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北海道羽幌町 天売島(てうりとう) 海鳥の楽園 ウミネコ

2025年03月03日 09時01分59秒 | 北海道

天売島フェリーターミナル。北海道羽幌町。

2022年6月20日(月)。

 

左が焼尻島。右が天売島。

焼尻島。

焼尻島12時25分発の高速船に乗船。天売島には12時40分に着いた天売島からの帰りは15時50分発のフェリーで羽幌港には17時25分に着く予定である。

島内の道路は、海鳥繁殖地に沿って時計回りに一方通行(6月1日〜8月31日)。一周10kmの道路は、展望台に寄りながらゆっくり歩いても3時間、自転車だと2時間。

天売島は、北海道北西部の日本海に浮かぶ離島。留萌振興局管内の苫前郡羽幌町にある羽幌港から30km西にあり、天売島の東側に並んで浮かぶ焼尻島とともに羽幌町に属している。面積5.47km2、周囲約12km、人口は273人(令和3年9月時点)。島の名は、アイヌ語の「テウレ」(魚の背腸)もしくは「チュウレ」(足)に由来すると言われている。

ウミガラス(オロロン鳥)の日本における唯一の繁殖地であり、「海鳥の楽園」と呼ばれる。海鳥は8種100万羽が生息すると推計されている。

島の北西海岸は断崖が続き、ウミガラス(オロロン鳥)やウトウ、ケイマフリ、ウミウ、オオセグロカモメなどの海鳥の繁殖が確認されている。ウミガラスについては日本国内で唯一の繁殖地である。1938年(昭和13年)8月8日に「天売島海鳥繁殖地」として国の天然記念物に、1982年(昭和57年)3月31日には、国指定天売島鳥獣保護区(集団繁殖地)に指定されている(面積546ヘクタール、うち特別保護地区117ヘクタール)。

羽幌町では海鳥など野生動物の保護を目的に2012年4月に『天売島ネコ飼養条例』が施行され、野良猫の増加抑制策を進めた。殺処分は避け、飼い猫登録制の導入、野良猫への餌やりの禁止や捕獲したうえでの飼い猫としての譲渡、去勢手術で対応した。2014年に200匹以上いた野良猫はほぼいなくなり、雛が襲われなくなったことで2015年に約1000羽へ減ったウミネコが2019年は約5000羽へ回復した。

ウミネコの巣は1987年時点の約3万カ所から2013年時点の998カ所へ激減したが、2019年には2616カ所に再び増えた。上記のような、小笠原諸島の事例を参考にした猫対策だけでなく、空気銃によるハシブトガラスの駆除、デコイによるウミガラスの営巣地誘導といった対策もとられた。

現在では緑に覆われた島となっているが、明治時代以降、入植者(ニシン漁従事者)による乱伐、山火事の発生により島内の森林の大半を喪失する状態にあった。生活に必要な水資源に事欠くような状況となったため、第二次世界大戦後、北海道が治山事業により植林を開始。厳しい自然環境の下、育成は困難を極めたが1980年代から1990年代にかけて、ようやく成果が見られるようになった。

1990年(平成2年)8月1日には、周辺の暑寒別山系や焼尻島等とともに暑寒別天売焼尻国定公園に指定されている。

原付バイクをレンタルして、天売港のある北東部から南西方向へ時計回りに一周を始めると、海岸沿い道路の海側にウミネコが群れていて、近づいても逃げない。

赤岩展望台。

赤岩展望台一帯の斜面は直径20センチほどの穴を掘って巣を作るウトウや草地に営巣するウミネコの繁殖地で、5〜7月には海鳥たちの子育てが間近で観察できるチャンスがある。

ヒナの餌を運ぶウトウとウミネコの攻防が見られる。約40万つがいともいわれるウトウが、夕暮れから一気に帰巣すると、巣穴付近でもたついたウトウとウミネコの餌の攻防が始まる。

日中は海上で生活し、夕暮れに口いっぱい小魚をくわえ、ヒナの待つ巣穴めがけてすごい勢いで帰ってくるウトウ。この餌のおこぼれをねらうウミネコが巣穴周辺で待ちかまえる。ウトウはウミネコよりも遙かに小柄で体力ではとてもかなわない。しかしウトウには、水平線の彼方からツバメのような早さで飛来し、正確に自分の巣穴めがけて飛び込めるというレーダーのような優れた能力がある。

6月中旬にはエゾカンゾウが海鳥観察舎付近の丘に咲く。

海鳥観察舎。

島の最高点に近接していて、西海岸の壮大な断崖絶壁群のスタート地点であり、海鳥繁殖地の中心ポイントに設けられている。

目も眩むような西海岸100メートルを超える断崖絶壁が海鳥観察舎付近から始まる。日本海の強風と荒波をもろに受けた厳しい自然の爪痕は、海鳥たちにとって外敵から身を守る最適な繁殖地である。

海鳥の繁殖期は4月から8月まで、シーズン中、観察舎内に設置されている50倍の無料望遠鏡を覗くと断崖の岩棚ではウミウの子育て、岩礁で遊ぶ赤い足をしたケイマフリなどを見ることができる。

