イロイロ。。。

   四国 愛媛の松山に住んでます

愚痴です

2022-01-08 01:22:09 | 実家のこと 介護のこと


寒い中、頑張って咲くテナチュール

【 愚痴の吐き出しです 】

正月2日、他県に住む弟から電話
ずっと疎遠だったのだが母の死後
年に何度か電話がかかってくるようになった
が、いつも酔っ払ってる
弟、55歳、独り身
気楽な反面、寂しいのだろう。。

正月だし
なるべく機嫌良く話そうと思ったがダメだった
毎回、後味の悪いまま電話を切ることになる
ま、毎度のこと
酔っ払ってる弟は覚えてないと言うんだろうけど

弟とは気が合わない
というか、父とも、母とも気が合わなかった
子供の頃からずっと
自分だけ血がつながってないんじゃないかと思ってた
だから早々自立して実家を出た

いつも私のことを「お前はおかしい」と言ってた実家の人たち
なのにそれぞれいろんな理由をつけて私を頼ってきた
言いたい事はいろいろあるが
父も母も他界した今となってはもうどうでも良くなった

ちょびパパは
「俺が死んだら身内は弟しかいなくなるんだから仲良くしろ」と言う
が、弟は自身が一番嫌ってた父と年々そっくりになってきた
その上、私が母を苦手に思ってた部分まで受け継いでる

褒められたことじゃないが
父にも、母にも、弟にも
私の方から電話したことは一度もない
何かを相談したことも一度もない

ちょびパパと一緒になる時
実家の人たちは
「いい人に拾ってもらって良かった」と言った
夫の家は農家で家も立派で裕福だった
うちはかなり貧乏だった
だから「拾ってもらって」という発言なんだろう
普通なら22歳も年上の相手と一緒になると言ったら
もっと違う言葉もあると思うが
そういうことには無頓着だった

農家で80過ぎた義父母と同居
親戚筋に囲まれた環境の中
しきたりがいちいち分からなくて苦労したこと
ちょびパパも人当たりはいいが実は昭和な男なこと
長く続いた介護生活
子どもが出来なくて私の居場所がなかったこと
それ以外にもいろんな事があった
幸せではあったが泣いた夜もたくさんあった
そんなこんな私に興味のない実家の人たちは
「いい人に当たって運が良くてズルい」と言う
正月もまた弟がそう言った
そして
「姉ちゃんが幸せなのはちょびパパのおかげ
いい人に拾ってもらって良かった」とお決まりのことを言う
またか。。。と気持ちが冷めていく

母が弟を溺愛したように弟も母大好きを隠さない
「今でもおふくろの事を思い出しては号泣する」
「おふくろ、姉ちゃんと暮らして幸せやったんかなぁ」
「姉ちゃんがおふくろを引き取ったんだから
もっと良くしてやって欲しかった」
「あのまま一人暮らししてた方が幸せだったかも」と勝手なことを言う
むちゃくちゃ腹が立った
「確かに母さんは私と暮らすのは嫌だったと思うが
ご近所さんが心配して私に電話してくるほどボケ始めてた母さんを放っておけと?」
「あんたは母さんに何してあげた?」
「母さんはあんたと暮らしたいと言い続けてたのに知らん顔したのは誰よ!」
それだけ言い返して電話を切った

また疎遠になりたい。。



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1年過ぎて

2021-05-15 11:55:40 | 実家のこと 介護のこと


母が旅立って1年あまり
香川から鉢ごと引っ越してきたほど
母が大事にしてた花のヒッペアスケリア
窮屈そうだったので大きな鉢に植え替えたせいか
今年咲いたのはこれだけ
形見だと思って大事にしようと思っている

思えば母と深く話し合ったことがなかった
私は母がどんな子供時代を送ったとか
若い頃は何をしてたとか
どんな経緯があって父と一緒になったのかとかを知らない
母も私が家を出てからどんな風に生きてきたかを知らない
そのことについて話し合うほど近しい存在になれないままだった
母を引き取って2年ほど同居もしたのに

母は達筆で几帳面だった
本人もそれが自慢だった
が、読み書きがまったく出来なかった父との喧嘩の元でもあった
母は勉強も良く出来て賢い人だった
父は自分の名前すら書けなかったが世渡り上手な人だった
愛媛と香川、他県に住んでた二人がどこでどう出会い
私の知る限り喧嘩ばかりしてたのに
当時は何が良くて一緒になったのか
今はもう聞くすべはないけど
聞いておけば良かったなとすごく思う

