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新潟県 長岡市馬高縄文館④三十稲場式土器 藤橋遺跡 

2024年01月31日 14時21分50秒 | 新潟県

長岡市馬高縄文館。長岡市関原町。

2023年9月26日(火)。

特別展 土偶と石棒-縄文の精神文化-

三十稲場(さんじゅういなば)遺跡は、縄文時代後期(約4500年前~3200年前)の遺跡であり、隣接する縄文時代中期(約5500年前~4500年前)の馬高遺跡と同じ規模をもつ大集落址で、ダルマ形の石囲炉や住居址、それに多くの出土品は馬高遺跡に勝るとも劣らない内容をもっており、新潟県を代表する遺跡である。

新潟県の縄文時代後期前葉を代表する「三十稲場式土器」は全体に爪で突いたような「刺突文」と呼ばれる文様が付けられ、また縄文時代には珍しい蓋形土器を作り、煮炊きに使用した深鉢形土器も蓋を受けることを意識して口縁部が外へ開いた特徴的な形に作られている。蓋形土器の内側にはオコゲが付着しているものもあり、単なる飾りでなく実際に使用されていたことがうかがわれる。

入り組んだモチーフを彫り込んだ岩版や翡翠や滑石を磨いた玉砥石なども出土しており、縄文人の精神性の豊かさが垣間見える。また、深さ3mにも及ぶ巨大な穴も見つかっており、土器を作る原料である粘土の採掘坑ではないかと注目されている。

16時30分ごろに馬高縄文館を出て、南西へ約3キロ離れた低丘陵に位置する縄文時代晩期の集落跡・藤橋遺跡へ向かった。16時40分ごろに「藤橋歴史の広場」の駐車場に着いた。施設として、「ふじはし歴史館」と「遺構展示館」があるが17時閉館である。駐車場は南端にあり、歴史館まで500mほどある。途中まで歩いてあきらめた。帰る途中に道路脇に駐車して復元された掘立柱住居を眺めてみた。

国史跡・藤橋遺跡。長岡市西津町。

長岡市附近では、信濃川の左岸に4段の河岸段丘が発達しており、多数の繩文時代の遺跡が分布している。本遺跡は、その最下段に所在し、繩文時代後期から晩期に至る集落跡である。

遺跡のほぼ中央部に小谷が西に向かって入りこみ、それを囲む台地上に住居跡や土壙など多数の遺構が確認され、膨大な量の遺物が発見された。また、遺物包含層は小谷にも及び、木器など有機質の遺物を遺存する泥炭質の包含層の存在が予想される。

住居跡については、柱穴と考えられるピットが密集している。縄文時代では珍しい高床式構造の「掘立柱建物」が多数発見されている。

発見遺物には、繩文時代後期から晩期に至る各時代の土器群があり、特に晩期終末に属する一群は最も量も多く、藤橋式土器として越後・会津地方一帯の標式土器とされている。

石器も多種多様で、石剣・石冠がみられる。玉類には勾玉・丸玉があり、材料には滑石のほかヒスイが含まれ、なかには未完成品もある。ヒスイの原石を入手して玉作りをしていた晩期の集落跡は、山形県玉川遺跡、青森県亀ヶ岡遺跡の2遺跡があるが、本遺跡が単なる地方的な大規模集落にとどまらず、より広域な地方における中心的な存在であったことを示唆する。

 

このあと、長岡インター近くの道の駅「長岡」に向かった。

新潟県 長岡市馬高縄文館③土偶と石棒-縄文の精神文化-


新潟県 長岡市馬高縄文館③土偶と石棒-縄文の精神文化-

2024年01月30日 13時39分49秒 | 新潟県

長岡市馬高縄文館。長岡市関原町。

2023年9月26日(火)。

特別展 土偶と石棒-縄文の精神文化-

開催時期 令和5年9月23日 (土)~11月5日 (日)

縄文時代には、実用品でなく、精神性にかかわるもの、「第二の道具」とよばれる土偶や石棒などがつくられていました。特に火炎土器の時代には、特徴的な河童形土偶や彫刻を施した大形石棒が登場します。