観音岬展望台から。

かつてはウミネコの一大繁殖地として知られ、今も数多くの海鳥が生息する百数十メートルの断崖絶壁を一望できる。

天売港上の高台から焼尻島。

天売港。

予定通り、天売島から15時50分発のフェリーで羽幌港に17時25分ごろに帰り、道の駅「はぼろ」で車中泊。翌朝は、7人を喰い殺した史上最恐の人喰いグマ事件で有名な苫前(とままえ)町の三毛別(さんけべつ)羆(ひぐま)事件復元地から見学を始めた。

北海道羽幌町 焼尻島 国天然記念物・オンコの荘(しょう)

北海道 苫前町 ヒグマの食人事件・三毛別ヒグマ事件復元地

北海道 苫前町 苫前町郷土資料館 三毛別ヒグマ事件


北海道羽幌町 焼尻島 国天然記念物・オンコの荘(しょう)

2025年03月02日 09時08分56秒 | 北海道

高速船さんらいなぁ2。羽幌港フェリーターミナル。羽幌町港町。

2022年6月20日(月)。

道の駅「はぼろ」で起床。本日は羽幌港から焼尻(やぎしり)島と天売(てうり)島の日帰り観光である。行程は、羽幌港 830発・焼尻島930着、1225発・天売島1240着、1550発・羽幌港1725着。運賃は障害者割引でそれぞれ800円、680円(急行料金含む)、1170円、合計2650円と一般運賃の半額。

フェリー「おろろん2」。羽幌港フェリーターミナル。

羽幌港へは道の駅「はぼろ」から車で数分の距離だが、7時30分に着くと、8時30分出航のフェリー「おろろん2」と8時出航の高速船さんらいなぁ2が停泊していた。

8時30分にフェリー「おろろん2」は、羽幌港から出航した。

羽幌港と羽幌町市街地。

右に焼尻島、左に天売島が見えてきた。

焼尻島。港付近。

焼尻島は、北海道留萌振興局管内の苫前郡羽幌町の西25kmの日本海に浮かぶ島である。武蔵水道を隔てて西方にある天売島とともに、羽幌町に属する。焼尻島は平坦な島である。

面積5.21㎢、人口約200人。かつて6,000人が暮らしていたが、島の沿岸部にあった集落は道路の拡幅により全て取り壊されている。島の名は、アイヌ語の「エハンケ・シリ」(近い島)、あるいは「ヤンケ・シリ」(水揚げする島)に由来すると言われている。

歴史。

14世紀ごろ - マシュケアイヌにより焼尻漁場が支配される。

1822(文政5)年 - マシュケアイヌ200人が定住し、ニシン漁に携わる。

1786(天明6)年 - 六代栖原角兵衛、幕府よりヤンゲシリ漁場請負を命ぜられる。

1848(嘉永元)年6月27日 - アメリカ人ラノルド・マクドナルド(Ranald MacDonald)、焼尻に漂着

1855(安政2)年 - 秋田藩の管理地となる。

1859(安政6)年 - 庄内藩の支配地となり、焼尻でのアイヌと和人の交易は庄内藩がトママイ場所で管理。

1868(明治元)年 - 明治維新により困窮した水戸藩の支配地となる。

1876(明治9)年 - 苫前村より焼尻村が独立。

1879(明治12)年 - 郡区町村制が定められ、焼尻村、天売村戸長役場を焼尻に設置。

1885(明治17)年 - 焼尻郵便局を石川県人小納家が引き受ける。

1906(明治39)年 - 焼尻村二級町村施行

1959(昭和34)年 - 羽幌町に編入。

1964(昭和39)年 - 天売、焼尻道立自然公園となる。

1969(昭和44)年 - 羽幌港、苫前港との連絡フェリー「天羽丸」就航。

1979(昭和54)年 - 焼尻高等学校閉校。

1990(平成2)年8月1日 - 暑寒別、天売焼尻国定公園指定。

焼尻港。

焼尻島の観光は、短時間の日帰り客にとって、国天然記念物・オンコの荘(しょう)ぐらいしかない。事前に移動手段を検討して、島内部の高低差から、焼尻島はレンタサイクル、天売島は原付バイクと決めていた。

運よく、貸自転車店はフェリー乗り場にあった。料金は12時ごろに返して800円。

ただ、標津町のカリカリウス遺跡で自転車に乗った時に3回転倒して諦めたので不安だったが、今度は問題なく乗れた。

北東部の展望園地。石碑群がある。

会津藩士の墓。オンコの荘(しょう)入口。

1808年(文化5年)、樺太出兵から帰還中の会津藩士が嵐に会い遭難したため、後に墓を立てて埋葬した。また別な資料によると、会津藩士が津軽藩士に代わり、利礼樺太警備のため出陣したが、その途中船中にて病没したため、焼尻島に寄港し埋葬したとの記述もある。

一基には「会津小原内匠忠貫」「文化五年戊辰七月十一日」、他の一基には「会津山内一学豊忠」「文化五年戊辰七月十六日」の刻がある。

オンコの荘(しょう)周辺。

オンコの荘(しょう)手前は遊歩道が錯綜して迷ったので、いったん諦めて、島の南西端「鷹の巣園地」へ向かう「オンコ海道」という一直線の道路を走った。

鷹の巣園地。天売島が目前に浮かぶ開放的なパノラマ。

島の西南部の岬に広がる草原で、さえぎるものは何もない目の前には約3.5キロ離れた天売島、東は天塩山系が連なり、南に暑寒別岳と雄冬岬の海岸線が走っている。そして北は、利尻富士が蜃気楼のように水平線に揺れるなど、日本海を見渡すことができ、記念撮影の名所になっている。また、この付近は英語教師第1号として日本史にも登場するラナルド・マクドナルドが上陸した地と言われている。

