2018年12月5日に進駐軍社交場「サクラポート」の記事を載せた。この施設は戦前の「紅葉閣」を利用していたのだが、その「紅葉閣」というものが具体的にどこにあり、そしてどんな営業をしていたのか分からなかったため、記事の中で「気になって、眠れない……。」とつぶやいたら、アサキチさんから以下のコメントをいただいた。 紅葉閣の場所 (アサキチ) 2020-07-17 08:43:22 調べ物をしていて、ここに行き着きました。 紅葉閣の場所が気になって眠れないとのことでしたので、お知らせします。 昭和12年発行の『横浜市商工案内』によると花咲町4-111とのことです。代表者は伏見幸右衛門となっています。 ということで、中央図書館の「都市横浜の記憶」で検索して得られたのが冒頭の画像である。 当時は中区花咲町4丁目となっているが、昭和19年4月に中区から西区が分区しているので、そこは現在の西区花咲町4丁目にあたる。 ちなみに、戦時中、西区の分区は防災上の理由から行われ、1丁目から7丁目まであった桜木町と花咲町は、1~3丁目が中区に残り、4~7丁目は西区に分割された。 昭和18年12月に中区から南区が分区したのも同じ理由からだ。そしてその時、赤門町が分断され、1丁目が中区に残り2丁目は南区にされてしまった。 桜木町は縦の細長い町なのでよく分からないが、赤門町は1,2丁目だけの小さくまとまった町である。なぜここを分断したのか、その理由は分からない。 話がそれてしまった。 その後、Anneさんからも以下のコメントをいただいた。 Unknown (Anne) 2020-12-20 15:31:38 紅葉閣のあった場所は、10年ほど前まで、花咲団地があった場所で、今マンションが建っています。明治時代は、明治の相場師と言われた田中平八のお屋敷があったそうです。終戦後は紅葉閣と呼ばれて、進駐軍将校の社交場になったり、結婚式場になったりして、昭和31年に日本住宅公団が買取、花咲団地を建てたそうです。(田中平八に関する本) だいたい想像していた場所だった。 場所は特定できたものの、「紅葉閣」がどういう営業をしていたのか、その写真は…となるとなかなか手が回らず、時間だけが経過していってしまったのだが、最近、以下の資料を国会図書館デジタルコレクションから入手した。 港湾協会が発行していた機関誌「港湾」第30巻第7号総会号(昭和10年7月1日)に「紅葉閣」のことが載っていたのである。 総会は横浜市立商業学校(現Y校)で開催されたあと、大宴会が「紅葉閣」で行われたことが分かった。 しかも、「紅葉閣」の歴史についても少しであるが触れられている。 この紅葉閣は、元の横濱富豪若尾家の所有であった、 他の史料によると、財閥が建てた料亭らしい意匠が施されていたという。外観写真はまだ発見されていないが、屋根にはシャチホコも乗っていたらしい。 こちらは横浜市長が主催した晩餐会の風景。 すごい人数だ! まったく隙間なく参加者が座っている。これではトイレに行くにも一苦労しただろね。 ひとびとの間に芸者らしき女性が見えるが、この人たちは本職の芸者ではなく「紅葉閣j」の女中さんたちだったのかな。 晩餐会での余興。楽隊をバックに女性が踊っている。 女中は何れも色藝兼備とあるから、こちらも彼女たちなのだろうね。 それにしても、格天井といい、素晴らしい彫り物のついた柱といい、豪華な建物だったんだねぇ。 さて、最後に昔撮影しておいた中区本町にあった若尾ビルの懐かしい写真を載せて今日は終わりにしたい。 外観。 柱頭飾り。 コーニス。 すべて1992年の撮影。 【以下は参考に】 横浜本町通 旧若尾ビル(現富士ソフト横浜ビル) 若尾ビル/横浜市中区本町 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
トイレにも立てないし、芸者さんだって裾を踏みつけ
そうだし、「どうもどうも」なんて知り合い同士、
お酌してまわることもできませんよねえ。
それにしても写真が出てきたのはいいですね、もっと発掘したいです。
(生糸輸出で財を成した)
そうですね。生糸で儲けた財閥です。