先月末が初日だった「須田悦弘展」。
幸運なことに、僕らは2人して初日に松濤美術館を訪ねることができた(*‘ω‘ *)♪
「久しぶりに電車に乗ったね♪」と、さっちゃんは話すのだが、だいたい、電車に乗って喜んでいるというあたりで、今年の僕らがいかに余裕がなかったのかを痛切に感じる(^o^;)
それと(*^ω^)b
思い返せば、前回電車に乗った時というのが、やっぱり松濤美術館を訪ねた時で。
その時は「杉本博司展」だった。
電車に乗る、そのきっかけはギャラリー小柳案件だった、と言うこともできますな(*‘ω‘ *)
「須田作品」を初めて見た時の衝撃というのは、いつだって新鮮さをもって思い出される。
そのせいか?世に出てからだいぶ年月が経っていて、いつの間にやら作家のキャリアもやたらとすごいことになっているのだけど、作品は全然古びていないどころか、より新鮮になっているというか(^o^;)
どうかと言うと、僕らは初めて「須田作品」に出会った頃の自分たちのことも、同時に思い出してしまう。もはや「須田作品」を観るということは、僕らの「あの頃」を思い出すことと同義と言えてしまうほど。
「須田作品」は、その在り様からして不思議な位相に存在しているというべきかもしれない。個人的な感覚かもしれないけど、過去の記憶が並列的に思い出されるという不思議な感覚も味わった。
群馬の美術館での展示とか、ヴァンジ美術館での展示とか。印象的だった過去の展示を同時に思い出したりして、その時の光景が今目の前にある作品に重なるような。
並列的という言い方は、今思いついただけなので、これが適切かどうかはわからないのだけど、例えば一輪の「花」の彫刻の普遍性と呼ぶべき何物かが、ある種の普遍性のエリアというか、普遍性の次元のような「場」にこちらの感覚を連れて行ってくれるような。。。
すると、あたりまえのように、そのエリアというか、その次元、その「場」には、過去に見た作品たちが待ってくれていたりする。そんな感覚。
これ、うまく言えてる気がしないのだけど、「須田作品」には、静かに強い。。。いや、とことん強烈な作家性を認めつつも、それなのにどこか作者不詳な、アノニムな領域に親しい性質があって。
「作者不詳」の「傑作群」の中に「須田作品」が並んでいたとしても、そこに違和感がまったくないというか。
そのアノニムな性質は、「杉本博司」氏に依頼された仕事において、自然過ぎるほど自然に馴染んでいるように見える。
ちゃんと指摘されないと、うっかり見逃してしまいそうな、繊細な仕事が実現していたりする。
杉本博司氏との仕事の上での結びつきなどは、どういう経緯でそうなったのか?事情に詳しくないわたくしにはたいへん気になるところですけど、結びつくこと自体は自然過ぎるほど自然なので、そこに不思議がないことが不思議だったり(*‘ω‘ *)
それを人は必然とか、呼んだりするんだろうな。
会場のすみっコにそっと息づいているような作品は、当然、自ら屈んで覗きこむようにして観るのだけど、足元に注意を払いながらも、今自分は屈んでいるのではなくて、仰ぎ見ているんじゃないか?っていう感覚にもなった。
松濤美術館での展示には、詳細な展示マップが用意されているので、作品を見逃すことはない。
このマップはたいへんに「ありがたい」と思うのだけど、一方で「ない方が良いのでは?」と思ったりもする。
その作品の所在。。。というか、「存在」を「発見」することこそは、「須田作品」を鑑賞する際の醍醐味とも言うべきだが。
まぁ、見方というのはいろいろあってよいけどね(*´ω`*)♪
図版の完成は会期中になるらしいので、予約をしておいた。
ちょっとサービス的な企画で、いろんなグッズがセットの「コンプリート・バージョン」があって、僕らとしては迷いなくそちらをチョイス。
かなりレアなアイテムもお譲りいただいたようで、なかなか得難いチャンスにも恵まれたらしい(*‘ω‘ *)
初日に来れたという満足感はかなり大きい。そしてそれ以上に、さっちゃんがうれしそうなのがたいへんによろしい(*^ω^)
この日はたっぷり、のんびり、美術館で過ごしたのだけど、帰りはやたらと気忙しく(^o^;)
各停でのんびり電車に乗ったのがいけなかったのか(・。・)?