本展示では、新潟県内の縄文中期の資料を中心に、後・晩期の資料も交えながら、縄文人の儀礼や心の造形をさぐってみます。

新潟県 長岡市馬高縄文館②火焔型土器の誕生と影響 機能と技法


新潟県 長岡市馬高縄文館②火焔型土器の誕生と影響 機能と技法

2024年01月29日 13時35分55秒 | 新潟県

長岡市馬高縄文館。長岡市関原町。

2023年9月26日(火)。

岩野原遺跡。長岡市深沢町。

馬高遺跡の南方、長岡市西部の信濃川左岸に広がる越後丘陵東部の渋海(しぶみ)川左岸、標高55mの河岸段丘上にあった縄文時代の大規模な集落跡。昭和53~55年(1978~80)、長岡市教育委員会が遺跡全域にわたる発掘調査を実施した。

遺跡の範囲は東西約300m・南北約150mの舌状台地上に及び、台地先端部の東側に中期の集落、台地中央部の西側に後期の集落が広がっていた。いずれも中央の広場を中心に住居跡や貯蔵穴等が環状に巡る典型的な縄文集落である。

中期の集落には竪穴住居跡82棟、貯蔵用の土坑60基、墓穴とみられる多数の土坑、膨大な遺物を廃棄した土器(ゴミ)捨て場2か所などが確認された。また、後期集落では、竪穴住居跡77棟、貯蔵用の土坑やその他多数のピット群のほか、高床式とみられる掘立柱建物跡5棟や敷石住居1棟が発見された。出土した遺物は膨大な点数に上り、火焔型土器をはじめとする土器類、多種多様な石器類がみられる。出土品は馬高縄文館で展示されている。なお、遺跡は調査後に関越自動車道の土取工事で消滅した。

火焔型土器のほかに、縄文時代中期中葉・東北地方南部の大木(だいぎ)8b式土器縄文時代後期後葉・東日本に広がる加曽利B式土器が出土している。

新保(しんぼ)・新崎(にんざき)式土器。

現在の富山・石川県域を中心に流行した。新潟平野周辺の中期初め頃は、新保式・新崎式という北陸地方と同じ土器が分布し、中頃から終わりにかけては東北南部の大木8a 式~大木 10 式土器の分布圏に入る。阿賀野川下流域では、大木8a 式土器を主に、馬高式土器も一緒に使われている。この地域では、新崎式の特徴である細い竹を半分に割った道具が、次の時期の馬高式や大木8a 式で2~3本の並走沈線を引くのに使われ、伝統の用具として伝わった。同じ土器型式の広がりは、山間部でも大きな川沿いを交通路として人が動き、モノが運ばれ、情報も伝わってゆくことを示す。

新潟県 長岡市馬高縄文館①火焔型土器 馬高遺跡


新潟県 長岡市馬高縄文館①火焔型土器 馬高遺跡

2024年01月28日 13時30分24秒 | 新潟県

長岡市馬高縄文館。新潟県長岡市関原町。

2023年9月26日(火)。

新潟県立歴史博物館の見学を終え、近くにある長岡市馬高縄文館へ向かった。

国史跡・馬高・三十稲場(うまたか・さんじゅういなば)遺跡は信濃川左岸の段丘上にある縄文時代の大規模な集落跡である。関原(せきはら)南方の「遠藤沢」と呼ばれる小さな沢を挟んで、東側に縄文時代中期(約5500年前~4500年前)の馬高遺跡、西側に縄文時代後期(約4500年前~3200年前)の三十稲場遺跡が位置している。

馬高遺跡は「火焔土器」発祥の地として全国的に著名であり、馬高式土器の標式遺跡となっている。馬高遺跡で最初に発見された「火焔土器」は1980年に重要文化財となり、2002年にはその他の主要な土器・石器等を合わせた300点が重文の追加指定を受けている。

馬高遺跡は県内最大級の縄文中期の集落址でその規模は東西で150m、南北で250m。この遺跡は近藤勘治郎・篤三郎父子による調査をはじめとして、これまでに多くの調査が実施され、多数の住居址や炉址とともに大形土偶土器以外にも三角とう土製品や三角形土版、土偶などの土製品、石斧や石棒、玉類、三脚石器などの石製品といった生活や信仰に関係する多くの遺物が、2群の馬蹄形状に展開した集落から発見されている。