母がひどい認知症になったのは同居が原因だったのかもと思っている
反りが合わない私と暮らすのは居心地が悪かったろうと思う
言い方も事務的だったりキツかったりと
きっと私は優しくなかったと思う
だますように連れて行って認知症病棟に入院させたのに
面会に行くたび、帰りたいと泣いた母
あれほど息子大好きだったのに息子の存在すら忘れつつあった
そんな母を可哀想に思いつつも
退院後、また一緒に暮らす気持ちは持てなかった

コロナのこともあり面会も出来ないまま3ヶ月たらず
やっと顔を見られたのは
体調が急変し息を引き取った後で看取ることも出来なかった
つくづく縁の薄い関係だったんだなぁと思い知った



母の好物だった芋けんぴ
今更ながら命日に私も一緒に食べてみた
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父のこと

2020-11-10 13:55:26 | 実家のこと 介護のこと

庭のクジャクアスターが満開だ

早いもので父が亡くなって2年が過ぎた
父の晩年は哀れなものだった
自分勝手な生き方をしたのだから自業自得ではあるが。。

父は長身で見てくれの良い男だった
ゆえに結構モテた
知らない女性と歩いてる父を何度も見かけた
知らない子どもと手をつないで歩く父も何度か見かけた
私と弟を連れた母が知らない家の前で何時間も立ち尽くす事もあった

我が家は今思い出しても涙が出るくらい貧しかった
それなのに飲む打つ買うの三拍子揃った父が
私や弟の給食費まで持ち出す
父が家に帰ると夫婦げんかが始まる
後ろめたさで暴れる父と気性の荒い母の喧嘩は派手だった
物が飛ぶ、割れるは当たり前でご近所さんも手がつけられず
警察が来ることも何度かあった
父は母だけじゃなく私や弟にも容赦なく手をあげる人だった

若い頃は父に貢いでた女性たちも歳をとる
父も年をとる
見てくれも悪くなり懐事情も悪くなった父の周りから人がいなくなる
それでも父は相変わらず家族には大きな顔をして偉そうだった
大きくなった私はもう父のことは怖くなかった
弟も父と同じくらいの背丈になっていた
母は父と別れ自分の里に帰った

母も弟も他県に住み私だけが地元に残った
父は私の放っておけない性格をよく知っていた
私が独身時代に貯めたお金のほとんどを父に使った
おかげで夫に金銭面で迷惑かけることがなかったのが救いだ
昼も夜も働いて貯めておいてよかった

母とも弟とも何十年も会うことなく
一人ぼっちでボロ家に住み
酒浸りになり足腰が立たなくなり
認知症になり最後はガンで死んだ
私は最低限の面倒はみた、と思う
父が息を引き取るひと月ほど前に一度だけ母が見舞いに行った
母のことは分からなかった
目をパチパチさせて不思議そうな顔で見てたが
すぐに興味なさそうに私の方に顔を向けた
何故か私のことは最後まで認識していた
わがままで常識のない父はしょっちゅうトラブルを起こした
そのたびに駆けつける私を救いの神と思って頼りにしてたのかな?

こんな親子関係でも
娘に看取られながら最期を迎えられたと
少しでも父が感じたなら良かったなと思う
父の命日が過ぎ父の晩年の孤独さを少し考えてみたりした
ちょうど夫が入院中でひと月近くひとりで家にいる事もあり
淋しくて心細くていろいろ思うことがあった
思えば私には子どもも身内もいない
晩年が孤独なのは私も同じじゃないかとひしひしと感じて悲しくなった
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母を見送る その後

2020-05-20 10:53:52 | 実家のこと 介護のこと


お悔やみのコメントを下さった方、メールを下さった方、応援を押して下さった方
お心遣いがありがたかったです
記事に目を留めて下さった皆さまに心より感謝申し上げます





母が好きだったヒッペアスケリア  ヒガンバナ科

本人はツバメスイセンだと言って大切にしてて香川からこの鉢植えも一緒に越してきた
調べてみるとアマリリスとツバメスイセンの交配種のようだ
狭い鉢の中で窮屈だろうにキレイに花をつけて
まるで母にお礼を言ってるかのよう

