2013に公開されたらしい映画「天心」。
岡倉天心を中心に据えて日本美術院のことを描く映画
となれば、どうしたって興味をそそる話になる、はず。。。なのだが。
自分がまったく気付いていなかったという迂闊さにおののきつつ、
それでも取り急ぎ、観てしまった。。。
岡倉天心なり、横山大観、菱田春草のことをある程度、ほんの少しでも知っている
という背景なしでこの映画を観ることはむずかしいのではないか?とも思うし、
映画の中で必然性を描けなければ、映画として成立しないのと同義だとは思う。
思うのだけど、映画の不毛について書くのはここでの目的ではないのです。
岡倉天心に象徴される諸々のエピソードが、いままで映画になっていなかったのはなぜなのか?
このことの不思議が頭の中でぐるぐるしてしまっているので。
岡倉天心は、あるフィールドでは不可侵の存在と化していて、
迂闊に論じることもできない。アンタッチャブルな扱い。
一方で、一般には努めて無視されているかのようで。
まるで忘却を望んでいる多数派がいるかのような。。。
そんな感じがずっとしていて。
つまるところ、どんな立場からでも「触れることができない存在」に
奉られ、或いは忌避されているのではないか?そう思えるところがあった。
だから「映画になっていた」という事実に遅ればせながら興奮を禁じ得なかったのです。
一本の映画に予定通りにがっかりしてしまったとしても。
描き切ることなんて最初から難しいわけだけど、
そこまでに達していない映画ならば、奉られることも、逆に貶められることも、
これが一切ないわけで。
なんらの事件にさえ成り得なかった「映画」はただただ残念なはずなのですが、
なにがこの映画の実現を困難にしているのか?については、
考えるべきことがたくさんあるような気がしているのです。