明日は膝治療のために病院行きというのに雨らしい。本当は10月27日だったが現場の仕事が入って予約を変えた。3日は祭日で10日になった。明日は多い予約で12時しかとれなかった。
今朝は朝から金曜日から作りかけの原稿を作成、ようやく仕上げて10時前に送稿した。今日は朝、起きたときから眠たいが仕事の原稿を1本でも仕上げないと気持ちが落ち着かない。朝から一気に仕上げた。
久しぶりにインターネットで新聞を検索した。
5日あたりから忙しくてインターネットの新聞を検索する時間がなかった。
つい2・3日前からベルリンの壁が20年前に崩壊した記事が紹介されている。
もう20年も経っていたのか。
ベルリンの壁が崩壊したのがつい昨日のことのように思ってしまう。
1989年12月にベルリンの壁が崩壊した瞬間をテレビのニュースで知った。
そのテレビを見ていたのが民団京都本部の会館で職員たちと一緒に見ていた。
このニュースに喜びの歓声を上げていた。
ベルリンの壁の崩壊で韓国と北朝鮮の南北分断、38度線軍事境界線がすぐにも崩壊するという錯覚を起していた。
民団京都本部で見たテレビでのニュースに誰もが「今度は南北分断の崩壊だ」と口々に言っていた。統一を願う心の言葉が様々に出された。
それから20年も経った。
しかし北朝鮮の国家は存在していて指導者が依然とした体制をしている。
その間に北朝鮮を脱北した人たちがどれほど韓国で暮らし帰国した在日朝鮮人の多くも日本にひそかに戻ってきている。
私は脱北者の証言をまのあたりにして絶句するほどの言葉にならない衝撃を受けた。それでも南北分断は崩壊しない。
韓国の大統領の10年政策は北朝鮮に核保有を強固にして国民の生活はますます悪化、脱北者が後を絶たない。
ベルリンの壁崩壊で歓喜したもの、あれは何だったのか。
私は父親が何かあると北朝鮮と朝鮮総連組織に対して批判していた。しかしそれでも民団の組織に所属しなかった。
父親の目で新聞やラジオのニュース、どこから仕入れた情報だったのか北朝鮮の当時(1960年代から1970年代)の政策を粗方よく知っていた。
当時の一般は誰もが北朝鮮で核を作っているとは思ってもいなかった。しかし父親は知っていた。父親は朝鮮総連の人の誘い、「ウリマル(母国語)の勉強するから娘さんを教室に出して下さい」という言葉に父親は「お前らはウリマルの勉強と言ってウリマルの勉強なんかしていない。爆弾を作る勉強している。そんなところに娘は出せない」と言って玄関の戸をピシャリと閉めたという。
父親の話しが本当なら1960年代にもうすでに北朝鮮は核づくりを手がけていた。
朝鮮総連の一部の幹部は知っていたはずだ。
父親の情報の仕入れは最後まで娘に教えずに亡くなった。父親の兄弟の子どもたちなどを考えて私には最後まで話さなかったのかもしれない。
それでも日本政府の一部は北朝鮮に支援をしてきた政治家もいた。
このことを明らかにしないで日朝改善政策はおかしいと一般の誰もが思う。
拉致問題が浮上してから北朝鮮政策が表面に浮上してきた。
脱北者を支援するある人に聞いた。
「北朝鮮はなぜ拉致をしたのか」と。そしたら応えは「改革のためならなんでもできる」と北朝鮮のあり方を話してくれたが---素人の私は未だに理解できない。
昨日8日、9時から10時、テレビ番組、NHKは小泉元総理と北朝鮮の指導者との会見内容が克明に放送されていた。
このニュースを見ていると北の指導者は世界のニュースをよく把握している。それならば北朝鮮が世界から孤立している国ということも把握しているだろう。
国民を先決に考えるなら経済構築が重要であるが各国から政敵にされている北朝鮮、核保有で北朝鮮の国家を守っているつもりだろうがそうではない。ますます孤立化している。
日本に住んでいる在日コリアン、一部を除いて韓国籍に切り替えるか日本国籍に切り替えていく。
私が戸籍整理するときと違って現在はかなり簡素になっている。
戸籍が取り寄せない現実や朝鮮総連の元活動者にも戸籍整理も昔と違って少しやりやすくなっている。こんなことで戸籍整理をすると日本国籍に切り替えて行く人も多くなっている。こんな人たちが韓国に渡って事業を展開した人が多かった。その時代が金大中・盧武鉉大統領の時代だった。
韓国で何を行われていたのか。
見たわけでもないのではっきりといえないが------。
そして関西興銀は韓国政府が支援しないといけないのに支援しなかった。日本政府の思惑だけで崩壊したのではないと巷の人の声である。