母の部屋を少しずつ整理している
まず、化粧品と服の多さにビックリする
母は入院するまで毎日化粧を欠かさなかった
オールインワンのクリームとリップクリームしか持ってない私
いつも、どこに行くときもスッピンの私に「信じられない」を連発した
驚きを通り越して心底呆れていた
私の普段着は母の捨てる服レベルで
私のよそ行きの服は母の普段着って感じだったなぁ
服も春夏秋冬ときちんと分けてキレイに畳んで収納していた母だが
今や引き出しの中はごちゃごちゃで畳まれてもなくてシワくちゃだった

母はメモ魔でもあり、ノート、メモ帳はもとより
広告の裏、包装紙の裏、レシートの裏まで紙なら何にでもメモっていて感心した
お金の収支、スケジュール、病歴、薬の効能、値段、テレビでのタメになる話など
なんでこんなものまで書き留めたの?って感じのものまでメモだらけ

母は達筆で本人もそれが自慢だった
メモも分かりやすく整理してあった
が、認知症になってからの母のメモと文字はガラッと変わった
いろいろと忘れていく自分と闘ってたんだろう
一番多く目にしたのが電話番号
私の携帯、弟の携帯、自分の姉弟の家の電話番号をいたるとこに書き記してあった

変わっていく自分と闘ってたんだろう
ノートや便箋に自分の思いや不安や恐怖を書いてあった
日ごと字は乱れ、ひらがなが増え、終いには支離滅裂な文のなぐり書きで
それが余計に母の心の声を感じて切なくなった
私がもっと思いやりを持って話を聞いてれば
気持ちを汲んで寄り添ってたら母との関係も変わってたかもしれない
今さら「たら」「れば」の話をしたってどうしようもないが。。。

母の持ち物を整理することで、ちょっとだけ母との距離が縮まった
そんな気がしている
今さらだけど。。。



コロナとペット関連は関係ないかも?と思いつつもカットを自粛してるので
ちょびの毛、伸び放題で鬱陶しい


ちょびパパが目にかぶさる毛をゴムでくくってやっていた
関取風のちょび


ちょんまげが嫌で前足で外そうとしたりコロコロと転がったり擦り付けたりするもので
だんだんとまげが乱れてくる


嫌そうだ


すごく嫌そうだ。。。
ちょび、もうちょっとの辛抱だ!ガンバロウ!!



ただ今コメント欄を閉じています
御用がありましたらメールにてよろしくお願いいたします→こちら


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母を見送る

2020-05-15 01:13:18 | 実家のこと 介護のこと

庭のスイレンボク

グループホームに入居して自由に過ごせるのが嬉しかったのだろう
車椅子は嫌と言い自分のシルバーカーを押して歩き
日ごと、入居者の方たちやスタッフの方たちとも打ち解け
ご飯もしっかり食べて楽しそうにしてますよと聞いて
良かったなぁと夫とふたり喜んでいた

夕食を食べてのんびりと過ごしてたら
「具合が悪そうなので病院に連れてきてます」と電話があった
病院に着いた時には喋れてたそうだが急速に悪化
呼吸不全で酸素濃度は70%台まで落ち込み
先生方、いろいろ手を尽くして下さっていた

香川にいた時にCOPDの増悪で入退院を繰り返してたから
先生に様子を聞いた時
母の壊れた肺はもたないかもなって思った
再入院から10日ほど。。
夜中の3時頃に「危篤状態です」と電話があり
大急ぎで病院に向かったが、ほんの数分遅かった
母はまだ温かく
痩せた感もなく生前よりも穏やかな顔で眠ってるようだった

こんな時期だから直葬で母を送った
1月に母が入院してからコロナ対策での面会禁止もあり
終末期、お別れと随分と寂しいものになっちゃったなぁ
可哀想だなぁって少し切なく思った

父の時は顔を見せなかった弟
さすがに母の時は来た
3年ぶりだと言う
母がすごく会いたがってたこと
一緒に暮らす日を楽しみにしてたこと
ダメな子ほどかわいいと口癖のように言ってたこと
その他諸々、こんこんと話して聞かせた
「こんなにあっけなく逝くとは思わなかった」
と、しょんぼり涙をぬぐう53歳のおっさん
それでも母は弟が来たことを手放しで喜んでるだろうな

