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福島県西会津町 鳥追観音 柳津町 柳津虚空蔵

2024年07月17日 13時28分58秒 | 福島県

鳥追観音。如法寺。福島県西会津町野沢字如法寺。

2024年5月31日(金)。

道の駅「湯川」で起床。ここは、どこに行くにも好位置。WIFI休憩室もある。会津ころり三観音だけは参拝する予定だったので、そのひとつの西会津町の鳥追観音へ向かった。午前8時30分開門の前に到着。

如法寺(にょほうじ)は、真言宗室生寺派の寺院。山号は金剛山。本尊は聖観世音菩薩。この寺には境内に観音堂があり、「鳥追観音」の名で知られる。大同2年(807)、仏都会津の祖となった法相宗の僧・徳一が「会津西方浄土」として開創したと伝わる。

仁王門。

正面にある仁王門は観音堂同様に慶長18年(1613)に再建されたもので、入母屋、鉄板葺き、三間一戸、単層門で中世からの工法も随所に見られる貴重なもので、県重要文化財。

観音堂は、慶長16年(1611)の大地震で倒壊後、慶長18年(1613)会津藩家老・岡重政により再建された。東西向拝口・三方開きの特殊な構造。左甚五郎作、『隠れ三猿』『昇り龍、降り龍』『梅に鶯』の彫刻が有名。県重文県重要文化財。

「西方浄土」へ安楽往生が叶うという道理を示す為に、観音堂は、東西向拝口・三方開きという独特な構造になっており、東口から入り、鳥追観音に祈願したら、戻らずに西口から出ると、その彼方が「西方浄土」の世界となる参拝順路となっている。そのため、全国でも珍しい「東西向拝口」になっている。

観音堂内の「善男柱」「善女柱」両柱に抱きつき祈願すると観音様のお導きで良縁が頂けると言われている。

また、身代りなで仏(金剛力士像)をなでで祈願すれば、ころりと大往生が叶うというので「ころり観音」とも尊称され、会津ころり三観音の一に数えられている。

堂内は撮影禁止。

観音堂と一休三小僧。

樹齢1200年の高野槙。

鳥追観音如法寺開創の時に記念植樹されたと伝えられる樹齢1200年の高野槙(コウヤマキ)。東北最大の大きさで県天然記念物。

住職の子供と思われる女の子と男の子が境内の準備をしている若い住職めがけて走っていく風景はほのぼのとしていた。

 

柳津虚空蔵。円蔵寺。福島県柳津町柳津字寺家町。

「柳津虚空蔵の裸まいり」は1980年代からニュース映像や旅行雑誌で知っているので、どんな寺か関心があったので訪れた。駐車場から撮影禁止の参道を歩くと広い境内に着き、右の石段を下ると虚空蔵堂が見えてきた。

円蔵寺(えんぞうじ)は、臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は霊巌山。本尊は虚空蔵菩薩。この寺にある虚空蔵堂は「柳津虚空蔵」(やないづこくぞう)として知られ、能満虚空藏菩薩(清澄寺、千葉県鴨川市清澄)、大満虚空藏菩薩(日髙寺、茨城県那珂郡東海村)、福満虚空藏菩薩(圓藏寺、福島県河沼郡柳津町)が、日本三所の虚空藏菩薩といわれる。

この寺の創建年代等については諸説あって不詳であるが、縁起などによれば807年(大同2年)空海作とされる虚空蔵菩薩を安置するため、徳一が虚空蔵堂を建立したのが始めとされる。円蔵寺は虚空蔵堂(柳津虚空蔵堂)の別当寺として建立されたと伝えられる。南北朝時代の至徳年間(1384年~1387年)臨済宗に改められた。

毎年1月7日に七日堂裸まいりが行われる。

「柳津虚空蔵の裸まいり」。

正月七日の夜に行われる福満虚空藏菩薩圓藏寺の寺行事。こうこうと燃えるかがり火の中、大鐘を合図に雪の中下帯一つの男たちが菊光堂の大鰐口を目指す。これは民衆の力で只見川に棲む竜神を追い払ったという伝説にちなんだ伝統行事で、1年の幸せと無病息災を祈る行事である。

