中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

巨星がまた一つ…

2022年07月04日 | レトロ探偵団

 7月2日(土)の朝日新聞朝刊に、先月亡くなった嶋田昌子さんの記事が出ていました。写真画像は読みにくいと思いますので、詳しく読みたい方は、こちらのリンクからどうぞ。

 私は、嶋田さんが運営している横浜シティガイド協会の新入会員研修で3,4回お話をさせていただいたことがあります。内容は中華街のことだけではなく、街の歩き方や歴史の隙間から見る横浜などでした。
 そしていつも彼女は冒頭でこんなことを仰っていました。
 「横浜以外の人たちに横浜を案内するのも大切ですが、私たちは横浜に住んでいる市民にこそ、もっと横浜のことを知ってもらいたい、歩いてもらいたいのです」と。

 新聞記事では横浜シティガイド協会のことが取り上げられていますが、その協会よりも10年早く結成したヨコハマ洋館探偵団というのがありました。それが核となり、対象が建物や人物から横浜のさまざまな歴史に広がっていったのだと思います。
 私はシティガイドではありませんが、5年ほど前、嶋田さんに案内されて伝説の騎手の子孫を訪ね、彼女の取材を間近で拝見したことがあります。
 訪問先は本牧の小さな小児科医院でした。嶋田さんの実家が病院をやっていたので、おそらくその関係で昔から知り合いだったのだと思います。

 その時お聞きした話と、季刊誌『横濱』第54号に掲載された「吉川英治と明治期双璧の日本人ジョッキー」の記事から、少しまとめてみました。
 
      

 将棋の世界では14歳の棋士がデビュー以来29連勝を成し遂げるという快挙がありましたが、明治9年にも14歳の男子が脚光を浴びるという出来事がありました。その子は棋士ではなく、本牧出身の騎手。
 名前を大野市太郎といい、この年の根岸競馬(秋季開催)でデビューし、11月18日のシルクカップでザジャッジ号に騎乗し初勝利を挙げたのでした。
 その後、他の競馬場でも騎乗数を増やし、明治32年には新冠賞杯競争に出場。サイケウ号に騎乗して御下賜品競争を制しました。彼は、その恵まれた才能を活かし、44歳まで現役を続け、勝ち鞍は300勝以上にのぼったと言われています。
 明治期の競馬界には神崎利木蔵という有名な騎手がいましたが、そのライバルとして名を残したのが大野市太郎でした。
 ところで、大野市太郎というのは騎手としての名前であり、本名は寺道芳助(文久2年~大正6年)といいました。芳助の父・寺道芳五郎は若い時に一時、旗本の大野家の養子となっていたため、そこで馬術を習い、本牧に戻ってからは馬に関わる仕事していたたことがあるといいます。
 それを手伝っていたのが芳助で、当時、山手17番にあったキングトン厩舎で馬の世話係をやるようになりました。そこで認められて騎手になっていったようです。

 さて、「寺道」と聞くと、本牧にお住まいの方は「寺道小児科医院」を思い浮かべるのではないでしょうか。実は芳助の孫が寺道先生なのであります。先生によると、騎手を引退した寺道芳助は本牧に厩舎を構え、後進の騎手を育成することになったそうです。その場所が現在、医院のある一帯だったということです。
 医院の裏に案内されると、そこは庭というより原っぱという感じでした。昔は背後の高台から水も出ていたと言います。馬の飲み水にしたり、馬体を洗うために使っていたようです。昔から広い土地だったので、ずいぶん大きな厩舎だったのでしょう。
 しかし、明治41年に馬券発売禁止令が出て、芳助は競馬界から消えていったようです。大正6年に亡くなると、告別式の会場となった蓮光寺には、多数のファンや市民が訪れたと言います。

 そんな騎手・調教師の流れをくむ寺道家ですが、なんと寺道先生の御子息が、あのメリ~ゴーランド研究所のテラミチケンイチさんなのであります。ケンイチさんは学生時代、馬術部に所属していました。そして今、メリーゴーランドを造り各地で馬を回して子どもたちを楽しませています。


 5代にわたる馬のつながりを感じざるを得ません。


←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね





コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 中華街の車止めが消えた! | トップ | 電柱水滸伝 »

コメントを投稿

レトロ探偵団」カテゴリの最新記事