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北海道江別市 北海道立埋蔵文化財センター①旧石器時代 縄文時代早期前期 千歳市キウス5遺跡

2025年03月26日 08時45分55秒 | 北海道

北海道立埋蔵文化財センター。北海道江別市西野幌。

2022年6月23日(木)。

 

札幌市野幌の北海道博物館から北隣にある江別市の北海道立埋蔵文化財センターへ向かい、15時30分過ぎに着いた。

後期旧石器時代。細石刃。木古内町新道4遺跡

遺跡は津軽海峡に注ぐ木古内川の右岸、標高20m前後の段丘縁辺に立地する。遺跡はほぼ東西に700〜800mにわたり広がっており、後期旧石器時代および縄文時代早期〜晩期の遺構・遺物が多数検出されている。旧石器時代の遺物は、D地区から掻器・削器・彫刻刀形石器・石刃・細石刃・細石刃核など約24,000点が出土した。これらは細石刃文化に属するもので、石材は黒曜石24点(産地の判明したものは赤井川産)のほかは、頁岩で、接合により多数の原石に復元され、細石刃の生産、細石刃核の製作過程が明らかになった。

細石刃文化は、日本列島を含む東アジアからアラスカにかけて広い地域に分布しており、起源はシベリア方面に求められ、およそ2万4000年前に北海道に出現し、2万年前以降には道内各地で細石刃を出土する遺跡が急増する。さらに、この数千年後には本州へ波及した。

暁式土器縄文時代早期(約9千年前)の土器。帯広市暁遺跡から命名。約9千年前~8千5百年前ころ、十勝を含む東北海道地域で盛行した。表面にあまり模様をつけず、底が平らで、底面にホタテ貝のあとが付けられたことに特徴がある。

沼尻式土器。貝殻を押しつけたり引きずったりして施文した文様を特徴とする貝殻文・条痕文土器のグループで、釧路市沼尻遺跡で出土する条痕文のある平底土器。道南西部では土器の底がとがる尖底土器が中心となるのに対し、道東部では平底土器になる。平底土器は液体や食糧などを入れるのに用いられたもので、尖底土器は煮炊き用として使用された。

縄文時代早期後半の土器。

東釧路Ⅲ式土器。薄手の平底土器。縄文時代に入って縄文の文様がもっとも発達した時で縄や紐を転がしたり、押し付けたりして上から交互に向きを変えて、細い縄文がつけられている。北海道内に広く分布した。

千歳市キウス5遺跡。キウス5遺跡は、石狩低地帯東辺の馬追(まおい)丘陵から西流するキウス川右岸の丘陵下端部とキウス川旧河道の谷底平野に立地する。縄文時代中期後半の竪穴住居跡が多数発掘された。遺物は土器が多く石器は少量である。土器は道南地方のノダップ2式や東北地方の最花式(大木式系)が出土している。他の時期では、後期旧石器時代の忍路子型細石刃核を伴う石器群をはじめ旧石器時代から縄文時代・続縄文時代・擦文時代・アイヌ期とすべての時期の遺物が混在して出土している。

世界遺産・千歳市キウス周堤墓周辺の縄文遺跡群。住居群などの集落的な様相は縄文時代早期中葉に現れる。イカベツ2遺跡(暁式期、虎杖浜式期)、キウス5遺跡(暁式期)、キウス9遺跡(東釧路Ⅲ式期)で竪穴住居(群)が検出された。キウス9遺跡では90点以上の石刃鏃が出土した。

早期後葉の住居群はキウス7・キウス4・キウス5の各遺跡ほかで見られる。前期前半ではキウス5遺跡で急斜面に40軒以上の竪穴が密集していたほか、土坑墓が検出された。キウス4遺跡では西側低位部に大型住居がある。

中期後半にはキウス4・キウス5・キウス7遺跡に集落が分布し、特にキウス5遺跡では多数の住居跡が重複して見つかっている。後期前葉ではキウス7遺跡に竪穴住居・大型貯蔵穴が残され、キウス4遺跡、キウス5遺跡、丸子山遺跡、オルイカ1遺跡にも住居跡がある。後期中葉ではキウス5遺跡の東端部付近から対岸のキウス7遺跡全域に竪穴住居や平地住居、貯蔵穴、土坑墓など多数の遺構が見られ、キウス4遺跡では周堤墓・盛土遺構・道跡・建物跡・水場遺構・貯蔵穴などが確認され、周堤墓20基が群在する東側の墓域と266軒の住居や建物が集まる西側の居住域やそれを囲む南北2列の長大な盛土遺構など、集落構成の全体がほぼ明らかとなった。