虚空蔵堂から眺める只見川。

 

このあと、近くにある「やないづ縄文館」へ向かった。

 


根室市 風蓮湖と春国岱(しゅんくにたい)

2024年07月17日 08時51分57秒 | 北海道

風蓮湖と春国岱。道の駅「スワン44ねむろ」風蓮湖展望デッキから。根室市酪陽。

2022年6月13日(月)。

釧路湿原駅から根室へ向かい、国道44号にある道の駅「スワン44ねむろ」に17時30分ごろ着いた。ハクチョウが見られるかもしれないと聞いていたが、姿を現さなかった。

海跡湖である風蓮湖は、根室半島の付け根にある根室市と別海町をまたぐ汽水湖である。春国岱は、風蓮湖と根室湾を分ける砂州で形成された長さ8km、幅1.3kmの島で、面積約600haの湿地及び原生林である。

風蓮湖は、東西約20km、周囲約65km、面積約5,600ha の汽水湖である。北から延びる砂嘴である走はしりこたん古丹と、その南に延びる砂嘴の断片(バリアー島)である春国岱により、オホーツク海と隔てられた潟湖(ラグーン)で、中央部と南東端の2カ所の開口部で海とつながっている。面積に比べて湖岸線が長い、複雑な形をしており、湖内には広大な干潟が形成されている。流入河川は13本あり、河口付近には塩性湿地が発達し、特に風蓮川河口のそれは広大で、独特の景観を見せている。

 

道の駅スワン44ねむろ付近から風蓮湖越しに対岸の春国岱を眺めると、水面に浮かぶ森のように見え、砂丘のイメージとは異なり豊かな原生林が広がっている。春国岱は、砂州とよばれる砂でできた、風蓮湖と根室湾を区切るように伸びている。

 

2022年6月14日(火)。

道の駅での情報から根室市春国岱原生野鳥公園ネイチャーセンターの存在と風蓮湖・春国岱がラムサール条約登録湿地であり、春国岱は野鳥の宝庫で、通常は高山帯に生息するルリビタキと、カモメなどの海鳥が同居する多様な生態系を持っており、特別天然記念物であるタンチョウの営巣地でもあると知ったので、早朝に立ち寄ることにした。

8時30分ごろにネイチャーセンター前に到着したが、開館前だったため、春国岱を訪れることにして、少し戻って湖側に下る橋を渡った。

自然観察用の木道。工事中で立入禁止になっていた。

春国岱は、別名「奇跡の島」と呼ばれ、数千年をかけて堆積した砂の上にハマナスの大群落やエゾカンゾウ、センダイハギなどさまざまな植物が生い茂った、手付かずの自然がある大変珍しい島である。

春国岱は、長さ約8km、最大幅1.3km、面積は約600ha。巨大地震後に、海流により運ばれオホーツク海の海底に堆積した土砂が隆起して成立したと考えられている。成立年代の異なる三列の浜提が並行しており、第一砂丘は1000から1500年前、第三砂丘の列は3000年前にできたとされている。第一砂丘には国内最大級のハマナスの大群落があり、第二砂丘には砂丘上に生まれた、世界的に珍しいアカエゾマツの純林、第三砂丘には巨木が生い茂り、原始の森を思わせる

浜提間には塩性湿地、湿原、周囲には干潟や海草藻場というように、多様性に富む生態系が形成されている。

春国岱の干潟は天然のアサリ、ホッキ貝の採取地になっており、地元の漁師が乗る舟が浮かんでいた

 

このあと、根室市歴史と自然の資料館へ急いだ。

釧路湿原 塘路湖 細岡展望台 釧路湿原駅


読書メモ「古代氏族の研究⑱鴨氏・服部氏「少彦名神の後裔諸族」宝賀寿男 2021年

2024年07月17日 01時19分31秒 | 歴史

読書メモ「古代氏族の研究⑱鴨氏・服部氏「少彦名神の後裔諸族」宝賀寿男 2021年

 