馬高遺跡で生活した人々は次の縄文後期になると三十稲場遺跡に生活の場を移した。

2009年に、史跡に隣接してガイダンス施設「馬高縄文館」が開館した。

重文。火焔土器。馬高遺跡。縄文時代中期。口径30.0㎝×高さ29.5㎝。

昭和11(1936)年に近藤篤三郎により見つかったと伝えられている。馬高A式1号と命名されていたこの土器は、その形状から誰ともなく「火焔土器」と呼ばれ、「火焔型土器」という土器型式の標識土器となった。

重文。王冠型土器。馬高遺跡。縄文時代中期。

火焔型土器と同時代に使用された土器。口縁部の形状が異なるが、縄文を用いない、横S字や逆U字の隆起線文、袋状突起など共通点も多く、口縁部が見つからなければその区別ができない。火焔型土器や王冠型土器のほか栃倉式土器、塔ヶ崎類型など同時代に信濃川流域で使われていた土器のセットを「火炎土器様式」と呼んでいる。

新潟県長岡市 新潟県立歴史博物館③源頼朝による地頭補任状 中条氏 色部氏 揚北衆 日蓮


新潟県長岡市 新潟県立歴史博物館③源頼朝による地頭補任状 中条氏 色部氏 揚北衆 日蓮

2024年01月27日 11時15分35秒 | 新潟県

新潟県立歴史博物館。新潟県長岡市関原町。

2023年9月26日(火)。

柿崎古墓。平安時代。9世紀後半。

新潟県上越市柿崎区大字上直海字新保から、平安時代~江戸時代を中心とした新保(しんぼ)遺跡が発見された。遺跡の北西丘陵頂部から、9世紀後半に作られたと推定される木炭槨木棺墓(もくたんかくもっかんぼ)といわれる特殊な形態の古墓が検出され、柿崎古墓と名付けられた。

墓全体の大きさは、長さ3.4m、幅2.4m、深さ0.6m。木炭槨は長さ2.4m、幅1.3m、深さ0.3m。木棺の規模は外寸で168×48cmと 推定される。材の厚さは3~4cmと推定されるので、内寸は162×42cm程度と考えられる。古墓の床には木炭が敷きつめられていた。

木炭部の4隅に置かれた壺は棺(ひつぎ)が納められた空間と外界を区切る一種の結界と考えられる。

木炭槨木棺墓とは、長方形の土壙の中央に木棺を置いて、それをさらに槨で囲うもので、こうした事例を文献に求めると、嵯峨上皇の葬送の例 に類似する。畿内の皇族・貴族層においては、9世紀半ばあたりから、薄葬(はくそう)を基調とする土・火葬が混在するようになるといわれるが、そうした時期に見られる形態である。この古墓はその早い時期の事例として注目された。

源頼朝による地頭補任状。1192(建久3)年。鎌倉時代初頭。

奥山荘(おくやまのしょう)と和田宗実。

越後国蒲原郡(新潟県胎内市,新発田市の北端部,岩船郡関川村の一部)の荘園。摂関家領。成立の時期は不明であるが,越後城(じよう)氏のなかに〈奥山〉を称する者があり,城氏を開発領主として12世紀には成立したとみられる。

源平争乱で城氏が没落したあと,その地頭職は木曾義仲を追討した恩賞として和田義盛の弟義茂に与えられた。和田氏,三浦氏が和田合戦,宝治合戦で没落した後は,奥山荘だけが義茂の子孫三浦和田氏の〈一所懸命〉の地となった。地頭支配の強化は荘園領主支配と対立するようになり,1240年(仁治1)には領家と地頭時茂との間に和与が成立し,年貢米100石,御服綿10両(代銭納の場合は60貫文余)を地頭が納めることで地頭請所となった。

1277年(建治3)地頭時茂は孫3人に奥山荘を北条(きたじよう),中条(なかじよう),南条に3分して与え,それぞれが惣領を立てることになった。以後奥山荘の三浦和田一族は典型的な惣領制を展開しながら荘内の支配にあたったが,しばしば一族間に係争を生じ,訴訟をくりかえした。

南北朝末期には惣領の単独相続制に移り,庶子の被官化を進めた北条は黒川氏中条は中条氏が惣領として独立しており,南条は関沢氏が中心となったとみられるが,このほかにも高野氏,羽黒氏などの諸家が生まれた。

