原稿を作成してネットのホームページに上げました。
いつも講演などの案内に行きたいと思いながら日々、取材と他の所用に終われて覗くことができない。仕事が入ると京都にでて京都駅から市バスにのって高麗美術館にでかけるのですが。
高麗美術館に行くたびに美術館を私財を投じて建てられた故鄭詔文さんのことを思い出します。1世でした。
日本植民地時代、京都に渡日して差別事象の多い中で西陣織物を通して京都の地場産業の裏方を支えてこられた。
そして朝鮮総連の活動をしながら多くの文人を育ててこられた。
差別の中で育った故鄭詔文さんは朝鮮半島の文物のよさがまだわからなかった。
そして戦後、東山区の骨董店に置かれていた「白磁」に見せられてそれから朝鮮半島の焼物・工芸などの収集を始めた。
日本に散在する朝鮮半島の工芸や焼物、ほとんど日本人の手によって日本に渡ってきた。日本植民地時代の富裕層の日本人、公務員や医師たちが朝鮮半島の文物を持ち帰った。しかし持ち帰った本人が亡くなるとその子息は朝鮮半島の文物に関心がなくて町の骨董屋に持っていった。
人の手から手と渡った文物、故鄭詔文さんはまた子息が散在してしまうかもしれない危惧に高麗美術館を建てられた。
昨年、20周年記念シンポが京都市内で開かれ私は取材で現場に入った。
美術館オープンの時も取材している。
在日韓国人の新聞社に入ってまだまもないころで在日コリアンのことは何もまだ把握できていなかった。
デスクに何を取材すればいいのか。
項目を幾つも書いてもらって項目ごとにインタビューをしたことがついこの間のように思う。感慨深いものが高麗美術館を訪れるたびに思う。
子息は故鄭詔文さんの意志をしっかり引継いで運営に参加されている。
オープンの時に故鄭詔文さんが言った「息子がまたどこかに売ってしまいそうでそうさせないために美術館を建てました」という建立の趣旨の1つに話された。
しかし子息はしっかり引継いで子どもたちの見学は未来に託す意味で楽しんで見学者の説明をしていると昨年10月にお会いした時に話された。
そんなことを思いながら今朝、高麗美術館の研究講座の原稿を作成していました。
いつも講演などの案内に行きたいと思いながら日々、取材と他の所用に終われて覗くことができない。仕事が入ると京都にでて京都駅から市バスにのって高麗美術館にでかけるのですが。
高麗美術館に行くたびに美術館を私財を投じて建てられた故鄭詔文さんのことを思い出します。1世でした。
日本植民地時代、京都に渡日して差別事象の多い中で西陣織物を通して京都の地場産業の裏方を支えてこられた。
そして朝鮮総連の活動をしながら多くの文人を育ててこられた。
差別の中で育った故鄭詔文さんは朝鮮半島の文物のよさがまだわからなかった。
そして戦後、東山区の骨董店に置かれていた「白磁」に見せられてそれから朝鮮半島の焼物・工芸などの収集を始めた。
日本に散在する朝鮮半島の工芸や焼物、ほとんど日本人の手によって日本に渡ってきた。日本植民地時代の富裕層の日本人、公務員や医師たちが朝鮮半島の文物を持ち帰った。しかし持ち帰った本人が亡くなるとその子息は朝鮮半島の文物に関心がなくて町の骨董屋に持っていった。
人の手から手と渡った文物、故鄭詔文さんはまた子息が散在してしまうかもしれない危惧に高麗美術館を建てられた。
昨年、20周年記念シンポが京都市内で開かれ私は取材で現場に入った。
美術館オープンの時も取材している。
在日韓国人の新聞社に入ってまだまもないころで在日コリアンのことは何もまだ把握できていなかった。
デスクに何を取材すればいいのか。
項目を幾つも書いてもらって項目ごとにインタビューをしたことがついこの間のように思う。感慨深いものが高麗美術館を訪れるたびに思う。
子息は故鄭詔文さんの意志をしっかり引継いで運営に参加されている。
オープンの時に故鄭詔文さんが言った「息子がまたどこかに売ってしまいそうでそうさせないために美術館を建てました」という建立の趣旨の1つに話された。
しかし子息はしっかり引継いで子どもたちの見学は未来に託す意味で楽しんで見学者の説明をしていると昨年10月にお会いした時に話された。
そんなことを思いながら今朝、高麗美術館の研究講座の原稿を作成していました。
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