葛城・鴨氏族の概説天押立命(神櫛玉命)の後裔と称したが、同神の実体は、天背男命(天稚彦、天津彦根命、活津彦根命)とみられる。この系統は、出雲を経由して大和へ遷住し、当初は葛城地方を中心に居住した。畿内の先住民としての色彩が強く、三輪の大物主神一族と通婚を重ねた。大物主神一族の祖で「賀茂大神」たる味鉏(あじすき)高彦根命と天押立命とは混同が著しい。

神武天皇の大和平定の際、これに協力し功績が顕著で、殿部・水部の伴緒として朝廷に奉仕した。神武朝の人、剣根命の後裔たる葛城国造を中心とする葛城氏族と、その兄弟という生玉兄日子命(八咫烏)の後裔たる鴨県主を中心とする鴨氏族に大別される。ほとんどが畿内の豪族であり、地方の氏族では、比多国造(豊後国日田郡)、田使首(備前国児島郡・津高郡)、中島県主(尾張国中島郡)があげられる程度である。

鴨県主の一族は上賀茂社・下鴨社のほか、貴船・河合社などの神官を世襲するとともに、主殿寮・主水司の官人として出仕し、江戸期には上級公家の諸大夫なども含め、中・下級官人を多く出した。

鴨族の遠祖と大和葛城への遷住。九州の日向(実態は筑前国沿岸)が起点。鴨族は高天原から発して、筑前の夜須郡あたりへ行き、遠賀川中・下流域を経て、海路で出雲へ行き、しばらく留まったのちに、大和など畿内方面に至った。

鴨族が大和葛城に在住のとき、紀元2世紀後半に、神武天皇が筑前海岸部から畿内に侵攻してきた。奈良盆地の南部を押さえようとしたとき、抵抗勢力として葛城地方にあったのは、高尾張邑にいた八十梟帥(たける)や臍見(ほぞみ)の長柄丘岬にいた猪祝(いのはふり)という土蜘蛛であった。これらは皆討伐されて、神武創業の功により葛城国造に任じられたのが剣根命だとされる。この剣根命を出した氏族は天押立命の後裔と称したが、実体は天背男命(天津彦根命・活津彦根命で天照大神の子)である。この一派は北九州から出雲経由で来ており、その子の少彦名神のときに畿内方面の和泉や摂津・河内などへ遷住し、その子孫が葛城地方を中心に居住した。

この一族は三輪山麓を拠点とした大物主神一族(海神族、磯城県主一族)と通婚を重ねたが、これは出雲での縁由とみられる。

山城・カモ氏は男系としては大和・カモ氏(海神族)とは区別される。山城カモ氏の娘が三輪氏族と通婚して生んだのが大和・カモ氏の祖となる。

狭義の鴨族は葛城国造族から北方近隣に分かれた。崇神前代頃に葛城地方から山城北部の葛野地方へ移遷した。経路に京都府木津川市加茂町の岡田鴨神社。

上社の祭神・賀茂別雷神。下社の祭神は、賀茂御祖の賀茂健角身命とその娘の玉依日売命。賀茂別雷神は玉依日売命の子とされる。鴨氏族は皆が玉依日売の兄・玉依日子の子孫とする系譜をもつ。賀茂別雷神は、玉依日子と同一か。

鴨族や少彦名神後裔氏族には、山祇族の火神・月神の祭祀もみられる山祇族の女と通婚した。山祇族系紀国造の祖・天手力男命が少彦名神の父天稚彦の外祖父か。

天孫族は、東アジアの東夷に属するツングース系種族の流れであり、中国上古の殷族とも広い意味で同族とみられる。中国遼寧省の遼西地方(遼河流域)に発し、紀元前2・1世紀には、韓地南部の伽耶(加羅)で高霊の地などに部族国家を建てていたが、紀元1世紀代の前半頃に南下渡航して、九州北部の唐津あたりに上陸した。そこから唐津川沿いに南下して佐賀平野に出てから東行し、筑後の高良山北麓に「高天原(高の国。邪馬台国)」という国を興した。