母が焼かれる様子を見たくないと足取り重く、うなだれる弟
骨を拾う時、歯は残ってますか?と聞き
2本だけど見つけた歯を拾い上げて骨壷に入れながら
あの世でご飯が食べられなかったら可哀想と言った弟
骨壷を宝物のように大事に抱えて目を赤くしてた弟

私は一粒の涙も出なかった
父の時も出なかった
どちらの時も淡々と事を運び
感傷もなく
肩の荷をおろしたような解放感すら覚えた
私は冷たいんだろうな、と我が事ながら呆れた
親不孝な弟の方がよっぽど心根が温かい
そう口にしたら
「姉ちゃんは冷たいんじゃなくて強いんだよ」と慰めてくれた
弟が大事にされたのはこういうとこなんだろうな
私には可愛げがひとつもない。。。

これで義父、義母、父、母と見送ることが出来た
4人の介護に関わったこと
最期に立ち会い見送ることが出来たこと
正直、しんどいことも多かったけど
4人には濃い経験をさせてもらったなぁと感謝している

合掌



母との写真はないと思ってたのだが母が持ってたアルバムの中に1枚あった


35年前、47歳の母と二十歳の私


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母のこと その後

2020-04-23 01:54:15 | 実家のこと 介護のこと

前の家にあったハナカイドウを庭に植えたのだが
去年、私がちょっと油断したすきにちょびパパが勝手に剪定して
思うように形作れなかったのだろう
どんどん切り詰めていき半分くらいの大きさのショボい姿になってしまった(涙)
が、そのせいかどうなのか今年はたくさん咲いた
 

キレイで好きなんだけどアブラムシがつきやすいのが難点(右の方)



入院中に母の介護申請をした
COPDで酸素吸入なしでは動けなくなること
脊椎間狭窄症で寝返りや仰向けで寝ることが難しいこと
起き上がるのに時間と手がいること
会話も噛み合わず
せん妄の症状がひどかったこともあり要介護4

3ヶ月あまりの入院治療の結果
攻撃性はなくなったが感情の起伏が激しく(これは元々の性格もある)
まだ被害妄想と急に立ち上がる、動くの症状があり常時、見守りが必要とのこと
悩みぬいた末、家での介護は厳しいかなと。。
という事で病院からの紹介でグループホームに入居となった

コロナ感染を防ぐため入院中も母とは2月半ばから面会が出来てない
今月21日に退院、その足でグループホームへの移動も私たちは立ち会えず
母の服や布団やタンスなど生活用品を運びはしたが玄関までで会えないままだ
2ヶ月あまり、母を見てないので今どんな状態なのかがイマイチ分からない
話ではグループホーム初日は割合、落ち着いてたそうでホッとした

金銭面だが何とか融通出来る間はグループホームにいてもらって
ようよう厳しくなったら家に連れ帰ろうかな、と
今の時期、コロナのこともあるし
肺疾患のある母にはグループホームの方がいいだろうし
先のことはどうなるか分からないけど何とかしていくしかないから
その時また考えよう
母とちょびパパは5歳しか年が違わないので
そのうちもしかしたらW介護になるかも。。。
怖っ




風を楽しむちょび

メール頂いた方にはWebメールでお返事しましたが
届いてなかったらごめんなさいですm(_ _)m
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母のこと

2020-04-09 02:21:50 | 実家のこと 介護のこと
「お母さまを引き取り同居中なのに
まったく話が出ないけどどうしたの?」
とメールを頂いた
母は今、認知症病棟に入院中だ



母はもともと人の話を聞かない人で自分の話しかしない
昔から娘の私のことはあまり眼中になく息子命の人だった
弟を妊娠中に肺結核になり
出産後すぐ乳児院に預けざるを得なかった負い目があるのだろう
父は飲む打つ買うの三拍子プラス気分が乗らないと仕事をしない大工だった
母が入院中の数年間、私はあちこちの親戚の家で過ごすこととなった

母が退院してまた家族で暮らし始めたのだが
バナナのむき方を知らない弟が不憫だと母は泣き崩れた
親戚宅で見てバナナのむき方は知ってるが
一度も食べたことがない私のことは不憫だと思わなかったようだ