天売島を隔てる武蔵水道とは、1925年旧日本海軍測量船「武蔵」が測量したことから名称となり、好漁場として知られている武蔵堆の発見もこのときの調査によるもの。反対側には北海道(羽幌の町)が見える。

ラナルド・マクドナルド上陸記念碑。

1848年(嘉永元年)、アメリカ合衆国の捕鯨船員ラナルド・マクドナルドが上陸した場所とされる。その後長崎に移されたマクドナルドは、日本初のネイティブ英語教師となった。なお、マクドナルドは当時、住人に出会えなかったので、焼尻島を無人島と思い、島を出て利尻島に移った。

めん羊牧場。

白亜灯台。

羽幌町焼尻郷土館(旧小納家住宅)。

1900年(明治33年)竣工の木造2階建て建築(北海道指定有形文化財)島の網元であった小納(こな)家の住宅で、2代目の小納宗吉によって建てられた。小納家は呉服店・雑貨店を兼営し、郵便局・電信局をも併設した。当時大変珍しくかつ高価であったトタン板で屋根を葺き、外壁は檜、内部は紫檀や黒檀の柱を使うなど贅を尽くした建物である。現在は資料館となっており、家具や生活用品のほか、当時の電信機器などが展示されている。

オンコの荘(しょう)入口。

オンコの荘(しょう)が心残りで、時間に余裕があったので、戻ってラナルド・マクドナルド上陸記念碑の手前から丘に登った。

国天然記念物・オンコの荘(しょう)。

島内には多くの自然が残り、暑寒別天売焼尻国定公園に指定されている。特にイチイ(現地ではオンコと呼ばれる)の原生林は、その厳しい自然環境から希有な森林相を形成し、焼尻の自然林の名称で1983年(昭和58年に、国の天然記念物に指定されている。

「オンコの荘」は、強風と豪雨に耐える“地を這う森”といわれ、10mもの枝を広げる老樹が連なる

焼尻島の森は本道の森とは趣を異にしている。一部の樹木は天高く伸びずに、上から押しつぶされたように枝が横に広がり、風圧に押されたように風下に傾いたまま成長している

日本海の強く激しい季節風や、雪の重みによるものだといわれ、森が深いために、若木は陽光を求めて木漏れ日を探しながら成長したためだと言われている。特に普通だと高さ15mに成長するオンコ(イチイ)が焼尻島の「オンコの荘」では高さわずか1m、その枝の広がりは直径10mを超える末広がりの巨木ぞろいである。

焼尻島12時25分発の高速船に乗船。天売島には12時40分に着く。

北海道羽幌町 北海道海鳥(うみどり)センター


北海道羽幌町 北海道海鳥(うみどり)センター

2025年03月01日 09時04分38秒 | 北海道

北海道海鳥(うみどり)センター。北海道羽幌町北6条。

2022年6月19日(日)。

 

幌延町のパンケ沼周辺から日本海沿いに南進して14時ごろ道の駅「はぼろ」に到着。翌日に焼尻島・天売島へ行くためだが、道の駅の東隣りにある北海道海鳥センターは、月曜休館なので日曜日中に見学しようと急いでいたが充分間に合った。入場無料だが、受付や館内に職員はいなかったので、天売島での海鳥観察へのアクセス手段などの質問ができなかった。

北海道海鳥センターは、環境省が希少野生動植物種の保護を目的として設置した野生生物保護センターの1つであり、主にウミガラスやエトピリカ等の海鳥に関する保護増殖活動や調査・研究、普及啓発活動を行っている。日本に初めてできた海鳥に関する博物館的な施設である。

羽幌町に属する天売島は、ウミガラス(オロロン鳥)を含む8種の海鳥の生息地として有名である。近年生態系が変化し、オロロン鳥などの貴重な海鳥が絶滅の危機にある。海鳥センターでは、海鳥の生態を学術的に分析・研究することにより、保全活動を行なっている。

センター内では、海鳥に関する様々なジオラマ・模型・調査研究などの展示物が見学でき、海鳥に関する情報を検索することができる。

事前の下調べでは、海鳥を飼育しているという情報もあったが、実際にはなさそうだった。

海鳥繁殖地のジオラマ。

北海道羽幌町の沖にある天売島は、世界でも有数の海鳥繁殖地である。そこに生息する海鳥8種類(ウミウ、ヒメウ、オオセグロカモメ、ウミネコ、ウミガラス、ケイマフリ、ウトウ、ウミスズメ)について、生息環境を模式的に示しながら光と音の演出によって紹介している。

海鳥繁殖地のジオラマ。

天売島西海岸にある海鳥繁殖地の崖面をリアルに再現。巣やひなを育てている様子を、海鳥の模型と音響・照明演出により観察できるようになっている。

海鳥繁殖地のジオラマ。

ジオラマのバードカービングは札幌在住のカーバー、北尾久美子さんによるもので、作品としての完成度も高く、道内外からバードカーバーが見学に訪れるという。

 

