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村上誠一郎氏 「負け組」高市早苗氏陣営が「最も怒っている」背景を田崎史郎氏が解説

2024年09月30日 16時08分33秒 | 社会

「負け組」高市早苗氏陣営が「最も怒っている」背景を田崎史郎氏が解説 やり玉に挙がったのは…

Yahoo news  2024/9/30(月) 日刊スポーツ

 

 政治ジャーナリストの田崎史郎氏は30日、テレビ朝日系「羽鳥慎一モーニングショー」(月~金曜午前8時)に出演し、27日に行われた自民党総裁選で勝利した石破茂総裁(67)が着手し、構図が固まった党役員&閣僚人事についてコメントした。

村上誠一郎氏(2022年10月撮影)高市氏陣営が「最も怒っている」とされる人物

 

 田崎氏は「勝ち組が優先されている人事。一応、麻生派に配慮した部分もありますが、全体的に閣僚メンバーまで見ると、勝ち組ばかりが優先されていて、負け組の高市陣営の方は冷遇されている」と指摘。石破氏と決選投票を戦い敗れた高市早苗経済安保相(63)を支援した議員やグループは、冷遇された人事との認識を示した。

 

 高市氏は今回、石破氏に総務会長のポストを打診され、固辞したとされる。2012年総裁選の決選投票で石破氏を下した安倍晋三元首相が当時、石破氏を幹事長に据えて党内融和をはかったことから、今回、高市氏が望んでいたのは「幹事長ポスト一択」だったのではないかとの見方は根強い。

 しかし幹事長には、与野党に人脈を持つベテランで、現総務会長の森山裕氏(79)が内定した。新たな党4役は9月30日午後の自民党臨時総務会をへて、正式に決定する。

 

 一方、田崎氏は「高市氏の陣営が最も怒っているのが、総務相に就任される予定の村上誠一郎さん。村上さんは安倍さんの国葬に反対して、安倍さんを『国賊』と呼んで、党紀委員会が1年の役職停止の処分を下した」と指摘。「その人をなぜ総務大臣に、閣僚にするのかと怒っている」と、高市氏陣営内の声を解説した。

 


山形県 高畠町郷土資料館①日向洞窟 押出遺跡 羽山古墳出土品 伊達氏 織田高畠藩

2024年09月30日 13時14分21秒 | 山形県

羽山古墳。登り口。山形県高畠町高畠。

2024年9月7日(土)。

道の駅「たかはた」近くの高畠町郷土資料館は9時30分開館なので、その前に阿久津八幡、旧高畠駅、羽山古墳を見学することにした。旧高畠駅を見学後、北へ進み、山裾の羽山古墳下へ着いた。中腹に羽山古墳はあるようだが、舗装道と遊歩道が入り乱れ、グーグルマップで調べても正確な位置は不明で、クチコミのクマ出没情報が気になり15分近く苦闘した結果あきらめて、高畠町郷土資料館へ向かった。

 

高畠町郷土資料館。山形県高畠町阿久津。

山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館に高畠町の遺跡は紹介されているが、実物資料は郷土資料館に展示されている。

9時30分直前に入館したので、館長らしき人が20分ほど話をしてくれた。米沢市の舘山城跡で熊に遭遇したと話したら、山形の熊は秋田と違って人を食わない、というクリシェが返ってきた。舘山城で伊達政宗が生まれたという説についても、米沢という地域名だけで舘山城と確定していない、という。

福島県の桑折西山城(赤館城)を本拠としていた伊達氏は南北朝時代の1380年頃から、伊達氏8代宗遠と9代大膳大夫政宗(1353~1405年)が高畠の二井宿峠を経由して置賜地域に侵攻し、1385年には長井氏を滅ぼして、置賜を伊達氏の拠点とした。以降、奥州仕置まで200年余りにわたって、置賜は伊達氏の支配下に置かれた。9代伊達政宗は、出羽高畑城(高畠城)に入り、応永12年(1405年)に同地で没した。伊達氏は、長井氏の旧本拠である米沢ではなく、伊達郡の本拠赤館城との連絡が良く、交通の要衝である高畠を選び、15代晴宗が米沢城に移るまで高畠城を居館としたという。

