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福島県白河市 国史跡・白河関跡 境の明神

2024年08月04日 16時12分44秒 | 福島県

境の明神。福島県白河市白坂明神。

2024年6月1日(土)。

福島県文化財センター白河館「まほろん」を見学後、白河関方面へ向かい、国史跡・白河関跡の前に、まず白坂の境の明神を訪れることにして、ポケットパークの駐車場に駐車した。

松尾芭蕉「おくのほそ道」や「曾良随行日記」によれば、松尾芭蕉と河合曽良は、1689(元禄2)年4月20日(陽暦6月7日)朝、那須湯本を立ち、奥州街道の芦野宿(栃木県那須町芦野)、郊外の遊行柳を経由し奥州街道を北上した。そして、上り坂を歩くこと約10キロでたどり着いたのが「境の明神」で、いわゆる「白河の関」、陸奥(みちのく)の入り口である。芭蕉の供をした曽良は「卯の花を かざしに関の 晴れ着かな」と、この時期に白河で咲いていた卯の花を詠み込んでいる。

曽良日記には「寄居村有。是ヨリハタ村ヘ行ハ、町ハツレヨリ右ヘ切ル也。関明神ノ関東ノ方ニ一社、奥州ノ方ニ一社、間二十間計有、両方ノ門前ニ茶ヤ有、小坂也。コレヨリ白坂(宿)へ10丁ホドアリ。古関を尋ねて白坂の町の入口ヨリ右へ切れて旗宿へ行く。廿日の晩泊る。」と記す。

古代の白河関の場所については、1800年(寛政12年)、白河藩主松平定信が文献による考証を行い、その結果、旗宿の現在の白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡であると論じ、国史跡にも指定されているが、現在でも正確には特定されているわけではない。

松尾芭蕉の時代でも白河関跡の故地推定地は4か所ほど知られていたらしく、白坂の「境の明神」(新関)から旗宿の「境の明神」(古関)を参詣し、翌朝には関山を訪れている。芭蕉も確信をもって白河関跡を見たとは言えなかったために、「おくのほそ道」では芭蕉は「旅心定(たびごころさだま)りぬ」と記したが、「白河の関」の具体的描写はしていない、という。

境の明神(陸奥側)。福島県白河市白坂明神。

白河から見ると、陸奥側(白河市)には玉津島明神(女神・衣通姫)、下野側(栃木県那須町)には住吉明神(男神・中筒男命)が祀られている。「玉津島明神」と「住吉明神」は、国境の神・和歌の神として知られ、女神は内(国を守る)・男神は外(外敵を防ぐ)という信仰に基づき祀られている。このため、陸奥・下野とも自らの側に「玉津島明神」を祀り、反対側に「住吉明神」を祀るとしている。

社殿については、会津領主蒲生氏により造営され、白河藩主本多能登守により改修されたという記録があるが、現存する社殿は、火災による焼失のため、弘化元年(1844)に再建されたものである。

松尾芭蕉の奥の細道俳諧紀行で、みちのくの第一歩を記した場所として句碑や歌碑が建立されているとともに、大名家や商人から多くの燈籠が寄進されていることから、陸奥・下野の国境である境の明神として重要な場所であったことがうかがえる。

また、神社の向い側には、南部藩出身と伝わる一家が営んだ「南部屋」と称する茶屋跡や、松平定信の時代に建てられたという「従是北白川領」と刻まれた石柱がある。

「関明神」は、両国境に玉津島神社と住吉神社が対に祀られていたことから「関の二所明神」と言われていた。この通称と福島県側にあった茶屋「南部屋」の主人が盛岡出身だったこともあり、南部藩主お抱えの力士が創設した相撲部屋「二所ノ関」の名が付けられたという。

境の明神は、明治時代になって新国道や鉄道が開通すると、それにともない奥州街道の交通量も減り衰退した。明治期の道路拡張などの手が入っていながらもなお、江戸時代における奥州街道沿いの国境の景観を色濃く残し、陸奥国の玄関口としての白河の近世史を語る上で、重要な史跡である。

