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何日か前の朝日新聞に、こんな記事が出ていた。中区大和町にある「いなり湯」の紹介だ。それによると、この銭湯は1946年に創業したという。古いとは思っていたが、終戦直後に始めていたとは! 1945年5月29日の大空襲では、この一帯も猛火に包まれた。米空軍が撮影した航空写真を見ると、こんなふうに大和町あたりも大変なことになっている。 この状態から1年ほどで銭湯を開業したというのだからすごいよね。 ただ、記事の方はたいしたことが書かれていない。「いなり湯」のちょっとした歴史のほか、大和町という名称の由来とか、一直線の道路の謎などが紹介されているだけだ。 この銭湯の面白さはいろいろある。その一例が、これ。 お時間のある方は読んでみてね。 ![]() 銭湯の向かい側に昔の大和町フードセンターがある。いつからこんな状態になっているのか不明だが、かつては生鮮三品を売る威勢のいい声が響き渡っていたにちがいない。 この中をくぐって行った先に「第六天稲荷」がある。 ![]() ワイシャツ店として有名な「大和屋」はもともと弁天通りにあった。『中区史』によると、店主石川清右衛門は、旧鉄砲場が県に移管されたのち、このほとんどの土地の払下げをうけて一帯を開き、工場や家作を建て街並みをつくったという。そのなかに、第六天稲荷社が勧進されたのである。 ![]() 玉垣にはペンキ職、屏風商、石工、畳職などの名前が並ぶ。 この第六天稲荷には、「大和屋シャツ合名会社有志」奉納の石灯籠一対(年号不明)、「目黒繁蔵、福島平助、粕川與平、鳶熊王」連名の手洗盤一基もある。彼らは大和屋出入りの鳶、畳屋、ペンキ屋、建具屋らしい。ちなみに熊王さんは今でもお稲荷さんの近くに住んでおられる。 ![]() 「野州足利町川島久兵衛」と刻銘のある石灯籠。この人は大和屋の生地の取引先だと『中区史』は言う。 この第六天稲荷社は、関東大震災後、大和屋工場の敷地に移され、戦後、再び現在地に帰って来たものである。鳶職・熊王茂さんと善行寺の住職とが、この社地で白狐を見たということから、稲荷もこの地に帰りたいとの願望であろうと推測、現在の土地に移したという。 ところで、第六天稲荷とは関係ないが、「いなり湯」と「大和町商店街」の紹介記事の下に、こんなのも載っていた。 ![]() アフリカ現代アート展「ティンガティンガ」。今日が初日だ。 ティンガティンガに関する過去の記事 ![]() |
知らないことがたくさん、いつもいつも楽しく拝読させていただいております。ありがとうございます。
熊王さん親子、お元気でお姿拝見します!
本牧の
四角いピザや、本牧?本郷町や鷺山にあった赤線?や遊女街、朝鮮壁など知りたいです。
またいつかまとめて本を出版してくださいまし。
よろしくお願いします。
ご近所にお住まいですか。
この町はなかなか面白いですね。
ときどき歩いていますが、毎回、何かしら新しい発見があります。
本牧、鷺山にあった遊女街、朝鮮壁…これは知りませんでした。