俺が経験した、おもしろい話しー4
RS125Rでボロボロ、RCB400でリハビリ
RCB400を担当する前は市販レーサーRS125,250のLPLをしてました。市販レーサーでW-GPのチャンプ
を取りたくって精魂込めて作りました。当時HRCではNSR500、250がメインで 市販レーサーはRSC
時代のお荷物を義務で作っているって感じでしたね。ENGはMXのケースそのままで中身は無いで
すがキック部が付いてました。フレームは鉄パイプでした。カワサキから移籍してきた私の格好の業務でしょ
うね。ENG以外の部品を担当し、総合レイアウト、単品機能、作り方、メーカー、Mss対応等すべて出来る
人材は無かったからでしょう。HRCにとっては私は便利な人間だったでしょうね。ワークス業務の工数
(人間)を割かずに移籍してきた便利屋が、お荷物業務をこなしてくれるんですから。逆に私の
’安価な市販レーサーでW-GPチャンプをとる’という意地がとんでもない仕事をすることができました。
W-GPで数回チャンプを獲得し、販売価格76~万円を8800台以上販売しHRCの経営、HRC
販売店の経営向上に多大に寄与しました。 TSRの若社長は年400台販売しその収益でスズカの
ワークショップを経営し、好きなレースマシンを製作できると感謝されました。
しかし、開発が終わり、ボロボロになってしまいました。
技術的な討論、葛藤では体力的な疲れはありません、でも、自分のチームの若い奴らがなにを考え、
オレについてくるのか、解らなくなっていたのです、HRCの最高峰のワークスでは無い、たかが市販車
の担当者になってしまったと考えていたのですかね、担当者同士の言い合いにも、私はそに仲裁
にも入っていけませんでした、結果的に私の不得手な若手育成が破綻したのです、ショックでした。
そして 上市したその年、頭も体も疲れはててました。暫く業務に戻れず、カウンセラーの先生にも、
まともに会話ができなかったです。今で言ったら過労、心労で ”うつ” でしょうかね。KAWA時代
でも十二指腸潰瘍になりました 数年先ですかね、RS250WR(ペドロサがチャンフ取った)時もオーバー
ワークで心筋梗塞で入院しました。カワサキでチャンプマシン KR250/350を作った自負もあり、またHRC
でも、チャンプマシンを作りたい。結構、きついですよ。この仕事で我を通すのは、命が2つ3つ要り
そうです、命の手前の うつ にもなるでしょう。 実はKAWAからHRCに移籍するに、阿部ちゃん
に引き取ってくれと頼み込みました、阿部ちゃんは東京R&D(KEからの知人)はどうか、紹介する
ぞと言われましたが、HRCでないとチャンピオンは取れない、頼むと返事しました。チャンピオンしか
頭に無かったですね。中途採用試験は正式に受けましたよ、32才で、2人の息子いました、笑い!