『白河二所の関碑』。ここは新関とされるが、実は古関であったという説が書かれている。

境の明神(下野側)方向。

国史跡・白河の関。白河神社登り口。白河市旗宿関ノ森。

白河関は、奈良時代から平安時代にかけて、都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門として歴史上名高く、「みちのく(奥州。現代の東北地方)の玄関口」とされてきた。鼠ヶ関(ねずがせき)・勿来関(なこそのせき)とともに『奥州三関』の1つに数えられる。

所在地は白河神社が祀られる白河市旗宿に比定されており、国の史跡に指定されている。

設置時期は明らかでない。『類聚三代格』承和2年(835年)太政官符では、「白河・菊多(勿来)の関を設置して以来400余年」と見えることから、9世紀前半の835年当時には「5世紀前半に設置された」と認識されていたとみられる。

当初、白河関はヤマト政権が北方の蝦夷に対抗するために建立した前線基地であったが、朝廷の勢力がさらに北進したことで軍事的意義は小さくなり、陸奥国との国境検問所という役割が残ったという。

平安時代以降、律令制度の衰退とともにヤマト政権の軍事的要衝としての白河関の機能は解消していき、白河関は遠い「みちのく」の象徴として和歌の歌枕に選ばれ、文学的感傷をもたらす存在となった。和歌での初出例は、平安中期の平兼盛が詠んだ「たよりあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと」(「拾遺和歌集」別)とされる。

平安末期または鎌倉時代始期の1189年(文治5年)、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼす奥州合戦の際に、頼朝が白河に達した際に梶原景季に歌を詠むよう命じると、景季は「秋風に草木の露をば払わせて、君が越ゆれば関守も無し」と詠んだ。

関の廃止の後、その遺構は長く失われて、その具体的な位置も分からなくなっていた。1800年(寛政12年)、白河藩主松平定信は文献による考証を行い、その結果、白河神社の建つ場所をもって、白河の関跡であると論じた。

古関蹟碑。松平定信が、寛政12年(1800)に、この場所が白河関跡に間違いないとし、建立した碑が残っている。

古歌碑。

平兼盛、能因法師、梶原景季が白河関を詠んだ歌三首を刻んだ歌碑。

便りあらば いかで都へ 告げやらむ 今日白河の 関は越えぬと (平兼盛)

都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関 (能因法師)

秋風に 草木の露を はらわせて 君が越ゆれば 関守もなし (梶原景季)

白河神社。参殿。

白河神社は、白河関跡を境内とし、関の明神、二所関明神とも呼ばれ、古墳時代の315年、白河国造・鹽伊乃自直命(しほいのこじのあたいのみこと)を祀ったのが始まりだという。

元和元年(1615)に伊達政宗が社殿を改築奉納したと言われ、本殿の棟紋に九曜星、縦三引きの紋が刻まれている。

治承4年(1180)、源義経が兄・頼朝の挙兵を知り鎌倉に向かう道中に詣で、境内の松に矢を立て勝利を祈願したと伝わり、祈願をした「矢立の松」が、小さな根元のみの姿となって残っている。

 

西会津はまたの機会として、白河関跡で今回の福島県の旅を終了し、16時30分頃に栃木県那須塩原市の道の駅へ向かった。

福島県白河市 福島県文化財センター白河館「まほろん」④奈良・平安時代 蕨手刀 獣脚鋳型 製鉄遺跡 


福島県白河市 福島県文化財センター白河館「まほろん」④奈良・平安時代 蕨手刀 獣脚鋳型 製鉄遺跡 

2024年08月03日 13時58分05秒 | 福島県

福島県文化財センター白河館「まほろん」。福島県白河市白坂一里段。

2024年6月1日(土)。

蕨手刀。奈良時代。観音山北横穴墓出土。西白河郡泉崎村。

観音山横穴墓群は、東北自動車道建設に伴なって昭和44年に発掘調査が実施され合計20基の横穴墓が調査され、3号墓からは蕨手刀が出土している。この横穴墓群の年代は7世紀後半代から8世紀にかけてと推定される。

