生誕100年を迎えた岡本太郎。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0c/bf/d80fa17fe90a04c518f746868ab5f415_s.jpg)
きょう3月8日(火)から記念展が開催されるが、前景気を煽る形で放送されているNHKドラマ「TAROの塔」が面白い。
このドラマは岡本太郎の代表作である万博「太陽の塔」が完成するまでの軌跡を縦軸に、両親(岡本一平・かな子)の破天荒な家族模様を描き込み、伝説の芸術家・岡本太郎の知らざる全貌をドラマ化したものだ。
すでに2話が終わっているが、私は第1話で、万博の総合プロデューサーに就任する太郎の記者会見シーンが強く印象に残った。そこには、私がかつて著書で読んだ、太郎の人生哲学が凝縮されていたからだ。
会見の内容はこうだ(NHKのスタッフブログより)。
はじめに、私はこの万博のテーマには反対である。
「人類の進歩と調和」なんてクソ食らえだ!
人類は進歩なんかしていない!
確かに宇宙へ行く科学技術は発達したが、
肝心の宇宙を感じる精神が失われているじゃないか。
それに調和といったって、日本の常識でいえば、お互いが譲り合うということだろう。
少しずつ自分を殺して譲り合うことで馴れ合うだけの調和なんて卑しい!
記者「万博のプロデューサーを引き受けた理由はなんですか?」
危険だからだ。
人間は生きる 瞬間、瞬間で、自分の進んでいく道を選ぶ。
そのとき、私はいつだって、まずいと判断する方、
危険な方に賭けることにしている。
極端な言い方をすれば、己を滅びに導くというより、自分を死に直面させる方向、黒い道を選ぶということだ。
無難な道を選ぶくらいなら、私は 生きる死を選ぶ── それが、私の生き方のスジだ。
あえて危険な道を選ぶ。何故なのだろうか?
著書「自分の中に毒を持て」にはその答えが書いてある。
「みんなどうしても、安全な道の方を採りたがるのだけれど、それがだめなんだ。人間、自分を大切にして、安全を望むんだったら、何も出来なくなってしまう。計算ずくでない人生を体験することだ。」
「ぼくは、本当に自分を貫くために、人に好かれない絵を描き、発言し続けてきた。
一度でいいから思い切って、ぼくと同じようにダメになる方、マイナスの方の道を選ぼう、と決意してみるといい。そうすれば、必ず自分自身がワァーともりあがってくるにちがいない。それが生きるパッションなんだ。」
この他、この本から気に入った箇所を挙げるとこんな感じ。
---------------------------------------
○生きる・・・・それは本来、無目的で、非合理だ。科学主義者には反論されるだろうが、生命力というものは盲目的な爆発であり、人間存在のほとんどといってよい巨大な部分は非合理である。われわれはこの世に何故生まれて来て、生き続けるのか、それ自体を知らない。存在自体、肉体も精神も強烈な混沌である。そしてわれわれの世界、環境もまた無限の迷路だ。
だからこそ生きがいがあり、情熱がわく。人類はその、ほとんど盲目的な情感に賭けて、ここまで生き抜いてきたのだとぼくは思う。
○結果がうまくいこうがいくまいがかまわない。むしろ、まずくいったほうが面白いんだと考えて、自分の運命に賭けていけば、いのちがパッとひらくじゃないか。
○人間にとって成功とはいったいなんだろう。結局のところ、自分に夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したか、ではないだろうか。夢がたとえ成就しなかったとしても、精一杯挑戦した。それで爽やかだ。
○自分を大事にしようとするから、逆にいきがいを失っているんだ。