時間が余ったので、羽幌町郷土資料館を見学しようと資料館に着いた。庭にいた女性職員が受付に座ってから、入館料220円に障害者割引などはないのかと尋ねるとないと答えるので嫌気が差したことと、展示が古そうなので入館しなかった。今から思うと入館すればよかった。申し訳ない。

その後、スーパー2軒をはしごして、島で食べる昼食用のパンやレトルト食用の飲料水を購入したり、ガソリンスタンドで給油して、道の駅「はぼろ」へ戻った。

北海道豊富町 豊富温泉 幌延町 サロベツ原野 パンケ沼 音類竪穴群遺跡


北海道豊富町 豊富温泉 幌延町 サロベツ原野 パンケ沼 音類竪穴群遺跡

2025年02月28日 08時57分03秒 | 北海道

豊富温泉。右奥に豊富町営温泉入浴施設ふれあいセンター。北海道豊富町温泉。

2022年6月19日(日)。

猿払村の道の駅「さるふつ公園」から西南に進み、豊富町の豊富温泉に向かい、町営温泉入浴施設ふれあいセンターに営業開始時間10時の20分ほど前に着いた。駐車場も閑散としていたが、温泉街も閑散としていた。

1990年代後半に利尻山を登山したときから、豊富温泉から利尻富士が見えるようなイメージを描いていたが、豊富温泉は山間地にあり、利尻富士を見られるのは日本海側のサロベツ原野からの展望であった。

案内板の右には豊富鉱山のガス採取プラントの施設がある。

豊富温泉には、含よう素-ナトリウム-塩化物温泉(弱アルカリ性高張性温泉)と含よう素-ナトリウム-塩化物・炭酸水素塩冷鉱泉(弱アルカリ性高張性冷鉱泉)の2種類の泉質があり、いずれも黄濁し、井戸からは石油や天然ガスとともに湧出してくるため僅かに油分を含んでいる。乾癬やアトピー性皮膚炎に効果がある肌にやさしい湯治湯として人気がある。

10時の開館と同時に入館。あっと言う間に20人ほどが入ってきた。浴場に入浴していると、奥の湯槽に群がっていたので入って見ると源泉だった。表面にはガソリンのような油膜が漂っている。ガソリン臭がした。

タオルに付着したガソリン臭は2週間ほど抜けず、タオルを使うたびに臭いがして気分が悪くなった。

障害者割引で入浴料200円と安かったので、売店で牧場牛乳を買って飲んでしまった。

名山台展望公園。幌延町下沼。

国道40号線沿いにある展望施設で、利尻富士やサロベツ国立公園の湖沼景観を一望できる場所にある。音類(オトンルイ)竪穴群遺跡を遠望できるかもと思ったが無理だった。

駐車場は広大だが、高台にある売店・休憩所は休業状態だった。視界も悪く、展望地が上にあるのかどうかも分からなかったので諦めた。

パンケ沼園地。幌延町下沼。

パンケ沼は、サロベツ原野に位置する円形の塩沼(汽水湖)。天塩川の下流域に位置する。水深は約1.8mほどで概して浅く、沼と名付けられているものの、面積は3.55㎢もある大きなものである。環境省により、サロベツ原野として日本の重要湿地500に指定され保護されている。

湖畔にはいわゆる原生花園という規模ではないがショウジョウバカマ、エゾミソハギ、エゾカンゾウ、ヒメシャクナゲなどの植物が咲く。

幌延ビジターセンター。幌延町下沼。

環境省の施設なので入館無料。

サロベツ原野は、北海道北部にある豊富町と幌延町の海岸線沿いに広がる湿原である。宗谷丘陵南西側に位置する湿原であり泥炭地。独特の植生が豊富に見られることから、一部の区域は特にサロベツ原生花園と呼ばれることもある。東西8km、南北27kmで、面積は216㎢にも及ぶ広大な湿原である。2005年にラムサール条約に登録された。

上サロベツ原野と下サロベツ原野に分かれ、後者は利尻礼文サロベツ国立公園の特別保護地区であり、ペンケ沼、パンケ沼といった沼地が点在する。泥炭性の低湿地であり、海岸砂丘とその背後にある宗谷丘陵によって阻まれた潟湖が、泥炭による長い堆積作用によって形成された。日本国内の泥炭地としては石狩平野や釧路平野に次ぐ広さである。日本の秘境100選の一つに数えられる。

音類(オトンルイ)竪穴群遺跡。付近の地形。

幌延町の日本海側海岸線、浜里地区に所在。音類で確認された竪穴は、ほぼ擦文時代に限られている。

「音類」(オトンルイ)は、アイヌ語からきておりオタは砂浜、ウンはそこにある、ルイは路・道で、浜にある路を意味する。この地域は、サロベツ川流域にあるサロベツ原野とその日本海側に発達する海岸砂丘列で構成され、北は稚内市坂の下から南は天塩川河口まで発達する砂丘列は、40数kmに及ぶ数条からなる。 

遺跡の位置する海岸砂丘は第3砂丘地帯に相当し、低湿地や沼を含んだ数本の砂丘列からなるのが特徴。サロベツ湿原と横列砂丘列との間には、北東−南西方向に延びる砂丘列や明瞭な馬蹄形の砂丘が連なり、複雑な尾根筋を形成している。竪穴は中でも特に北東−南西方向に延びる海岸砂丘列に立地するものが多い。