「蕨手刀」は、柄の尖端が丸く湾曲し、芽を出したワラビの姿に似ていることから名づけられた古代の鉄刀である。刃と柄が一体となった共造りであることも特徴の一つである。

現在知られている蕨手刀は7世紀後半~9世紀にかけての東北地方や群馬・長野県の遺跡から出土することが多く、かねて「蝦夷の刀」として紹介されてきたが、近年の研究では異なる実態が見えてきている。とくに福島県域で発見された蕨手刀は7世紀後半~8世紀に比定されるものが多く、古代における東北経営と深く結びついている様子が伺われる。

泉崎村に所在する関和久(せきわぐ)官衙遺跡は、7世紀末から10世紀後半にわたって古代白河郡(現在の福島県南地方と石川町の一部)を統治していた白河郡衙跡で、728年から11世紀の陸奥国多賀城に駐屯した軍団の一つである白河団(白河軍団)の所在地とされる。

獣脚鋳型。平安時代。向田A遺跡。新地町駒ヶ嶺字向田。

獣脚は、鋭い爪が邪気を払うという考えから、ネコ科動物の脚をかたどった仏具の脚部を指す

向田A遺跡は、太平洋沿岸の丘陵上に位置し、製鉄炉7基、木炭窯 16 基、鋳造遺構6基、須恵器窯1基、住居跡6軒、土坑 21 基などが確認され、7世紀後半から9世紀後半にわたる製鉄関連遺跡であることが判明した。

このうち、鋳造に関するものでは、9世紀代の鋳造溶解炉 ( 甑炉 )、鋳型焼成場、鋳型等廃棄場などが確認され、すべて鉄の鋳造に関わる。

羽口などの製鉄関連遺物に混じって、特筆される遺物として鋳型類がみつかっている。鋳型類には、獣脚、器物、梵鐘(龍頭)等がある。

獣脚鋳型。平安時代。山田A遺跡。相馬市大坪字山田。

調査の結果、製鉄炉5基、木炭窯 14 基、鋳造遺構6基、木炭置き場1基、住居跡3軒、土坑 10 基などが確認され、9世紀前半の鋳造遺跡であることが判明した。

鋳造に関するものでは、2号鋳造遺構として溶解炉と作業場、廃棄場が確認され、獣脚や容器、風鐸、梵鐘、三鈷杵などの鋳型が多数確認された。これらの遺構もまた鋳鉄関連のものである

 

平安時代の鋳鉄製品-出土鋳型からの研究復元-(吉田秀享)まほろん研究紀要2005より抜粋。

これらの鋳鉄製品は、平安時代前期においていかなる用途があったのであろうか。

獣脚付容器 ( 羽釜タイプ ) は、その形状から湯釜の可能性が考えられる。奈良県川原寺では、7世紀後半~8世紀初頭の鉄製羽釜の上釜鋳型が確認され、口径 90 ㎝ほどの大きさから湯釜と推測されている ( 松村ほか 2004)。今回の復元品は直径 27 ㎝ほどと小さいため、湯屋での使用はできないものの、蒸気を発生させる道具 ( 主として精進潔斎のため ) と思われ、古代寺院の資材帳などに記載されている足釜に相当するものと考えられる。

次に、獣脚付容器 ( 獅噛タイプ)は、いわゆる火舎香炉であろう。鍋との考えもあるが、向田A・山田A両遺跡での容器鋳型と獣脚鋳型の出土数の割合や、容器鋳型の分類で示したように、ツバがつくものも含めて、改めてこれらを香炉と判断したい。

この他、風鐸や梵鐘は、その形状から用途は限られてくる。風鐸は寺院の塔あるいは金堂の軒先に垂下されるものであり、梵鐘は、たとえその大きさが半鐘であっても鐘は鐘であろう。

