柳ジョージが歌ってヒットした「フェンスの向こうのアメリカ」は、本牧の米軍海浜住宅地区(エリアⅠ、Ⅱ)が舞台になっていましたが、そこは昭和57年(1982)に全面接収解除され、現在は新本牧地区として瀟洒な住宅やマンション群、ショッピングセンターなどに生まれ変わっています。 しかし、周辺にはもう一つのフェンスが残っています。それは根岸住宅地区(エリアX)です。 このエリアは、森林公園に隣接するコミュニティーセンターや各種施設、そして中区寺久保、塚越・磯子区上町・南区山谷に広がる広大な米軍住宅地で構成されています。 何年か前にここも返還が決まり、今後どうなるのか注目されていましたが、いよいよ彼らの撤退が始まったようです。 日米共同使用の坂道(冒頭の写真)を登っていくと、正面ゲートに出ます。 このゲート、かつては自由に通行できていたのですが、9.11の同時多発テロが起きてからは歩哨が立って、厳しく入場制限されるようになりました。 そして最近はゲートが閉鎖され、中に入ることができなくなっています。ちなみに、これは中に侵入せずフェンスの隙間からカメラを入れての撮影ですよ。 森林公園のモーガン広場側を歩きながら、フェンスの向こうのアメリカを眺めていくと、独身寮の前に見慣れない車が止まっていました。 引っ越しのトラックです。広大な芝生地に点在するハウスにはほとんど住人がいないと聞いていますが、この独身寮も空になったようです。 それにしてもアメリカっぽい引越屋さんですね。 レストラン棟。もうずいぶん前に閉鎖していたのでしょう。 NEGISHI ALL HANDS CLUBという名前が付いていました。 1回だけここでランチを食べたことがあります。分厚いハムステーキと野菜がセットになったもので、食後にはコーヒーのサービスも。グラスを透して向こう側が見えるほどのアメリカンでした。 アメリカっぽい消火栓。これは根岸旭台の歩道脇や本牧山頂公園にも残っています。 あずまやには不要になった毛布や布団類が。粗大ごみ出すのかな… 駐車場にはなにやら冷蔵庫っぽいモノやエアコン関係の機械が大量に置かれていていました。 こういう設備は各自購入ではなく、備え付けだったようです。 冷蔵庫はすべてが同じというわけではなく、家族構成によってサイズが異なっていたのでしょうかね。 コミュニティーセンター2階には所長をはじめ、アメリカ人の事務員や日本人通訳がいました。9.11以前は、ゲートで許可さえ貰えたら、ここまで上がることができたほど、おおらかでした。 1階には郵便局、ファストフード店、映画館、小さなスーパーなどがあり、ここでよくハンバーガーを食べたものです。 ただ自由に入れたのはファストフード店まで。そこから先は入場不可でした。 ところがあるとき、いつもはガードされているスーパーの入口が開いていたので、こっそり中に入ってみました。 店内にはアメリカの食料品や怪しげな雑誌などが置いてあり、その中の1冊を立ち読みしていたら、後ろからトントンと肩を叩かれて振り向くと…… 銃を構えた兵士が怖い顔をして「IDカードを出せ」と言うではありませんか。もうビックリ 予想どおりつまみ出されてしまいました。 ガソリンスタンドと自動車整備場。 診療所。 緊急の時は日本の119番に電話しろ、なんてことが掲示されていました。 米軍の消防署。これはフェンスの中ではなく外にあります。 守備範囲はエリアX内だけだそうですが、住宅地区から全員撤退したら、最後に閉鎖するのでしょうかね。 署の前にある新聞の自販機。 中に入っているのは「STARS & STRIPES」と「STRIPES JAPAN」。 月曜から木曜までは50セント、金曜から日曜までは1ドル。 毎日、最新号が入っているようです。 警察車両。 今でも常時パトロールしています。 こちらは寺久保、簑沢側のゲート。 入口には警備員がいて簡単には入れません。 前方のゲートから先は、芝生の中にハウスが点在する住宅地区です。 すでに学校も教会も閉鎖され、エリア内にはもう誰も住んでいないのかもしれません。周囲を米軍接収地に囲まれて生活している日本人を除いてね。(このことについてはあとで触れます) 子どもの遊び場。幼稚園だったのかな。 まるで屋外トイザラスですね。でも、遊んでいる子どもは見えません。 日本政府の思いやり予算によって池子に米軍の住宅地区ができたことや、3.11東日本大震災の影響で住人はほとんどいなくなったのでしょう。 さて、ここで少し前の時代の風景を載せておきましょう。 1980年代半ばに撮影した大芝台側のゲート。当時はフェンスもなければ歩哨も立っていませんでした。犬や猫でなくても簡単に入ることができたのです。 でも今はこんな状態です。 1993年撮影の正面ゲート。同時多発テロが起きる8年前ですから自由なもんです。 地元の人たちは向こう側の寺久保や簑沢方面へ行くのに、森林公園を大回りせず、この中を突っ切っていました。さすがに住宅地区エリアには簡単に入れませんでしたが、こちらの施設エリアは結構緩かったのです。 2007年に撮影した住宅エリア内。 同上。 この奥の方、磯子側の通りは確かスカイラインアベニューとか言っていました。中区内でいちばん標高の高い場所で、抜群の展望が開けていたのです。 さて、話を現代に戻しましょう。 