北部九州にあっては、天孫族の系統は肥前・筑紫などの各地に分かれたが、筑前沿岸部から東遷して原大和王権を建てた神武天皇一族の系統のほかでは、天若日子の子の天目一箇神・少彦名神兄弟の後裔という出雲経由の2系統しか残らなかった。

韓地から倭地に渡来してきたのが、始祖神・五十猛神(素戔嗚神、角凝魂命)のときであり、その子の高魂命(高皇産霊尊)が筑後に遷り「高天原」を建て、その子の生玉命(生国魂神、天活玉命、天底立命、天照大神)の長子の天忍穂耳尊の流れが大和王権の初期王家(神武天皇~仲哀天皇とその同族)につながる。この本宗家の嫡統は、天孫族支流の応神天皇の大王位簒奪により、4世紀後半に断絶した。

天忍穂耳尊の弟・天稚彦(天若日子、天津彦根命、天背男命、活津彦根命、天押立命、神櫛玉命)を祖とする流れには2系統あって、長子の天目一箇神(天夷鳥命、天御影命)の流れが鉄鍛冶に優れ、軍事部族としておおいに展開した。古代氏族では、出雲国造・武蔵国造(ともに天穂日命後裔と称す)、穂積臣・物部連(饒速日命の後裔)三上祝・凡河内国造・山背国造(天津彦根命の後裔と称す)など政治的に有力な大氏族を出した。

弟の少彦名神の流れが、鴨氏などの氏族で、神祇を管掌して生活関連物資の製造や文化的な諸技能をもつ特色ある古代氏族諸氏を輩出したが、宇佐国造家から分かれ出た息長氏族を除くと、中小氏族が多い。

天稚彦後裔の2系統は、ともに北部九州から出て出雲にまず入り、そこから畿内方面などに遷って大きく展開した。神武の大和侵攻のさいには、これに降ったものと、抵抗して服従を拒み東国方面に逃れたものがある。

少彦名神とは何者か。オオナムチ神の国造りに協力する神として行動する。出雲での国造りの任務を果たしたのち、淡嶋(粟島。米子市域の島か)に行き、登った粟の茎に弾かれて常世の国に渡ったと伝える。この神を祀る神社は、紀伊北部の淡嶋神社などアワシマ神社が著名。諸国の温泉関係神社、常陸の大洗磯前神社を除くと大きな神社、古社は少ない。

  • 鴨健角身(たけつのみ)命。後裔が八咫烏こと生玉兄日子命の流れが、山城の鴨県主の系統。生玉兄日子命の兄弟・剣根命の流れが大和の葛城国造で、兄弟ともに大和の先住民であり、神武の大和平定に協力。
  • 天日鷲翔矢(かけるや)命。阿波忌部等の祖。後裔の由布津主命が阿波・安房の忌部の祖。
  • 天羽槌雄命。天日鷲命の子で大和の葛城に初めて来たと伝え、葛城国造や三野県主・長幡部・倭文連の祖。
  • 天湯川桁命。鳥取部や三島県主の祖神
  • 天御桙命(あめのみほこのみこと)。天日鷲命の子と称する天白羽鳥命と同神。後裔は服部氏族。天白羽鳥命の子の天者知命が神麻績連などの祖。伊豆国造。知々夫国造・阿智祝も同族。
  • 三島溝昨耳命の後裔の健日穂命。駿河国安倍郡の建穂神社が服織村の建穂に鎮座。三島溝昨耳命は、服部連の祖で天白羽鳥命と同神か。建日穂命は、三島県主の祖という。
  • 八意思兼命の後裔の大表春命。後裔は阿智氏族。この系統は武蔵国秩父郡に存続し、知々夫国造を出した。
  • 斎主神・経津主神。常陸の香取連の祖という。
  • 武茅渟祇(ちぬつみ、陶津耳命)。少彦名神の別名。茅渟県主の系統は女系を通じ磯城県主へつながるか。
  • 天明玉命。天津彦根命、大稚彦と同人か。後裔は玉祖氏族の玉作部・玉祖連
  • 天太玉命。後裔は忌部氏族
  • 天三降(みくだり)命。神武東征を迎えた兎狭津彦命の後裔が宇佐氏族とされる。
  • 大諸神命。御手代首などの祖。服部氏族と関係が深いか。

