私を育ててくれたくれた人(スズキ時代)-6
メカニックGrでしっかりと伊藤利一さんに、鍛えてもらいました。
私がスズキ自動車に入社して 研修→生産技術部(本社→富山工場)へ配属になりました。でも
どうしてもレースがしたくて、上司(課長)にレースGrでレースをしたいと直接談判しました。そして
人事課を飛び越えて課長→課長間でニレ(2輪レースGr)にトレードしてもらえました。
転属になった時のニレの新入社員の定期配属(MXGrにENG,FRAに各1名)は終了しておりま
したので、とりあえずロードレースのフレーム設計担当になりました。が、骨のありそうな奴が来る
それならば図面を書く前に、手を動かす事から仕込んでやるわで、メカニックGr(利一さんが親分)
で丁稚奉公することになりました。ここで、利一さんから教えていただいた事が、私のこの世界
で生きていける糧となりました。(実は、阿部孝夫も同期で利一門下生です、この話後ほど)
1970年JAFGPのFLクラスで、スズキFL500(水冷500㏄3気筒、5速)が予選周回数不足で本戦
出場できなかったのですが、富士スピードウエイの6Kmコースを2分10秒台で走れるミニモン
スターだったようです(TZ350より速いかな)。この同じENGを搭載したGr7(2座席オープンタイプ)
が開発されてました。そのクレイモデルを目の前にして、よーし、このレーサーをお前と作るぞ
第一にクレイモデルからFRP製のフロント、リヤのボディーカウル、左右のドアーを製作する事
からスタートです。私は高専の自動車部でFRP成型作業の経験(方法だけ)があり、又会社に
に入ってから工場研修で4輪塗装の水研ラインで研磨作業は習得してましたので、反転型製作
ミガキ作業、ワックス塗布作業、本FRP成型作業とキレイ作るのに苦戦はしましたが楽しい作業
でした。利一さんはいつも横で、よしよしとチェックしてました。(以外にやるなと思ってくれたかな)
次はスクリーンを作る作業です。工場内にスズキ販売店の大きな”S"の看板を作る真空成型機
があり、1.8M×1.8Mに”S"のマークがプリントされた樹脂板を熱しておいて、枠に当て真空
(負圧)で引っ張ると看板の半分が出来る訳です、利一さんとこの工程を見に行き、スクリーンを
をこの真空成型機で製作するのに必要な、枠型の寸法や注意事項を作業者(職人さん)と打ち
合わせて来いと指示されました、、利一さんは、お前たちはまだ何にも知らないのだから、現場を
よーく見て、職人さんに教えてもらってこいと段取りをつけてくれてました。真空成型でスクリーン
を作るのにFRP型にジカ当てでしたので、温度差でスクリーンの表面が凸凹になってしまいまし
たが、得意の水研ぎで表面を研磨しました。利一さんから、ロードレースのスクリーンは長円
の中空の枠だけで真空で引っ張り、スクリーンの高さをコントロールし可視部は型に当てないの
だと、教えてもらいました。MXのフェンダーもこの真空成型で割れにくい材料で作っているのだとも
ここで終わらないのが利一教室で、スクリーンを加工するには、先細のリューターを使え、又は
大容量ハンダゴテの先を薄く加工して熱でカットしろ、クラックが入ったらクラックの先に穴を空けて
進行を止めろ、ドリルの先端から10mmほどのところにテープを巻いておけ、クラックの穴加工時
穴が空いた瞬間ドリルがストロークするからストッパーだ。MXのフェンダーを切り出すには板金鋏
をバイス(万力)に銜えてカットせよ。とにかく実践させられました。
ロストワックスも社内にありました、機密部品を作っているのだけど、利一さんは俺は通行手形は
要らないから付いてこいと言って、ロストワックスの工程を見せてもらいました。後にフロンテの
レーシングKITのV型リードバルブを製作するのに、アライ製作さんと打ち合わせ(後工程のゴム
焼付、研磨工程)がスムーズに理解でき、図面が書けましたね。10年後、HRCでNF4を作った、
時もロストワックスを扱う知識はもってました。
2サイクルのチャンバー作れますか、板厚0.8~1.0の鉄板を溶接できますか、酸素、アセチレン
の微妙な圧力調整、トーチの火口番手、すべて実践で習得致しました。
残念な事にこの年にGr7がレースカテゴリーから無くなってしまいました、でも私はこのワークス
セヴンを借り出して、ジムカーナレースに出場してました、すごーく速かったです、2位を一回
GETしたかな、クラスは“最速クラス“で相手はS800やフェアレディー2000でした。
阿部も私も、スズキを辞めてカワサキに移りました。二十歳からの5年間でした。利一さんに
退職の挨拶に行ったら、マーお前らの事だ何かあったんだろうな、でもまだお前らはヒヨッコだ
一人前の顔するな、辞めるんなら辞めると早く言え、お前らに教えることはまだまだ有ったんだぞ
とは言ってもムコウに行っても頑張れよ、お前はセセル(いじくる)事が好きだったなー
もう、涙しかありませんでした。
