固定電話のベルで起きるとFAXが流れてきた。
仕事関係である。
さっそく起きて取材アポの電話をかける。
日程は決まった。
そしてパソコンを開けて編集局に取材日程を知らせた。早いがインスタントのカレーでご飯を食べた。
食べ過ぎかもしれないが無性にスパゲテイーが食べたい。
スパゲテイーを少し湯がいて何か作るのが面倒で梅茶漬けの素をかけて混ぜた。
少し食べて納得した。
メールの受信の返信をしてまたブログを書いている。
今年の民団の柱は「ウリマル」に決まった。
この間、大会が終ったので柱が決められて「ウリマル」に決まった。
言葉はどんな形であれ民族気質を作る第1歩になる。
だから日本人は日本語それも丁寧で正確な日本語を使ってもらいたいと思う。
私の父は1世だったが5歳で渡日して京都市内の学校に通った。
日本語はまったく訛りがない。
母親も訛りがないと思っていた。9歳で渡日しているのと学校に言っていないが日本語は流暢に使う。私は訛りがないと思っていたが息子が学生時代、自分の友人を連れて母親の仕事にアルバイトに行っていた。
そしたら息子の友人は言う。
「おじいちゃんは訛りないがおばあちゃんは訛りがある」と言っていた。
私は家族として一緒に暮らしていたのでまったく気がつかなかった。
そして最近、弟の嫁に聞いた。
「おじいちゃんとおばあちゃんが話ししているときは韓国語ばかりやった」と言う。
そうか。やはり母語が一番気楽に話せるのが1世だったと気がついた。
在日韓国人の2世の私は日本語が第1言語なのですごく楽である。
韓国に言っても日本語に訳して日本思考で物事を考えている。
子どものころ父親はハングルを教えようとすると私は「日本で生まれて日本で暮らしている。日本語だけでいい」と言ったら父親は黙って私の顔をじっと見て「ほんまにそう思うか」と聞いたので「そう思う」と答えた。
父親はしっかりした口調でゆっくりと「使わなくても覚えておいたほうがいい」と言って黙った。怒りはしなかったが心の中では寂しい思いをしていたことが年を重ねてわかった。
日本人に帰化しょうと帰化申請の用紙を取り寄せていたのに私の心に変化が起きてきた。
楽しく雑誌記者をしていたのにある日心の中がざわざわしだした。
「日本人のふりをして日本の記事は書きたくない」
1年間、心の中で葛藤していた。
息子が大学に入学した年の4月に民団奈良県本部会館に韓国語教室にハングルを習いだした。(奈良外国語観光ガイドの会の会長とは同期生、しかし私は1年でやめている)韓国語を習いだして気がついた。
ハングルとハングルとの間に見える韓国の文化や歴史、ハルモニ(祖母)が話していたことはこれだったのか。日本語を一切使わないので韓国語で韓国の民話や女性の心得を話してくれた。半分理解できた。もっとしつこく日本語で質問すればもっと何度も話してくれたのにと黒板を見ながら後悔していた。
そして父親が言った「使わなくても覚えておいたほうがいい」と言った父親の言葉の意味は「自分を見失わないために韓国語は使わなくても覚えておいたほうがよい」と言うことだと分かった。
心の葛藤はここから少しずつほぐれて言った。
もう日本人に帰化することはやめようと自問自答するようになっていた。
在日韓国人の新聞社に転職した。
環境の悪いところで何度もやめて元いた日本の新聞社にもどろうかと足を何度も踏み出しそうになった。しかしそうさせなかったのは「日本人のふりをして日本の記事は書きたくない」ということが心の片隅にあった。
何年かすると在日コリアンの間で1人でも多く取材して記事にしていく。取材した人がどんどん伸びていかれることにやっとやりがいのある仕事であると自分の心の中に認識し始めた。
夫には何度もやめたらと、言われた。
朝早く出勤して遅い帰宅に夫は呆れていた。主婦業はまともにできなくて当たり前である。日曜も祭日も現場取材に出かけていく。
夫は私の仕事に子どもが大学卒業するまではなんとか我慢していたが子どもが社会人になるとやめたらという声が多くなった。
しかし書くこと、現場で皆に出会うことが私の性にむいていた。
夫に言われてもやめようとしない私がいた。
そして自宅を事務所にして関西地域を現場にして回るようになって夫はやっと私の仕事が大変で在日コリアンの中では大切な存在だと気がついてくれた。
民団新聞に移ってから夫は何も言わなくなった。
ただ近年は還暦を過ぎてからは無理しないようとは言っている。