これらのことからは、向田A・山田A両遺跡で製作された鋳鉄製品は、寺院に関連する何らかの道具であったと考えられる。

山田A遺跡で生産された鉄製風鐸の供給先は陸奥国分寺が筆頭にあげられ、塔の改修の要請に応じて生産・納品されたのではないかと推定している。

この他、獣脚付容器などの鋳鉄製品も雑密系仏具と思われるので、同様の供給先であった蓋然性が高い。さらに、梵鐘に関しては、その音色の広がりにより仏法を知らしめるためのものであり、これもまた、国分寺などの寺院に納入された可能性が考えられる。

これらのことからは、向田A・山田A遺跡で主に生産されたものは、少なからず国分寺などの寺院に関連する雑密の鋳鉄製品であり、両遺跡が銑鉄生産から製品生産まで一貫した鋳鉄工場であったと判断できる。

そして、その背景には「金光明最勝王経」や「妙法蓮華経」をベースに、鎮護国家のため、仏教を前面に押し出した聖武天皇の国策を引き継いだ国府クラスが垣間見え、これらの要求に応えるために郡司層により雑密系仏具が生産された官営工場ではないかと思われる。しかしながら、本製品が納められた直後には、最澄・空海が中国から学んだ密教 ( 純密)が次第に広まり、これらが密教法具に取って代わられるのである。

 

平安時代の鉄づくり。

古墳時代終末期~平安時代前半(7世紀後半~ 10世紀)には、浜通り地方の丘陵地で海岸から採取した浜砂鉄を原料にした鉄生産が行われ、新地町武井地区製鉄遺跡群や南相馬市金沢地区製鉄遺跡群等の大規模な製鉄遺跡が見つかっている。また、この時期の鉄器生産は郡衙の連房式竪穴において集約的に行われている。

福島県の浜通り地方には古代の製鉄関連遺跡が多く存在するが、その中でも北部に当たる相馬地方には 210を超える製鉄関連遺跡が存在し、国内でも有数の製鉄関連遺跡集中地区の一つに挙げられる。新地町武井地区製鉄遺跡群、相馬市大坪地区製鉄遺跡群、南相馬市金沢地区製鉄遺跡群・川子地区製鉄遺跡群・割田地区製鉄遺跡群・蛭沢製鉄遺跡群・川内廹遺跡群・横大道製鉄遺跡群などが調査され、横大道製鉄遺跡は平成 23年2月に国史跡に指定された。

一方、双葉地方やいわき地方でも、浪江町北中谷地遺跡・太刀洗遺跡、富岡町後作B遺跡、楢葉町南代遺跡、いわき市磐出館跡・清水遺跡などが調査されている。

これらの遺跡は、7世紀後半以降、中央政権による東北開発・支配が活発化することにより、その一環としての鉄器・鉄の現地生産が行われる過程で営まれたものと推測される。特に、8世紀後葉に中央政権が本格的な蝦夷征伐に乗り出し、8世紀後葉以降、鉄生産量が増大化するのはこの蝦夷征伐やその後のさらなる東北開発・支配と連動していると推測される。

 

「まほろん」見学後、白河関跡へ向かった。

福島県白河市 福島県文化財センター白河館「まほろん」③弥生時代 天王山式土器 桜町遺跡 人面付土器 


福島県白河市 福島県文化財センター白河館「まほろん」③弥生時代 天王山式土器 桜町遺跡 人面付土器 

2024年08月02日 15時04分07秒 | 福島県

福島県文化財センター白河館「まほろん」。福島県白河市白坂一里段。

2024年6月1日(土)。

 

天王山式土器は、壺・甕・鉢・高杯などがある。天王山式土器を最も特徴づける文様は、沈線間に上下から刺突を加えた交互刺突文である。その他に、沈線による鋸歯文、連弧文、工字文、方形区画文、渦文、菱形文や、磨消縄文手法もみられ、磨消部に赤彩したものも存在する。

発見当時、他に類例を見ない特徴を有していたことから弥生土器の標式として、「天王山式土器」と名づけられ、現在、東北地方から北陸地方を中心に分布することが確認されている。