メカニックGrでしっかりと伊藤利一さんに、鍛えてもらいました。
私がスズキ自動車に入社して 研修→生産技術部(本社→富山工場)へ配属になりました。でも
どうしてもレースがしたくて、上司(課長)にレースGrでレースをしたいと直接談判しました。そして
人事課を飛び越えて課長→課長間でニレ(2輪レースGr)にトレードしてもらえました。
転属になった時のニレの新入社員の定期配属(MXGrにENG,FRAに各1名)は終了しておりま
したので、とりあえずロードレースのフレーム設計担当になりました。が、骨のありそうな奴が来る
それならば図面を書く前に、手を動かす事から仕込んでやるわで、メカニックGr(利一さんが親分)
で丁稚奉公することになりました。ここで、利一さんから教えていただいた事が、私のこの世界
で生きていける糧となりました。(実は、阿部孝夫も同期で利一門下生です、この話後ほど)
1970年JAFGPのFLクラスで、スズキFL500(水冷500㏄3気筒、5速)が予選周回数不足で本戦
出場できなかったのですが、富士スピードウエイの6Kmコースを2分10秒台で走れるミニモン
スターだったようです(TZ350より速いかな)。この同じENGを搭載したGr7(2座席オープンタイプ)
が開発されてました。そのクレイモデルを目の前にして、よーし、このレーサーをお前と作るぞ
第一にクレイモデルからFRP製のフロント、リヤのボディーカウル、左右のドアーを製作する事
からスタートです。私は高専の自動車部でFRP成型作業の経験(方法だけ)があり、又会社に
に入ってから工場研修で4輪塗装の水研ラインで研磨作業は習得してましたので、反転型製作
ミガキ作業、ワックス塗布作業、本FRP成型作業とキレイ作るのに苦戦はしましたが楽しい作業
でした。利一さんはいつも横で、よしよしとチェックしてました。(以外にやるなと思ってくれたかな)
次はスクリーンを作る作業です。工場内にスズキ販売店の大きな”S"の看板を作る真空成型機
があり、1.8M×1.8Mに”S"のマークがプリントされた樹脂板を熱しておいて、枠に当て真空
(負圧)で引っ張ると看板の半分が出来る訳です、利一さんとこの工程を見に行き、スクリーンを
をこの真空成型機で製作するのに必要な、枠型の寸法や注意事項を作業者(職人さん)と打ち
合わせて来いと指示されました、、利一さんは、お前たちはまだ何にも知らないのだから、現場を
よーく見て、職人さんに教えてもらってこいと段取りをつけてくれてました。真空成型でスクリーン
を作るのにFRP型にジカ当てでしたので、温度差でスクリーンの表面が凸凹になってしまいまし
たが、得意の水研ぎで表面を研磨しました。利一さんから、ロードレースのスクリーンは長円
の中空の枠だけで真空で引っ張り、スクリーンの高さをコントロールし可視部は型に当てないの
だと、教えてもらいました。MXのフェンダーもこの真空成型で割れにくい材料で作っているのだとも
ここで終わらないのが利一教室で、スクリーンを加工するには、先細のリューターを使え、又は
大容量ハンダゴテの先を薄く加工して熱でカットしろ、クラックが入ったらクラックの先に穴を空けて
進行を止めろ、ドリルの先端から10mmほどのところにテープを巻いておけ、クラックの穴加工時
穴が空いた瞬間ドリルがストロークするからストッパーだ。MXのフェンダーを切り出すには板金鋏
をバイス(万力)に銜えてカットせよ。とにかく実践させられました。
ロストワックスも社内にありました、機密部品を作っているのだけど、利一さんは俺は通行手形は
要らないから付いてこいと言って、ロストワックスの工程を見せてもらいました。後にフロンテの
レーシングKITのV型リードバルブを製作するのに、アライ製作さんと打ち合わせ(後工程のゴム
焼付、研磨工程)がスムーズに理解でき、図面が書けましたね。10年後、HRCでNF4を作った、
時もロストワックスを扱う知識はもってました。
2サイクルのチャンバー作れますか、板厚0.8~1.0の鉄板を溶接できますか、酸素、アセチレン
の微妙な圧力調整、トーチの火口番手、すべて実践で習得致しました。
残念な事にこの年にGr7がレースカテゴリーから無くなってしまいました、でも私はこのワークス
セヴンを借り出して、ジムカーナレースに出場してました、すごーく速かったです、2位を一回
GETしたかな、クラスは“最速クラス“で相手はS800やフェアレディー2000でした。
阿部も私も、スズキを辞めてカワサキに移りました。二十歳からの5年間でした。利一さんに
退職の挨拶に行ったら、マーお前らの事だ何かあったんだろうな、でもまだお前らはヒヨッコだ
一人前の顔するな、辞めるんなら辞めると早く言え、お前らに教えることはまだまだ有ったんだぞ
とは言ってもムコウに行っても頑張れよ、お前はセセル(いじくる)事が好きだったなー
もう、涙しかありませんでした。
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