複数のきっかけが折り重なって、これはもはや見ないで済ますことなどできないね、と。
このごろ、ちょっとお忙しいさっちゃんにも、気分転換は必要だしね♪
というわけで、金沢文庫に於いて開催されている「春日神霊の旅」へ、冷たい雨の降る日に出かけた。
先月、ひかるくんと一緒に鹿島神宮にお参りしたのも大事なひとつの「きっかけ」ではあるのだが、
田中英道先生の講義などで教えていただいていたことや、
いつだったか、東博で見た「春日大社」展の記憶がそのまま金沢文庫へと繋がったということもある。
他にも「きっかけ」の「きっかけ」が連鎖している。
これが一番直接的なのかも?という理由は、フライヤの写真の神鹿。
「かわいいね♪」と、さっちゃんが素直な反応をしてくれたので、「それじゃ、行ってみよ」と。
素直な行動にすぐに移れたわけだ。
少々複雑な経路をたどり、だいぶ長いこと時間をかけて、ようやく杉本博司という人物に出会えたような感覚でいるのだが、
実は、ずいぶん前から知ってはいたのに、こちらが若すぎて、そうと認識できていなかった。。。ということを、強烈に意識することになって。
ずっと見えていたのに?僕が、ちゃんと分かってなかっただけ?
ふ、不覚。。。なのであります。
ここで自分の不明を云々しようとすると、山ほど「不覚」が積み重なってしまっているので、ため息しか出ないのですが、
時ここに至って、やっと何がしかがわかりかけてきた、というところで、もはやそうした詳細は省くことにしました。
僕がこの8年ほどをかけて考えてきたことが、ここでは鮮やかすぎる手並みで開陳されているだなんて。
正直思いもよらなかった。
いろんな意味で、いろんな線が収束して後、一気に拡散するような。。。
そう、作品「アイザック・ニュートン式スペクトル観測装置」のような機能がこの展示にはありまして。
いささかめまいにも似た感覚を得つつも、僕の中でこんがらがっていたなにかが急にほどけたような。不思議な感覚。
結節点としてのプリズムという意味は、ただの譬えではないのですよ。
僕らが青春を過ごした小田原。
そこに数年前、「江之浦測候所」という建築物、美術館というか、施設というか、遺跡が出現したという話があって。
そこが小田原であるというところからして、まずもって僕らには大事件なのであります。
他にもある。
金沢文庫での展示に山北町の常実坊から春日舎利厨子が出展されていたのだけど、
それはなんとあの洒水の滝への道の途中にあるお堂のことでして。
僕が育った町の、僕の遊び場であった洒水の滝の、ホントにすぐそこに、これが納められていたという事実を、今の今まで、僕はずっと知らずにいた。。。と。
知らずに周囲を駆け回り、知らずにお参りし、知らずに滝の水を分けてもらっていた。。。なんということだ?!
入口に展示されていた那智の滝の写真の軸物だって、僕らの大事な旅を思い出させるし。
極めつけは、須田悦弘作品があまりに自然に展示と一体となっていたこと。
もう、何年前のことになるか。
須田作品を追いかけて、さっちゃんと一緒に旅をしたことなどさえ、懐かしく思い出されてくる。。。
こうした個人的な記憶までもが一点に収束して、解き放たれる。
「来てよかった」と何度も言うさっちゃんと、僕は何度も頷きあった。
ふと、実は杉本博司氏ご自身が「スペクトル観測装置」そのものなのではないか?という気がしてきた。
「写真家」が「光学装置」の一部として機能することはいかにも自然だ。
そして、神仏習合のある種の象徴としての「春日の神鹿」というイメージにダブって見えてきた気がした。
「神」と「仏」を収斂、収束させる「光学装置」としての「神鹿」。
そういえば、その背中には「太陽」にも似た姿の「仏」を乗せているではないか?!
ということは?
杉本博司氏は、その在り様そのものが春日の神鹿とほぼほぼ同じ。。。とか?
個人的に、この思いつきはなかなかに楽しいのだが、受けた衝撃が楽しいだけに納まらなかったことは真実である。