竪穴の数は、6000区の大曲地区を中心とした北部がもっとも多く、5000区で少なくなり、1号チャシ地区を中心とする4000区で再び増える。3000区、2000区と南下すると竪穴群も疎らで、竪穴数も激減し、1000区では竪穴を見つけることはできなくなった。サロベツ川が砂丘に近いほど竪穴数が増加する傾向がみられ、川と砂丘との距離が分布に影響していると考えられる。

 

海岸砂丘地帯は、昭和49年に指定された「利尻礼文サロベツ国立公園」に属し、全域が平成17年にラムサール条約湿地に登録されている。

遺跡は、この砂丘列の南半部に立地し、竪穴群は、現在の音類橋付近から豊富町との境界付近まで、南北6kmの範囲に連綿と存在している。

※国立公園内であり、許可なく足を踏み入れることはできない。

日本海オロロンライン(北海道道106号稚内天塩線)。沿線のお花畑。

大半の区間を日本海に沿って走り、サロベツ原野の中を一直線に進む。風力発電の風車が並ぶほかは人家や電柱などの人工物がほとんどなく、直線主体の道路である豊富町以北の区間の沿道には電柱が1本もない。海の向こうに利尻富士を望むことができる。

幌延町浜里の北緯45度通過点モニュメント付近に浜里パーキングシェルターがある。

 

このあと、羽幌町の北海道海鳥(うみどり)センターへ向かった。

北海道猿払村 道の駅「さるふつ公園」700人が溺死した囚人船インディギルカ号の遭難


北海道猿払村 道の駅「さるふつ公園」ソ連の囚人船インディギルカ号の遭難

2025年02月27日 08時52分48秒 | 北海道

「さるふつ憩いの湯」とキャンプ場。道の駅「さるふつ公園」。北海道猿払村浜鬼志別。

「キャンプ場」手前に駐車車両が見える。イベント広場としても利用されており、奥には広大な猿払村営牧場が広がっている。

2022年6月19日(日)。

 

6月18日(土)枝幸町のオホーツクミュージアムえさしを見学後、17時ごろに道の駅「さるふつ公園」へ到着した。翌19日の行程として、オホーツク海沿岸から西の日本海沿岸に移動して、豊富町の豊富温泉、幌延町の名山台展望公園、羽幌町の野鳥センター(月休)を予定していたからだが、道の駅併設の「さるふつ憩いの湯」入浴も予定していたためでもある。

旅行前の下調べでHP「障害者手帳で行こう」記載の温泉施設の料金を調べていると、「さるふつ憩いの湯」は、障害者の入浴料が200円と安かった(一般450円)ので予定していた。実際には温泉ではなく水道の沸かし湯なので銭湯であったが、久しぶりに入浴できた。

猿払村は北海道北部にある日本最北の村で、総面積は590㎢、村としては北海道で一番広く、天然ほたて貝の水揚量が日本一の村という。

オホーツク海に昇る朝日。いさりの碑。

6月19日(日)4時30分頃に日光の明るさで目が覚めた。日の出時刻を過ぎたようだが、まだ朝日らしい風景が残っているかもしれないと、オホーツク海の海辺へ歩いていった。すると、海面から少し浮き上がった太陽が海面に反射する風景に出会うことができた。

逆光の朝日が岩礁を照らし出す。

北の宗谷岬方向。「いさりの碑」展望台から。

南の枝幸方向。「いさりの碑」展望台から。

「いさりの碑」。碑文。

 猿払の海を拓いた多くの先人の苦労と偉業を偲び、建てられたのが「いさりの碑」である。

(以下、碑文抜粋)

帆立貝漁場造成事業10周年に当り猿払の漁業のうつりかわりを振返って見る。

我々の先人がオホーツクの海の魚貝類に生活の糧を求めたのは明治の始め頃のことだ。

それから一世紀になんなんとしている。

春、4月5月、鰊の群来で海は乳白色になり獲っても獲ってもなくならないものと思われた。

鮭鱒は海の荒くれ男と力比べをするように網もさけよとばかり来網した

海扇と呼ばれた帆立貝は海の底に幾層にも重なり合っているのではないかと錯覚を起こさせる位生棲していた。

しかし之等の生物の運命も貪欲な人間の前には所詮は滅亡の運命が待ち受けていた。

今日ではあらゆる資源は有限であることが認識されている。

しかし生物資源は自然と人間の適正な育成管理によって永続させることが出来る筈だ。

私達も自然の摂理にかなった生物資源の育成管理を科学的調査と人智をあつめてやってみた。

春夏秋冬、自然の摂理は一世紀の昔も今と変わりなく繰返され生物の生命力は見事に部族と子族の繁栄に其の力強さを見せてくれた。

今、オホーツクの海は先人の開拓した時のように帆立貝が美事に結実してたわわな実を見せている

鮭鱒もまた間もなくふ化事業の結実を見せようとしている。

猿払の海を拓いた多くの先人の苦労と偉業を偲び其の意志を我々も子孫もうけつぎそして実践することを肝に銘じ、今此の碑を建てる。

人間は神々と力を競うべきでない。人間は自然の摂理に従うべきだ。

  昭和56年11月22日。猿払村漁業協同組合。

猿払村は、ホタテの水揚げ地として知られ、漁獲量は日本一である。古くからホタテの好漁場であり、明治時代にも香港に輸出されるなどしたが、濫獲により資源が消滅した。戦後まもなくは天北炭田の採炭と林業によって栄えたが、これが衰退すると村は疲弊、一部の権力者による密漁が横行し、道内管区から目を付けられる事態であった。