少彦名神後裔のその他同族。鴨氏族から宇佐国造族、さらに息長氏族が出た。

宇佐氏の概要と九州諸国造・息長氏の分出神武天皇の東征を迎えた兎狭津彦が初祖。欽明天皇のとき、宇佐八幡宮となる。大宮司職を世襲。鎌倉末期から2系統に分かれ、兄が宮成家を号して宇佐本宗家、弟が到津(いとうづ)家を号す。明治になり、宮成は宇佐を苗字とした。宇佐国造の支流が、阿蘇・火(肥)・大分などの多くの国造家・県主家。火国造の祖・建緒組命に流れから息長氏が出て、応神天皇や継体天皇、和気朝臣などを出した。宇佐氏の祖神「大三降命」。貴船神の実体は、水神の罔象女神(みつはのめのかみ)で、五十猛神(八幡神)の妻神。

出雲にあった少彦名神後裔、鴨族の一派が南下して安芸、ついで西方の周防の佐波を経て宇佐に至った。景行天皇の九州巡狩のとき接触。4世紀中葉(3世紀末)の赤塚古墳、免ヶ平古墳(神夏磯媛か)。

少彦名神の位置付け異名。鴨氏の祖・賀茂健角身命、忌部氏の祖・天日鷲命、葛城国造の祖・陶津耳命、知々夫国造などの祖・思兼神や猿田彦。神武天皇の道案内をした八咫烏は賀茂健角身命の孫・生玉兄日子命か。

能登国羽咋国造に息長氏族の三尾君祖石撞別命の子・石城別命が任じられた。

主な少彦名神後裔の諸氏族の概観。

鴨県主氏は、八咫烏こと鴨健角身命の後裔と称し、成務朝以降、山城国の葛野県主を世襲した。葛野郡および東隣の愛宕郡も勢力圏で、賀茂郷を中心に同族の居住が多い。奈良時代以降、上賀茂神社、下鴨神社の祀官家を一族が続ける。三島神社とも縁が深い。なお、海神族の三輪君の一派に鴨君(後裔が陰陽道の賀茂朝臣)が出た。

忌部氏は、高魂命の子の天太玉命の後裔と称した。イムベの表記は延暦末期に斎部と変わった。平安前期から衰え、鎌倉末期には中央での活動が見えなくなる。

服部氏は、機織りを管掌する服部の伴造氏族である。仁徳朝に服部弥蘇連が見え、その子の麻羅足尼が允恭朝に織部司を管掌したとされる。服部連のほか、長幡部、倭文連、神麻績連などの諸氏を出した。

鳥取部氏は、鳥類の捕獲・飼育に従事した品部を管掌した。鳥養部・鳥飼部とも同義か。

少彦名神の系統の古代氏族長幡部、倭文連、服部連、神麻績連。中央の宮部造、弓削連、多米連、鳥取連、天語連、大椋置始連地方の三野前国造、伯耆国造、伊豆国造、三島県主、河内三野県主、阿波忌部、安房忌部など。

上賀茂・下鴨両社の祭祀。鴨県主と祝部氏。日吉大社。祭神は大山咋命と鴨玉依姫を主体に東本宮で祀る。西本宮には大己貴命や宇佐宮・白山宮も祀る。日吉大社を奉祀したのが鴨族の祝部。

松尾大社。祭神は大山咋命と市杵嶋姫命。物部氏と秦氏の通婚。

久我国造。鴨族の移遷過程の乙訓郡に元稲荷古墳などを築造。北山城最大の恵解山(いげのやま)古墳(長岡京市)。仁徳天皇陵と相似、5世紀前半。

大伊乃伎命の子の阿波伎命の後裔が祝部氏や尾張の中島県主という。中島連の後裔は尾張大国霊神社(国府宮)の神主家を世襲。久田、野々部氏。本殿に接し磐境あり。

山城北部の初期古墳から見た鴨族の移遷時期前方後方墳は垂仁朝から成務朝の時期で4世紀中頃とみられる。寺戸大塚古墳などの向日丘丘陵古墳群。鴨県主一族の墳墓。五塚原古墳が崇神朝頃で最古とみられる。箸墓古墳の3分の一相似。五塚原古墳の系列が鴨県主の系列で、南原古墳・今里車塚古墳・恵解山古墳の系列が久我国造系の墳墓か。4世紀期中頃に両者は分岐か。