福島の中通り地域から米沢盆地へ入るには二井宿峠から入るのが標高差が小さく、先史時代から利用されたため、旧石器・縄文時代からの遺跡が多く、置賜郡の郡衙も阿久津南方の小郡山に置かれた可能性があるという。

 

689年(持統天皇3年)持統紀に陸奥国優嗜曇郡(うきたむのこおり)

712年(和銅5年)出羽国を建置(置賜郡は隷属)。

927年(延喜5年)延喜式に出羽国を十一郡に分け、そのうちの置賜郡を更に七分した一つに高畠地域を「屋代」と記す。

1083年(寿永2年)平泉藤原氏が陸奥出羽を領し、約100年間この地を治める。

1192年(建久3年)大江氏(長井氏)が置賜郡長井荘(置賜全域)地頭となり、140年間支配。

1335年(建武2年)後醍醐天皇が楠木正成に出羽国屋代荘(高畠地域)を賜る。

1380年(天授6年)伊達宗遠が長井氏を討ち、212年間伊達氏の支配。

1591年(天正19年)伊達氏17代伊達政宗が岩出山城に移封、蒲生氏郷が統治(7年間)。

1598年(慶長3年)越後の上杉景勝が会津に封ぜられ、直江兼続が伊達・信夫・米沢を領す。

1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い後、上杉景勝が減封され米沢に入部。

1689年(元禄2年)「屋代郷」三万石の目安御預かりをとかれ、幕府直轄となる。

1742年(寛保2年)「屋代郷」は上杉家の管領地となる。

1767年(明和4年)織田氏が高畠に移封、屋代郷が二分され、織田氏と上杉氏の支配を受ける。

1831年(天保2年)織田氏が天童に移封。

1866年(慶応2年)「屋代郷」は全部上杉領となる。

羽山古墳出土。須恵器。

来迎阿弥陀三尊板碑(夏刈)。町指定文化財。

臨終に際し、極楽から阿弥陀様が観音・勢至様と共に迎えに来てほしいという願望を込めて造られた。阿弥陀如来の信仰が強かった鎌倉時代の作といわれ、近年、徳治元年(1306年)の銘が判読された。

現在、城跡は高畠町立高畠小学校となっているが、土塁と内堀の一部が残っている。

明和事件は、江戸時代中期におこった幕府による尊王論者弾圧事件である。甲斐国出身の山県大弐は、江戸へ出て兵学・儒学を教え大義名分に基づく尊王思想を鼓吹し、その一方で宝暦8年(1758年)に起きた宝暦事件に連座した藤井右門(直明)は江戸に出て大弐の家に寄宿し江戸攻略の軍法を説いた。

幕府は上野国小幡藩(2万石)の内紛にかこつけて両名を逮捕し、明和4年(1767年)不敬罪として大弐を死罪に、右門を獄門に処した。さらに、宝暦事件により重追放となった竹内敬持(式部)にも累を及ぼして遠島に処した。また、小幡藩主の織田家(織田信長の次男織田信雄の末裔)は出羽国高畠への移封(のち天童にうつる)の上、織田信長の子孫ということで認められていた国主格の待遇も廃された。

 

山形県高畠町 旧高畠鉄道高畠駅舎


山形県高畠町 旧高畠鉄道高畠駅舎

2024年09月29日 11時20分42秒 | 山形県

旧高畠鉄道高畠駅舎。山形県高畠町高畠。

2024年9月7日(土)。

道の駅「たかはた」近くの高畠町郷土資料館は9時30分開館なので、その前に阿久津八幡、旧高畠駅、羽山古墳を見学することにした。阿久津八幡を見学後、高畠市街地にある旧高畠駅へ向かった。観光マップで指定された市街地の交差点まで来たが、ドラッグストアがあるだけで駅舎はない。地元民2人に尋ねると、北東方向近くの交差点からアクセスすることが分かり、交差点から進入すると道路の奥に駅舎が見えてきた。駅舎横の駐車スペースに駐車した。8時30分頃だったが、散歩する家族連れやジョギングの男女などがいた。