そこで村の興亡を賭けて、元来の産業であったホタテ漁の再興に取り組み、資源管理型漁業への転換に力を入れ、漁場造成や孵化・放流・育成事業など「育てる漁業」に取り組んだ。これが軌道に乗り、加工業も盛んになった。現在も稚貝の放流、害敵の駆除など、徹底した資源管理を行っている。ホタテ漁に携わる漁業組合員が高収入を得ていることから、住民平均所得は全国の自治体中4位(2016年)を誇る。

1971年(昭和46年)、猿払村漁業協同組合10年計画による初のホタテ稚貝放流事業を実施。以降、巨額を投じてホタテ放流事業に村の復興を賭ける。

1981年(昭和56年)、ホタテ漁業造成事業を終了。以後、計画的な稚貝放流と徹底した資源管理により驚異的なホタテ水揚を維持することとなる。これにより、道内で最も貧しいといわれた村は、支庁内高所得者の6割、全国でも有数の高所得自治体となっている。

「いさりの碑」から北へ向かう。北西の「風雪の塔」方向。

ホタテ化石群。

発見場所、中頓別鍾乳洞付近。年代、新生代第3期(約4000万年前)。重量、約40トン。

ホタテ化石。

松浦武四郎宿営の地。

当時の猿払公園あたりに松浦武四郎が宿営したというわけではないようだが、1846(弘化3)年、1856(安政3)年、1858(安政5)年に猿払で宿泊している。

インディギルカ号遭難者慰霊碑。

この慰霊碑は、昭和14年12月、浜鬼志別沖の荒れ狂う吹雪の中で、旧ソ連の貨客船「インディギルカ号」が座礁転覆した際に失われた700名以上の貴い命を悼み、昭和46年に建立された。

 世界の海難史上に残る大惨事の発生を知り、村民総出で約400人を救出した行為と犠牲になった人々の魂よ安かれと祈る心を顕している。

インディギルカ号は、旧ソビエト連邦の全長80m内外の貨客船で、1939年12月12日の未明、猿払村浜鬼志別沖合で座礁、沈没した。

インディギルカ号は、シベリアのマガダンからウラジオストクを目指している途中に暴風雨に巻き込まれ、宗谷岬の位置を見誤ったことから漂流12月12日午前2時頃猿払村の浅瀬に座礁。左舷に穴が開き浸水しながら西北方に押し流された。ここにきてSOS信号が発出されて稚内港から北日本汽船の樺太丸などが出航。樺太丸は現地でボートを出してインディギルカ号の乗客を救助、13日午後までに395人が救助されたほか、7人が海岸に泳ぎ着いたことから猿払村の住民が総出で救出活動にあたった。

結果的に子供も含め429名の生存者を救出するものの12月14日午前10時時点で海岸で収容された遺体は293人となった。収容できなかった者も含め700名以上が死亡したと思われたが、なぜか正確な乗客数を把握している乗組員は存在しなかった。

また、先に救助された船長が「船内にもう残る乗員はいない」と述べたため、船内に取り残された乗客が多数犠牲になったという証言もある。

当時、船長や乗客の説明では、乗客は漁期を終えた漁業者であり、カムチャツカ半島から引き上げてくる途中に遭難したというものであった。しかし個々の乗客の素性や目的等、その詳細については明らかにされなかった。

前述の船長による乗客の扱いも不審な部分であり、一方、事件を知ったソ連政府は日本政府に対して、船体の所有権を放棄したばかりか遺体の収容は不要、遺品の返還も無用、という異例の連絡を行っている。救助された乗組員らは、当月中に小樽港から離日、ウラジオストクへ向け帰国していった。

猿払村は、1971年(昭和46年)にオホーツク海に面した場所に慰霊碑を建立するなど、事故後も手厚く遭難者の慰霊を行ってきた。ソ連当局は慰霊碑の建立には協力したものの、冷戦時代に付きものであった派手なプロパガンダはなく、事故に対して比較的冷淡な姿勢を示したことは、長らく事故の詳細と共に謎とされてきた。

ソビエト連邦の崩壊後の1991年、歴史学者の原暉之は旧ソ連の公文書をひもとき、乗員の多くがコルィマ鉱山などのシベリア地方に点在していた強制収容所(グラグ)からの送還者であり、船自体が政治犯および家族の護送船であったとの説を発表している。

道の駅さるふつ公園の敷地には、事件の資料などを展示した「日ソ(ロ)友好記念館」が1972年にオープンしたが、施設の老朽化を理由に2011年に閉鎖・解体された

 

昭和14年12月12日に起きた1000人乗り「インディギルカ号」遭難の悲劇

2022/04/12 日刊ゲンダイ 保阪正康 作家

ソ連のインディギルカ号(以下、イ号と略す)は、シベリアのマガダンからウラジオストクに向けて、樺太を海岸沿いに南下していた。宗谷海峡から日本海に入って寄港地に向かっていた。ところが日本海を暴風雨が襲い、イ号は波に流されてさまよう状態になった。このイ号遭難を調べた澤田三尚がまとめた「検証 インディギルカ号遭難事件」(私家判)によると、以下のようになる。