和泉遺跡。会津若松市和泉字下分。

弥生時代後期の、天王山式と呼ばれる土器が出土している。その後、古墳時代初めには、竪穴住居

が造られ、集落だったことがわかっている。

能登遺跡。会津坂下町勝大能登。

新鶴(にいつる)村から北流する宮川の支流出鶴沼(いづるま)川左岸に位置する。平成2年(1990)磐越自動車道建設に伴う発掘調査が実施され、おもに弥生時代と奈良・平安時代の遺構・遺物が発見された。弥生時代ではいわゆる天王山式期の土器が遺物包含層から多量に出土した。これらの土器群を構成する器種には壺・広口壺・甕・蓋などがあるが、なかでも広口壺の出土量が多い。煤の付着状況等から甕同様煮炊用具とされる。土器の表面は縄文土器的な文様で加飾されることが多く、とくに広口壺の口縁から頸部にかけてその傾向が強い。文様は口縁部下端に多用される交互刺突文や弧線などによる沈線文の組合せで描かれる。

桜町遺跡。湯川村。

湯川村の桜町遺跡は、会津盆地のほぼ真ん中に位置する弥生時代後期と平安時代を中心とした遺跡である。会津縦貫北道路建設に伴う発掘調査によって、弥生時代後期の方形周溝墓が7基確認され、その中から多くの弥生土器が発見された。方形周溝墓とは、遺体を埋葬する部分は土を盛り上げて塚状にし、その外周に溝を掘って四角形に区画した墓で、弥生時代前期後半に近畿地方で最初につくられ、その後、東日本に広がった。

桜町遺跡で出土した土器は壺形のもの(壺形土器)や台付きの杯形のもの(高杯)が多く見られ、中にはベンガラ(赤色酸化鉄)で赤く塗られた土器も含まれる。おそらくこれらの土器は、死者を弔う埋葬儀式などで供え物を入れたものと考えられる。

方形周溝墓から出土した弥生土器は、会津盆地の伝統のある縄文のついた土器(天王山式系)を主体としているが、北関東や北陸地方の弥生土器の特徴を取り入れた土器が多数あることから、この時期に人々の広範な地域間交流があったことがうかがわれる。

おそらくこの頃に会津盆地に定着した新たな集落が、水田稲作などの農業経営をもとにしながら比較的急速に成長し、次第に階層差が生じ、その中から権力をもった有力者が現れたと考えられる。方形周溝墓はこのような人物の墓として登場したと思われる。

近年、会津地方の古墳文化の成立には、北陸地方の強い文化的影響があったことが指摘されてきたが、桜町遺跡の調査成果は、その前段階に広範な地域交流があって、方形周溝墓が導入され、やがて会津若松市の会津大塚山古墳や会津坂下町の亀ヶ森古墳などの前方後円墳に代表される古墳時代を迎えることになったと考えられる。その点では、桜町遺跡の古墳時代直前の方形周溝墓の出現は、画期的な歴史事象と言え、桜町遺跡の弥生土器はそれを雄弁に物語っている。(当館 副主任学芸員 稲村圭一)

人面付土器。弥生時代中期。郡山市田村町徳定A 遺跡。

徳定A・B遺跡は、福島県郡山市田村町徳定・御代田に所在する。遺跡の場所は、JR郡山駅や郡山市役所の所在地を含む市街地の広がりの南東際の部分である。遺跡の範囲は多くが宅地化する一方で、南側から東側にかけては水田がひろがる。遺跡の西側には阿武隈川が北流し、その東岸沿いに広がる平坦地の微高地上に、遺跡は立地する。

弥生時代の埋葬方法には伝統の残存がみられる。縄文時代の終末から弥生時代中期前半まで造られた再葬墓(さいそうば)は、遺体を白骨にしたあと、骨を土器に入れて埋納する方法で、最も古い再葬墓が福島県の会津から中通りにかけて発見されているため、この地域で成立したと考えられている。