旧高畠鉄道高畠駅舎は、石造、一部鉄筋コンクリート造。東西約15m、南北約6mの2階建。高畠駅は、奥羽線と高畠町を結ぶために作られた高畠鉄道の中心駅であった。昭和9年に木造駅舎から建て替えられ、本社の機能を併せ持った施設である。設計は鉄道技師の長島多吉、施工は地元の石工があたった。

外壁の柱型や開口部に用いるアーチ積,屋上手摺(てすり)などに洋風意匠を見せる。

本屋は町内の瓜割石庭公園から採掘された地元特産の高畠石とよばれる黄土色の凝灰岩を主構造材とするが、梁、スラブには鉄筋コンクリートを併用し、地方における鉄筋コンクリート造の初期の事例としても価値が高い。特徴ある黄色みがかった色彩と造形の外観は、地域のランドマークとして親しまれている。

駅舎の背面側には石造プラットフォーム等が付属する。プラットフォームの覆屋は長さ18m、幅3.4mで、現在車両が保存されているプラットフォームは上り方面・糠ノ目行きのホームとして使われた。

高畠鉄道1922(大正11)年3月16日に糠ノ目駅(1991年に高畠駅と改称)から高畠駅間5.2kmが開業、1924年8月31日に高畠- 二井宿間が開業し、糠ノ目・二井宿駅間の9駅10.6㎞を結んでいた。軌間は、狭軌1067mm。1929年9月1日に全線電化1934年(昭和9年)8月30日 高畠駅舎落成式挙行。1943年(昭和18年)10月1日 高畠鉄道、三山電気鉄道、尾花沢鉄道が合併して山形交通の運営となり、山形交通高畠線となる。1974年(昭和49年)11月15日全線営業終了。11月18日に全線が廃止された。

高畠鉄道は、高畠町周辺で製糸業が発展したため、工業製品の輸送を目的に敷設された。明治20年代から30年代にかけ、高畠でも長谷川製糸(竹森)や両羽製糸所(高畠)ほか多くの製糸場が操業を始め、33年4月には奥羽線糠ノ目駅(現・高畠駅)が開業した。人々の地場産業振興の意気が高まると、当然、製品の輸送についての関心が高まるようになった。このような背景の中で高畠鉄道が誕生した。この高畠鉄道は、戦前までは、宮城県七ヶ宿町湯原鉱山・二井宿の二重坂や金原鉱山の鉱石、二井宿・高畠の木材、木炭、牛、乳製品、石材、高畠・屋代の製糸、米、西洋梨・林檎・葡萄などの果物などの輸送が盛んに行われ、また、人々の足としてその役を担った。

貨物輸送は、戦後もトラック輸送にかわるまで続けられ、その他、到着原料、燃料(石炭など)の輸送もあった。昭和28年には、乗客約62万人(1日平均約1700人)を運んだ。

糠ノ目・高畠間の線路跡は「まほろばの緑道」として生まれ変わり、旧高畠駅公園には電気機関車、貨車、電車各一輌が静態保存されている。高畠駅舎、倉庫、変電所、自動車修繕庫等は国登録有形文化財である。

旧高畠鉄道高畠駅自動車修繕庫。

1939年建築。鉄筋コンクリート造平屋建、建築面積131㎡。長辺約17m、短辺約8m。車3台収容。

本屋の正面側広場にある自動車修繕庫。陸屋根の鉄筋コンクリート造であるが、外壁は全て高畠石張として本屋と調和させている。正面側は柱ニ本を立てて大きく開口を取り、背面側には窓三箇所を設ける。