「午前二時頃通称トド岩(海馬島)に激突座礁し、船体に大穴が開き横転、さらに押し流され、海岸から七百米浅瀬に乗り上げ右舷が着底し、船体の半分ほどが浸水した」

 この貨物船は乗組員40人。漁期にシベリアで漁業に従事していた漁師とその家族の1000人余が乗船していたとされている。もう少しこの遭難を記述していけば、荒波の中、乗組員10人ほどがボートを下ろして陸地の北海道を目指して漕ぎ出した。何度か転覆したが、それでもやっと北海道の小さな港町にたどり着いた。昭和14(1939)年12月12日の未明であり、宗谷郡猿払村浜鬼志別という町で、漁師の神源一郎宅に救いを求めたというのであった。この地の漁師たちは暴風の中、総出でロシア人の救出に当たっている。

ソ連船の遭難は微妙な国際情勢を反映して、国家レベルの段階では対策に頭をひねっていた。漁師たちのとにかく救助を優先しろという声とは、やはりいくぶんの開きがあったということであった。ソ連の船員たちは身ぶり手ぶりで、遭難の様子を伝達する。漁師たちは嵐の中で横転した船が揺れ動くのを見つめながら、どのような救出がいいのかと議論を続けた。地元警察は組織だって救助しようとしたが、低気圧が暴風雪となり、とても地元の漁師のレベルでは阻止できないことが明らかになっていった。

 横転した貨物船の上では乗組員の家族などが救助を求めて手を振っている。しかし手がしびれるのか、一人、二人と海におちていった。日本の漁師たちは必死に「頑張れ、今に助けに行くからな」と日本語で叫んでいる。しかしロシア人には通じるはずはなかった。日本に救助船の余裕はなく、やがて12月12日の昼過ぎには、漁師やその家族、そして乗組員の遺体が漂着してきた。日本の漁師たちは、漁師仲間として遺体を手厚く葬っている。

 イ号の本当の姿はなかなかはっきりしなかったが、やがて囚人船だと明らかになっていく。遭難が政治問題化していくことになったのである。

 

遭難者395人を救助するも、まだ船内に人がいた。なぜなのか?

2022/04/13 日刊ゲンダイ 保阪正康 作家

インディギルカ号の遭難事故に地元の北海道宗谷の猿払村では、漁民総出で救助活動を行った。ほかに青年団員、消防関係者、それに在郷軍人会などが嵐の静まるのを待って待機していた、その間にも多くの死体が海辺に漂着する。その遺体を弔うことも漁民たちの仕事になった。

 実は漁民たちを含めて、誰もが複雑な心境であった。ノモンハン事件が終わり、第2次世界大戦も始まっている。この村でもノモンハン事件に兵士として召集されて、戦死した者がいる。遺族の感情は複雑であった。

 しかしそうした感情は目前の困難と戦っているソ連の乗組員や漁民を助ける障害にはならなかった。漁民の中には自分の船を暴風雨の中に出して、救助に向かう者もあった。そのような船もやがて波にのまれ転覆するありさまであった。日本人漁師の間にも犠牲者が出かねない状況になった

 一方でソ連船の遭難は、北海道庁外事課を通して領事館、ソ連大使館にと連絡が伝わっていく。国内では警察を通じて陸軍の主要部門に情報が伝わっていった。そういう筋の元でも救助の船舶の手当てが進み、陸軍の依頼で大型の船舶も救助に向かっている。漁民たちは救助をもっと迅速にと、軍関係者にも要求している。こうして13日の午前7時には大型の船舶が現場に到着して、遭難者を3隻の船に乗せた。暴風雨が弱まったのを機に、3隻の船は遭難者を陸地に運ぶために、それぞれ何回か往復している。

救助活動は5時間にわたって続いた。澤田三尚の「検証 インディギルカ号遭難事件」によるなら、救助された遭難者は395人(うち漁師311人、その他は家族や乗組員など)だったという。最初に猿払村にたどり着いた5人の乗組員は、猿払から稚内に列車で運ばれたが、沿線では人々から歓迎され、彼らは涙を流しながら稚内港で救助者たちと再会している。

 事件は落着したかに見えた。遭難事故をめぐる日本とソ連の人間愛ともいうべきドラマの様相を帯びて終末を迎えたようである。

 しかしことはそれほど簡単ではなかった。第2幕があったのである。

 猿払村の漁民たちが中心になって、遺体作業の処理が続いた。ところが座礁した船を望遠鏡で見ていた漁民が、イ号の船腹で動いている人影を見た。ソ連の外交官が、まだ船には人がいる、全員救助したというのは嘘ではないかと日本側に詰め寄っている。実際には船長が「船にはもう残っている者はいない」と断言したため救助活動が終わったのである。なぜ船長はそんな見えすいた嘘をついて「自国民」を見殺しにしようとしたのか。 (つづく)

 

インディギルカ号の船長が生存者を見捨てた原因は「囚人」だったから

2022/04/14 日刊ゲンダイ 保阪正康 作家

しかし遭難事故から80時間以上が経過し、救助活動も終えて50時間近く経っている。もし転覆した船底に生存者がいるとすれば、船底に穴を開けなければならない。こうなると陸軍のような巨大組織が救助活動の先頭に立たなければならない。もう一度救助船が出され、船底に穴を開けところ、幾人かが雪をなめて生命を維持していることが確認された

