「女声合唱団風」の指揮者大森栄一先生が亡くなられた。
月一の山科訪問練習の3月がキャンセルとなり、次の4月20日も先生の体調不良でキャンセルになりそのまま眠り続けて、ご家族がご自宅で見守る中静かに天に召された。奇しくも私たちが毎年開いているコンサートの月、5月12日未明だったそう。
先生が亡くなられてひと月が経ち、10年以上練習のために通った大阪のあびこにある練習場で、先生の奥様も来られて『偲ぶ会』が開かれた。
奥様は長野の方で、先生が東京芸大卒業後合唱指導されていた頃に、ピアノ伴奏で関わっておられた奥様と結婚されたそうだ。長野の高校で音楽の先生をし、合唱コンクールではいつも賞を取る常連校にまで指導されたとのこと。その後、当時の大阪の相愛女子大学音楽学部(現相愛大学)の合唱専任講師として招聘されて、ご実家の京都に戻れるならと関西に戻って来られたという経緯を、以前先生から伺ったことがあった。
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先生は結婚された当時から、死んだら自分のお骨は海に散骨してほしい。お寺さんを呼んでのお葬式などは要らないとおっしゃっていたらしい。散骨はしていないが、その遺志通り、お通夜は近しい人数人で、先生が大好きなワインやビールを飲んでいると、お祈りをあげようと来られた山科の幼稚園の牧師さんも加わって賑やかに盛り上がり、最後に牧師さんが祈りを上げて下さりお開きになったそうだ。
ワイン好きの先生のご機嫌なショット。
『偲ぶ会』ではサプライズがあった。1964年、先生36歳の頃に作曲されたという「花屋さん」という歌があったそうで、初めて披露されてみんなで初見で歌った。
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学生時代や、また「風」の活動時に関わった、メンバーそれぞれの先生との思い出のエピソードを順に話した。
学生時代とても近寄りがたい雰囲気だったことはみんなの共通する記憶だったが、女声合唱団風で関わってからは、お茶目な部分が年々見えてきていたことと、メンバーそれぞれに色々違いはあっても、先生が優しい方だったことも共通していた。
奥様は、先生の知らない側面などが立体的に見えてきた。つき詰めると先生には音楽しかなかった、それ以外のものは切り捨ててきた人生だったと思うとおっしゃっていたのが心に残った。
私たちが歌った林光さん編曲の「日本抒情歌曲集」は、どの曲のアレンジもオシャレだが、ピアノ担当者は緊張を強いられる。
私は10年ぐらい前の本番で、この中の「待ちぼうけ」の前奏で忘れられない失態をした。
右手の出だしフレーズに左手が遅れて入ってくるカノン風のイントロと、コーラスの響きを重視しているア・カペラの掛け合いだが、出だしの左手がもつれて、高音部から低音部へと転がり落ちるように弾いてしまって立ち直れずに、何度も繰り返されるこのパターンのフレーズを只々もつれるように弾いた。団員たちは逆に、コーラスはしっかり歌おうという団結心が芽生えたと言っていた(笑)
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途中で止まったりしていないので、耳の良い友人らさえも「えっ、そんなアレンジじゃないの?」と疑うことがなかったのがせめてもの救いだった。
その後指揮者の岩城宏之さんが亡くなった時、林さんが新聞に追悼文を投稿されていた。
東京混声合唱団のコーラスのピアノ伴奏で林さんが演奏されていた時のエピソードに、岩城さんは「抒情歌曲集」のプログラムは必ず「待ちぼうけ」を入れる。そしてイントロの所で林さんの指がもつれるのを見て、指揮しながらほくそ笑むのだと書いておられた。
大森先生は、その記事の切り抜きを持ってきて私に読ませて、ニヤッとしながら「これだよね?」と。
「ご自分でアレンジされたのにもつれるんや」と内心笑いながら、先生とのこんなやりとりに救われたことをまた思い出している。