中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

辻舌法tonight

2020年10月17日 | おいしい横浜

 横浜本牧の丘の上に八聖殿という施設がある。3階建て八角形の建物で、熊本県出身の逓信・内務大臣を歴任した安達謙蔵(1864~1948)が計画し、昭和8年(1933)に完成した歴史的建造物だ。もともとは若者たちの精神修養の場として造られたが、のちに彼の別荘となり、その後、昭和12年(1937)年、横浜市に寄贈され、建物の周辺一帯は本牧臨海公園として整備された。
 昭和48年(1973)、「横浜市八聖殿郷土資料館」と改名され、現在は幕末から明治にかけての本牧、根岸の写真や農具・漁具を中心に展示している。

 ここでは、館長や専門家などによる歴史講座が開かれ、毎回100人ほどが参加していたが、今年は新型コロナの影響で講堂に密集することができず中止に。しかし、6月からは前庭を使って青空講座という形で再開。そして9月30日は開港資料館喫茶室で行われることになった。参加者は10人に制限されているが、同じ内容の講座を複数回開催するそうだ。

 ということで、当日は仕事を終えたあと横浜公園を突っ切って会場に向かった。


 途中、「ランチャン・アヴェニュー」に寄って行こうと思ったが、店内は満席だった。やっぱりね、お店が閉店するというその当日だったのだ。ニュースを見て大勢押しかけたのだろう。
 この記事に突っ込みを入れるわけではないけど、≪20世紀から続く日本大通りの洋食店「ランチャン アヴェニュー」閉店へ≫という見出しに苦笑してしまった。19世から続くなら分かるけど、1999年だからなぁ……


 神奈川県庁が真っ青になっている♪
 こんなのを撮影していたら、講座の開始時間が迫ってきた。日本大通り側から開港資料館に入ろうと思ったら、なんと閉門。もちろん海岸通側も閉まっていて、開港広場側に回らざるを得なかったが、なんとか間に合った♪


 この日の講師は八聖殿資料館館長の相澤さんで、お題は「大谷嘉兵衛と清水次郎長」。軽食付きの講座なので愉しみ~♪


 テーブルには、こんな紙が置いてあったけど、コースターじゃないし、何に使うのかな。


 まずは、本日のお茶。静岡県産煎茶「富士」。
 それで、富士山の絵が描いてあったのね。その紙を裏返すと、本日のメニューが書かれていた。


 右手前から時計回りに、秋鮭とキノコのグラタン、カマボコと田丸屋ワサビ漬け、和風ハンバーグ大根おろし、栗おこわ+さくら海老、香の物、ポテトサラダ+バゲット。
 ビールと共にいただいた♪


 食後のデザートとアイスコーヒー。デザートもお茶関係だったように記憶しているが、2週間以上前のことなので忘れてしまった……。


 参加者に配付された資料。


 お話の項目。


 こんな軽食をいただき、また酒を呑みながら館長のお話を聞くなんて、なかなか素敵な企画だった。

 以下は相澤さんの講話から。

1 日本でのお茶の歴史
 平安初期に編纂された「日本後記」に嵯峨天皇へ献茶した様子が記されている。その頃のお茶は、現在の抹茶のように粉末のお茶にお湯を注ぎ、茶筅で泡立てて飲んでいた。これを飲めるのは一部の特権階級だけだったそうだ。
 江戸時代になると庶民もお茶を飲むようになった。しかし、それは茶葉を煮だしたもの。現在のように茶葉にお湯を注いで飲む煎茶が作り出されたのは18世紀中ごろだが、これは特権階級が飲むもの、長崎から海外へ輸出するものだった。
 ちなみに、煎茶は宇治の永谷宗円が初めてとされていて、ここから現代の「永谷園」につながっているそうだ。ついでに言うと、その煎茶を販売して巨利を得ていたのが山本嘉兵衛で、「山本山」の祖である。