親戚宅でいい子にしてたら置いてもらえることを学習したから
私は特に手もかからず文句も言わず良い子な子ども時代を過ごした
弟は母にすごく大事にされた
トラブルを起こしても尻拭いしてもらい
そうする事が母の楽しみにすら見えた

私は義務教育を終えたら家を出た
父は怒鳴ったが母は特に何も言わなかった
それから40年。。。
その間に両親は離婚し弟は父そっくりになり
それぞれ困りごとがあると私に連絡をしてくるという関係が続いた

生まれ故郷の香川で暮らしてた母だが3年くらい前から一人暮らしが難しくなった
母が頼りにしてた弟は母の面倒をみる気はないと言う
香川と松山を月に何度も行き来するのに疲れて母を引き取って2年
その母が去年の夏くらいからますます話が通じなくなった

そして去年の冬くらいから一気におかしくなった
義父母の介護で認知症による被害妄想は経験済みなので何とかなると思ったが
実の母娘と言うことと
もともとお互いの愛情が薄いこともあってかなりこたえた

シルバーカーがないと歩けない母なのに夜中、早朝と外に出て徘徊する
人に見張られてる、壁から人が浮き出てくる、悪口が聞こえる、壁に虫がたくさん這ってる
風呂もトイレもベッドもシミだらけじゃないか
こんなとこに私を閉じ込めるのかと叫ぶ
お前の作るものには毒が入ってると言い食べない
私を殺そうとするのか、騙されないぞと薬も拒否
ろくすっぽ寝ずに独り言や見えない誰かと戦い続け、痩せこけ
挙げ句、早朝に出歩き近くの用水路に落ちて怪我をした
打ち身のアザや体の痛みにますます疑心暗鬼になり
私たち夫婦にやられたと誰彼なしに訴える

もう限界だと思い包括センターに助けを求めたのが今年の1月半ば
認知症外来を紹介してもらい受診
あまりの母の状態にその場で即、入院が決まった
とりあえず1ヶ月の入院予定が伸びて未だ入院中
コロナのことがあり今は面会出来ない状態だが幾らか落ち着いてきてる
幻聴や幻覚はまだあるが。。。

退院後のこと、夫と話し合っている
同居はもう、しんどいなぁが本音
何より母と反りが合わない夫に申し訳ないのと
空気を読めない母との板挟みで私が精神的に病みそうだ
預けるにはお金の問題が大いにある
母の年金は非常に少ない
私たちが出さなくてはならない金額の方が多くなり経済的にきつい

ちょびに慰めてもらいながら
どうしたもんかなと悩める毎日を過ごしている


お母しゃん、おかえり!


ボクの食べるもん買うてくれたん?

和む~(^^)
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近況

2012-04-29 16:24:45 | 実家のこと 介護のこと
ものすごぉ~くご無沙汰しております
皆さま、お変わりないでしょうか?




ロウバイが見頃だった1月半ば、実家の父が倒れたとの知らせが入った
体が回復するまで夫に無理を言って引き取って面倒を見ることに。。。

昔から好き勝手に生きてきた父は人の世話になっているという意識が薄く
私の言う事など聞く耳を持たず、言いたい事を言い、わがまま三昧で手こずらせ
私の格闘と比例するように日ごと不機嫌になる夫に「オヤジ連れて出て行け」と責められる日々
父はといえば、何とかこのままこの家に居座って面倒をみてもらおうという魂胆が見え見えで
この人は死ぬまで人に寄りかかって迷惑だけを与える人生を送るんだなと呆れ
娘と言うだけで私がその役目をずっと引き受けなくちゃならない運命なんだなと虚しくなり
そんな寒々とした気持ちが空にまで伝わったかのような、愛媛じゃ珍しい積雪となった2月初旬



とにかく元気になってもらって元のように自活してもらわなくてはと
躍起になって栄養ある食事を作り続け、少しでも歩く距離を伸ばしてもらおうと励まし続け
3月の声が聞こえる頃、大分元気になった父を実家に帰した
といっても、帰るのをしぶる父を2日に一度食事を届けるからと説き伏せたのだが。。
足が思うように動かなくなった事もあり不安もあるのだろう
だが、病院に行ってもう一度きちんと診てもらおうと何度言っても拒否
自分で努力もせずに泣き言だけを言っても誰も同情しない
ゆっくりだが歩けるようになったし、危ないからダメといっても自転車に乗る父
今までどおり、自分の好きなように生きられる一人暮らしに戻ってもらわねば。。。