高畠鉄道は早い時期から乗合自動車の運行を始めており、ここから南北を軸に乗合バスが運行された。

地方私鉄の駅前景観を今に伝えている。

旧高畠鉄道高畠駅倉庫。

1938年建築、1978年頃改修。石造一部鉄筋コンクリート造平屋建、鉄板葺、建築面積28㎡。

高畠石による小ぶりな倉庫。約5mのほぼ正方形。少量の火薬や油類を保管した。本屋と同じく梁、スラブには鉄筋コンクリートを併用する。腰部と上部で石材のサイズ、割り付けを変えてアクセントをつける。現在ではほとんど失われた、かつての地方私鉄駅の景観を構成する建物である。

旧高畠鉄道高畠駅変電所。

1929年頃建築。石造一部鉄筋コンクリート造平屋建、鉄板葺、建築面積57㎡。

昭和4年9月に高畠鉄道が電化された時に建設されたと思われる。本屋等と同じく高畠石による石造に鉄筋コンクリート造を併用している。内部は一室で漆喰仕上。高畠駅の景観のみならず、早期に電化されたという高畠鉄道の歴史の証左となる建物である。

電車・モハ1。

電化の際に導入したオリジナルの小型車。日本車輌製造にてデハニ1として製造され、1959年西武所沢車両工場で車両更新を受けモハ1となった。

電気機関車・ED1。

高畠鉄道が1929年電化時に川崎車輛で製造した凸形電気機関車キ1。東京横浜電鉄デキ1(東急デキ3021)・伊勢電気鉄道501・502(近鉄デ1・2)とほぼ同形。ED2入線後は予備機となった。

貨車・ワム201。

なお、三等客車ハフ11は、多くの乗客に愛された「マッチ箱」とよばれた小さな客車で、青梅鉄道で「メ4」として使われた後、大正13年に高畠鉄道に譲渡されて「ハ2」となり、さらに昭和11年雄勝鉄道(秋田県)で「ハフ11」として使用された。のちに愛知県犬山市の博物館明治村に遷された。

 

このあと、北の羽山古墳へ向かった。

山形県高畠町 阿久津八幡神社と三重塔

 


山形県高畠町 阿久津八幡神社と三重塔

2024年09月28日 11時16分42秒 | 山形県

阿久津八幡神社と三重塔。山形県東置賜郡高畠町安久津。

2024年9月6日(金)。

山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館を16時30分に出て、東に隣接する阿久津八幡神社を見学した。広い駐車場の東にある鳥居から入ろうとしたが、道が狭かったので、広い駐車場へ戻って狭い入口から駐車場へ入った。道の駅「たかはた」は道路の反対側にあるので、時間は気にせずに見学できる。

一帯は「まほろば古の里歴史公園」として整備され、その象徴である阿久津八幡の三重塔は町のシンボルにもなっている。阿久津八幡の東隣には高畠町郷土資料館もあるが、9時30分から16時30分までなので翌日見学した。

田園風景の中に三重塔がそびえる風景は、10年ほど前に岡山県総社市の「吉備路風土記の丘」で備中国分寺五重塔を眺めた感触に似ている。このあたりは、夕方や朝方に犬を連れて散歩する女性が多い。

安久津八幡神社は、貞観2年(860年)、慈覚大師円仁が豪族、安久津磐三郎の協力で阿弥陀堂を建て

金蔵院として信仰を集めた。永承六年(1051)源義家が安倍一族討伐の命を受け二井宿峠を越えて当山に入り戦勝を祈願し大勝利を得た(前九年の役)。寛治元年(1087)再度金蔵院に立ち寄り戦勝を祈願し大勝利を得た(後三年の役)。そこで鎌倉の由比郷より八幡神を分霊してお祀りしたのが安久津八幡神社の起こりと言い伝えられている。