2 緑茶と紅茶
 どちらも同じツバキ科の「チャノキ」の葉でつくられるが、違いは発酵の仕方。
 茶葉の発酵は菌によるものではなく、摘んだままにしておくとタンニンが酸化して発酵が進むそうだ。そして熱加えることによって発酵が止まる。そのタイミングによってお茶の種類が分類される。
 不発酵・・・緑茶
 弱発酵・・・黄茶、白茶
 半発酵・・・烏龍茶
 完全発酵・・紅茶

3 静岡とお茶
 慶応3年(1867)、将軍・徳川慶喜は朝廷に大政奉還し、駿府に隠居。徳川家に仕えていた武士は職を失い、慶喜と共に駿府へ引き揚げることになった。そこで武士の再雇用の場として牧之原台地を開墾し、お茶の栽培を始めた。そのお茶が清水港から開港場横浜に運ばれ、海外へ輸出されていった。
 明治32年(1899)、清水港が直接外国と貿易できる港として指定され、大正10年(1910)には横浜港を抜き日本一の茶の輸出港となった。

4 日本茶 輸出から内需へ
 1610年に東インド会社が平戸の日本茶とマカオの中国茶を持ち帰ったのが、ヨーロッパにおける茶の伝来といわれている。当初はお茶に砂糖を入れて飲むというスタイルだったという。
 その後、インドやセイロン(スリランカ)でお茶の栽培・製造が始まり、不発酵の緑茶よりも完全発酵の紅茶の方が好まれるようになり、日本茶の輸出は落ち込んでいった。
 その一方、日本国内での茶の需要が高まりはじめ、大正後期から昭和初期に多くの日本人が煎茶を飲むようになったそうだ。

5 大谷嘉兵衛
 大谷嘉兵衛は日本茶の普及と品質向上に尽力し、現在われわれが飲んでいる緑茶の礎を築き、「茶聖」と呼ばれた人である。横浜商行会議所(現・商工会議所)の会頭を17年以上務め、横浜の政財界の中枢を支えた。
 嘉兵衛は弘化元年(1844)、伊勢国飯高郡谷野村で生まれ、文久2年(1862)に北仲通で茶商を営む「伊勢屋」で働き始めた。慶応3年(1867)、「伊勢屋」からアメリカの商社スミス・ベーカー商会に入社。そこで働く傍ら、自らも日本茶の売り込み商「巴屋」を創業し、横浜における茶貿易の第一人者となっていった。
 静岡で行われていた茶畑の開墾や清水港の整備にも尽力し、昭和8年(1933)90歳で亡くなるまで日本の製茶業のみならず復興、発展のために尽くした人だった。

6 清水次郎長
 本名を山本長五郎といい、実在の人物である。
 慶応4年(1868)西郷隆盛が率いる官軍に対し、徳川慶喜は恭順の意を伝えるため山岡鉄舟を使者として派遣した。鉄舟は勝海舟や清水次郎長の助けを受けて駿府へ向かい、西郷と鉄舟の会談を実現させ江戸城無血開城につながったと伝えられている。
 次郎長は「清水港を蒸気船が入る港に整備すべし」と提案し、尽力したともいわれている。自らも静隆社という海運会社を設立し、横浜と清水を結ぶ定期航路を営業した。また静岡監獄の囚人の更生を目的に、富士裾野の開墾も行った。(静岡には次郎長町という地名があるそうだ)


 次郎長が大谷嘉兵衛や高島嘉右衛門と交流していたという明確な史料はないそうだが、大谷嘉兵衛が静岡で茶貿易に尽力したこと、次郎長が開墾した富士裾野の土地を高島嘉右衛門が譲り受けていることから、三者には何らかの交流があったと思われる。

 以上がこの晩に相澤館長がお話しした辻舌法の概略。機会があったらまた参加してみたいと思っている。
 
参考:広沢虎造の「清水次郎長伝」


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2 コメント

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出てくる映画があります (さすらい日乗)
2020-10-18 09:24:26
八聖殿が出てくるのは、加賀まり子主演の『月曜日のユカ』で、この中で不良たちとセックスしようとします。
中尾彬が恋人ですが、今と全く違う風貌です。
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Unknown (管理人)
2020-10-18 10:06:11
>さすらい日乗さん
そうですね、八聖殿が写っていました。
元町も、横浜港も…
これは必見ですね。
返信する

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