父がいなくなり、久しぶりに外の空気を吸いに出掛けた先には春がたくさんっ♪






はしゃぎすぎた私、体がなまってたせいもあり足首捻挫(涙)
私のテンション低下がまた空に届いたのかどうかは分からないが3月だというのに2度目の積雪



寒いの大嫌いなちょびのテンションも
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南天

2006-01-03 22:22:49 | 実家のこと 介護のこと

ナンテン(南天)メギ科 

ナンテンは「難転」あるいは「成天」に通じることから
日本では古くから縁起木、厄除けとして庭の鬼門に植えたり
正月などの祝事に使い、重箱に葉を添えるなどの習慣がある。

うちの祖母が生前
「南天は不浄を清めると言うから、お手洗いの外に植えておくと良い」
と言っていたのを思い出す。
縁起木だとか、厄除けになるとか
南天の箸は食あたりを防ぐとか、長寿祈願の意もあるとか
そんな話をしてくれたのも祖母だ。
その祖母も、95歳の天寿を全うしてもう3年半が経つ。

私が生まれた時、母方の祖父母、父方の祖父はもうこの世にいなかった。
唯一お婆ちゃんと呼べる人だった祖母。
同居していたものの、極端に口数の少ない祖母だったので
そんなにたくさん話をした記憶はないが、南天の話だけは覚えている。

四〇そこそこで夫を事故で失い
それから女手ひとつで子供達を育ててきた祖母。
何事もマイペースで頑固なとこもあったが
口数が少ないから、人の悪口とか愚痴とかは一度も聞いた事がなかった。
祖母がしてきた苦労は並大抵ではなかったろう。
祖母はひとり、南天を見ては「難転」とつなぎあわせ
災いを他に転じながら、強く静かに生きてきたのかもしれない。
今となっては祖母の思いを聞くすべはないけど。。。
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1月2日

2006-01-02 13:44:32 | 実家のこと 介護のこと

ツルウメモドキ(蔓梅擬)の実 ニシキギ科

私はまだ見た事無いが
ウメの花に良く似たウメモドキ(モチノキ科)というのがあるそうな。
それに似た木でツル性だからツルウメモドキ(ニシキギ科)。
モチノキ科とニシキギ科で種類も異なる。
う~ん、ややこしい。

お正月と言ったって、毎年何らのんびりゆっくり出来ない。
年寄りは3食お節以外の食事を作らなきゃならないし
いちいち温めないと食べてくれないし。
いつお客様が来てもいいよう、汚れたら掃いたり拭いたり。
普段の日より忙しかったりして。。。

今晩は父宅に行き、一杯やる予定だ。
年末に届けたお節は食べてしまったから何か作れと父。。。
すき焼きをする事にした。
行ってすぐ作れるように、全ての材料を切ってタッパーに詰めて。。。

体が弱く、いつもどこかしら具合の悪い母は
今のとこ、すこぶる調子がいいようだ。
母宅に電話してみたら、喘息の発作も出ていないし
今年は初めて風邪も引かず年を越せたと言っていた。
母宅へは滅多に行けないので、調子がいいと聞くとホッとする。

そんなこんなで、正月から頭の痛くなるような事がでてきたが
何とかなる!って言うか、何とかしていこうと思う。
前向きに! 前向きに!!
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弟が。。。

2005-10-28 10:48:55 | 実家のこと 介護のこと

雲の影が出来ていた。


シロバナサクラタデ(白花桜蓼)タデ科
田んぼの隅に生えたりして雑草扱いされてるが
花は清楚でとってもキレイ。

二つ違いの弟が急にいなくなり心配していた。
会社も辞め、家にもいない。
何度も何度も携帯に電話してるのに連絡がつかない。

40前だというのに未だに独り者で自由気ままに暮らしてる弟。
いつも金欠でピ~ピ~泣きついてくる。
借金もあるという。
家賃も溜めているという。
電気を止められた事もある。
3日ほど何も食べてないと言ってきた事もあった。
何に使ってるのかと聞いても教えてくれない。
そのくせ、会うたびに携帯の機種を変え、車にはナビまでついている。
しょっちゅう飲みにも出てるようだ。
ようは、いい格好をしたいんだろう。