室町~戦国期にはとくに中条,黒川両氏は有力国人領主として成長し,しばしば守護上杉氏と対抗する勢力となった。この間,三浦和田氏に伝来した文書は現存するもの約550点,なかでも《波月条絵図》(重文,胎内市所有)は,鎌倉末期東国荘園の実態を伝えるものとして著名であり,荘内には城館址,境界牓示(ぼうじ),石造遺物(板碑)など遺跡,遺物がよく伝存している。

1598年(慶長3)豊臣秀吉によって上杉氏の国替が命ぜられ,奥山荘の領主たちもこの地を去って,名実ともに奥山荘の歴史をとじた。

中条家文書(なかじょうけもんじょ)。

中条家文書は、中世越後国奥山庄に盤踞した三浦和田氏の惣領中条氏に伝来した古文書で、建久3年(1192)十月廿一日付の将軍家政所下文を上限として江戸時代に至る233通が、未成巻のままに裏打を施した状態で伝わっている。

拠点となった奥山庄地頭職は、和田義茂の後、弟宗実、義茂の子高井重茂、その妻津村尼によって相伝され、嘉禎4年(1238)に家督を相続した時茂の代に奥山庄の経営が本格化し、地頭請所化に成功する。鎌倉時代後期以降所領の分割相続によって一族の内部の対立も深刻さを増すが、室町中期には惣領の庶子に対する統制を強めつつ家臣化を促進し、同族黒川氏と共に揚北(あがきた)の有力国人領主に成長する。

本文書の中心をなすのは鎌倉から室町時代前期の文書である。いずれも所領の分割譲与に関する譲状や、幕府の安堵状、あるいは所領関係の文書がまとまっている。文書中には、源頼朝の征夷大将軍就任に伴う、袖判下文から将軍家政所下文への移行時期に発給された建久3年十月廿一日将軍家政所下文や、のちに惣領中条・南条関沢・北条黒川をおのおの惣領とする鼎立体制成立への契機となった建治3年(1277)十一月五日道円(高井時茂)譲状などの注目すべき文書が少なくない。

このように中条家文書は、とくに東国武士の惣領を中心とした一族の結合形態を明らかにし、惣領制による分割相続から庶子被官化を前提とした嫡子単独相続制への移行など、中世領主制研究上にみるべきものが多い史料である。

『波月条絵図(なみづきじょうえず)』。鎌倉時代末期。

1277(建治3)年、和田(高井)時茂(ときもち)は奥山荘を中条・南条・北条に三分割し、和田中条は茂連(もちつら)に、南条は和田義基に、北条は和田茂長(もちなが)にそれぞれ相続させた。ところが、和田時茂の死後、三浦和田氏では所領を巡る相続争いが勃発した。

訴え出たのは、和田時茂の娘・意阿(いあ)であった。1285(弘安8)年、意阿は「道円(どうえん)(時茂のこと)の譲状は偽文書」と幕府に訴えた。その結果、和田時茂の孫たちとの訴訟合戦へと発展した。敗訴して所領を奪われる身となった茂明(もちあき)(茂連の子)は、自身の正当性を訴えるための訴訟資料として『波月条絵図』を作成。結果、逆転勝訴して所領は茂明に返された。

『波月条絵図』は、こうした経緯で成立したため、奥山荘の領内の様子が克明に描かれている。絵図中央には太伊乃河(たいのかわ)(胎内川)が左右に流れ、条の境界や市場(七日市(なのかいち)や高野市(たかのいち))の場所、地頭の館、町並み、鋳物師の名前などが記載されており、訴訟のために正確性を期した結果、図らずも中世東国荘園の実態を現代に伝える内容となっている。

「色部年中行事の世界」。

室町時代になると、各地に国人領主と呼ばれる実力者が登場する。国人領主の多くは、鎌倉時代の地頭を先祖にもっている武士である。現在の村上市平林に国人領主色部氏(いろべし)の館があった。色部家に伝わる「色部氏年中行事」という資料から、室町時代の色部氏が行っていた行事がわかる。これを見ると正月・節 分・七夕・お盆や各神社の祭礼など、今の行事と共通するものがある。特に重要なのは、各行事に農民たちがさまざまな役を担って登場することである。領主と農民が一体となって行事を行うことで、領地の支配が実現していた。