再葬の際に使う土器の中にしばしばみられる人面付土器も、縄文時代の土偶のなごりと言われており、田村町徳定遺跡で出土している。

このように、東北の弥生時代には、伝統的な縄文時代の要素と新たに取り入れた文物とが混在するという特徴がある。

福島県白河市 福島県文化財センター白河館「まほろん」②縄文時代 


福島県白河市 福島県文化財センター白河館「まほろん」②縄文時代 

2024年08月01日 15時50分43秒 | 福島県

福島県文化財センター白河館「まほろん」。福島県白河市白坂一里段。

2024年6月1日(土)。

大木8a式土器。法正尻(ほうしょうじり)遺跡。磐梯町・猪苗代町。

法正尻遺跡は、磐梯町の法正尻地区から猪苗代町遠出にかけての磐梯山の南西に広がる翁島丘陵地東部、標高560m前後の場所に営まれた縄文時代中期(約5400~4400年前)を中心とする集落遺跡である。遺跡の位置する丘陵は、火山性の岩なだれ堆積物から構成された直径200~400m、比高10~50mほどの小丘、いわゆる“流れ山”が連続した波曲状の地形をなしている。流れ山の間は窪地や小盆地のようなところが何箇所もあって、かつては湿原や沼地も多くあった。こうした窪地は、流れ山が風よけとなり、豊富な湧水もあって、古くから生活する上で好適地であったに違いない。

法正尻遺跡では、1988(昭和63)年から平成元年にかけて磐越自動車道建設に伴う発掘調査が行われた。その結果、竪穴(たてあな)住居跡129軒、土坑759基、埋甕(うめがめ。土器埋設遺構) 26基などが見つかり、出土した遺物は実に26万点という膨大な数に上っている。

大木式(だいぎしき)土器と呼ばれる東北地方南部を代表する縄文土器が多く出土したほか、関東地方の阿玉台式(おたまだいしき)土器東北地方北部の円筒式土器と共通するもの、新潟県に分布する馬高式(うまたかしき)土器と似ているものも含まれており、周辺地域との交流があったことが裏付けられた。

2009(平成21)年には、こうした文化の交流の実態に迫る貴重な出土資料として、縄文時代中期を中心とする土器・土製品・石器など855点が国の重要文化財に指定されている。

中でも装飾品として身に着けた長さ8cm以上ものヒスイ製の大珠は、新潟県の糸魚川地区産の石材で、規模の大きな遺跡に限って出土する大変珍しい遺物として知られる。その他、石器に利用された黒曜石もまた新潟県や栃木県からもたらされたことが分析によって判明している。このように、出土したさまざまな遺物は、今から約5,000年前、山間のこのムラに多くのヒトとモノが集ったことを物語っており、その情景はまさに縄文文化の十字路と呼ぶにふさわしい。

桑名邸(くわなやしき)遺跡。天栄村大里字西畑。

縄文時代中期を中心とした集落遺跡。奥羽山脈の東側に広がる丘陵地帯の、丘陵の平らな段丘面に位置する。遺跡からは、縄文時代中期の竪穴住居跡37軒、土坑511基が見つかっている。土坑は、貯蔵穴と思われるものが含まれ、土器が投棄された状態で見つかったものもある。遺物は、完形品を含む縄文土器のほか、石器類、土製品などが見つかっている。縄文土器は、完全な形をしたものが多く見つかり、なかには関東地方や、北陸地方の影響を受けた文様を持つものもある。

上ノ台(うえのだい)A遺跡。飯舘村大倉上ノ台。

縄文時代中期前葉から後期前葉に至る集落跡。阿武隈高地を流れる河岸段丘上に位置する真野(まの)川とその支流の木戸木(ことぎ)川および大倉沢に挟まれた舌状浸食段丘上に立地する。昭和五七―五八年(一九八二―八三)に真野ダム建設に伴う調査が行われ、住居跡・土坑群・配石遺構・礫群などの祭祀遺構などが明らかとなった。出土遺物の量から縄文時代中期前葉において大倉地区の中核的集落を形成していたと考えられる。遺跡からは、竪穴住居跡70軒、土坑41基、埋甕25基、配石遺構6基などが見つかっている。石と土器を巧みに組み合わせてつくられた「複式炉」といわれる炉が見つかっている。遺物としては、縄文土器や石器の他に石剣も見つかっている。また、ニホンジカとイノシシの獣骨も見つかっており、縄文時代の生業(狩猟)の一端を示す貴重な資料となっている。