このエリア内には360度、周囲を接収地に囲まれて生活している日本人がいます。 青い屋根の家があるあたりが接収されていないエリアで、戦後から現在までずっと日本人が住み続けています。 この写真は磯子側の坂道を登り切ったところで、フェンスの隙間から撮影しました。 根岸の丘は戦前、ほとんどが畑でした。そこを接収したとき、おそらくブルドーザーで整地し、道路や住宅を建設していったに違いないのですが、なぜこのような飛び地を残すことになったのか、思議でなりません。 10年ほど前、「サンデー毎日」だったか「毎日グラフ」だったか忘れましたが、この謎について、写真入りで特集しているのに出会いました。雑誌は昭和30年代のものだったと記憶しています。 なぜ、この部分だけが接収されていないのか、そのワケは書いていませんでしたが、そこに住む人たちに対する次のような取材記事が出ていました。 『ここは360度、周囲を米軍に囲まれているため、自宅敷地への出入りに際しては、いちいちチェックされるのです。そこで当局に掛け合った結果、パスを発行してもらうことになり、以後はこれを見せるだけで通行できるようになりました』 『また、ゴミの収集も自宅近くまでは来てくれないので、パスを持って、かなり先の「日本」まで運ばなければならなかったんです。でも、最近はゴミ収集車もここまで入ってこられるようになったから、だいぶ楽になったよ』 なぜこういう飛び地ができたのか、長いこと不思議に思っていましたが、最近、この地図を見てなんとなくその疑問が解けてきたような気がしています。 戦前、根岸の丘には広大な農地が広がっていたので、米軍住宅を造るには最適地でした。 この地図はアメリカ陸軍が製作した1946年のもので、畑地記号の中に混じって構造物らしきものが描かれています。根岸住宅地区ができるのは1947年10月ですから、接収される前からなにかが建っていたのでしょう。 これでは分かりにくいと思いますので、テキサス大学の地図コレクションをリンクしました。 詳細はこちらをクリックしてご覧になってくださいませ。 Nurseryと書いてあります。その意味は保育所とか託児所ですが、こんな畑の中にあったとは思えません。 Nursery…次に考えられるのは苗床とか種苗場。まさに農業施設ではないですか。もしかしたら農業を営む人の家だったのかもしれません。 戦前の日本の農家ですから、その姿を見たアメリカ人が、ここは家ではなく種苗場と勘違いしたということも考えられます。 本牧では1945年、町の一部が接収されて一気に住宅地区が造られていったのですが、根岸を接収したのは1947年の秋です。終戦から2年以上経過していた時期ですから、そんなに無茶はしなかったのではないかとも考えられます。 農家があるからここは手を付けずにおこう…そんな風に考えたのかもしれません。強引に全てを接収したのではなく、一部を残して住宅地区を建設していったとも考えられるのではないでしょうか。 根岸住宅地区ではその接収地の返還が決まり、住人がどんどん撤退していっていますが、喜んでばかりはいられません。ここに住む日本人の方々の生活が今後どうなるのか、大きな問題が残されたままなのですから。 ≪参考に≫ テキサス大学図書館 マップコレクション テキサス大学図書館 JAPAN CITY PLAN ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
簡単にはいかないという話を聞きました。
どうなるのか、一般人が知ることができるのは
まだだいぶ先でしょうか。
なるほど!と思いました。
根岸と言えば西洋野菜普及の礎となった処ですものね。
栽培を始めた時から西洋人への販売を目的としていたようですし、その後も船などに卸していたのならアメリカとの繋がりがあっても不思議ではないと思えます。
戦後 駐留軍が日本で野菜など食材買付をするときは誰が仲介にいたのでしょうね?
とうとう撤退しちゃうんですね!
毎年、今頃はフレンドシップデイが開催されてるんですが
去年、行った時に今年で最後と聞きました。
アメリカを感じられて楽しかったんですけど、残念です。
全然知りませんでした。
もう「世界の警察」なんて時代じゃないけど、後始末はちゃんとしてけ、って思っちゃいますね。
たしかに土地の権利関係を調べるのが大変らしいですね。
返還は決まっても跡地利用の方法が決まるのは、
相当先じゃないでしょうかね。
根岸の丘といえば西洋野菜ですよね。
磯子側の斜面には丘に登る坂道がたくさんあります。
農家の人たちが日常的に使っていたといいます。
中には上に住んでいる人もいたんでしょうね。
お祭り好きの人たちにとっては楽しいイベントでしたね。
ただインターナショナルスクールのバザーなどとは違って、
こちらは軍関係者ですから、
快く思っていない人もいると思います。
まあ、いろいろですね。
接収を解除して、住んでいる人たちが本国に帰るなら別ですが、
池子地区に移転ですので、
県内移設ですね。
沖縄の基地とは比較になりませんが、
似たようなものです。
これからが大変でしょうね。
あのまま賃貸住宅にしちゃうとかしたら、
高額な家賃になるから、無理か……
公園にするといっても広すぎますし……・
どのように利用するのか、気になります。