中茶路式土器細い粘土ヒモの貼付けと、細かい縄文が特徴。

コッタロ式土器。細い貼付帯(てんふたい)上に縄の圧痕が施文された土器。

足形付土版。千歳市美々7遺跡。縄文時代早期後半。

玦状耳飾。縄文時代前期。

千歳市美々4遺跡美々4遺跡は、札幌、苫小牧の中央を流れる美々川の支流、美沢川左岸の台地・斜面部から低位段丘と水付部に広がる。新千歳空港建設のために発掘された。

縄文時代中期の円筒上層式土器。

円筒土器は、円筒状のシンプルなかたちをした土器で、東北地方北半部から北海道南西部にかけて分布し、縄文時代前期の円筒下層式土器縄文時代中期の円筒上層式土器に区分されるが、さらに前者は円筒下層式a型・b型・c型・d型、後者は円筒上層式a型・b型・c型・d型・e型に細分される。平底深鉢形土器の器形が、口縁がやや広がった円筒形(バケツ形)を呈することに由来している。

円筒土器文化圏の北側の境界線は概ね石狩平野であり、それ以北の道北・道東地方には北筒式土器文化圏、南側の境界線は概ね秋田市-田沢湖-盛岡市-宮古市を結ぶ線で、大木式土器文化圏が広がる。

類似する平底円筒型土器が遼河地域、朝鮮半島北部からアムール川流域、沿海州にかけての広範囲で紀元前6千年紀頃から紀元前2千年紀ごろまでの間に発見されており、ハプログループN1を担い手とする遼河文明との関連が指摘される。

北筒式土器北海道円筒式土器の略で、縄文時代中期後半に主として道東や道北に分布した、若干の繊維を含んだ円筒形の土器である。口縁は山形突起をもった波状もしくは平縁である。

札幌市 北海道博物館⑥近世以降のアイヌ文化時代 シャクシャイン 開拓使号客車 マックレー車(かき寄せ雪かき車)


札幌市 北海道博物館⑥近世以降のアイヌ文化時代 シャクシャイン 開拓使号客車 マックレー車(かき寄せ雪かき車)

2025年03月25日 08時48分12秒 | 北海道

北海道博物館。札幌市厚別区厚別町小野幌。

2022年6月23日(木)。

 

近世以降のアイヌ文化時代。

オットセイ・タケリ。

旧シャクシャイン像。

 

開拓使号客車。模型。

開拓使号客車は、1880年(明治13年)に開業した北海道で最初の鉄道である官営幌内鉄道で使われた開拓使等の政府高官専用の特別客車である。アメリカのハーラン・アンド・ホリングスワース(Harlan and Hollingsworth)社で製造されたものである。

幌内鉄道開業にあたって用意された8両の客車のうち、最上級の客車で、1両のみが存在した。番号はなく、「開拓使」がこの客車の名称であった。1881年(明治14年)8月に明治天皇が北海道へ行幸し、8月30日にお召し列車が運転された。その際御乗用となったのが本車である。1889年(明治22年)の幌内鉄道民営化にともない、北海道炭礦鉄道に引き継がれたが、1906年(明治39年)に鉄道国有法により買収され、国有鉄道に籍を移した。1948年(昭和23年)、交通博物館へ移されて公開された。2007年(平成19年)から埼玉県さいたま市の鉄道博物館で保存・展示されている。

マックレー車(かき寄せ雪かき車)。キ551。模型。

日本で実際に用いられた雪かき車の種類としては、ラッセル車、マックレー車、ロータリー車、ジョルダン車、ローダー車の5種類がある。

豪雪時にラッセル車での除雪を繰り返すと、掻き分けられた雪が左右に溜まり、次第に高い雪の壁ができてくる。雪の壁が高くなりすぎると除雪できなくなるため、まず雪の壁を崩し、さらにロータリー車で遠くに投雪する。この時に使われる雪かき車をかき寄せ雪かき車、またはマックレー車という。

マックレー車は除雪装置として「八」の字に開く翼を備えつけており、機関車の後方に連結し、除雪装置部分を後方に向け、翼を使って雪の壁を崩して線路の中央に向けて落としながら走る。そして、その後ろのロータリー車が線路の中央に落とされた雪を吸い込み、遠くに投雪する。

カナディアン・ナショナル鉄道(CN)の技師マックレー (Kenneth Donald MacLay) の技術を参考に、1928年(昭和3年)に札幌鉄道局工作課長の羽島金三郎の考案により苗穂工場において製作された。国鉄7350形蒸気機関車の炭水車の台枠を改造したため、当初3軸片ボギー式、後に2軸ボギーに改造。形式はユキ500→キ500→キ800(1941年(昭和16年)改番)と変遷し、1形式1両。1958年(昭和33年)度に廃車された。キ800は、小樽市総合博物館に保存されている。