途中で「あれ?これ、時間ギリギリなんじゃ?!」ということに気づきまして(^o^;)
大慌てで乗り換え。そこからあらん限りの努力でもって帰って、それでギリギリセーフな感じだったわけだけど、とにかくいろいろがギリギリ間に合っていたので、結果的には大変に良かった1日と言えるかな(^o^;)
さっちゃんが「まだ始まったばかりなんだし。あと1回は見に行けるよね♪」と言う。
それ、提案ではなくて、すでに決定事項ですな(^o^;)
よござんす( ・ิω・ิ)
お供いたしましょう(≧∇≦)b
会期は2025年2月2日(日)まで。
チャンスは積極的に作りませう(*^ω^)b
幸運なことに、僕らは2人して初日に松濤美術館を訪ねることができた(*‘ω‘ *)♪
「久しぶりに電車に乗ったね♪」と、さっちゃんは話すのだが、だいたい、電車に乗って喜んでいるというあたりで、今年の僕らがいかに余裕がなかったのかを痛切に感じる(^o^;)
それと(*^ω^)b
思い返せば、前回電車に乗った時というのが、やっぱり松濤美術館を訪ねた時で。
その時は「杉本博司展」だった。
電車に乗る、そのきっかけはギャラリー小柳案件だった、と言うこともできますな(*‘ω‘ *)
「須田作品」を初めて見た時の衝撃というのは、いつだって新鮮さをもって思い出される。
そのせいか?世に出てからだいぶ年月が経っていて、いつの間にやら作家のキャリアもやたらとすごいことになっているのだけど、作品は全然古びていないどころか、より新鮮になっているというか(^o^;)
どうかと言うと、僕らは初めて「須田作品」に出会った頃の自分たちのことも、同時に思い出してしまう。もはや「須田作品」を観るということは、僕らの「あの頃」を思い出すことと同義と言えてしまうほど。
「須田作品」は、その在り様からして不思議な位相に存在しているというべきかもしれない。個人的な感覚かもしれないけど、過去の記憶が並列的に思い出されるという不思議な感覚も味わった。
群馬の美術館での展示とか、ヴァンジ美術館での展示とか。印象的だった過去の展示を同時に思い出したりして、その時の光景が今目の前にある作品に重なるような。
並列的という言い方は、今思いついただけなので、これが適切かどうかはわからないのだけど、例えば一輪の「花」の彫刻の普遍性と呼ぶべき何物かが、ある種の普遍性のエリアというか、普遍性の次元のような「場」にこちらの感覚を連れて行ってくれるような。。。
すると、あたりまえのように、そのエリアというか、その次元、その「場」には、過去に見た作品たちが待ってくれていたりする。そんな感覚。
これ、うまく言えてる気がしないのだけど、「須田作品」には、静かに強い。。。いや、とことん強烈な作家性を認めつつも、それなのにどこか作者不詳な、アノニムな領域に親しい性質があって。
「作者不詳」の「傑作群」の中に「須田作品」が並んでいたとしても、そこに違和感がまったくないというか。
そのアノニムな性質は、「杉本博司」氏に依頼された仕事において、自然過ぎるほど自然に馴染んでいるように見える。
ちゃんと指摘されないと、うっかり見逃してしまいそうな、繊細な仕事が実現していたりする。
杉本博司氏との仕事の上での結びつきなどは、どういう経緯でそうなったのか?事情に詳しくないわたくしにはたいへん気になるところですけど、結びつくこと自体は自然過ぎるほど自然なので、そこに不思議がないことが不思議だったり(*‘ω‘ *)
それを人は必然とか、呼んだりするんだろうな。
会場のすみっコにそっと息づいているような作品は、当然、自ら屈んで覗きこむようにして観るのだけど、足元に注意を払いながらも、今自分は屈んでいるのではなくて、仰ぎ見ているんじゃないか?っていう感覚にもなった。
松濤美術館での展示には、詳細な展示マップが用意されているので、作品を見逃すことはない。
このマップはたいへんに「ありがたい」と思うのだけど、一方で「ない方が良いのでは?」と思ったりもする。
その作品の所在。。。というか、「存在」を「発見」することこそは、「須田作品」を鑑賞する際の醍醐味とも言うべきだが。
まぁ、見方というのはいろいろあってよいけどね(*´ω`*)♪
図版の完成は会期中になるらしいので、予約をしておいた。
ちょっとサービス的な企画で、いろんなグッズがセットの「コンプリート・バージョン」があって、僕らとしては迷いなくそちらをチョイス。
かなりレアなアイテムもお譲りいただいたようで、なかなか得難いチャンスにも恵まれたらしい(*‘ω‘ *)
初日に来れたという満足感はかなり大きい。そしてそれ以上に、さっちゃんがうれしそうなのがたいへんによろしい(*^ω^)
この日はたっぷり、のんびり、美術館で過ごしたのだけど、帰りはやたらと気忙しく(^o^;)
各停でのんびり電車に乗ったのがいけなかったのか(・。・)?
途中で「あれ?これ、時間ギリギリなんじゃ?!」ということに気づきまして(^o^;)
大慌てで乗り換え。そこからあらん限りの努力でもって帰って、それでギリギリセーフな感じだったわけだけど、とにかくいろいろがギリギリ間に合っていたので、結果的には大変に良かった1日と言えるかな(^o^;)
さっちゃんが「まだ始まったばかりなんだし。あと1回は見に行けるよね♪」と言う。
それ、提案ではなくて、すでに決定事項ですな(^o^;)
よござんす( ・ิω・ิ)
お供いたしましょう(≧∇≦)b
会期は2025年2月2日(日)まで。
チャンスは積極的に作りませう(*^ω^)b