 

羽白(はじろ)C遺跡。飯舘村大倉羽白。

縄文時代前期を中心とする縄文時代早期から晩期の集落跡。真野(まの)川流域、大倉盆地南東部に形成された河川浸食段丘上に立地する。遺跡からは縄文時代の竪穴住居跡141軒、土坑501基、埋甕49基などが見つかり、縄文時代前期の地域の中心となる集落であったと考えられる。

遺物としては、大量の縄文土器や石器のほかに、土偶や土版などの祭祀に関係した土製品が見つかっている。祭具の石剣の製造過程が解明された点は注目され、石剣の未完成品の出土が目立つ。土でつくった錘(おもり)なども見つかっており、真野川で行われたであろう漁労活動の一端もかいま見ることができる。

荒小路遺跡。郡山市田村町谷田川字荒小路。

縄文時代後期を中心とした集落の跡で、福島県のほぼ中央、郡山盆地東部に位置している縄文時代後期前葉~後期中葉の集落跡である。竪穴住居跡のほか、埋甕、配石遺構、狩猟用の落とし穴などが発見された。多数の縄文土器や石器のほか、土偶や獣形などの土製品が見つかっている。

出土した土偶の1つは、顔の形状がハート形を呈する土偶(ハート形土偶)の代表的なもので、2009年ロンドンの大英博物館に出展された。

土偶。縄文時代後期。柴原A遺跡。三春町柴原字柴原。

縄文時代の中期から後期を中心とする集落跡。遺跡は、阿武隈高地を流れる大滝根川の河岸段丘上に位置している。遺跡からは、竪穴住居跡20軒、敷石住居跡8軒、埋設土器40基、集石遺構60基等が見つかった。なかでも、縄文時代後期の石を敷いて作られた敷石住居跡は残りが良く、洪水の堆積層の下から当時の集落跡がそのまま見つかった。

縄文土器や石鏃等の石器類、土錘や土偶などの土製品等も大量にみつかっており、土偶には完全な形のものもある。

 

福島県白河市 福島県文化財センター白河館「まほろん」①旧石器時代


福島県白河市 福島県文化財センター白河館「まほろん」①旧石器時代

2024年07月31日 16時33分03秒 | 福島県

福島県文化財センター白河館「まほろん」。福島県白河市白坂一里段。

2024年6月1日(土)。

南湖公園から「まほろん」へ向かった。敷地は広い。

常設展示室では、「遺跡から学ぶ自然と人間のかかわり」をテーマに、福島県内の遺跡から出土した土器や石器等を展示している。

 

一里段A遺跡(いちりだんAいせき)。「まほろん」の敷地にある遺跡からは、縄文時代の落とし穴の他に、旧石器時代の石器が東西2カ所からまとまってみつかっている。なかでも、西側のまとまりから見つかった石器は、剥片や石核の他に、ナイフ形石器、削器、彫刻刀石器、台形様石器などの石器がみつかっている。これらの石器は、3万年前に鹿児島県の火山から降ってきた火山灰の下からみつかっているところから、後期旧石器時代前半期のものと考えられる。

三貫地遺跡(新地町)。

阿武隈高地東縁の丘陵地の北側緩斜面に位置する旧石器時代と奈良・平安時代の複合遺跡で、旧石器ブロック1カ所、竪穴住居跡39軒、掘立柱建物跡40棟、井戸跡10基などがみつかっている。

旧石器は半径約5mの範囲で集中してみつかっており、その点数は、10,112点に上る。石器の種別は剥片類が一番多く、他にナイフ形石器、彫刻刀形石器、錐形石器等である。石核と剥片が多く、接合する資料もあったので、後期旧石器時代の石器製作場と思われる。

福島県 白河市歴史民俗資料館③白河結城氏 国史跡・白川城跡