1943~1959年に国鉄の各工場と飯野産業においてキ551~556、キ559~588の36輌が新製増備されたという。

 

1時間ほど見学後、15時15分頃近くにある北海道立埋蔵文化財センターへ向かった。

札幌市 北海道博物館⑤擦文文化 トビニタイ文化 アイヌ文化 内耳土器


札幌市 北海道博物館④オホーツク文化 鈴谷式土器

2025年03月23日 08時07分23秒 | 北海道

北海道博物館。札幌市厚別区厚別町小野幌。

2022年6月23日(木)。

 

続縄文時代後半には、北海道全域に後期北海道式薄手土器の略称である「後北式土器」が広がり、この土器はさらに、東北地方や新潟県にまで広がった。このころは東北地方北部にも、続縄文文化が広がったと考えられている。

鈴谷(すすや)式土器アムール河口部の古金属器文化と北海道の続縄文文化との2つの土器系統の融合によって成立したと考えられており、これら2つの文化の交流を示す資料とされている。

鈴谷式土器が出土するのは主にサハリン中部以南から北海道北端部にかけてであり、この土器は道東部へ客体的に搬入されたものとみられる。口縁部の文様や尖底などサハリン北部と共通する特徴を色濃く持ち、道東部とサハリンとの直接の交渉の可能性をも示唆する資料となっている。

札幌市 北海道博物館③続縄文時代 後北式土器 岩面刻画


札幌市 北海道博物館③続縄文時代 後北式土器 岩面刻画

2025年03月22日 08時14分38秒 | 北海道

北海道博物館。札幌市厚別区厚別町小野幌。

2022年6月23日(木)。

 

続縄文時代。

弥生文化が西日本から東北地方まで広がった一方、北海道には弥生文化が広がらず、縄文文化が発展する「続縄文文化」が展開した。しかし当時の人びとはほかの地域とも盛んに交流し、南の弥生文化とともに北のサハリンや大陸の文化の影響を受けながら、本州とは違う北海道らしい文化を形成していった。

続縄文文化の初めのころは、北海道の南西部と北東部は異なる文化が広がっていた。南西部には、道南の恵山(えさん)(函館市)から名付けられた「恵山式土器」を用いた人々がいて、「恵山文化」と呼ばれている。

恵山文化には多くの貝塚が残されており、釣り針やモリなどがたくさん見つかっている。このことから海の生業に依存していた文化だったと考えられる。また有珠モシリ遺跡から南海産のイモガイ製貝輪が発見されるなど、南の本州との交流があったことが分かっている。また北東部では道南と異なる土器が使われ、副葬品として「コハク玉」が用いられた。道北部のコハクにはサハリン産とされるものも見られ、北方との交流があったと考えられている。

二枚橋式土器。二枚橋式土器は、弥生時代前期の東北地方北部の弥生土器である。二枚橋遺跡は青森県むつ市の津軽海峡に面した縄文時代晩期から弥生時代前期の遺跡である。

続縄文文化後半には、北海道全域に後期北海道式薄手土器の略称である「後北式土器」が広がり、この土器はさらに、東北地方や新潟県にまで広がった。このころは東北地方北部にも、続縄文文化が広がったと考えられている。

続縄文時代の洞窟遺跡。

余市町のフゴッペ洞窟では、1〜4世紀ごろの岩に描かれた刻画が見つかっている。小樽市の手宮洞窟で見つかったものも、かつては「古代文字」と言われることもあったが、同じ刻画だと分かった。しかし、この岩面に刻画を描く文化がどこからきたのかは謎のままである。

国史跡・フゴッペ洞窟。余市町栄町。

フゴッペ(畚部)は栄町の旧村名で、日本海の海岸沿いに立地し、通称「丸山」と呼ばれる砂岩質よりなる小丘陵の東方に面した岩陰遺跡である。

堆積土層から発見された後北C1式土器や骨角器の分析から、約2000~1500年前の続縄文時代の洞窟遺跡と分かった。小樽市の手宮洞窟と同時期であり、この2カ所のみで現存が確認されている岩面刻画を残す。

岩壁には、800を超す刻画があり、人が仮装したようなものから舟、魚、海獣、4本足の動物のようなものが刻まれている。角や翼で仮装した人像が多く、シャーマンを表したものと推察され、何らかの宗教的儀礼の場であったのではないかと考えられている。

洞窟入口付近から占いに使われたシカの骨(卜骨)や7世紀の大刀が出土している。

札幌市 北海道博物館②縄文土偶 仮面 人物仮面付き土製品