源氏の氏神八幡神に甲冑や刀を奉納、別当神宮寺・学頭金蔵院・衆徒頭千殊院はじめ十二坊を置き、神官社家三十余人を配し、神仏両部の祭典儀式が定められていた。以後、長井・伊達・蒲生・上杉と歴代領主により保護され、社殿の造営や社領等の寄進が行なわれてきた。

鎌倉時代から室町時代にかけて院や坊の最盛期修行僧の能海・堪忍等の写経筆跡が神奈川県「金沢文庫」に残っている。

伊達氏の尊崇特に篤く広大な社領を寄進される。「独眼竜政宗」は重臣「片倉小十郎」をもって総裁に任じ神務までも司り、隆盛を極めた。伊達氏に変わり蒲生氏が領主になると社領は没収され、社頭は衰運するが祭祀は継続された。

文禄三年(1594)より上杉家の領地となり寛文四年(1664)に天領となる。寛文十三年(1670)に社領五十石を賜り明治三年(1870)まで続く。元和元年(1615)拝殿火災、元和三年(1617)拝殿再建、元和五年(1619)本殿焼失、寛永七年(1630)本殿再建、元文二年(1737)・寛保三年(1743)火災により旧記・宝物等焼失。宝暦五年(1755)大飢饉の中現在の社殿が再建された

生い茂る樹木に囲まれ苔むす石畳参道の入口左手に、端麗な姿の三重塔参道途中に舞楽殿、その奥に本殿がある。この三建造物は県の指定文化財となっている。境内には、鐘つき堂・流鏑馬的場跡などがあり、裏山一帯には、安久津古墳群(鳥居町支郡)十数基が点在している。そのほか奥の院の洞窟などがあり片葉の葦、爺婆石、弘法清水などの伝説も残っている。

翌朝にも見学したが、本殿東側を眺めるための通り道には熊の新しい踏み跡が付いていた。

三重塔は寛政9年(1797年)に再建されたもので、初建は、寛永2年(1625年)といわれている。方三間造で銅版葺き、置賜地方唯一の層塔である。

 舞楽殿は、軒組や柱の形状から、室町末期のものといわれ、方一間宝形造、茅葺きである。西側に小さな下屋があり、屋頂に石造の露盤と宝珠が置かれる三方吹き抜けの『舞台』で、参道を塞ぐように建っている。たびたびの修理で後世の手が入っているが、古材の頭貫(かしらぬき)・木鼻の絵様に、室町時代末期の特徴がみられる。軸部は、円柱を頭貫・内法貫・足固貫で固めてある。床板張である。三方に高欄付の縁を巡らしている。軒は1軒疎垂木である。

毎年5月3日には、倭舞(やまとまい)、9月15日には延年の舞が気品高く、古式豊かに舞われる。

延年は平安時代中期から室町時代にかけて、寺院において、寺僧により催された芸能である。演ずる芸能は開口、僉議(せんぎ)、稚児による舞楽・白拍子・乱拍子などの歌舞、風流などの劇芸能である。

安久津延年は置賜地方の古社安久津八幡神社の神事として、舞師大地権太夫家の管理のもと、古くからの伝統を守り、例大祭である9月15日に同神社舞楽殿で舞い続けられている。現在、振鉾式、三射舞、拝ミ舞、太平楽、眺望楽、蛇取舞、姥舞の7曲目が舞われている。

阿久津八幡神社拝殿。

阿久津八幡神社本殿は、桁行三間、梁間二間の三間社流造、茅葺(もとは杮(こけら)葺)である。

軸部は円柱に頭貫(かしらぬき)・内法長押(うちのりなげし)・切目長押をつけている。正面3間は板扉で、他は板壁である。三方に高欄付の縁を巡らし、脇障子をつけている。正面の扉には、16弁の菊花と五七の桐の彫刻がある。組物は和様出三斗、中備に蟇股(かえるまた)を配している。軒組は和様出三斗、屋根が半円形に張り出す特異な形状をしており、棟の両端に鬼面板をあげるなどその手法が優れている。