色部氏は、桓武平氏、秩父氏の流れ。越後国岩船郡平林城(新潟県村上市)に本拠を置き、本庄氏と共に越後秩父氏を形成した。

元々は越後小泉庄色部条(現在の村上市の一部)の地頭だったが、南北朝時代に北朝方として南朝方で平林城の平林氏を攻め滅ぼし、そのまま居城とした。戦国時代には上杉氏を補佐し、色部勝長は上杉謙信から血染めの感状を貰っている。上杉景勝の会津転封、のち米沢転封に従い江戸時代には米沢藩家老を務めた。

小泉庄は、越後国北端の岩船郡中央部を占める広大な庄園で、平安時代中頃に藤原氏中御門家を領家として立券され、平安時代末頃には、庄域は本庄及び加納から成っていた。鎌倉幕府成立後は、二分され秩父氏の一族が臥牛山城(村上城)を居城として本庄氏を名乗る一方、加納の地頭は平林城に拠って色部条、牛屋条及び日本海上の粟島を領し、やがて色部氏を称した。

色部氏の所領支配は、鎌倉から室町時代を通じて続けられ、戦国時代には国人領主として、北越後に重きをなした。上杉氏による越後一国の領国化が進む過程で服属関係を結ぶが、守護代長尾氏による「下剋上」に当たっては、上杉方に付き、その結果、長尾方の中条氏らに攻められ、永正5年(1508)5月に平林城は陥落し、色部氏は長尾方に降服した。長尾氏が主家上杉氏の名跡を襲った後は、色部氏は重臣として遇されてきたが、慶長3年(1598)、上杉景勝が会津に転封されるに及んで色部氏も米沢に1万石を与えられ、本領を離れて金山城に入り、平林城は廃城となった。

平林城の遺構は、標高281mの要害山(古名は加護山)とその西北麓にみられる。館跡は平野に面する西側を大手とし、大別して3郭に分かれる。西南の最も大きな郭は「岩館」と通称され、東西に長い長方形で、北西隅に虎口を開き、その東には続く1郭があり、さらに東に「殿堀」と呼ばれる空堀がある。昭和49年に新潟県教育委員会が発掘調査を行い、ここに架設された木橋の橋脚を検出したが、この橋を渡った東には「殿屋敷」とよばれる館の最も主要な郭が存在する。館跡の最奥部に当たる。

 詰城の置かれた要害山は、館跡から山頂まで1.7キロあり、途中に水場や「物見山」、「のろし山」等の要所がある。山頂は2段に削平され、東側の尾根には2か所の堀切が認められる。

これらの遺構は、極めて良好に保存されており、鎌倉時代の地頭の居館を起源とする城館遺跡として中世史を理解する上に好個の資料を提供するものである。

越後衆連判軍陣壁書写。享禄四(1531)年正月日。

山浦/桃井伊豆守義孝/中条越前守藤資/黒川四郎兵衛清実/斎藤下野守定信/毛利松若丸「景広若名」/同安芸入道祖栄/. 加地安芸守春綱/竹俣筑後守昌綱/水原伊勢守政家/安田治部少輔長秀/「柿崎和泉守若名」五十公野弥三郎景家/新発田伯耆守綱貞/鮎川摂津守清長/色部遠江守憲長/又四郎「山本寺定種事」/本庄対馬守房長/十郎「古志長尾景広事」。

越後衆連判軍陣壁書写は、1531年に守護代長尾為景に従った武将たちの軍陣でのきまりを記したもので、為景と揚北衆(あがきたしゅう)との関係がうかがえる。

揚北衆(あがきたしゅう)は、鎌倉時代から戦国時代にかけて越後北部に割拠した国人豪族のこと。揚北とは阿賀野川(揚河)北岸地域のことであり、阿賀北衆ともいう。

小泉庄(現在の村上市一帯)を所領とした秩父党奥山庄(現在の胎内市一帯)を所領とした三浦党加地庄(現在の新発田市一帯)を所領とした佐々木党白河庄(現在の阿賀野市一帯)を所領とした大見党に分類される。

