鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

小学校、幼稚園の卒業・卒園シーズンである。

2007-03-23 07:54:53 | 直言!
昨日、大阪市内の小学校に電話することがあって電話すると「6年生の卒業式を終えて」と教師が話される。そんな言葉にそんな時期だったのかと気がついた。そしたらなんか「思い出のアルバム」の歌詞を知りたくなってインターネットで検索した。
ある。ある。たくさんある。
検索すると音楽まで流れてくる。これはすごいなあと思ってきいている。
音は小さいが聞こえてくる。メロデイーが聞こえてくる。
この歌は1981年にNHKのみんなの歌で発表されてから学校でも歌われだした。
またこのメロデイーが人の心にすっと入ってくる。
私の息子、今はアホ息子といっておこう。
アホ息子が1982年3月小学校を卒業した。
たしか卒業するときこの歌を聞いたような気がする。
心に染みとおるメロデイーと歌詞に涙がぽろぽろ出たような記憶をしている。
息子の卒業式に駆けつけてくれた人がいた。
当時、私は同人誌で「詩」を発表していた。その仲間の2人がきて写真をとってくれたような気がする。まだ独身の若い男性が2人来たような記憶をしている。彼らたちは土曜日だったのか日曜日だったのか会社が休みになると1ヶ月に1度私の家にきていた。夫はそのとき仕事にでていた。たいてい家にいなったことを記憶している。
借家でもうぼろぼろの家だった。傾いていた家だった。トイレも汲み取りだった。
子持ちのおばちゃんの家に彼らたち2・3人が一緒になってきた。その時は白と黒のツートンカラーの猫もいた。近鉄西大寺駅から裏道を通ってくると小高い山の間の道を通ってくる。ここ歩くだけでも疲れが取れる。散策の道を歩きたいのできたのか。
そして奈良市内で保育園の保母をしていた彼女が目当てだったのだろうか。
私の家に独身男が何人か連れ立ってよく来ていた。
大手企業の工務店に勤務する人、僧侶になるために修業している男性、1人は就職が決まらずぶらぶらしていた子もいた。
私は何を昼食に作ったのかあまり記憶にないがカレーを大きい鍋に作っていたことだけは記憶している。私の家にきて集まってそしてどこかにいったりしていた。
その保母さんをしていた彼女は落合恵子さんが好きで私の家に集まる若い男性には興味がなくて落合恵子さんの家に電話をしてお母さんと話しをする私の話しが聞きたくて来ていた。そして仕事の悩みもあった。
彼女は保母を思い切ってやめて大阪吹田市にある落合恵子さんの絵本の店に就職してスタッフになった。長い地道な下積みを重ねて今は東京で落合恵子さんの秘書をしている。人生とは不思議なものである。
こけそうな借家から今のマンションを購入して引越しをすると誰も来なくなった。あのこけそうな古い2軒長屋の家が寄り付きやすかったのだろうか。
落合恵子さんの秘書になった彼女は1度、訪問してくれたが椅子式になった居間は人が集まりにくくなったのだろうか。それから彼らたちは来なくなった。
あれから約30年、みんな結婚していった。僧侶の修業していた男性は愛知県のお寺に婿養子に入った。工務店の男性も結婚して子どももできて普通の家庭を作っている。仕事がなくてぶらぶらしていた。奈良市内のどこかでアルバイトしていたが今は大阪に住んで大阪の会社に勤めている。子どももいて大人になってそれぞれの家庭を作っている。保母さんに憧れて集ってきた男性たちはそれぞれの伴侶を得て結婚生活をしている。
それが彼女は結婚しないで独身で落合恵子さんの秘書をしている。好きな男性もいたが結婚できない事情もあったのだろう。
私と仲間が創設したペングループの会合にも何回か顔を出してくれた。
ちょっと暗いところのある彼女だったが人柄はよかった。そして言われたことはきちんとする女性だった。
保母の仕事の悩みは保母以外に奈良市内で行なわれるイベントにでることだった。今なら間に合う。若いときに転職をしょうと考えて東京の絵本の会合に行っては転職の準備をしていた。
今は一生懸命に落合恵子さんの秘書役をこなしている。
新聞で奈良にこられて講演会が行なわれた記事をみると彼女も一緒にきていたのかとわかる。
そんな私はこのマンションに引越しをして専業主婦から仕事を持つことになった。雑誌記者になった。5年になると自分の出自に葛藤することになり縁あって在日韓国人の新聞記者になった。落合恵子さんとは少しずつ距離が離れていった。しかし双方口に出さなくても一生懸命に権力に振り回されないで生きてきたことは知っている。黙っているけれどそういう生き方をしたことを双方知っている。
それでもまだ落合恵子さんが奈良にこられるということを事前に分かると講演会場に訪ねて落合恵子さんと一緒に彼女も一緒に会うことができた。
それがだんだん私の仕事も忙しくなって落合恵子さんの人権問題と私の人権問題の内容が違ってきた。
取り組んでいることは双方人権に関することだが内容が違って会う機会が少なくなった。
奈良に来られるスケジュールも後日に知ることになった。
「思い出のアルバム」の歌にいろんなことが走馬灯に思い出した。私が32・33歳の頃だった。まだ若かったな。本当に若かった。
それこそ「あんなこと、こんなことがあった」である。

「いつのことだか思い出してごらん あんなこと こんなことあったでしょう うれしかったこと おもしろかったこと いつになってもわすれない」

アホ息子は私が生んだ息子である。このころはまだ親のいうことを聞いて学習塾に通い始め学校の授業より先に分かっている自分にどんどん自信がついて中学校ではクラスでは4・5番をウロウロしていた。勉強をしなさいと言わなくても机に座って勉強していた。暗記のいる科目は苦手より努力をしなかったので4・5番をウロウロしていた。数学はいつもトップに近かった。しかし数学だけで人生は通用しない。暗記してコツコツと積み上げていくことが人生の基本であることも知らなければならない。
私はこのことも教えたつもりだったがうるさい親から逃げたくて沖縄にいってしまった。
親はどんなに子どもが大きくなっても子どもであり親である。
親だから気にかかることはたくさんある。
それでも自分で頭をうたなければ親の気持ちはわからないだろう。
「思い出アルバム」は私の30代のはじめをひもといた。

私は両親を見送ったが落合恵子さんは母親の介護をこまめに愛情をかけてしておられることを著書で知った。おたがい還暦を過ぎて自分が介護される年齢に近づいている。けれど心はまだどこかで青春が歩いている。だからがんばれるのかな。落合恵子さんの子どもに対する思いはすべて絵本に託されている。どれほど多くの人たちは落合恵子さんが選んだ本に触れていったことだろう。絵本の専門店を開いた先駆者とも言える。そして若い女友達その店のスタッフで勤務していることを私の誇りでもある。自慢でもある。
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