棟札によると、宝暦3年(1753年)に建てられ、同5年(1755年)遷宮したことが知られている。

拝殿から参道下方向。舞楽殿。

鳥居と三重塔。

阿久津八幡神社と三重塔。道の駅「たかはた」から。

2024年9月7日(土)。

高畠町郷土資料館は9時30分開館なので、その前に阿久津八幡、旧高畠駅、羽山古墳を見学することにした。道の駅「たかはた」の向かい側は阿久津八幡と三重塔で、犬の散歩の女性が歩いている。

本殿の東横を眺めてみた。

 

このあと、高畠市街地へ向かい旧高畠駅を見学した。

山形県高畠町 山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館③置賜地域の弥生・古墳時代 稲荷森古墳・天神森古墳・下小松古墳群


高市早苗氏の猛追に旧統一教会が見え隠れ…熱心な信者がXで「サナエ一択」を大拡散

2024年09月27日 12時39分17秒 | 社会

高市早苗氏の猛追に旧統一教会が見え隠れ…熱心な信者がXで「サナエ一択」を大拡散

Yahoo news  2024/9/17(火) 日刊ゲンダイDIGITAL

 

高市早苗経済安保相の勢いの影には…(C)日刊ゲンダイ

 

 候補者が乱立する自民党総裁選(27日投開票)は三つ巴の展開だ。「選挙の神様」を陣営に引き入れた高市早苗経済安保相が猛チャージ。リードしてきた石破茂元幹事長や小泉進次郎元環境相を抜き去らんばかりだが、その勢いの影には問題集団の存在も見え隠れする。岸田首相が退陣理由のひとつに挙げた旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)だ。

 

 党員・党友への電話調査と国会議員の支持動向調査を行った読売新聞(16日付朝刊)によると、高市氏と石破氏がそれぞれ123票を集め、同数トップ。105票の進次郎氏が後を追う。総裁選は国会議員票367票に、同数の党員・党友票を合わせた計734票で争うルールだ。誰も過半数に達さず、上位2人による決選投票にもつれ込むのは必至。そこへ進むには党員・党友票がモノをいう。

 

 3年前の総裁選で高市氏がよりどころとした安倍元首相は、旧統一教会との癒着を背景に横死。タカ派若手のコバホークこと小林鷹之前経済安保相と保守票を奪い合う今回は、7月の東京都知事選で名を上げた選挙プランナーの藤川晋之助氏が高市陣営入り。「議員票固めなどのほか、SNS対策も担っている」(自民党関係者)というが、それだけでは急伸の説明がつかない。

 

 旧統一教会問題に詳しいジャーナリストの鈴木エイト氏はこう言う。

熱心な信者たちが『高市早苗さん一択』などと、X(旧ツイッター)に盛んに投稿しています。教団は政治団体の『国際勝共連合』を通じて憲法改正や伝統的家族観の重視を主張し、思想信条はおおむね高市氏と合致する。自民党との長く深い関係から相当数の党員を抱えていて、高市推しで動いているとみています。ただ、高市陣営は教団関係者からの直接アプローチは遮断しているとも聞く」

 

 タカ派くくりで言えば、ホープと目される小林氏の存在感は侮れない。自民党の点検でも、統一教会関連団体の会合で挨拶したことが確認されている。高市氏と小林氏。教団は二股をかけているのか。

■コバホークは隙なし

「小林夫人はリベラル系弁護士で、宗教2世問題にも積極的に取り組んでいます。小林氏は出馬会見で『軽率だった』と反省の弁を述べていましたが、そうした影響もあってか、教団と断絶したのは事実のようです。教団からすれば、小林陣営にはつけ入る隙がない」(鈴木エイト氏)

 反日カルトの受け皿化した人物が再び首相に就くなんて、ごめんだ