そしてなぜ近畿産業信用組合が成立したのか。深くは語れない。
読者の想像に任せることにしよう。
そして李煕健氏はじめ在日韓国人の経済人が投資して韓国で作った銀行が新韓銀行である。この銀行も2人の大統領の時に韓国政府の銀行として統括することになった。ここにかかわった関西興銀の元職員は「ぜひとも新韓銀行は在日韓国人も運営できるように残して欲しかった」という声を何度も聞いた。
そして大統領が変わって今年の9月、新韓銀行が前身のSBJ銀行と改称して東京に進出、大阪にも進出してきた。在日韓国人の多くの利用と経済構築基盤の1つとして進出してきた。日本人の利用も見込んでいる。
関西興銀で大活躍した元職員の1人、今度は四天王寺ワッソの復活に尽力されていたが関西興銀時代の手腕を乞われた。まだ若手でもある。
東京に家族ともに転居してSBJ銀行の職員の1人として現在、東京で活躍されている。
私のメールに転勤の挨拶が届いた。
「男は人生の中で何度も決断するときがある。転勤先でも体に気をつけて頑張って下さい」と返信を入れた。あれから夏が過ぎて紅葉の秋、晩秋に近づいていく。今年の四天王寺ワッソは雨で中止になった。しかし大阪歴史博物館で日頃練習した成果の発表会が行なわれた。転勤した彼も会場に駆けつけて裏方をしておられた。
思いは1つ。1世の歴史を語り継ぎ古代史を通して日韓文化交流をして正しい歴史認識の啓発に進めている。この思いは在日コリアン2世の誰もが思うことである。
ベルリンの壁の崩壊から20年、韓国の当時の政権は盧泰愚大統領だった。軍事政権だった韓国の政治が少しづつ民主化になっていた。もちろん民主化運動してきた金大中・盧武鉉大統領の功績も大きいが大統領時代は北朝鮮の実態がよく見えていなかった。北の指導者の言い含めにも応じていた。その支援が核開発をさらにエスカレートさせて脱北者問題の取り組みも遅らせることになった。
歴史には「もし」という言葉はないがもし、10年の政策がなかったら南北分断線もひょっとしたら崩壊していたのではないかと思うのは筆者だけだろうか。
20年前、民団京都本部会館で見たテレビのニュース、ベルリンの壁の崩壊で歓喜した。今にも分断線が決壊すると思っていた歓喜だった。
あれは何だったのだろうか月日の重ねに思ってしまう。
今朝は朝から金曜日から作りかけの原稿を作成、ようやく仕上げて10時前に送稿した。今日は朝、起きたときから眠たいが仕事の原稿を1本でも仕上げないと気持ちが落ち着かない。朝から一気に仕上げた。
久しぶりにインターネットで新聞を検索した。
5日あたりから忙しくてインターネットの新聞を検索する時間がなかった。
つい2・3日前からベルリンの壁が20年前に崩壊した記事が紹介されている。
もう20年も経っていたのか。
ベルリンの壁が崩壊したのがつい昨日のことのように思ってしまう。
1989年12月にベルリンの壁が崩壊した瞬間をテレビのニュースで知った。
そのテレビを見ていたのが民団京都本部の会館で職員たちと一緒に見ていた。
このニュースに喜びの歓声を上げていた。
ベルリンの壁の崩壊で韓国と北朝鮮の南北分断、38度線軍事境界線がすぐにも崩壊するという錯覚を起していた。
民団京都本部で見たテレビでのニュースに誰もが「今度は南北分断の崩壊だ」と口々に言っていた。統一を願う心の言葉が様々に出された。
それから20年も経った。
しかし北朝鮮の国家は存在していて指導者が依然とした体制をしている。
その間に北朝鮮を脱北した人たちがどれほど韓国で暮らし帰国した在日朝鮮人の多くも日本にひそかに戻ってきている。
私は脱北者の証言をまのあたりにして絶句するほどの言葉にならない衝撃を受けた。それでも南北分断は崩壊しない。
韓国の大統領の10年政策は北朝鮮に核保有を強固にして国民の生活はますます悪化、脱北者が後を絶たない。
ベルリンの壁崩壊で歓喜したもの、あれは何だったのか。
私は父親が何かあると北朝鮮と朝鮮総連組織に対して批判していた。しかしそれでも民団の組織に所属しなかった。
父親の目で新聞やラジオのニュース、どこから仕入れた情報だったのか北朝鮮の当時(1960年代から1970年代)の政策を粗方よく知っていた。
当時の一般は誰もが北朝鮮で核を作っているとは思ってもいなかった。しかし父親は知っていた。父親は朝鮮総連の人の誘い、「ウリマル(母国語)の勉強するから娘さんを教室に出して下さい」という言葉に父親は「お前らはウリマルの勉強と言ってウリマルの勉強なんかしていない。爆弾を作る勉強している。そんなところに娘は出せない」と言って玄関の戸をピシャリと閉めたという。