三野前国造などの分岐と活動4世紀の大和王権の急拡張時期には、鴨族は大王族の先兵として吉備や出雲での討伐活動に働いた。その主体が美濃の分派である。三野前国造は美濃西部の本巣郡美濃郷(本巣市見延あたり)に本拠を置き、安八・不破郡にかけてを中心域とした。本巣市の宗慶大塚古墳が祖の神骨の墓と伝える。4世紀前半頃の築造か。東北方に船来山古墳群。香良洲神社。三重県津市の香良洲神社は祭神の稚日女命は機織りと関係があるという。三野前国造は、拠点を安八・不破郡に遷した昼飯大塚古墳・粉糠山古墳などの不破古墳群を築造。南宮大社や宇波刀神社を奉斎した。祭神天布刀玉命は鴨族・忌部族の遠祖神。安八郡の加毛神社。

始祖の神骨(かむほね)命は八爪(やつり)命とも記され、彦坐王(崇神天皇の弟とされる)の子とされるが、山城の鴨県主から分かれたと推される。神大根王とも書かれる。三野前国造の初期段階に分かれて常陸などへ行ったのが、長幡部である。支族が吉備に行き、笠臣を出した。さらに出雲討伐で伯耆にも到達し、伯耆国造や倭文連が出た。

なお、三野後国造(物部氏族)は三河国造と同族。

三野前国造の族裔。神骨の子孫には、牟義津国造身毛君、守君、池田首など美濃の古代氏族。

神骨の子か、気入彦命の子で、久々理彦命の兄弟とされる曽乃木命が、三河系統(三河国青海郡の御立史・御使連一族)とみられる。「ククリ」(久々利・纐纈)は染色の方法で白山比売に通じる。景行天皇の泳宮(くくりのみや)伝承は可児市の地名に残る。纐纈(はなふさ)は同族の長幡部により常陸国久慈郡へ花房の地名を遷した。可児郡室原には猿投神社が鎮座して猿田彦神を祀るが、三河国猿投山には式内の猿投神社もあって大碓神を祀るが、この地は賀茂郡賀茂郷だという。長幡部・倭文連の分岐。常陸国久慈郡に静(しず)神社(常陸二宮、茨城県那珂市)。三河松平氏。三河国賀茂郡。末流が松平郷に住す。

吉備・伯耆への展開備前の鴨直と伯耆の倭文連。吉備の三野臣、笠臣。備前の鴨氏

地祇海神族系の鴨君氏との区別。大和葛城地方。崇神朝に活動した大鴨積命を始祖とする。筑紫の大己貴命の子で、磯城県主や三輪君らの祖。天武朝に鴨君蝦夷。娘の比売が藤原不比等の妻。陰陽道の賀茂朝臣氏は後裔。鴨都波1号墳、前期中葉の小型方墳、景行天皇の九州巡狩に随行した神(かもの)大野宿祢が被葬者か。大鴨積命の子という。

忌部氏・玉作氏と同族

忌部氏。阿波忌部。安房忌部。織田氏。越前剣神社。

玉作氏と鏡作氏。安芸・周防の玉作部。周防国佐波郡、土佐国安芸郡。河内が本宗。橿原市曽我遺跡。大量の未成品。6世紀初めに途絶。継体王朝。管掌は忌部氏でなく同族の玉祖連。崇神前代に忌部氏から分岐。のちに河内国高安郡へ遷る。

武蔵の阿伎留神社(あきる野市)宮司の阿留多伎氏は玉作部一族。陸奥へ発展し阿尺国造・思太国造・伊久国造・染羽国造・信夫国造・白河国造。中臣・卜部に玉作部一族も同行。