阿賀北地域では、鎌倉時代に武蔵の秩父氏、相模の三浦氏、近江の佐々木氏、伊豆の大見氏らの豪族が荘園の地頭として越後に入国し、それぞれの所領を治めていた。秩父氏は本庄氏(宗家)、色部氏、鮎川氏三浦氏は中条氏(宗家)、黒川氏佐々木氏は加地氏(宗家)、新発田氏、竹俣氏、五十公野氏大見氏は安田氏(宗家)、水原氏、下条氏に分かれた。

揚北衆は鎌倉時代からこの地を治めてきたという意識からか独立性が強く、南北朝時代以降越後を支配するようになった守護の上杉氏や守護代の長尾氏とはしばしば対立し、室町時代から戦国時代中期における越後の政情の不安定要因の一つとなった。

上杉定実の養子縁組問題(天文の乱)からこれを支持する中条藤資とこれに反対する本庄房長・色部勝長・鮎川清長の連合軍が争って揚北衆は分裂、独立性は衰退する。やがて、長尾氏が戦国大名化する過程で、その家臣団として組み込まれていった。

長尾氏(上杉氏)に降った後も本庄繁長や新発田重家・五十公野信宗のように主家と対峙する一族もあり、本庄氏は帰参を許されたが、新発田氏・五十公野氏は滅ぼされた。多くの一族は主家の移封(会津→米沢)に従って土地を離れ、米沢藩に仕えた。中でも本庄氏、色部氏、中条氏、竹俣氏は藩内の家格で最上位の侍組分領家に属して家老などの重職を出し、藩の中枢を担った。

なお、室町時代から白河庄(阿賀野市)を所領とした山浦氏(山浦景国など:笹岡城)と千坂氏(千坂景親など:鉢盛城)については、山浦氏は越後守護上杉家庶流であり、千坂氏は元は犬懸上杉家の家臣団筆頭で、越後に来てからは越後守護上杉家の四家老家の一つとして長尾氏と同格の家柄であったため、揚北衆には含まれない。

上条定憲(じょうじょうさだのり)は、越後守護上杉氏の支族柏崎の上条城を本拠とした上条上杉家当主。守護・上杉定実に一貫して忠誠を尽くし、守護を傀儡化した長尾為景との抗争を続けた。享禄3年(1530年)に定憲と為景の間で抗争が勃発した。幕府を後楯にしていた為景を前に、揚北衆といった国人や上杉一門にも定憲に加担する勢力は少なく、12代将軍・足利義晴の手引もあり翌年には収束した。しかし、享禄4年(1531年)6月に為景が後楯としていた幕府の有力者細川高国が大物崩れで自刃し、天文2年(1533年)9月には両者間で「再乱」が生じる。このとき定憲(定兼)は、上田長尾氏や揚北衆など国内勢力に加え、会津蘆名氏や出羽国砂越氏といった国外の勢力も味方につけることに成功し、為景方への攻勢を強める。天文5年(1536年)4月10日には三分一ヶ原合戦で大敗するも、8月に為景を隠居に追い込んだ。

日蓮書状。阿仏房尼御前御返事。(複製。原資料は重文:佐渡市妙宣寺蔵)

阿仏坊日得(あぶつぼうにっとく)は、日蓮宗の信徒。順徳天皇に仕え、従四位上に叙せられる。和漢の学に通じ、歌道にも上達していた。承久3年(1221年)に承久の乱により佐渡島に流された天皇に従って、仁治3年(1242年)に崩御するまで側近く仕える。その直後に妻(千日尼)とともに剃髪し、30年間も天皇の陵に廬を結んで住む。

もともと浄土宗を深く信仰し、念仏怠りなく、自ら「阿仏坊」と号していたが、文永8年(1271年)の冬に日蓮が佐渡に流され、塚原に潜んでいたところを訪問し、日蓮の説を聴き、妻とともに浄土宗を棄てて弟子となる。

文永11年(1274年)に日蓮が鎌倉を経て甲斐に隠栖すると、遠くにありながら再三身延山を訪れては日蓮の説法を聴いていた。弘安元年(1278年)に90歳の身で登山したのに対し、日蓮は大いに感激して、「日得」の名を与えた。その翌年に寂す。

このあと、近くにある馬高遺跡縄文館を見学した。

新潟県長岡市 新潟県立歴史博物館②縄文展示室