昭和9年の電話番号簿で記事を書いたら、中華街という呼び名について、いろいろなご意見が投稿された。 そこでこの町がどう呼ばれてきたのか、改めて新聞記事などを通して確認しておこうと思う。 私が確認した、戦後はじめての町の様子を伝える新聞記事。昭和20年11月4日の毎日新聞だ。 ≪白米も登場 飛ぶように売れる支那街≫という見出しを付けている。 この頃は、おそらく支那街と言っていたのだろう。読み方は「しなまち」なのか「しながい」なのかは分からない。 そして、昭和20年12月29日の毎日新聞の記事。 小見出しは「支那街」でも「南京町」でもなく「南京街」となっていて、記者が朝9時半ごろ街を歩いた時の様子を伝えている。 これも「なんきんまち」なのか「なんきんがい」なのか不明。 昭和21年10月2日の神奈川新聞。 ほぼ1年近く経ってから、「中華街」という呼称が登場する。新聞記者がこの名称を使用する前からあったのか、それとも記者がこう書いたから市民に定着していったのか、これまたよく分からない。 横浜市役所が発行していた月刊「よこはま」昭和23年6月号。ここでも「中華街」と、はっきり書いている。 こうして見ると、中華街という呼び名は昭和21年から23年の間には、新聞記事や市役所広報的には使われていたのだろうと想像できる。 しかし、横浜市民の間では戦後も長らく「なんきんまち」と呼ばれてきたに違いない。現に、私が横浜にやってきたころの先輩方の中には「なんきんまち」という方々が多かったからね。 昭和30年に善隣門ができて「中華街」という名が決まったような記事を見かけるが、庶民の間ではそれからも長いこと昔のままに「なんきんまち」と言ってたのだと思う。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
昔の言葉って風情がありますね。
横浜の人は昭和44年頃に「しなまち」と言っていたのですか。
中華街の門ができてから14年経っても……
支那町、南京町はもっとも華僑の方々が嫌う蔑称ですよね。支那は日本人か付けた造語?南京は虫?
華僑の幼馴染が絶対に言っては駄目だよと教えてくれました。私の母親は支那とか、南京町と言ってましたけど 汗)
ミドリムシさんの投稿は面白いですね🤣
映像が浮かび出て来ます。
Fuck Youは最高です・・・・・
私の母はこの言葉も使ってました。
注意しても聞かなかったですね 汗💦💦💦
「日活映画がこの街のイメージを悪くした。
高度経済成長期になり、そのイメージを
一新するため、呼称を中華街に統一し、
観光客の来るグルメタウンに変えていった」
という話を伺ったことがあります。
その前は、食事に来る客も地元横浜の
人が多かった、と別のハマっ子も言ってました。
南京町は「小京都」とか「リトル・トーキョー」のノリで、華僑の方が発案したという説もありますし、神戸では今でも中華街より違和感なく南京町と読んでいます。
また、支那町は「China Town」のカタカナ読み、China ⇒ チナ ⇒ シナ という和製英語みたいなモノですからねぇ…
ちなみに、昭和40年前後の中区&西区の年寄りは「なんきんまち」派が主流でした(昔)
私が社会人として横浜に来た時、
高齢の先輩方はほとんど「なんきんまち」と言っていました。
今思えばあの人たちは戦前派・戦中派だったので仕方なかったのでしょうね。
もうずいぶん前のことですが、
映画監督に頼まれて中華街で撮影することになりました。
映画の内容が町の印象を悪くするということで、
撮影を断られたことがあります。
神戸は今でも完全に「南京町」ですよね。
おっしゃる通り、China ⇒ チナ ⇒ シナでしょう。
本牧も「リトル・アメリカ」という人たちがいました。