鏡作氏。大和国城下郡。田原本町。鏡作坐天照御魂神社。天日明命。物部氏に関係が深い。額田部連。三上祝。鏡作郷の近隣に唐子・鍵遺跡。銅鐸のち銅鏡製作。物部・穂積氏の弥生遺跡。奈良時代後期に河内国丹比郡(平安時代後期は河内国丹南郡日置荘)へ遷る。堺市美原区大保。丹南鋳物師。佐野の天明氏。

弓削氏と同族諸氏。

天日鷲命(天日鷲翔矢命)の後裔諸氏。弓削氏、多米氏、語部氏。阿波・安房忌部。倭文連、鳥取連。天語連。語連。語部。出雲・美濃・但馬などに分布。天語連は、古伝承を伝える役割。

弓削氏。4氏ある。天日鷲翔矢命系(天神系)2氏、物部氏支族、三上祝系。河内国若江郡弓削郷(八尾市)が本拠。物部守屋の後裔と称す。道鏡。吉備弓削部。美作菅家党。菅原道真後裔と称す。菅直人。原田氏の支流が前田利家家。松平家臣の荻生・平岩・長坂は天神系。

多米氏の職務と系譜。成務朝に小長田は炊職となり炊飯を職掌とした。三河国八名郡多米郷。

三島県主・鳥取造と伊豆国造・服部氏三島溝咋耳命。都佐国造は三輪氏同族。摂津国三島郡。弁天山古墳群(高槻市南平台)。岡本山古墳。4世紀中葉。建日穂命が三島県主の祖。同族に三野県主。その後裔が美努連。名の根源は筑後国の三野山地。角凝魂命。額田部宿祢一族は天津彦根命の後裔で出雲国造族や物部氏族と同族。

三島神社の奉斎者。伊豆の三島大社。

鳥取部の設置と鳥取造。古事記、垂仁天皇の皇子ホムチワケの故事。越中富山に鳥の捕獲地。日本書紀、ホムチワケの故事。出雲に鳥取部。先祖、天湯川桁命。少彦名神の父神。実体は天稚彦。天照大神の子。高天原から葦原中国へ派遣されたが、オオナムチの女婿となる。鳥取氏の本拠の一つは和泉国日根郡鳥取郷。阪南市。鳥取氏と鍛冶・金属。湯は金属の湯。

伊豆国造と服部氏三島大社の祭神。大山祇命でなく本来は大山咋命こと少彦名神。本来の地は賀茂郡。平安期からは田方郡。

伊豆国造の系譜。以前の説は中臣氏同族説。香取連の祖系譜。伊豆国造家から分岐。矢作氏の分岐。服部氏の系譜と分布。伊豆国造一族から服部連の先祖・麻羅宿祢が出た。高槻市・神服神社あたりが本拠。

長白羽神の後裔諸氏。麻績部と服部は同族。

思金神の後裔氏族知々夫国造と阿智祝。妙見信仰をもつ。秩父氏、畠山氏、千葉氏など。

天表春命の後裔、阿智氏族八幡神の実体は天孫族の始祖神・五十猛神。崇神前代に阿智氏族が伊那谷に来住。諏訪神建御名方命とともに伊豆に行き、信濃南部に来た。倭建命の時代には駒ケ根市の赤須あたりにいて、赤須彦は大御食社家および阿智祝の先祖である。4世紀の代田山狐塚古墳(前方後方墳)。允恭・雄略朝頃に阿智社と大御食社の2系統に分かれた。前者は中世に原氏。戸隠の徳武氏を分岐。後者は赤須氏、小町谷氏。小井弖郷にちなむ小出氏。

伊勢内宮の荒木田神主。祢宜は内宮の荒木田氏と外宮の渡会氏。渡会氏は中臣氏同族という伊勢国造の分岐と称したが、実際には海神族の磯部(石部)氏で丹波道主命の後の丹波国造族。荒木田氏は中臣氏同族の大貫連の出とするが、実際には、少彦名神後裔の神麻績連の同族か。