父親の話しが本当なら1960年代にもうすでに北朝鮮は核づくりを手がけていた。
朝鮮総連の一部の幹部は知っていたはずだ。
父親の情報の仕入れは最後まで娘に教えずに亡くなった。父親の兄弟の子どもたちなどを考えて私には最後まで話さなかったのかもしれない。
それでも日本政府の一部は北朝鮮に支援をしてきた政治家もいた。
このことを明らかにしないで日朝改善政策はおかしいと一般の誰もが思う。
拉致問題が浮上してから北朝鮮政策が表面に浮上してきた。
脱北者を支援するある人に聞いた。
「北朝鮮はなぜ拉致をしたのか」と。そしたら応えは「改革のためならなんでもできる」と北朝鮮のあり方を話してくれたが---素人の私は未だに理解できない。
昨日8日、9時から10時、テレビ番組、NHKは小泉元総理と北朝鮮の指導者との会見内容が克明に放送されていた。
このニュースを見ていると北の指導者は世界のニュースをよく把握している。それならば北朝鮮が世界から孤立している国ということも把握しているだろう。
国民を先決に考えるなら経済構築が重要であるが各国から政敵にされている北朝鮮、核保有で北朝鮮の国家を守っているつもりだろうがそうではない。ますます孤立化している。
日本に住んでいる在日コリアン、一部を除いて韓国籍に切り替えるか日本国籍に切り替えていく。
私が戸籍整理するときと違って現在はかなり簡素になっている。
戸籍が取り寄せない現実や朝鮮総連の元活動者にも戸籍整理も昔と違って少しやりやすくなっている。こんなことで戸籍整理をすると日本国籍に切り替えて行く人も多くなっている。こんな人たちが韓国に渡って事業を展開した人が多かった。その時代が金大中・盧武鉉大統領の時代だった。
韓国で何を行われていたのか。
見たわけでもないのではっきりといえないが------。
そして関西興銀は韓国政府が支援しないといけないのに支援しなかった。日本政府の思惑だけで崩壊したのではないと巷の人の声である。
そしてなぜ近畿産業信用組合が成立したのか。深くは語れない。
読者の想像に任せることにしよう。
そして李煕健氏はじめ在日韓国人の経済人が投資して韓国で作った銀行が新韓銀行である。この銀行も2人の大統領の時に韓国政府の銀行として統括することになった。ここにかかわった関西興銀の元職員は「ぜひとも新韓銀行は在日韓国人も運営できるように残して欲しかった」という声を何度も聞いた。
そして大統領が変わって今年の9月、新韓銀行が前身のSBJ銀行と改称して東京に進出、大阪にも進出してきた。在日韓国人の多くの利用と経済構築基盤の1つとして進出してきた。日本人の利用も見込んでいる。
関西興銀で大活躍した元職員の1人、今度は四天王寺ワッソの復活に尽力されていたが関西興銀時代の手腕を乞われた。まだ若手でもある。
東京に家族ともに転居してSBJ銀行の職員の1人として現在、東京で活躍されている。
私のメールに転勤の挨拶が届いた。
「男は人生の中で何度も決断するときがある。転勤先でも体に気をつけて頑張って下さい」と返信を入れた。あれから夏が過ぎて紅葉の秋、晩秋に近づいていく。今年の四天王寺ワッソは雨で中止になった。しかし大阪歴史博物館で日頃練習した成果の発表会が行なわれた。転勤した彼も会場に駆けつけて裏方をしておられた。
思いは1つ。1世の歴史を語り継ぎ古代史を通して日韓文化交流をして正しい歴史認識の啓発に進めている。この思いは在日コリアン2世の誰もが思うことである。
ベルリンの壁の崩壊から20年、韓国の当時の政権は盧泰愚大統領だった。軍事政権だった韓国の政治が少しづつ民主化になっていた。もちろん民主化運動してきた金大中・盧武鉉大統領の功績も大きいが大統領時代は北朝鮮の実態がよく見えていなかった。北の指導者の言い含めにも応じていた。その支援が核開発をさらにエスカレートさせて脱北者問題の取り組みも遅らせることになった。
歴史には「もし」という言葉はないがもし、10年の政策がなかったら南北分断線もひょっとしたら崩壊していたのではないかと思うのは筆者だけだろうか。
20年前、民団京都本部会館で見たテレビのニュース、ベルリンの壁の崩壊で歓喜した。今にも分断線が決壊すると思っていた歓喜だった。
あれは何だったのだろうか月日の重ねに思ってしまう。
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