが、
子孫が大阪城天守閣に展示されていた
関ケ原合戦の絵巻を鑑賞した際、
絵巻に描かれていた伏見城で
重朝と元忠が一騎打ちをする場面をみて
「元忠が纏う鎧の色彩や形が実物と違うのでは」
と気づいた。
調べたところ絵巻は後世に想像で描いたものである一方、
胴具足は元忠の遺品の可能性がある、との結論に至った。
2004年に
鈴木家から大阪城天守閣に寄贈された
(なお兜は幕末期に新調されている)。
墓所は
京都市左京区の百万遍知恩寺のほか、
福島県いわき市平の長源寺。
家康は忠実な部下の死を悲しみ、
嫡男・忠政は後に磐城平藩10万石を経て
山形藩22万石の大名に昇格している。
また元忠の孫にあたる忠恒と玄孫の忠則とが、
江戸時代にそれぞれ不行跡として
改易の憂き目にあった際、
いずれも元忠の勲功が大きいとして
減封による移封でいずれも断絶を免れた。
●サイクルプラザ・イレブン(ホームページ)
https://cycle-plaza-eleven.com
●自転車屋男2(ブログ)
https://blog.goo.ne.jp/charinko_2008/
●Amazon
サイクルプラザ・イレブン(ネット販売)
●メルカリ
チャーリー自転車(ネット販売)
宜しくお願い致します!!
月曜日
「どうする家康」
徳川家康家臣団列伝
鳥居元忠
(音尾琢磨)
天文8年(1539年)、
松平氏の家臣・鳥居忠吉の三男として
三河国碧海郡渡郷(愛知県岡崎市渡町)に生まれる。
父は岡崎奉行などを務めた岡崎譜代で、
元忠も徳川家康がまだ
「松平竹千代」と呼ばれて
今川氏の人質だった頃からの側近の一人で、
天文20年(1551年)から近侍した。
柴裕之は
元忠が13歳(天文20年)から家康に仕えていたとする
『寛政重修諸家譜』の記事が
正確であることを前提として、
弘治元年(1555年)に
家康が14歳で元服して今川義元から偏諱を与えられて
「松平元信」を名乗った際に
3歳年上の元忠も同時に
元服・偏諱授与の栄誉を受けたのではないかと
推測している。
家康の三河統一後、
旗本先手役となり旗本部隊の将として戦う。
長兄の忠宗は
天文16年(1547年)の渡の戦いで戦死し、
次兄の本翁意伯は出家していたため、
元亀3年(1572年)に父が死去すると、
家督を相続した。
永禄元年(1558年)の寺部城攻め、
元亀元年(1570年)6月の姉川の戦い、
元亀3年(1572年)12月の三方ヶ原の戦いに参加。
諏訪原城合戦では斥候として敵陣に潜入し、
敵に発見されて銃撃で足に傷を負い、
以後は歩行に多少の障害を残したものの、
天正3年(1575年)5月の
長篠の戦いにおいては石川数正とともに
馬防柵の設置を担当する。
続いて、
天正9年(1581年)の高天神城の戦いに参戦した。
天正10年(1582年)の天正壬午の乱では、
家康の背後を襲おうとした
北条氏忠・氏勝軍の別働隊10,000を
甥の三宅康貞・水野勝成ら2,000の兵で撃退し
北条勢約300を討ち取り(黒駒合戦)、
戦後家康より甲斐国都留郡(山梨県都留市)を与えられ、
初め岩殿城に入り、やがて谷村城主となる。
この地域は
武田氏統治時代においても
小山田氏が独自の支配体制を確立していた上、
北条氏との国境地域であったことから
特に重臣である元忠が配置されたとみられる。
なお、
都留郡でも小山田氏の支配の及んでいなかった
北部地域などは元忠の支配から除外され、
徳川氏に従った
甲斐国衆の支配下に置かれていたとみられている。
元忠には朱印状を含めた印判状の発給が許されたり、
家康直属の奉行人と言えども
元忠本人の了承なしに領内の統治に関与できないなど、
家康からは軍団長として
一定の排他的自律性に基づく支配が認められていた。
天正13年(1585年)、
上杉景勝へ通じた
真田昌幸を討伐しようとした上田合戦では、
大久保忠世・平岩親吉と共に
兵7,000を率いて上田城を攻撃するものの
大きな損害を受け、撃退される。
天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、
岩槻城攻めに参加した。
戦後家康が関東に移封されると、
下総国矢作城4万石を与えられる。
元忠の配置は
常陸国の佐竹氏や東北地方の諸大名の
南下に対する備えであり、
引き続き強い支配権限が与えられていたとみられ、