○個人財産、利害得失だけにこだわり、またひたすらマイホームの無事安全を願う現代人のケチくささ。卑しい。小市民根性を見るにつけ、こんな群れの延長である人類の運命などというものは、逆に蹴飛ばしてやりたくなる。
人間本来の生き方は無目的、無条件であるべきだ。それが誇りだ。
死すのもよし、生きるのもよし。ただし、その瞬間にベストをつくすことだ。
現在に強烈にひらくべきだ。未練がましくある必要はないのだ。
一人一人、担う運命が栄光に輝くことも、また惨めであることも。ともに巨大なドラマとして終わるのだ。人類全体の運命もそれと同じようにいつかは消える。
それでよいのだ。無目的にふくらみ、輝いて、最後に爆発する。
平然と人類がこの世から去るとしたら、それがぼくには栄光だと思える。
(引用終了)
----------------------------------------
この本を読んだのは3年前。スケールの大きな人生哲学にまさに「蹴っ飛ばされた」が、相応に年を取ってしまってケチ臭い現代人の典型となってしまった私には、なかなか真似しようとしてもできない生き方ではある。
しかし、ここにきて最近、考えが変わってきた。
今の日本は全体として「岡本太郎」化しているのではないだろうかと。
つまりこういうことだ。
今の日本は好むと好まざるに関わらず財政破綻という「ダメな方」へまっしぐらである。
目を覆うばかりの政府・国民の危機意識のなさは、まるで「財政破綻」を選ぼうと決意しているようにさえ見える。
しかし、太郎の見方に立てば、日本がもしこの「危険な道」を選択するとしたら、日本国民がワァーと盛り上がってそれが生きるパッションとなるのであろう。(確かに、国中で大混乱が起きるので、否応なく盛り上がるのだろうが・・・・)
生誕100年を迎えた岡本太郎。彼の人生哲学を通じて、
「日本国民は財政破綻を受け入れて、生きるパッションを得て、人生を大いに盛り上げよう!」 という現代的メッセージを読み取ったのは、私だけであろうか。(・・・・だろうね)
無目的に膨らんでいる財政。最後に待っているのは、やはり爆発なのだろうか。
そして爆発の後に、日本人のいのちがパッと開いて輝きだすのであろうか・・・・・。
まぁ、それも悪くないが。
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きょう3月8日(火)から記念展が開催されるが、前景気を煽る形で放送されているNHKドラマ「TAROの塔」が面白い。
このドラマは岡本太郎の代表作である万博「太陽の塔」が完成するまでの軌跡を縦軸に、両親(岡本一平・かな子)の破天荒な家族模様を描き込み、伝説の芸術家・岡本太郎の知らざる全貌をドラマ化したものだ。
すでに2話が終わっているが、私は第1話で、万博の総合プロデューサーに就任する太郎の記者会見シーンが強く印象に残った。そこには、私がかつて著書で読んだ、太郎の人生哲学が凝縮されていたからだ。
会見の内容はこうだ(NHKのスタッフブログより)。
はじめに、私はこの万博のテーマには反対である。
「人類の進歩と調和」なんてクソ食らえだ!
人類は進歩なんかしていない!
確かに宇宙へ行く科学技術は発達したが、
肝心の宇宙を感じる精神が失われているじゃないか。
それに調和といったって、日本の常識でいえば、お互いが譲り合うということだろう。
少しずつ自分を殺して譲り合うことで馴れ合うだけの調和なんて卑しい!
記者「万博のプロデューサーを引き受けた理由はなんですか?」
危険だからだ。
人間は生きる 瞬間、瞬間で、自分の進んでいく道を選ぶ。
そのとき、私はいつだって、まずいと判断する方、
危険な方に賭けることにしている。
極端な言い方をすれば、己を滅びに導くというより、自分を死に直面させる方向、黒い道を選ぶということだ。
無難な道を選ぶくらいなら、私は 生きる死を選ぶ── それが、私の生き方のスジだ。
あえて危険な道を選ぶ。何故なのだろうか?