若い記者に任せていくようにも言っている。
そう思ってハードな日程からは解消されて私の体力の範囲でしている。
ふりかえると言葉は使わなくても学習することで自分と対面していく。自分と対面する中で家族のことを考えていく。私はたまたま親が朝鮮半島の出身、だからしらずしらずのうちに韓国語に触れて自分の置かれた位置をはっきり知ることができた。
言語で人間の優劣もない。文化にしてもない。
歴史は各国違う。
先日取材した若い青年が言っていた。
韓国の子供は日本の歴史の教科書を参考書にして日本の子どもは韓国の歴史書を参考書にしていくと双方の共通点と違いを見つけていくことができると話していた。
言葉はその人の人格を作っていく。
1世の言語はやはり韓国語で日本語は自分の言葉でない。だから民族意識に確固たるものがあった。
2世になると片足は日本社会にある。言語は日本語、しかし家でしているものは受け継がれている文化は韓国、自分と向き合うのには言葉と文化は家にあるが外に出ると日本人のふりになっている。
3世・4世になると外国人登録証明書だけが韓国人である。
どこに自分の体に韓国が流れているのかわからない。
言葉や文化に触れずに行くとそのまま日本人になっていく。
自分の先祖に朝鮮半島から来たこともしらないで過ごしていく。
家族がルーツをきっちり話していく。ここが韓国人として生きる基本である。
次に言葉は使わなくても日本語以外に韓国語に興味を持たせて行くのも家族の責任であると私は思う。
日本に住んでいると日本語で充分と私は子どものころに思ったが言葉を通して自分と対面していく。このプロセスが大切である。
そして在日コリアンが自分出自を隠さないで生きることが自分と対面して生きていくことにつながっていく。
隠している人は隠さないで本名で生きている人に対して逆差別しているように思える。帰化することは仕方がない。それぞれ事情があるだろうか帰化している人は帰化しない人に蔑視の目で見ないでほしい。このへんのことはほ私は理解できないが自分との対面は言葉しかない。子どものころ言った父親の言葉を通してそう思う。
好きでなかった父親の影響を受けている私は苦笑いをしている。
仕事関係である。
さっそく起きて取材アポの電話をかける。
日程は決まった。
そしてパソコンを開けて編集局に取材日程を知らせた。早いがインスタントのカレーでご飯を食べた。
食べ過ぎかもしれないが無性にスパゲテイーが食べたい。
スパゲテイーを少し湯がいて何か作るのが面倒で梅茶漬けの素をかけて混ぜた。
少し食べて納得した。
メールの受信の返信をしてまたブログを書いている。
今年の民団の柱は「ウリマル」に決まった。
この間、大会が終ったので柱が決められて「ウリマル」に決まった。
言葉はどんな形であれ民族気質を作る第1歩になる。
だから日本人は日本語それも丁寧で正確な日本語を使ってもらいたいと思う。
私の父は1世だったが5歳で渡日して京都市内の学校に通った。
日本語はまったく訛りがない。
母親も訛りがないと思っていた。9歳で渡日しているのと学校に言っていないが日本語は流暢に使う。私は訛りがないと思っていたが息子が学生時代、自分の友人を連れて母親の仕事にアルバイトに行っていた。
そしたら息子の友人は言う。
「おじいちゃんは訛りないがおばあちゃんは訛りがある」と言っていた。
私は家族として一緒に暮らしていたのでまったく気がつかなかった。
そして最近、弟の嫁に聞いた。
「おじいちゃんとおばあちゃんが話ししているときは韓国語ばかりやった」と言う。
そうか。やはり母語が一番気楽に話せるのが1世だったと気がついた。
在日韓国人の2世の私は日本語が第1言語なのですごく楽である。
韓国に言っても日本語に訳して日本思考で物事を考えている。
子どものころ父親はハングルを教えようとすると私は「日本で生まれて日本で暮らしている。日本語だけでいい」と言ったら父親は黙って私の顔をじっと見て「ほんまにそう思うか」と聞いたので「そう思う」と答えた。
父親はしっかりした口調でゆっくりと「使わなくても覚えておいたほうがいい」と言って黙った。怒りはしなかったが心の中では寂しい思いをしていたことが年を重ねてわかった。
日本人に帰化しょうと帰化申請の用紙を取り寄せていたのに私の心に変化が起きてきた。
楽しく雑誌記者をしていたのにある日心の中がざわざわしだした。
「日本人のふりをして日本の記事は書きたくない」