上司から 国内F-3クラスでCBR400ベースのレーサーを開発する、RS125Rは若いやつにやらして、
リハビリ のつもりでRCB400のフレームの図面を画いては、レギュレーションではENGケースはSTD,フレームは
何やっても良いから、
悶々としている時に頭を切り替えて、このRCB400をやれって、生き返れそうでした、そして
好き勝手にRCB400をやらせてもらって生き返り、リセットもできました。 でもまだまだ不幸は続き
ました。私の代替えでRS125を担当し、私が推薦した○○君は数カ月後、亡くなってしまいました、
RS125Rの業務に疲れたと言った週末調子を落とし髄膜炎であっという間に亡くなってしまったん
です、日曜出勤(RCB400のレイアウト作業)していた私に凶報が届きました。冗談言うなよと、○○君
のアパートに 若い奥さんと、変わらない○○君の顔(もう死んでいました)を見れませんでした。
オレが推薦しなければ、死ななかったのに、ごめんな○○君、としか言えませんでした。
HONDAはW-GP ××勝と粋がってるけど○○君が担当してくれたRS125R/販売価格78万で
チャンプをGETしていることを忘れずに、記録しているのかな。
RS125Rでボロボロ、RCB400でリハビリ
RCB400を担当する前は市販レーサーRS125,250のLPLをしてました。市販レーサーでW-GPのチャンプ
を取りたくって精魂込めて作りました。当時HRCではNSR500、250がメインで 市販レーサーはRSC
時代のお荷物を義務で作っているって感じでしたね。ENGはMXのケースそのままで中身は無いで
すがキック部が付いてました。フレームは鉄パイプでした。カワサキから移籍してきた私の格好の業務でしょ
うね。ENG以外の部品を担当し、総合レイアウト、単品機能、作り方、メーカー、Mss対応等すべて出来る
人材は無かったからでしょう。HRCにとっては私は便利な人間だったでしょうね。ワークス業務の工数
(人間)を割かずに移籍してきた便利屋が、お荷物業務をこなしてくれるんですから。逆に私の
’安価な市販レーサーでW-GPチャンプをとる’という意地がとんでもない仕事をすることができました。
W-GPで数回チャンプを獲得し、販売価格76~万円を8800台以上販売しHRCの経営、HRC
販売店の経営向上に多大に寄与しました。 TSRの若社長は年400台販売しその収益でスズカの
ワークショップを経営し、好きなレースマシンを製作できると感謝されました。
しかし、開発が終わり、ボロボロになってしまいました。
技術的な討論、葛藤では体力的な疲れはありません、でも、自分のチームの若い奴らがなにを考え、
オレについてくるのか、解らなくなっていたのです、HRCの最高峰のワークスでは無い、たかが市販車
の担当者になってしまったと考えていたのですかね、担当者同士の言い合いにも、私はそに仲裁
にも入っていけませんでした、結果的に私の不得手な若手育成が破綻したのです、ショックでした。
そして 上市したその年、頭も体も疲れはててました。暫く業務に戻れず、カウンセラーの先生にも、
まともに会話ができなかったです。今で言ったら過労、心労で ”うつ” でしょうかね。KAWA時代
でも十二指腸潰瘍になりました 数年先ですかね、RS250WR(ペドロサがチャンフ取った)時もオーバー
ワークで心筋梗塞で入院しました。カワサキでチャンプマシン KR250/350を作った自負もあり、またHRC
でも、チャンプマシンを作りたい。結構、きついですよ。この仕事で我を通すのは、命が2つ3つ要り
そうです、命の手前の うつ にもなるでしょう。 実はKAWAからHRCに移籍するに、阿部ちゃん
に引き取ってくれと頼み込みました、阿部ちゃんは東京R&D(KEからの知人)はどうか、紹介する
ぞと言われましたが、HRCでないとチャンピオンは取れない、頼むと返事しました。チャンピオンしか
頭に無かったですね。中途採用試験は正式に受けましたよ、32才で、2人の息子いました、笑い!
上司から 国内F-3クラスでCBR400ベースのレーサーを開発する、RS125Rは若いやつにやらして、
リハビリ のつもりでRCB400のフレームの図面を画いては、レギュレーションではENGケースはSTD,フレームは
何やっても良いから、
悶々としている時に頭を切り替えて、このRCB400をやれって、生き返れそうでした、そして
好き勝手にRCB400をやらせてもらって生き返り、リセットもできました。 でもまだまだ不幸は続き
ました。私の代替えでRS125を担当し、私が推薦した○○君は数カ月後、亡くなってしまいました、
RS125Rの業務に疲れたと言った週末調子を落とし髄膜炎であっという間に亡くなってしまったん
です、日曜出勤(RCB400のレイアウト作業)していた私に凶報が届きました。冗談言うなよと、○○君
のアパートに 若い奥さんと、変わらない○○君の顔(もう死んでいました)を見れませんでした。
オレが推薦しなければ、死ななかったのに、ごめんな○○君、としか言えませんでした。
HONDAはW-GP ××勝と粋がってるけど○○君が担当してくれたRS125R/販売価格78万で
チャンプをGETしていることを忘れずに、記録しているのかな。
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