今日は東日本大震災から10年目ということで、新聞やテレビではいろいろな特集を組んでいます。横浜在住の人たちにとっても、あの日のことは忘れられない出来事だったと思いますが、私にとってはその翌年の2月、宮城県釜石市の仮設住宅で生活をしている被災者を支援するために、ボランティアとして活動した1週間の体験の方が、より強烈な記憶として残っています。 その時のことは9年前の記事で書きましたが、津波で命を落とした方の話の続きがまだまだあります。それは高齢の男性が住む仮設住宅を訪れたときに聞いた話です。 震災前にその方が住んでいたのは、それほど海に近いわけではない、わりと奥のほうの地域でした。地震発生後、避難のための用意をしていると、津波が押し寄せてきたと言います。海水はあっという間に庭のフェンスの高さまで達しました。それはもう、プールで溺れかかっているような状態だったそうです。 そのフェンスに奥さんと二人でしがみついていると、いろいろなものが流れてきてぶつかり、絶体絶命の状況に。その時、奥さんの手がフェンスから離れそうになったので、旦那さんが彼女のてを掴んで流されないようにしていたのですが、数分後、彼の腕の力が尽きてしまったと涙を浮かべて語ってくれました。奥さんは波に飲み込まれ流されて行ってしまったのです。 この話を聴きながら、私は何も答えられないまま、ただ彼の顔を見ているだけでした。 高齢女性の仮設住宅で聞いた話もひどかった……。 あの寒い日、近くの小高いところにある神社に避難したあとの話です。11日の夜は数人で朝まで救援を待っていました。昼頃、やっと救助用のヘリコプターが到着したのですが、一人の男性が防寒着を何重にも着て着ぶくれしているため、ヘリの中で二人分のスペースをとっていたといいます。 そこで周囲の人たちが、少し脱いでスペースを開ければもう一人乗れると忠告したのに対し、彼は頑として言うことを聞かなかったそうです。結局、ヘリはそのまま出発しました。残された人たちが第2便で避難できたのかどうかは分かりません。 今日は10年前の3月11日のことよりも、9年前の今頃のことを思い出しています。 そうそう、原子力緊急事態宣言は、まだ解除されていないんですよね。このことも思い出しました。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
その後に、2度ほどの遠野を含め、被災地を何回か訪問しましたが、所詮は通りすがりの旅人ではありました。
それでも、震災の記憶は無くしてはいけないと思い、拙ブログでも時折は震災について触れております。
コロナ禍も共存を探るステージに入ってきましたし、できることをきちんと実行したいと思います。
聖火が東北から出発すれば「復興五輪」?
釜石市で支援員をやっていたHさん。
横浜に帰ってからもずっと、
ここで聞いたこと、見たことを広めてください…
って言われていたのに、最近は話題にもしていなかったです。
すみません、Hさん。
もう、緊急事態につき、五輪は自粛すべきでしょうね。
原発もどうなっているのか……
昔の人を探すのは大変ですね。
9年前に仮設住宅で出会った人たちも、
どうしているのかなぁ。