著書「自分の中に毒を持て」にはその答えが書いてある。
「みんなどうしても、安全な道の方を採りたがるのだけれど、それがだめなんだ。人間、自分を大切にして、安全を望むんだったら、何も出来なくなってしまう。計算ずくでない人生を体験することだ。」
「ぼくは、本当に自分を貫くために、人に好かれない絵を描き、発言し続けてきた。
一度でいいから思い切って、ぼくと同じようにダメになる方、マイナスの方の道を選ぼう、と決意してみるといい。そうすれば、必ず自分自身がワァーともりあがってくるにちがいない。それが生きるパッションなんだ。」
![]() | 自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか (青春文庫) |
岡本 太郎 | |
青春出版社 |
この他、この本から気に入った箇所を挙げるとこんな感じ。
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○生きる・・・・それは本来、無目的で、非合理だ。科学主義者には反論されるだろうが、生命力というものは盲目的な爆発であり、人間存在のほとんどといってよい巨大な部分は非合理である。われわれはこの世に何故生まれて来て、生き続けるのか、それ自体を知らない。存在自体、肉体も精神も強烈な混沌である。そしてわれわれの世界、環境もまた無限の迷路だ。
だからこそ生きがいがあり、情熱がわく。人類はその、ほとんど盲目的な情感に賭けて、ここまで生き抜いてきたのだとぼくは思う。
○結果がうまくいこうがいくまいがかまわない。むしろ、まずくいったほうが面白いんだと考えて、自分の運命に賭けていけば、いのちがパッとひらくじゃないか。
○人間にとって成功とはいったいなんだろう。結局のところ、自分に夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したか、ではないだろうか。夢がたとえ成就しなかったとしても、精一杯挑戦した。それで爽やかだ。
○自分を大事にしようとするから、逆にいきがいを失っているんだ。
○個人財産、利害得失だけにこだわり、またひたすらマイホームの無事安全を願う現代人のケチくささ。卑しい。小市民根性を見るにつけ、こんな群れの延長である人類の運命などというものは、逆に蹴飛ばしてやりたくなる。
人間本来の生き方は無目的、無条件であるべきだ。それが誇りだ。
死すのもよし、生きるのもよし。ただし、その瞬間にベストをつくすことだ。
現在に強烈にひらくべきだ。未練がましくある必要はないのだ。
一人一人、担う運命が栄光に輝くことも、また惨めであることも。ともに巨大なドラマとして終わるのだ。人類全体の運命もそれと同じようにいつかは消える。
それでよいのだ。無目的にふくらみ、輝いて、最後に爆発する。
平然と人類がこの世から去るとしたら、それがぼくには栄光だと思える。
(引用終了)
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この本を読んだのは3年前。スケールの大きな人生哲学にまさに「蹴っ飛ばされた」が、相応に年を取ってしまってケチ臭い現代人の典型となってしまった私には、なかなか真似しようとしてもできない生き方ではある。
しかし、ここにきて最近、考えが変わってきた。
今の日本は全体として「岡本太郎」化しているのではないだろうかと。
つまりこういうことだ。
今の日本は好むと好まざるに関わらず財政破綻という「ダメな方」へまっしぐらである。
目を覆うばかりの政府・国民の危機意識のなさは、まるで「財政破綻」を選ぼうと決意しているようにさえ見える。
しかし、太郎の見方に立てば、日本がもしこの「危険な道」を選択するとしたら、日本国民がワァーと盛り上がってそれが生きるパッションとなるのであろう。(確かに、国中で大混乱が起きるので、否応なく盛り上がるのだろうが・・・・)
生誕100年を迎えた岡本太郎。彼の人生哲学を通じて、
「日本国民は財政破綻を受け入れて、生きるパッションを得て、人生を大いに盛り上げよう!」 という現代的メッセージを読み取ったのは、私だけであろうか。(・・・・だろうね)
無目的に膨らんでいる財政。最後に待っているのは、やはり爆発なのだろうか。
そして爆発の後に、日本人のいのちがパッと開いて輝きだすのであろうか・・・・・。
まぁ、それも悪くないが。
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ケンカの最中によく考えることの中に、「自分は裕福になっても幸せを感じないのではないか」とか「貧しさに追われてるからこそ、つらくても仕事をしたり、一筋の光を楽しむことが出来るのだ」などと思っていたところでした。
今度からは具体的に「太郎」っぽく生きてみます。
個人が、危険な道を選択すると全体が生きる方向へ進む(明治維新)。