その位置づけは元忠没後の鳥居氏の
東北地方要地への移封につながったと考えられている。
矢作城に入ったが、
城の狭隘を理由に、岩ヶ崎へ新城を築き移り住む。
岩ヶ崎城は佐原市岩ヶ崎字城山にあり、
元忠は岩ヶ崎城を本格的に築城するため
普請奉行を決め仕事に着手したが、
完成をみずに廃城となった。
慶長4年(1599年)、検地を行う。
矢作領84か村にわたる合計高約4万石で、
一名「矢作縄」といわれ、
それ以前より2倍半の増盛がなされた苛酷なものであった。
慶長5年(1600年)、
家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、
諸将を率いて出兵すると(会津征伐)、
伏見城を預けられる。
6月16日、
家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし
「わしは手勢不足のため、伏見に残す人数は3000ばかり。
そなたには苦労をかける」と述べると
「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば
自分と松平近正両人で事足ります。
将来殿が天下を取るには
一人でも多くの家臣が必要でございます。
もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は
城に火をかけ討死するほかないから、
人数を多くこの城に残すことは無駄であるため、
一人でも多くの家臣を城からお連れ下さい」と答えた。
家康はその言葉に喜び、
深夜まで酒を酌んで別れたと伝わる。
家康らの出陣中に
五奉行・石田三成らが家康に対して挙兵すると、
伏見城は前哨戦の舞台となり、
元忠は松平家忠・近正・内藤家長らと
矢作等から徴発した1,800人の兵力で立て籠もる
(伏見城の戦い)。
元忠は最初から玉砕を覚悟で、
三成が派遣した降伏勧告の使者を斬殺して
遺体を送り返し、戦い続けた。
13日間の攻防戦の末、
8月1日、鈴木重朝と一騎討ちの末に討ち死にした。
享年62。
元忠の首級は京橋口に晒されたが、
親交のあった京の商人佐野四郎右衛門が知恩院の内である
長源院に葬ったといわれている。
その忠節は大久保忠教より
「三河武士の鑑」と称された。
最期の地になった伏見城に残された血染め畳は
元忠の忠義を賞賛した家康が
江戸城の伏見櫓の階上におき、
登城した大名たちの頭上に掲げられた。
明治維新による江戸城明け渡しの後、
その畳は明治新政府より壬生藩鳥居家に下げ渡され、
壬生城内にあり元忠を祭神とする
精忠神社の境内に「畳塚」を築いて埋納された。
床板は「血天井」として
京都市の養源院をはじめ
宝泉院、正伝寺、源光庵、瑞雲院、宇治市の興聖寺に
今も伝えられている。
元忠所用の
「糸素縣縅二枚胴具足」は
鈴木重朝が召し取ったものの、
重朝は元忠の子の忠政に
形見として送付しようと打診した。
忠政は感激しながらも
「名誉と共にご子孫に伝えてほしい」と丁重に断った。
その後、
近年に至るまで重朝の子孫に代々伝わっていたが、
子孫が大阪城天守閣に展示されていた
関ケ原合戦の絵巻を鑑賞した際、
絵巻に描かれていた伏見城で
重朝と元忠が一騎打ちをする場面をみて
「元忠が纏う鎧の色彩や形が実物と違うのでは」
と気づいた。
調べたところ絵巻は後世に想像で描いたものである一方、
胴具足は元忠の遺品の可能性がある、との結論に至った。
2004年に
鈴木家から大阪城天守閣に寄贈された
(なお兜は幕末期に新調されている)。
墓所は
京都市左京区の百万遍知恩寺のほか、
福島県いわき市平の長源寺。
家康は忠実な部下の死を悲しみ、
嫡男・忠政は後に磐城平藩10万石を経て
山形藩22万石の大名に昇格している。
また元忠の孫にあたる忠恒と玄孫の忠則とが、
江戸時代にそれぞれ不行跡として
改易の憂き目にあった際、
いずれも元忠の勲功が大きいとして
減封による移封でいずれも断絶を免れた。
●サイクルプラザ・イレブン(ホームページ)
https://cycle-plaza-eleven.com
●自転車屋男2(ブログ)
https://blog.goo.ne.jp/charinko_2008/
●Amazon
サイクルプラザ・イレブン(ネット販売)
●メルカリ
チャーリー自転車(ネット販売)
宜しくお願い致します!!