その弟から電話がかかってきた。
私とは正反対の性格でおっとりしている。
人の心配をよそに電話の声は寝起きのように間延びしたのん気なものだった。
会社の上司と喧嘩してクビになったらしい。
(本人は辞めてやったと言っていたけど。。。)
松山では仕事がないので知人を頼って他県にいるとの事。

心配が安堵に変わると腹が立ってきた。
「何で一言声かけんのよ!」
「急にいなくなったら心配するやろ!」とまくしたてると
「そこまで気が回らんかった」と。。。
だからモテないんだよ!の言葉をグッと飲み込んだ。
そういえば父もそうだった。
他県に仕事に出て3ヶ月も留守にするのに一言も言わずに行った。
こんな事まで遺伝するのか。。。

まだまだ言ってやりたい事はたくさんあるが
とりあえず無事で良かった。
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両親

2005-05-01 16:11:37 | 実家のこと 介護のこと
両親は私が物心ついた時から仲が悪かった。
父はすぐ手を上げる人で母はもちろん
私や弟にも平気で暴力を振るう人だった。
喧嘩や父が暴れる原因はつまらない事だけど
その根っこの原因はお金がないって事につながる。

父は男尊女卑を絵に描いたような男で
「女に教育は要らん、偉そうになるだけや」が口癖だった。
私は勉強が好きだったが机に座ってると父によく怒鳴られたものだ。
それでもちゃんとした父なら私も言う事を聞いただろうが
あまりの理不尽さに父に対して憎しみを感じていた。

仕事に行っても人とぶつかり昼前には帰って来る始末。
機嫌が直るまで仕事に行かない。
家にいても面白くないから遊びに出る。
遊びに行くにはお金がいる。
「男がはした金持って遊べるか」と母の財布の中のお金はもちろん
私や弟の学費まで持ち出す。
小学生の頃から私が母のためにとバイトして稼いだお金まで取り上げた。
飲む・打つ・買うの3拍子揃ってて
お金がなくなれば家に帰ってくるって有様で
その当時、母はハンパじゃない苦労をしたろうと思う。
私も弟も、ちゃんと義務教育を受けられたけど
その間、母は一体どれだけ頭を下げて回ってお金を工面したろう。

もともと元気だった母が病気のデパートみたいになったのは
こうした苦労がもとになってるに違いないと思う。
母は何度も私達姉弟を連れ
親戚の家をあちこちしたり家出を繰り返したけど
その度に見つけ出され家に引き戻された。
母の口癖は「あんた達のために○○してるのよ」
「あんた達さえいなければとっくに家を出てる」
こども心にこの言葉を聞くのはすごく悲しかった。
母がつらい思いしてるのは私が原因なんだといつもすまなく思ってた。

私達が一人前になったのを見届けて母は父に離婚を切り出した。
思わぬ母の言葉に父はうろたえた。
父は「俺が悪かった、お前の言う通りにするから」などと
母の気に入りそうな言葉を並べたようだが母は相手にしなかった。
母の意志がとてつもなく強いと悟った父は
思いのほかあっさりと離婚に承諾した。
あの父の事だからどんな手を使ってでも母を家から出さない。
出すくらいなら殺してしまうかも、なんて私は思ってて
神経尖らせて母から目を離さないようにしてたのに拍子抜けだった。

離婚後、ふたりともず~っと一人暮らしを続けてる。
ひとりになった母は生気を取り戻し、反比例するように父は枯れてった。
その父もこの夏が来ると70歳。
もはや暴言も暴力も遠い昔の事となり
今じゃただのショボくれたジーサンになった。
男がカッコ悪い事出来るかなんてプライドもきれいさっぱりなくなり
昔、自分が家族にどんな事をしたかもすっかり忘れたかのように
「お前だけが頼りだ」と何だかんだと泣きついてくる。

弟は「親父の事なんて知らん、放っておけばいい」と言う。
私も本心ではそう思ってる。
でも私の性格上、知らん顔出来なくて。。。
それでまた嫌な思いさせられる事もあったりして
どうしたもんかと溜め息つく日もある。
どんな親にしろ、私をこの世に送り出してくれた人だし
放っておいたら人さまに迷惑かけるかもしれないし
父か私のどちらかが死ぬまで係わりあっていかなきゃならないんだろなって観念している。
コメント (8)
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