やりたいことなのに、まったくできていない。それどころか、どうやったら手を付けることができるのか?さっぱりわかっていないっていうことがいくつかある。始めるまでにいたっていない。にも関わらず、長らく「やらなくちゃ」と思っていることを、いったいいくつ抱えているのか?
う~む(´ε`;)
始められないのには、明確な理由があるわけだが、これがいつまでたっても解決しない以上、ひょっとしたら永遠にやらせてもらえないのではないか?
ずいぶん長いこと、そんな焦燥に苛まれてきたように思える。
だが、あらためてふり返ってみると、僕の人生だってそれなりに時間を費やしてきたのだから、実は十分にやれていたこと、とっくに出来上がっていたことというのも、結構あったりする(*‘ω‘ *)!
その次、その次、その次。。。という風に、常に「その次」が現れるので、ゴールはいつだって「とりあえず」のものになってしまうか、どんどん遠ざかっているようだったり(^o^;)
このことを、自分ではなかなか認識できていないらしい(^ω^ゞ
先だって、ヨルグ・シュマイサー作品を眺めていた時。銅版画で綴られた「日記」に、かなりの深さで打ちのめされた。そうとわかっていても、驚いてしまう。日々の「日記」が、作品として美しく積み上がっているのだ。こんな作品を突きつけられると、驚きつつも、心の底からうらやましいと思ってしまう(^o^;)
たいへんにクオリティの高い画面に見入ってしまうのだが、一方で、見る景色、見ている世界の違いも鮮明になる。
ため息が出るほど精緻な観察から紡ぎ出された作品に圧倒されつつも、その「見方」とは違う自分の「見方」というのも、確かにあるということを自覚する。
それにしても、「銅版画」と「日記」というのは、イメージの上ではすぐには結びつかない。「版」を仕上げるのにかかる時間がどれほどのものかはわからないのだけれど、「日記」が画面上に編集されるだけでも相応の時間を要するだろうし、そこからプリントにいたるまでの工程や、そもそも「日記」をプリントする意義などを考えると、なかなかにシュールというか、その営為がすでにコンテンポラリー・アートのようで。いわゆる「日記」、いわゆる「版画」の枠から大きくはみ出しているように思える。
とは言え、「今日」のことが「今、すぐ」プリントされるというわけではない。
だとすると、作家の言うところの「日記」というのは、僕のイメージする「日記」とはだいぶ異なる。
世界中を旅して作品を作り上げていった「版画家」というのも、なかなかイメージしづらい。目の前に「旅」の「日記」として見ることができる作品が存在しているわけなので、「旅」が創作の重要な要素であることは間違いはずだが、版画制作と旅する生活というのが、イメージの中でなかなか結びついてくれない。
実際には、オースラリアの拠点で制作していたそうなので、現地で彫り上げ、プリントしていたというわけではなさそうなのだが、作品を見ていると、旅先で仕上げたのではないという方が逆に不思議に思えたりする。
が、作品が作品として結晶化するのに、絶対的に必要な時間というのはあるもの。
氏の作品を眺めてみて、そのことをあらためて確かめることにもなった。
う~む(´ε`;)
始められないのには、明確な理由があるわけだが、これがいつまでたっても解決しない以上、ひょっとしたら永遠にやらせてもらえないのではないか?
ずいぶん長いこと、そんな焦燥に苛まれてきたように思える。
だが、あらためてふり返ってみると、僕の人生だってそれなりに時間を費やしてきたのだから、実は十分にやれていたこと、とっくに出来上がっていたことというのも、結構あったりする(*‘ω‘ *)!
その次、その次、その次。。。という風に、常に「その次」が現れるので、ゴールはいつだって「とりあえず」のものになってしまうか、どんどん遠ざかっているようだったり(^o^;)
このことを、自分ではなかなか認識できていないらしい(^ω^ゞ
先だって、ヨルグ・シュマイサー作品を眺めていた時。銅版画で綴られた「日記」に、かなりの深さで打ちのめされた。そうとわかっていても、驚いてしまう。日々の「日記」が、作品として美しく積み上がっているのだ。こんな作品を突きつけられると、驚きつつも、心の底からうらやましいと思ってしまう(^o^;)
たいへんにクオリティの高い画面に見入ってしまうのだが、一方で、見る景色、見ている世界の違いも鮮明になる。
ため息が出るほど精緻な観察から紡ぎ出された作品に圧倒されつつも、その「見方」とは違う自分の「見方」というのも、確かにあるということを自覚する。
それにしても、「銅版画」と「日記」というのは、イメージの上ではすぐには結びつかない。「版」を仕上げるのにかかる時間がどれほどのものかはわからないのだけれど、「日記」が画面上に編集されるだけでも相応の時間を要するだろうし、そこからプリントにいたるまでの工程や、そもそも「日記」をプリントする意義などを考えると、なかなかにシュールというか、その営為がすでにコンテンポラリー・アートのようで。いわゆる「日記」、いわゆる「版画」の枠から大きくはみ出しているように思える。
とは言え、「今日」のことが「今、すぐ」プリントされるというわけではない。
だとすると、作家の言うところの「日記」というのは、僕のイメージする「日記」とはだいぶ異なる。
世界中を旅して作品を作り上げていった「版画家」というのも、なかなかイメージしづらい。目の前に「旅」の「日記」として見ることができる作品が存在しているわけなので、「旅」が創作の重要な要素であることは間違いはずだが、版画制作と旅する生活というのが、イメージの中でなかなか結びついてくれない。
実際には、オースラリアの拠点で制作していたそうなので、現地で彫り上げ、プリントしていたというわけではなさそうなのだが、作品を見ていると、旅先で仕上げたのではないという方が逆に不思議に思えたりする。
が、作品が作品として結晶化するのに、絶対的に必要な時間というのはあるもの。
氏の作品を眺めてみて、そのことをあらためて確かめることにもなった。