 この遭難については、原暉之著「インディギルカ号の悲劇-1930年代のロシア極東」に詳しい。この書によると船底の人がいる部分を確かめては穴を開け、救助を続けたというのである。生存者もいたが、死者も多かったというのであった。幼児を抱く母親も交じっていた。第2次救助では27人が助け出された。結局生存者は402人であったという。

 彼らは小樽に移され、日本側の特高警察や外事課の職員によって事情聴取が行われている。地元紙はこの救助を詳細に報じている。すると道民の間に同情の空気が漂っていく。「ノモンハン事件を思うと敵愾心に燃えますが、人道愛には変わりありません。救助された婦人や子供に食べ物など買ってあげてください」との手紙に相応の金額が同封されていたこともあったという。

猿払村では合同慰霊祭も行われ、生存者は日本人の厚意に感謝して小樽港からウラジオストクに帰っていった。地元紙は日本のソ連に対する善意をたたえる記事を書いている。しかしその後の日ソの関係は、戦争を挟んでとげとげしい空気になっていったためか、この遭難事故は大きく語られることはなく、歴史的には見過ごされてきた。スターリン時代のこの遭難劇の背景に目を向けることはほとんどなくなった。

 それから50年余を経て刊行された前述の原暉之著は、このインディギルカ号は実は囚人船であり、正式の乗員は1500人を超えたのではないかと、具体的にその実像を明かしたのであった。北大のスラブ研究センター教授である原の、ソ連側の資料などを分析したこの報告にやっと納得した道民も多かったのである。原はこの著書に「インディギルカ号が実は『オホーツク海の死の船』として恐れられた囚人護送船の一隻だったという事実」と書いているが、この囚人という意味はスターリンから見た反国家的人物を指している。シベリアに送られて強制労働をさせられる時代のことだ。

それゆえに船長が生存者がいるにもかかわらず、見捨てる態度に出たのである。

 

「日本側が仕組んだ」証言通らず…インディギルカ号の転覆後、政治犯は射殺された

2022/04/15 日刊ゲンダイ 保阪正康 作家

1930年代、40年代に、スターリンは自らに反対する知識人らはいうに及ばず、それ以外の人々も反国家的人物とレッテルを貼ってシベリアに送り込んだ。そのルートがウラジオストクから収容所の入り口に当たるマガダンというコースだったという。このコースでは宗谷海峡を経由して行かざるを得なかったのである。

囚人護送船が頻繁に(日本周辺を)行き来していたのは単純な真理である」と原暉之はその書に書いている。つまりスターリンは、ウラジオストクからマガダンへの往復路として宗谷海峡を自由に通らせていたことになる。

 インディギルカ号は貨物船というのだが、実際には囚人護送船であった。ただし今回のように漁期などには、漁民の家族を乗せることもあった。船長が日本側の救助隊に、もう乗組員はいないと言ったのは、船底にいる囚人を助けるつもりがない意思を明確にしていたことになる。船長はこうした囚人が助かることで日本側に囚人護送船の存在が知られるのを極度に恐れていたのである。

 付け加えれば、この船長はウラジオストクに戻ってから遭難の責任を問われて、裁判を受けている。自らの立場を正当化するために、「この遭難事故は日本側が仕組んだ」と証言している。宗谷岬の灯台の光を変えたために我々は航路を間違えた、というのであった。この主張はさすがに相手にされなかった。

 1940年4月14日に判決が下され、船長は銃殺刑になっている。遭難したこと自体が責任を問われ、思想犯をシベリアに運んでいる事実があからさまになる危険性が罪として問われたのであろう。しかし船長の銃殺は日本側には知らされていない。

 さらに船が転覆したときに自身で脱出を図ろうとした政治犯は護送係の兵士によって射殺されている。まさに船内は殺伐とした空気に支配されていたのである。この護送兵も裁判を受けているが、5年ほどの有期刑だったという。脱出を逃亡と判断したと認められたのであろう。

 日本側の救助隊に救出された折にも、囚人や漁業関係者には、ソ連の内情を話してはいけないとの命令が出されていた。日本の特高警察や北海道庁の外事課員らが尋問を行ったが、初めから漁業関係者と思い込んでいたため結局は真相に迫ることができなかった。もし囚人護送船が日本周辺に遊弋していると分かったならば、日本側の対応もまた異なった形になったであろう。ソ連の弱みをつかんだことになるからだ。 

左:農業資料館【閉鎖中】、右:風雪の塔【閉鎖中】)

「風雪の塔」は、本村の基幹産業である酪農において、生乳生産量が村内全体で年間2万トン、戸当り平均2百トンを突破したことを記念して、昭和59年に建設された。

牛乳と肉の館。

「牛乳(ちち)と肉(にく)の館」では、いずれも「さるふつ」の名を冠した牛乳、バター、アイスクリームを製造しており、なかでも「さるふつ牛乳」は、脂肪分を分解しないまま高温で殺菌する全国でも珍しい工程を採用し、生乳に近いまろやかな風味が好評という。

これら製品の原料となっている生乳は、村内の農家から直接仕入れている。

 

5時30分ごろ駐車車両に戻って朝食を摂り、9時ごろ豊富町の豊富温泉へ向かった。

北海道枝幸町 オホーツクミュージアムえさし⑮砂金 4人を喰った人喰い熊