真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

「日の丸アワー」その3止 戦後、訴追された元俘虜の裁判の証人として米国に召喚された著者は出演者と再会

2010-02-18 | 読書-歴史
『日の丸アワ- 対米謀略放送物語』 (池田徳真 1979年)「捕虜が毎日生放送」の大胆 その1
「日の丸アワー」その2 「協力を拒みたる者は、その生命は保証せず」と言ったのに出演拒否かよ!事件
の続き。

◆放送で司会を務めたプロヴォー(プロボー)は、開戦初期にフィリピンで捕虜になった軍曹。
戦前の日本滞在(日蓮宗に帰依し、身延山で修業)歴などもあって日本語が流ちょう。

積極的に協力したのではないかとの嫌疑をかけられ、訴追される。
俘虜時代の他の行為も訴因とされ、戦後7年間にわたり係争。

憲兵隊の関係者等の中には、上官や部下の行為を強調して米側に証言し、自らの安全をはかる者あり。
また、俘虜の利敵行為まで積極的に通知してポイントを稼いだ人物あり。
プロヴォーもその餌食となったことが示唆される。

プラボー問題 その後

最終的に最高裁で無罪となるも、戦後の人生は不幸と評価される。
その裁判に証人として召喚された著者らは、戦後訪米する。

前述ウィリアムズ氏も同裁判に証人として任地のウガンダから渡米、著者と旧交を温める。
「お前が生きていてくれたので、自分の首がつながっているのだよ」との著者の思いは(口には出さないものの)、けっこうマジ!

放送に従事した元俘虜一同は、ミスターイケダに会えて嬉しい。
一般の俘虜であれば、収容所の担当者に殴る蹴るの暴行を受けたりしたケースは枚挙に暇ないわけだが、日の丸アワーに抜擢された人々は、そんな目に遭わずに済んだ。

労役ではなく頭脳労働、しかも協力を強制してくれたので反逆罪で訴追のリスクもないし・・・ということで、「同じプロジェクトに携わった上司と部下の同窓会」になる。
ウィリアムズ氏については、放送開始前に拒否して去ったわけだが、文字通り「自分の首がつながっているのは彼のおかげだ」という特別な関係でもあり、翌日別個に日本レストランで夕食をご馳走した由。

「使役する側の軍嘱託と俘虜」という関係は、「敗戦国民と戦勝国民」と大逆転しても、「呼び捨て、命令調」と「ミスターイケダ、敬語」と変わらないのが面白い。
国際感覚に優れていた著者が、俘虜の人格も尊重して扱ったので、俘虜側もそれを感謝する関係があったものと考えられる。(他がひどかった?)

プロヴォーについて:John David Provoo (1917–August 28, 2001)

プロヴォーの死去を伝えるハワイ紙:
Treason trial shadowed ex-soldier’s life JOHN DAVID PROVOO / BUDDHIST TEACHER
Honolulu Star-Bulletin
Saturday, October 27, 2001

TRIALS: Case of the Buddhist Sergeant - TIME Monday, Nov. 24, 1952

Justia > Cases > US Court of Appeals > Search > Search Cases in the Second Circuit Court of Appeals for john david provoo

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