1年間、心の中で葛藤していた。
息子が大学に入学した年の4月に民団奈良県本部会館に韓国語教室にハングルを習いだした。(奈良外国語観光ガイドの会の会長とは同期生、しかし私は1年でやめている)韓国語を習いだして気がついた。
ハングルとハングルとの間に見える韓国の文化や歴史、ハルモニ(祖母)が話していたことはこれだったのか。日本語を一切使わないので韓国語で韓国の民話や女性の心得を話してくれた。半分理解できた。もっとしつこく日本語で質問すればもっと何度も話してくれたのにと黒板を見ながら後悔していた。
そして父親が言った「使わなくても覚えておいたほうがいい」と言った父親の言葉の意味は「自分を見失わないために韓国語は使わなくても覚えておいたほうがよい」と言うことだと分かった。
心の葛藤はここから少しずつほぐれて言った。
もう日本人に帰化することはやめようと自問自答するようになっていた。
在日韓国人の新聞社に転職した。
環境の悪いところで何度もやめて元いた日本の新聞社にもどろうかと足を何度も踏み出しそうになった。しかしそうさせなかったのは「日本人のふりをして日本の記事は書きたくない」ということが心の片隅にあった。
何年かすると在日コリアンの間で1人でも多く取材して記事にしていく。取材した人がどんどん伸びていかれることにやっとやりがいのある仕事であると自分の心の中に認識し始めた。
夫には何度もやめたらと、言われた。
朝早く出勤して遅い帰宅に夫は呆れていた。主婦業はまともにできなくて当たり前である。日曜も祭日も現場取材に出かけていく。
夫は私の仕事に子どもが大学卒業するまではなんとか我慢していたが子どもが社会人になるとやめたらという声が多くなった。
しかし書くこと、現場で皆に出会うことが私の性にむいていた。
夫に言われてもやめようとしない私がいた。
そして自宅を事務所にして関西地域を現場にして回るようになって夫はやっと私の仕事が大変で在日コリアンの中では大切な存在だと気がついてくれた。
民団新聞に移ってから夫は何も言わなくなった。
ただ近年は還暦を過ぎてからは無理しないようとは言っている。
若い記者に任せていくようにも言っている。
そう思ってハードな日程からは解消されて私の体力の範囲でしている。
ふりかえると言葉は使わなくても学習することで自分と対面していく。自分と対面する中で家族のことを考えていく。私はたまたま親が朝鮮半島の出身、だからしらずしらずのうちに韓国語に触れて自分の置かれた位置をはっきり知ることができた。
言語で人間の優劣もない。文化にしてもない。
歴史は各国違う。
先日取材した若い青年が言っていた。
韓国の子供は日本の歴史の教科書を参考書にして日本の子どもは韓国の歴史書を参考書にしていくと双方の共通点と違いを見つけていくことができると話していた。
言葉はその人の人格を作っていく。
1世の言語はやはり韓国語で日本語は自分の言葉でない。だから民族意識に確固たるものがあった。
2世になると片足は日本社会にある。言語は日本語、しかし家でしているものは受け継がれている文化は韓国、自分と向き合うのには言葉と文化は家にあるが外に出ると日本人のふりになっている。
3世・4世になると外国人登録証明書だけが韓国人である。
どこに自分の体に韓国が流れているのかわからない。
言葉や文化に触れずに行くとそのまま日本人になっていく。
自分の先祖に朝鮮半島から来たこともしらないで過ごしていく。
家族がルーツをきっちり話していく。ここが韓国人として生きる基本である。
次に言葉は使わなくても日本語以外に韓国語に興味を持たせて行くのも家族の責任であると私は思う。
日本に住んでいると日本語で充分と私は子どものころに思ったが言葉を通して自分と対面していく。このプロセスが大切である。
そして在日コリアンが自分出自を隠さないで生きることが自分と対面して生きていくことにつながっていく。
隠している人は隠さないで本名で生きている人に対して逆差別しているように思える。帰化することは仕方がない。それぞれ事情があるだろうか帰化している人は帰化しない人に蔑視の目で見ないでほしい。このへんのことはほ私は理解できないが自分との対面は言葉しかない。子どものころ言った父親の言葉を通してそう思う。
好きでなかった父親の影響を受けている私は苦笑いをしている。
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